「そういえば先輩」
夜猫にそう声を掛けられて、冷蔵庫の扉をぱたんと閉じながら振り返る。ちょうど、買い物から帰ってきた直後だ。
「なに?」
「大晦日だから麺類が連想されるのは分かるんですが、なんで急に鴨うどんが出てきたんですか?」
あぁ、と呟いて、ちょっと笑った。
「この前ストレス溜まった時にご飯が食べられるか否かの話になったじゃん。その時、前に夜猫が作ってくれたやつ思い出して、久しぶりに食べたくなった」
なるほどと呟いて、夜猫もくすっと笑う。
「あの時はどうなることかと思いましたよ。何言っても食べたくない食べられないの一点張りで」
「その節は……ご迷惑を……」
しおしおと小さくなっていると、少し笑いを含んだ声が僕の耳に届いた。
「いいえ。迷惑なら私も掛けてますし、お互い様ってことにしましょう」
「……ありがとう」
一見あっさりしすぎにも見える彼女の返しに、僕は何回助けられただろうか。
「此方こそ。それより、どうします? もう食べちゃいますか、年越し麺」
「え、もう? 早くない?」
驚いて問うと、夜猫がひとつ瞬きしてから納得したように「あぁ」と頷いた。理解力があるのは有難いけど、こっちがあまりにも理解できないと少し悲しくなってくる。
「理央先輩、年越しの瞬間に食べる派ですか」
「……それ以外の選択肢があるの?」
「私は、大晦日の夕飯が年越し蕎麦派なんですよ。どっちが良いですか?」
知らなかった。家の伝統って、意外と他所との違いに気付かない部類のものなのかもしれない。少し考えてから、口を開く。
「なんかもう食べたくなっちゃった。食べようか」
夜猫が数秒僕の目を見て、声を上げて楽しそうに笑った。
「何?」
「何でもないです。そうですね、食べちゃいましょう」
嬉しそうに声を弾ませながら、彼女が身を翻して冷蔵庫に向かう。さっき仕舞ったばかりだけど、まぁ良いか。
夜猫からかき揚げのパックを受け取って、皿に移してから電子レンジに入れる。彼女は鍋にお湯を沸かし始める。
なんてことない、特別感なんてない。
でも、どうしようもないくらいに嬉しかった。楽しかった。
「先輩、何にやにやしてるんですか」
「してないよ」
「してました。そんなに鴨うどん楽しみですか」
「……うーん、うん。まぁ」
頷いた僕を見て、夜猫がくすぐったそうに笑う。
「そっちこそ。そんなにかき揚げ蕎麦が楽しみ?」
「えぇ、楽しみですよ。好物ですから」
嘘はついていない。でもきっと、それだけじゃない。それは彼女も分かっていて、でも口に出さないんだろうと、何となく理解した。
電子レンジから取り出したかき揚げを、トースターに入れる。ジジジと音を立て始めたそれから、すぐに香ばしい香りが漂ってくる。
「理央先輩、うどんと蕎麦ってどっち先に茹でた方が良いと思います?」
「分かんないけど、うどん先の方が良いんじゃない? 蕎麦先に茹でたら、蕎麦の香りがうどんに移っちゃいそうだし」
「確かに。ありがとうございます」
「ちゃんと調べることを勧めるよ」
そう言った時には、夜猫はもううどんを鍋に入れていた。
「まぁまぁ、良いですよ別に。何とかなります」
適当だなぁと思って、少し笑ってしまう。
「あ、そうだ夜猫。蕎麦に葱載せる?」
「あれば載せたいですけど。切るの面倒臭くないですか?」
首を横に振りながら、棚からフリーズドライの刻み葱を取り出す。少し前に買っておいたのが役に立ちそうだ。
「文明の進歩のお陰で、まな板出さなくても刻み葱が食べられるんだな」
「なんて素晴らしい。21世紀に生まれたことに感謝ですね」
真面目なトーンでふざけた会話に乗ってくれるのが、何だか可笑しかった。
「美味しそう。良い匂いですね」
「そうだね。ありがとう、うどんって茹で時間長いのにわざわざ作ってくれて」
「いいえ、此方こそありがとうございます。作って頂いて」
2人で揃って、手を合わせる。
「「いただきます」」
箸を取って、ふぅふぅと息を吹きかける。つるりとした麺と、甘い出汁がじんわりと身体に沁みた。
「美味しい」
「ですね」
さくっと良い音をさせながら、夜猫がかき揚げを齧っている。
「ひとついります? 2つあるので」
「じゃあ貰う。夜猫は? これちょっと食べる?」
「じゃあ鴨ひと切れ貰います」
お互いのお碗に箸を伸ばして、そっと口に入れた。
「美味しいね、かき揚げ」
