「先輩、今日の夕飯なんですが」
 玄関に立った夜猫が、靴を履きながら話しかけてきた。昼過ぎから授業の僕は、それを壁に寄りかかったまま眺めている。
「うん」
「カレーとシチューとハヤシライス、どれが良いですか」
「煮込み料理限定なんだね」
「食べたくなりまして。他のもの食べたいですか?」
「いや、異論はないよ。カレー食べたいかな」
「承知しました。行ってきます」
「行ってらっしゃい」
 玄関のドアを開けて一歩踏み出した夜猫が、ぴたっと立ち止まって此方を振り向いた。
「どうした?」
「忘れてました。メリークリスマスです」
 では行ってきます、と歌うように言って、夜猫がぱたんと扉を閉めた。鈴の音が、徐々に遠ざかって聞こえなくなる。
「……もうそんな時期かぁ」
 はぁ、と息を吐く。
 クリスマスにカレーで良いのだろうか、なんてぼんやりと思いながら、ゆっくりと廊下を通って部屋に戻る。部屋に入る瞬間の、ふわっとした暖気が心地良い。部屋全体に掃除機をかけてから、座卓の上に放り出してあった文庫本を取り上げて、時計をちらりと見遣る。出発まで、文庫本1冊分だけの時間があった。
「……じゃ、読みますか」
 静かにひとりごちて、ページを捲る。
 この音が、僕は好きだ。

 鍵を開けて、玄関のドアを引く。
 ガシャンという音と共に、食欲を唆る香辛料の香りが漂ってきた。
 暗い廊下を通り抜けて部屋に入ると、ほっとするような暖気に包まれる。
「あ、先輩。おかえりなさい」
「……ただいま。ごめん、遅くなった」
「大丈夫ですよ。丁度できたところなので、寧ろぴったりです」
「そう、なら良かった。ありがとう」
 コンロの上で柔らかい音を立てる鍋をぼんやりと見つめている僕を見て、夜猫が僅かに首を傾げる。
「どうしました?」
 いや、と呟いて、少し笑ってしまった。
 おかしな話だ。家に帰って、美味しそうな匂いを感じて、同居人の顔を見て、やっと気付くなんて。
「疲れたなぁと思って」
「1日活動してたんですから当たり前でしょう。ほら、食べますよ」
 ご飯自分でよそってくださいね、と言う夜猫に頷いて、棚から食器を取り出す。
 夜猫が家に転がり込んできた日に食器棚を見たら、中の食器がほとんど倍になっていて驚いた記憶がぼんやりと蘇る。中身を増やした当の本人は、「人が来た時用の食器とか無いんですか。中身スカスカすぎません?」と呆れ返っていたけれど。まさかこの食器棚の光景に見慣れる日が来るとは、思っていなかった。
「カレーにも和食器使うんですか」
「和風の食器ってなんか良くない? 何でも合う気がする。それに、うちに洋風の食器ほぼ無いし」
「確かにグラス以外ほぼ和風ですね。好みが顕著すぎて驚きです」
 和食器って高いイメージなんですがと続けられて、ほぼ百均とかだよと返す。雑貨屋とかに行っても、その後百均に行って似たものを探す、雑貨屋泣かせの僕だ。
「そう言う夜猫だって、似たようなのばっかり買ってきて棚占拠してるじゃん」
「占拠って言い方止めません? 私はあれですよ、初めて見た時の理央先輩の家の食器棚の秩序的なものをぶっ壊したくなかったので」
 鍋の前に立つ夜猫がそう言いながら、僕のカレー皿を受け取ってくれる。カレーがとろりとご飯の上を滑り落ちていく画って、どうしてこんなにも魅惑的なのだろうか。
 立ち位置を入れ替えて、夜猫の皿に僕がカレーをよそっていく。
「良い匂い。カレーって美味しいよね」
「ですね。日本独自の進化を遂げている気もしますが」
「もはや日本の料理だよね、カレーライス」
大真面目に言った僕をちらりと見て、夜猫が可笑そうに笑った。
「確かにそうですね」
 それぞれの皿と食具を持って、座卓の前に座る。夜猫が作ってくれたらしいサラダが、何だか瑞々しく映った。
 彼女と軽く目を見合わせてから、手を合わせる。
「「いただきます」」

