「理央先輩、今日の夜って空いてます?」
 家を出る直前、夜猫に唐突にそう問われた。面食らいつつ、「空いてるけど。なんで?」と返す。
「コタロー先輩が、一緒にご飯食べようって」
 夜猫がコタロー先輩と呼び親しむ彼、柿畑(かきはた)琥太郎(こたろう)は僕の友人だ。僕と夜猫の不思議な関係性を理解してくれていて、大学で他愛もない雑談ができる、数少ない1人である。
「なんで僕じゃなくて夜猫に連絡が来るの……」
「知りませんよ。行けそうな店って浮かびます? 私は全然浮かばないんですが」
 ここに住み始めてもうすぐ丸2年経つけれど、近所の飲食店に関する知識は皆無に等しい。第一、割と外に出る夜猫が浮かばないなら、僕が浮かぶわけがない。
「僕のインドア具合を舐めてもらっちゃ困るな」
「舐めてません、知ってました。じゃあここに来てもらうで良いですか?」
「僕は構わないけど。夜猫は? 何か不都合はない?」
「ないです。じゃあ、連絡しておきますね」
 僕のインドア具合のくだりは半分冗談だったんだけど、なんか割と酷いこと言われた気がする。それに気付いたのは、夜猫が話し終わって部屋に消えていく時だった。

 ピンポン。
 滅多に鳴ることのないインターホンが鳴った。
『よっす。来たよー』
 モニターを覗くと、彼が人懐っこい笑顔を浮かべながら立っている。
「言い出しっぺの癖に30分遅刻するような奴に出すような飯は無い」
 それだけ呟いてモニター画面を切ると、玄関の外で文句を言う声が小さく聞こえてきた。
 僕の後ろを通り抜けて、夜猫が玄関に向かう。数秒後、柿畑の底抜けに明るい声が僕の耳に届いた。今日はいつにも増してというか、何だか不自然なほどに元気だ。
「あーっ、鈴森(すずもり)ちゃん。聞いてよ(あかつき)がさ」
「大きな声出さないでください、近所迷惑です」
「2人揃って俺の扱い雑じゃない?」
 そう言いつつちゃんと声のボリュームを落としてくれる彼を、僕は憎からず思っている。
「そうでしょうか。まぁ上がってください、遅刻魔先輩」
「わぁ、暁だけじゃなくて鈴森ちゃんも根に持ってる。ごめんね」
「私よりも理央先輩に言ってくださいよ。コタロー先輩が来るってずっとそわそわしてたのに」
 2人が話しながら部屋に入ってくると同時に、僕はあらぬ誤解を解こうと口を開いた。
「ねぇ夜猫、今の言葉はちょっと聞き捨てならないんだけど」
「何のことでしょうか」
 絵に描いたようにしらを切る夜猫の代わりに、柿畑が嬉しそうに僕を見る。
「俺に会うの楽しみで? えー嬉しいな、俺が知らない暁の一面だ」
「僕にとっては身に覚えがない一面なんだけど」
 やいのやいのと言い合う僕らの耳に、夜猫のよく通る声が届いた。
「はいはい、一面も二面もどうでも良いですから。とりあえずコタロー先輩は荷物置いたらどうですか」
 彼女の発言が発端なのに、他でもない夜猫に(たしな)められると、ちょっと複雑な気持ちになる。
「うん。あ、飲み物買ってきたから冷蔵庫しまっといてくれる?」
 差し出されたレジ袋を受け取って、カラカラと音を立てるそれを覗き込む前に言葉を返す。
「柿畑の言う飲み物って酒のことだよね」
「そうそう、一緒に飲もうよ」
「お忘れですか。私は未成年で理央先輩はお酒弱いですよ」
 台所から夜猫の声がまた聞こえた。美味しそうな匂いがするから、何か作っているんだろう。この匂いは、卵焼きだろうか。
「覚えてるけどさ。淡い期待を持って買ってきたんだよ」
「体質も年齢も一朝一夕で変わるわけないでしょ。柿畑は自分が飲みたいだけじゃん」
 夜猫の後ろを通り抜けて、冷蔵庫に飲み物をしまう。酒だけじゃなくて普通の飲み物も入っているのが、柿畑の人柄を表しているみたいで可笑しかった。その人柄の良さが、ちょっと悔しくもある。
「あ、バレた?」
「バレたっていうか、知ってます。コタロー先輩のことだから、お酒だけじゃなくて普通の飲み物も入ってるんでしょう」
「そうだよ。気遣いができる人間だから、俺」
「これ見よがしの発言が無ければ本当に気遣いのできる人って感じなのに」
 苦笑いしながら、座卓の前に座った。既に定位置に座っていた夜猫が、温かく湯気を立てるだし巻き卵を座卓の中央に置く。
「あ、卵焼きだ。鈴森ちゃん作ったの?」
「はい。これならコタロー先輩も美味しく食べられるでしょう」
いつだか彼が肉類が苦手だと言っていたのを、ぼんやりと思い出した。
「ありがたい限り。食べて良い?」
 どこから出したのか、ちゃっかりビールの缶を持っている。本当にどこから出したのか。
「いただきますしてからですよ」
「なんか、小学校思い出すね」
 彼がくすぐったそうに笑う。僕らからすると毎日の習慣だから、別に懐かしくも何ともないのだけど。
 3人で座卓を囲んで、手を合わせた。
「いただきます」

「ねぇ、2人はご飯いる?」
 食べ始めたら普通にご飯が食べたくなって、立ち上がりながら2人にそう声を掛ける。
「欲しいです」
「俺はいいや、ありがとう」
「了解。あと柿畑、ハイボール2分の1本ぐらい貰っても良い?」
「良いけど、大丈夫? ビールより度数高いらしいけど」
 柿畑自身は酒好きな癖に超が付くザルだから、よく飲む割に『らしい』なんて言葉が出るのだろうか。もしアルコール度数を気にしていないとしたら、幾ら酒に強いと言っても心配になるけど。
「大丈夫。炭酸水で薄めるから」
「よく分かんないですけど、ハイボールってお酒を炭酸水で割ったものじゃないんですか?」
「そうだよ」と柿畑が答える。そうなのか。普段酒を飲まないから、それに関する知識が絶望的に無い。未成年の夜猫よりも無い。
「理央先輩、それ味します?」
 2人分のお茶碗を座卓に置いてから、酒が入ったグラスを持って戻ってきた僕に夜猫が訊ねる。
「お酒の風味はするよ」
 グラスを傾けながらそう返すと、柿畑が呆れたような声を上げた。
「暁、それを世間一般では味がしないって言うんだよ。あ、残りのハイボールと卵焼きの最後一切れ貰って良い?」
「どうぞ」
「良いですよ」
 酒の話ばかりだから気付かなかったけど、柿畑は夜猫が作っただし巻き卵を相当気に入っていたらしい。
「鈴森ちゃんの卵焼き美味しいね」
「夜猫はだし巻き卵の天才だから」
「だし巻きの天才って何ですか、他も作れますよ」
 僕の言葉に、夜猫が拗ねたように口を尖らせる。柿畑が僕らを見て楽しそうに笑っていた。皿は綺麗に空になった。
 僕と夜猫の手を合わせるタイミングが、ぴたりと揃う。柿畑が少し戸惑ったように此方を見たのが分かった。
「「ごちそうさまでした」」

「え、まだお開きじゃないよね? もうちょっと喋りたいんだけど」
 柿畑の、我儘に少しだけ遠慮が入ったような声が聞こえて、ふっと笑ってしまう。
「大丈夫です、そのつもりですよ」
 夜猫も心なしか楽しそうにそう答えた。