「そうでしょう。来年は一緒にかき揚げ蕎麦食べますか」
「そうだね、それも良いかも。一緒にこっち食べるという選択肢もあるけど」
美味しかったらしく、夜猫が僕のお碗からもうひと切れ鴨を攫っていく。少し考える素振りをして、彼女が口を開いた。
「それなら、鴨蕎麦が良いです」
「蕎麦の方が好き?」
「ううん。茹で時間が短く済むので」
なるほどと呟いて、少し笑った。
ふと気になって、顔を上げる。
普段なら、訊かなかった。でも、何故だろうか。今日のうちに払うべき108の煩悩のうち1つが、最後に悪戯をしたのかもしれない。
「ねぇ、僕らってどんな関係性?」
夜猫が此方を見て、「そうですねぇ」と呟いた。もう、この前みたいな思い詰めた表情はそこにはない。
「……味方。共闘人ですかね」
「共同戦線張ってる人みたいな?」
「そうです。先輩は?」
「同居人」
「え、普通」
「じゃあ、運命共同体?」
「急に重くなりましたね」
言葉とは裏腹に、夜猫は楽しそうに笑っていた。
「じゃあ、基本的には横にいる人ってことで、となりびとにしましょう」
「トナリビト? 隣人じゃなくて?」
「隣人じゃ、同居人じゃないですよ」
同居人。隣人。となりびと。話しているうちに、よく分からなくなってきた。
「じゃあ、となりびとの定義は?」
「堅苦しいですね。まぁ、今後どうなるかは分からないけど、今のところは隣にいる人。そんな感じじゃないですか」
「なるほどね。確かに、来年は大喧嘩して決別するかもしれないし」
「私が急に思い立って留学するかもしれないし」
「留学するの?」
「全くその気はないですけど。あとは、先輩に恋人とかできるかもしれないし」
それは無いんじゃないかなと呟いてから、ふっと笑った。未来のことなんて分からない。どこかでスッとこの関係が解消するかもしれないし、若しくは。
「何だかんだずっと一緒にいるかもしれないし」
「ずっと…っていつまでですか」
「ずっとはずっとでしょ」
お互いに目を見て、くすっと笑った。
「まぁ、どうなるか分からないけどさ。来年もよろしくお願いします」
「此方こそ。よろしくお願いします」
僕と彼女は、同居人だ。
彼女が言うには、となりびと。…今のところは。
夜猫にそう声を掛けられて、冷蔵庫の扉をぱたんと閉じながら振り返る。ちょうど、買い物から帰ってきた直後だ。
「なに?」
「大晦日だから麺類が連想されるのは分かるんですが、なんで急に鴨うどんが出てきたんですか?」
あぁ、と呟いて、ちょっと笑った。
「この前ストレス溜まった時にご飯が食べられるか否かの話になったじゃん。その時、前に夜猫が作ってくれたやつ思い出して、久しぶりに食べたくなった」
なるほどと呟いて、夜猫もくすっと笑う。
「あの時はどうなることかと思いましたよ。何言っても食べたくない食べられないの一点張りで」
「その節は……ご迷惑を……」
しおしおと小さくなっていると、少し笑いを含んだ声が僕の耳に届いた。
「いいえ。迷惑なら私も掛けてますし、お互い様ってことにしましょう」
「……ありがとう」
一見あっさりしすぎにも見える彼女の返しに、僕は何回助けられただろうか。
「此方こそ。それより、どうします? もう食べちゃいますか、年越し麺」
「え、もう? 早くない?」
驚いて問うと、夜猫がひとつ瞬きしてから納得したように「あぁ」と頷いた。理解力があるのは有難いけど、こっちがあまりにも理解できないと少し悲しくなってくる。
「理央先輩、年越しの瞬間に食べる派ですか」
「……それ以外の選択肢があるの?」
「私は、大晦日の夕飯が年越し蕎麦派なんですよ。どっちが良いですか?」
知らなかった。家の伝統って、意外と他所との違いに気付かない部類のものなのかもしれない。少し考えてから、口を開く。
「なんかもう食べたくなっちゃった。食べようか」
夜猫が数秒僕の目を見て、声を上げて楽しそうに笑った。
「何?」
「何でもないです。そうですね、食べちゃいましょう」
嬉しそうに声を弾ませながら、彼女が身を翻して冷蔵庫に向かう。さっき仕舞ったばかりだけど、まぁ良いか。
夜猫からかき揚げのパックを受け取って、皿に移してから電子レンジに入れる。彼女は鍋にお湯を沸かし始める。
なんてことない、特別感なんてない。
でも、どうしようもないくらいに嬉しかった。楽しかった。
「先輩、何にやにやしてるんですか」
「してないよ」