「そういえば夜猫」
 カレーをスプーンで掬いながら夜猫に声を掛けると、もぐもぐと口を動かしながら彼女が此方を向いた。
「年末年始は実家帰ったりするの?」
 そういえば、夜猫の家族の話ってほとんど聞いたことがない気がする。
「帰らないです」
 即答だった。舌の奥にぴりっとした辛味が残って、僕はひと口水を飲む。
 理央先輩はどうするんですかと問われて、口を開いた。
「さっき母から連絡があって、どうしようかなと思ってたところ」
 ふぅんと頷いて、夜猫がスプーンを動かしながら言葉を返してくる。
「せっかくですし、帰ってきたらどうですか」
 うーんと唸り続ける僕にちらりと目線をやって、夜猫が続けた。
「別に帰りたくないなら、帰らなくても良いと思いますけど」
「いや、そういうわけでも。ちょっと実家と話してみるよ」
『帰っておいでよ』という母のメッセージが目に浮かぶ。帰りたくないわけではない。でも、年末年始もここに留まったままでいたい僕も、確かにいるのだ。
 そうですか、と頷いて、夜猫が再び皿に目を落とす。
「そういえば夜猫。このカレー、割とスパイシーだけど平気なの?」
「言ってませんでしたっけ? 私、辛いものは割と平気なんです。もちろん限度がありますけど」
 刺激のある味が苦手なんだと思っていた僕は、少なからず驚いた。確かに言われてみれば、冷蔵庫に貼ってある夜猫の苦手なものリストには『辛いもの』は入っていない。
「……珍しい好み方って言われない?」
 困惑して呟いた僕に、「線引きが訳わかんないとは言われたことあります」と笑いを含ませて夜猫が答えた。
「訳わかんないか。辛辣だな」
 ですよねと頷いて、夜猫がサラダの皿を座卓に戻す。僕もスプーンを置いて、ほぅと溜息を吐いた。
「美味しかった」
「うん、美味しかったです」
 目を合わせて、くすっと笑った。
 こんな特別感の欠片もないクリスマスも、案外悪くないのかもしれない。
「「ごちそうさまでした」」

 食器を片付けた後に自分の部屋にいると、僕のスマホが通知を知らせた。母からだ。
《おつかれさま。いま電話しても平気?》
 母は割と頻繁に電話をする人だから、連絡が来ても別に驚かない。
《いいよ》
 ぱっと既読が付いて、電話の着信音が鳴った。
『もしもし、理央?』
「うん。年末年始の話?」
『そう。帰ってくる?』
「うーん、今年は…いいや。こっちにいる。そのうち顔出すつもりだけど……年末年始は同居人がここにいるみたいだから」
『同居人? 彼女?』
 あれ、言ってなかったか。
「ううん、大学の後輩。ちょっと前に転がり込んできた」
『へぇ、どんな子? 体よく利用されてたりしない?』
 なんてこと言うんだこの人。
「猫みたいな人。他人のこと利用したりできる子じゃないよ」
 そう言って笑ったのとほぼ同時に、僕の部屋のドアがくんと動いた。
「理央先輩。あれ、電話中ですか?」
『あら、後輩ちゃん?』
「うん。そう。母親から」
『理央、ちょっと後輩ちゃんとお話ししてみたいんだけど、訊いてみてくれない?』
「そうですか」
 頭が混乱する。1人ずつ話して欲しい。
「あ、待って夜猫。母がちょっと夜猫と話したいらしいんだけど。良い?」
 夜猫が分かりやすく嫌そうな顔をした。分かる。僕だってこんな状況になったら嫌だ。
「……何の審査ですか」
「何の審査でもないよ。ただ僕の安全確認に近いものだと思ってくれれば良い」
「どちらかと言うと生活握られてるの私の方ですけどね」
 そう言いつつ、緊張と面倒臭さが7:3ぐらいの割合に見える表情で、夜猫が僕のスマホを受け取ってくれる。ベッドに座るよう促して、僕も人1人分間を空けてそこに座った。
「………はい、もしもし」
 彼女の声は、電話をしていてもいつも通りだった。母の声は、此方には聞こえない。
 鈴森といいますとか、大学1年生ですとか、いえいえそんなとか、夜猫の返答から大体の会話の流れを想像する。3分ほどで、此方こそよろしくお願いしますと彼女が頭を下げた。そろそろ終わるだろうか。そう思って僕が彼女の方に顔を向けると、夜猫がちょっと驚いたような顔をしていた。母に何か気に障ることでも言われたのだろうか。少し慌てて口を開きかけて、また閉じた。夜猫の表情が、すごく優しく和らいだからだ。ふっと笑って、彼女が口を開く。
「……夜猫といいます。夜の猫で、夜猫」
 その後簡単な挨拶をして、電話は終わった。「理央先輩に代わりましょうか」と夜猫が訊ねていたけど、母は断ったようだ。
「……ありがとう。ごめんね、急に」
「いいえ。此方こそ」
 夜猫がくすっと笑った。母に何か面白い話でも吹き込まれたのだろうか。
「先輩、お母さんとよく似ていますね」
「……そうかな」
 僕がそう呟いて笑うと、夜猫も楽しそうに頷いた。