ピコン、という音がした。
 見ると、夜猫からの連絡だ。
《先輩》
 ピコン。
《今日は鶏つくねが食べたいです》
 僕が作る鶏つくねは彼女の好物だ。出先から食べたいものをリクエストしてくるのは珍しい。大抵は、朝に口頭で伝えてくるものだ。大晦日の前々日だと言うのに、何か嫌なことでもあったんだろうか。
《分かった。材料買っておくよ》
《ありがとうございます》
──何かあった?
 そう打とうとして、止めた。

 玄関のドアが開く音に続いて、ちりん、という音が聞こえた。
「おかえり」
「……ただいまです」
 バイト終わりの疲労からか漫画みたいにふらふらしながら部屋に現れた夜猫が、台所の方に目を向けて、ふっと顔を(ほころ)ばせる。
「良い匂い」
 そんな彼女に釣られて、僕もちょっと笑ってしまった。
「あと数分でできるから。夜猫、幾つ食べる?」
 僕の手元を覗きに来た彼女が一瞬考えるような素振りをして、「6つ」と答える。
「……これ、僕らが2回の食事で完食するぐらいの想定だったんだけど」
 夜猫が6つ食べるなら、僕も普通に食べたら残りは1人前だけになってしまう。まぁ、別に良いけど。
「心が疲れたので、やけ食いです」
 あまりの潔さに、思わずまた笑ってしまう。
「了解。じゃあ夜猫、お皿出して、ご飯よそって」
「はぁい」
 くるりと棚の方を向いてからすぐに、彼女は2枚の皿を持って戻ってきた。
「ありがとう」
「いえ」
 また夜猫が僕の視界から消えて、代わりに炊き立てのご飯の良い匂いがしてくる。
「そういえば、僕前から不思議……っていうかすごいなって思うんだ、それ」
「それって、何ですか?」
「疲れた時いっぱい食べられるの。僕はストレス溜まると食べる量減る人だから」
「食べられるっていうか食べちゃうんですよ、好きでやってるわけじゃないんです。それに、先輩の場合は食べなさすぎですよ。死にますよ」
 一度だけ、僕がご飯を食べなさすぎて夜猫に割と本気で怒られたのを思い出す。
「ごめんごめん、その節はありがとう」
「いいえ。さ、食べましょう。お腹空きました」
 ふふっと笑って、夜猫が言葉を返してきた。
「そうだね」
 2人揃って座卓の前に座る。いつも通りに、ほっとする。
「「いただきます」」

「急にごめんなさい。出先から頼んだのに作ってくれて、ありがとうございます」
「良いよ。僕もそろそろ食べたかったし」
 夜猫が箸でつくねをひとつ取って、そっと齧った。
「うん、美味しい。先輩が作る料理で1番好きかもしれません、これ」
「そりゃあ何より」
 僕が夜猫をじっと見つめているのを、彼女は少し不思議そうに眺めている。
「どうしました?」
「……別に」
「何ですか今の時差」
 だって夜猫、それにピーマン入ってるの一向に気付かないんだもん。
 まだお互いの嫌いな食べ物を把握する前にこれを出して『美味しい!』と言われ、その数日後に苦手な食べ物としてピーマンを挙げられた僕の混乱をどうにかしてほしい。
「ごめん、意識がちょっとブラジルに行ってて」
「それはちょっとではないですよ」
 流れるように突っ込みが返ってきて、思わず笑ってしまう。僕も箸を動かしてつくねを齧ると、ふっと香ばしさが鼻を抜けた。
「……理央先輩」
「ん」
「何かあった、とか訊かないんですか」
「訊いたほうが良い?」
「いえ」
 短い返事が返ってくる。目だけ動かして夜猫を見遣ると、何だか彼女は遠くを見ている気がした。
「……人間関係って面倒ですね」
「そうだね」
「同居人が恋人じゃないって、そんなにおかしなことでしょうか」
「さぁ。僕はそうは思わないけど」
 味噌汁を啜る。肩の力が抜けていく。
「私も、別におかしなことだとは思わないんです」
「じゃあ、別におかしなことじゃないんでしょ」
「……どういう理屈ですか?」
「当事者が互いに納得してて、人の道を外れてなければ別に良いんじゃないのっていうちょっと投げやりな理屈」
 ふっと笑ったような声が聞こえた。顔を上げると、夜猫が僕の方を見て可笑しそうに笑っている。
「人の道を外れてなければって。なんかふわっとしてません?」
「法に触れなくても倫理に触れることはあるでしょう、きっと」
「そうですね。確かに」
 夜猫は、具体的に何があったのかは話さなかった。僕も訊かなかった。
 これで良い、これが良い。僕らは同居人だ。それ以上でも、以下でもない。
 何だかそれが、心地良かった。
「そういえば先輩。大晦日の夜、何食べます?」
「夕飯を食べながらする話かそれ?」
「まぁまぁ、細かいことは気にせず。何食べたいですか?」
 しばらく考えて、ふと甘く香る出汁の匂いを思い出した。
「あの、あれ。前に夜猫が作ってくれた鴨うどん食べたい」
「年越しに?」
「うん」
「蕎麦ですらない……」
 呆れたように呟く夜猫に、思わず笑ってしまう。夜猫は毎年何食べてるの、と聞いてみると、「かき揚げ載っけたお蕎麦です」と返ってきた。
「かき揚げってお蕎麦に載せるとお(つゆ)でふにゃふにゃにならない?」
「あのふわっとしたのが美味しいんですよ。先輩、もしかしてかき揚げ蕎麦とか好きじゃない人ですか?」
「食べられるし嫌いじゃないよ。でもかき揚げとか天ぷらはさくさくの方が好き」
 ふぅんと口の中で呟いて、夜猫がひとつ頷いた。
「じゃあ私が鴨うどん作りますから、理央先輩は私のかき揚げ蕎麦作ってください」
「あ、それぞれ好きなもの食べるんだね」
「良いですよ、年末なんですから」
 夜猫が鼻先でくすっと笑う。
「明後日の夕飯の話しながら夕飯を食べるのって何か変な感じ」
「良いんですよ、年末ですから」
「ねぇ夜猫、年末だからって何でも許されるわけじゃないからね」
 僕がははっと笑うと、彼女も釣られたようにふっと顔を綻ばせた。
「美味しかった、ありがとうございます」
「いえいえ。美味しかったね」
 互いの目を見て、ちょっと笑って、手を合わせる。
「「ごちそうさまでした」」