「してました。そんなに鴨うどん楽しみですか」
「……うーん、うん。まぁ」
頷いた僕を見て、夜猫がくすぐったそうに笑う。
「そっちこそ。そんなにかき揚げ蕎麦が楽しみ?」
「えぇ、楽しみですよ。好物ですから」
嘘はついていない。でもきっと、それだけじゃない。それは彼女も分かっていて、でも口に出さないんだろうと、何となく理解した。
電子レンジから取り出したかき揚げを、トースターに入れる。ジジジと音を立て始めたそれから、すぐに香ばしい香りが漂ってくる。
「理央先輩、うどんと蕎麦ってどっち先に茹でた方が良いと思います?」
「分かんないけど、うどん先の方が良いんじゃない? 蕎麦先に茹でたら、蕎麦の香りがうどんに移っちゃいそうだし」
「確かに。ありがとうございます」
「ちゃんと調べることを勧めるよ」
そう言った時には、夜猫はもううどんを鍋に入れていた。
「まぁまぁ、良いですよ別に。何とかなります」
適当だなぁと思って、少し笑ってしまう。
「あ、そうだ夜猫。蕎麦に葱載せる?」
「あれば載せたいですけど。切るの面倒臭くないですか?」
首を横に振りながら、棚からフリーズドライの刻み葱を取り出す。少し前に買っておいたのが役に立ちそうだ。
「文明の進歩のお陰で、まな板出さなくても刻み葱が食べられるんだな」
「なんて素晴らしい。21世紀に生まれたことに感謝ですね」
真面目なトーンでふざけた会話に乗ってくれるのが、何だか可笑しかった。
「美味しそう。良い匂いですね」
「そうだね。ありがとう、うどんって茹で時間長いのにわざわざ作ってくれて」
「いいえ、此方こそありがとうございます。作って頂いて」
2人で揃って、手を合わせる。
「「いただきます」」
箸を取って、ふぅふぅと息を吹きかける。つるりとした麺と、甘い出汁がじんわりと身体に沁みた。
「美味しい」
「ですね」
さくっと良い音をさせながら、夜猫がかき揚げを齧っている。
「ひとついります? 2つあるので」
「じゃあ貰う。夜猫は? これちょっと食べる?」
「じゃあ鴨ひと切れ貰います」
お互いのお碗に箸を伸ばして、そっと口に入れた。
「美味しいね、かき揚げ」
「そうでしょう。来年は一緒にかき揚げ蕎麦食べますか」
「そうだね、それも良いかも。一緒にこっち食べるという選択肢もあるけど」
美味しかったらしく、夜猫が僕のお碗からもうひと切れ鴨を攫っていく。少し考える素振りをして、彼女が口を開いた。
「それなら、鴨蕎麦が良いです」
「蕎麦の方が好き?」
「ううん。茹で時間が短く済むので」
なるほどと呟いて、少し笑った。
ふと気になって、顔を上げる。
普段なら、訊かなかった。でも、何故だろうか。今日のうちに払うべき108の煩悩のうち1つが、最後に悪戯をしたのかもしれない。
「ねぇ、僕らってどんな関係性?」
夜猫が此方を見て、「そうですねぇ」と呟いた。もう、この前みたいな思い詰めた表情はそこにはない。
「……味方。共闘人ですかね」
「共同戦線張ってる人みたいな?」
「そうです。先輩は?」
「同居人」
「え、普通」
「じゃあ、運命共同体?」
「急に重くなりましたね」
言葉とは裏腹に、夜猫は楽しそうに笑っていた。
「じゃあ、基本的には横にいる人ってことで、となりびとにしましょう」
「トナリビト? 隣人じゃなくて?」
「隣人じゃ、同居人じゃないですよ」
同居人。隣人。となりびと。話しているうちに、よく分からなくなってきた。
「じゃあ、となりびとの定義は?」
「堅苦しいですね。まぁ、今後どうなるかは分からないけど、今のところは隣にいる人。そんな感じじゃないですか」
「なるほどね。確かに、来年は大喧嘩して決別するかもしれないし」
「私が急に思い立って留学するかもしれないし」
「留学するの?」
「全くその気はないですけど。あとは、先輩に恋人とかできるかもしれないし」
それは無いんじゃないかなと呟いてから、ふっと笑った。未来のことなんて分からない。どこかでスッとこの関係が解消するかもしれないし、若しくは。
「何だかんだずっと一緒にいるかもしれないし」
「ずっと…っていつまでですか」
「ずっとはずっとでしょ」
お互いに目を見て、くすっと笑った。
「まぁ、どうなるか分からないけどさ。来年もよろしくお願いします」
「此方こそ。よろしくお願いします」
僕と彼女は、同居人だ。
彼女が言うには、となりびと。…今のところは。



