ピコン、という音と共に、スマホにメッセージが届いた。夜猫からだ。
《久しぶりにこの辺りまで来たので、夕飯はこっちで食べて帰ります》
 彼女が名前を出したのは、僕たちの最寄り駅から数駅足を伸ばした所にある、大きなターミナル駅だった。確かにあそこなら、色々な店があるだろう。
《分かった。こっちも適当に済ませちゃうね》
《よろしくお願いします》
《はーい》
 スマホをぱたりと置いて、冷蔵庫を見に行く。バイト帰りに買い出しには行ってきたから食材に困ることはないだろうし、料理も別に嫌いではないけど、1人だと分かった途端に何だか手を抜きたくなるのは何故なんだろうか。
 冷蔵庫を開けると、買ってきた絹ごし豆腐が目に入った。ちょうど大根と白菜が野菜室には入っているし、よし。
「湯豆腐にしよう」
 鍋に豆腐と野菜を入れて、出汁で煮ただけのシンプルなもの。態々昆布を使うのも面倒だから、いつも出汁の素で済ませてしまう。和食の達人みたいな人に見せたら、これは湯豆腐じゃないとか言われてしまいそうだ。
 まだ6時過ぎだから、本を読んでから夕飯にしよう。数日前までに、半分ほど読み進めたはずだ。そう思って、この前買った文庫本を取りに行く。そういえば、家でゆっくり本を読むなんて何だか久しぶりだ。

 ぱたん、と本を閉じる。時計を見ると、その針は7時過ぎを指していた。
 ぐっと伸びをして、台所に立つ。店で食べる湯豆腐にはそりゃあ敵わないけど、家で作る湯豆腐だってなかなかに美味しいものだ。簡単なのもあって、手抜き料理としてよく作る。
 鍋に水を入れて出汁の素を入れて、水を切った豆腐を入れて軽く煮るだけ。
 あつあつの豆腐と野菜を出汁と一緒にちょっと深めの皿に入れると、優しく立ち昇る湯気にほっと気持ちが緩んだ。ご飯と味噌汁をよそって、座卓の前に座る。
「いただきます」
 そう言って手を合わせても、いつも僕の声に被さるもう一つの声がないことが、何だか少しだけ寂しかった。
 箸を持って、あつあつの豆腐を口に運ぶ。
「……美味しい」
 淀んだ空気に、僕の声が溶けていく。
「美味しいですね」という彼女の声を待っていることに、数秒してから気付いた。

『先輩って、苦手なものありますか』
 いつかの夜猫の声が、耳の奥に唐突に蘇った。あれはいつのことだっただろう。夜猫が家に転がり込んできて、割とすぐだった気がする。
『蝉と、ゲジゲジと、医療ドラマ。救急車のサイレン。あとは、大きい病院』
 何も考えずに答えた僕に、台所に立つ彼女が呆れたような声を上げる。
『そうじゃなくて。食べ物です、何かあります?』
 確かに台所に立っているんだから食べ物の話と考えるのが妥当だ。そんなことをぼんやりと思いながら、また口を開く。
『スイカとメロンが苦手。あと、とんかつが嫌いでかつ丼は食べられない』
『スイカとメロンが苦手なんて先輩、夏を楽しめない人なんですね』
 サラッと酷いことを言われて、少々イラっとした記憶がある。
『酷い言われようだな。僕も僕なりに夏を楽しんでるからご心配なく。そう言う夜猫は? 何かあるの?』
 一瞬の間を置いて、夜猫が手元から目を離さずに言う。
『ピーマンと、梅干しが苦手です。苦すぎるのと、酸っぱすぎるので』
『子供舌なんだね』
『酷い言いようですね』
 表情はよく見えなかったけど、笑ったのが分かった。
『あとは、夏の暑さと怪談噺が嫌いです。で、小さい頃に噛まれたので猫が苦手』
 夜猫の性格と猫っぽい振る舞いが連想された。
『……同族嫌悪?』
『勝手に同族にしないでくださいよ。良いじゃないですか、夜猫が猫嫌いでも』
 どうやら名前と結び付けたと思われたみたいだけど、態々(わざわざ)説明するのも面倒で、ただ頷くに留めておく。
『先輩は犬派ですか、猫派ですか?』
『僕は猫派だな。完全に』
『先輩とは分かり合えませんね』
『それは悲しい』
 僕の戯けたような声を聞いて、夜猫が軽やかに笑った。

 ガシャン、という音が聞こえた。
 ぼんやりとご飯を食べていた僕は、玄関の方に目を向ける。
「ただいまです」
 ちりんという鈴の音に続いて、いつも通りの彼女の声が聞こえた。
「おかえり。早くない?」
 振り返ってそう言った僕を、さっさと部屋に現れた夜猫は首を傾げて見つめる。
「そうですか? 普通にご飯食べて帰ってきただけですけど」
「もう少し遅くなるかと思ってた」
「そんなに遅くなる理由がありませんよ。……あ、湯豆腐だ」
 後に続く言葉を悟って、僕は予防線を張る。
「夜猫の分は無いよ」
「作れとは言いませんから」
 僕の横に座って皿を覗き込むように眺める彼女に、僕は溜息を吐いて言った。
「お箸と小皿持ってきて。ひと口だけだよ」
 夜猫の表情がぱっと輝く。
「さすが先輩、分かってらっしゃる」
「こういう時の僕に勝ち目はないよ。今までだって、散々抗った挙句毎回持っていかれてるんだから」
 不満たらたらの僕の声を無視して、夜猫がさっさと台所へ向かう。
 淀んでいた空気が、ふわりと動き出すのを感じた。
 味噌汁を啜って、ことんとお椀を座卓に置く。
「夜猫、僕もう食べ終わったから、残り食べて良いよ」
「え」
 小皿と箸を座卓の上に置いた彼女が、不満げに口を尖らせた。
「せっかくお皿持ってきたのに!」
「皿はともかく、箸は必要でしょ」
 夜猫の表情に、思わず笑ってしまった。
 箸を揃えて、手を合わせる。
「ごちそうさまでした」