バン、と音を立てて、ドアが開いた。
「先輩、朝です。起きてください」
どうやら遠慮というものを知らないらしい夜猫が、僕の部屋にずかずかと入ってくる。僕は頭から布団を被ったまま呻き声を上げた。
「ゔーん、今、何時」
「6時半です。先輩、今日1限からって言ってましたよね」
「……やっば!」
だから言ったじゃないですか、と文句を言う彼女を尻目に、ばたばたと僕は支度を始める。
「朝ごはん食べます?」
「時間ない!」
「ですよね、わかりました」
着替えて顔を洗って歯を磨き、机の上に投げてあった大学の課題を鞄に放り込んで、慌ただしく玄関に立った。
「夜猫は?何時ぐらいに出るの?」
コートを掴みながら訊ねると、夜猫がのんびりとした調子で答えた。
「今日は昼からなので、10時過ぎぐらいですかね」
「分かった、戸締りよろしくね」
「はーい、行ってらっしゃい」
少し気怠げに手を振る同居人の彼女。
彼女は、僕の家族ではない。恋人でもない。ただの大学の後輩だ。
そして今僕が扉を閉めたこのアパートの一室も、元は僕が借りたもの。1人で寂しく、でも気ままに自由に暮らしていたところに、大学で知り合った夜猫が突然転がり込んできた。捨て猫のようにしおらしくしていたらすぐに受け入れただろうに、ふらりとやってきた彼女は旅猫みたいだった。だから揉めに揉めたけど、最終的には僕が根負けして今に至る。
そう、彼女は旅猫だ。
僕以上に気ままで自由で孤高の人で、その癖不思議なほど人の目を引きつける。悔しいけど、僕もそのうちの1人だ。
恋愛とか庇護欲とかそういうのじゃなくて、ただ魅了された、というか。気付けば4ヶ月、無理やり追い出すこともできないまま、絶妙な距離感を保って一緒にいる。
同居人。それ以外、僕らの関係性を示す言葉はないはずなのに。
「……なーんでここまで引きつけられちゃうかな」
バス停でバスを待ちながら自嘲の籠った嗤いを洩らして、鞄の中をがさごそと漁る。空腹だ。何か食べるもの入ってたりしないかな。
「……あれ」
思わず声を上げた。鞄の中に入っていたのは、小さめのパン。でも、こんなの買った記憶がない。十中八九、夜猫が僕の鞄に放り込んだのだろう。
ポケットに入れていたスマホが震えたのを感じて、パンを齧りながら取り出す。
《先輩の鞄にパンいれたので》
《飢え死にする前に食べてください》
短い文が立て続けに届いていた。
《ありがとう、助かった》
そう打ち込んで送信すると、すぐに既読がつく。
《ちなみにそれ、私が今日の昼ごはんとして食べる予定だったものです》
と夜猫。
《食べた後に言われても》
《今日の夕飯はお鍋がいいです》
確かに今日の夕食当番は僕だ。夜猫はなんにも考えてないように見えて、こういうところは妙にちゃっかりしている。
《食べたい味買ってきてくれたら作る》
そう打って送信ボタンを押してから、スマホをポケットに仕舞った。
バスがエンジン音を立てながらバス停にやってくる。乗り込んで空いていた椅子に腰掛け、そっと目を閉じた。
「ただいまです」
夜猫の静かだけどよく通る声が聞こえて、僕は台所から顔を覗かせた。
「おかえり夜猫、鍋の素買ってきてくれた?」
「ちゃんと買ってきましたよ、豆乳鍋。やっぱり寒い日はお鍋に限りますね」
そう言いながら、夜猫が鍋の素を台所の前のカウンターに置いた。彼女の鞄に付けられた鈴が、ちりんと音を立てる。
「そうだね、でも僕辛いやつが良かったなぁ」
「事前に言わない先輩が悪いです」
「……ご尤もです」
冷蔵庫の中の野菜を食べやすい大きさに切って、火が通りづらいものから鍋に入れていく。
「あ、夜猫、お肉はまだ」
「え?」
「豆腐先に入れてよ」
「分かりました」
くつくつと煮立ってきた鍋から立ちのぼる出汁の香りが鼻を擽った。
「お肉入れて良いですか?」
「良いよ。てかさ、レシピそこにあるんだから自分で見てよ」
「活字が苦手で」
「何言ってるんだ文学部」
「私は英文学科なので、日本語が苦手なんですよ」
「よく19年も日本で生きて来られたね」
屁理屈を捏ねる夜猫に、皮肉を込めて言葉を返す。
「冗談です、めんどくさいだけです」
「……うわぁ」
大袈裟に眉を顰めると、夜猫も大袈裟に肩をすくめた。
「素で引かないでください、普通に傷付きます」
「はいはい。じゃあ葉物入れて」
「了解です。良い匂いですね」
「うん、冬は鍋だね」
そう言うと、夜猫が勝ち誇ったように目を細めた。
「やっぱり正解でしたね、私が鍋って言って」
「あ、夜猫そんなに火強くしちゃだめ」
「話聞いてます?」
「4割は」
「駄目じゃないですか」
コンロの火を止めると、夜猫が布巾を使って鍋を座卓に持っていく。
「鍋敷きは? 持って行った?」
「あ」
「机焦げるよ」
「先輩お願いします。可愛い後輩の頼みだと思って」
「……はいはい」
厚手のタオルを座卓の真ん中に置くと、夜猫がその上に鍋をそっと置いた。
「あ、先輩、取り皿とかの用意ありがとうございます」
「うん、まぁ夜猫が帰ってくるまで手持ち無沙汰だったし。じゃ、食べようか」
「はい」
僕の向かいに座った夜猫が嬉しそうに笑って、揃って「いただきます」と手を合わせた。
「理央先輩」
「ん?」
声を掛けられて顔を上げると、夜猫が真面目な顔をして白菜を口に運んでいるのが見えた。
「先輩って、恋人とかいないんですか?」
唐突な話題に、思わずゴホゴホと咳き込みながら「はい?」と素っ頓狂な声を上げる。
「なに急に」
「私気付いたんですけど、私って今先輩の家に言うなれば居候してるじゃないですか」
「家賃と生活費は半分出してもらってるから同居じゃなくて?」
夜猫が家に転がり込んできた時「生活費と家賃を半分出さないなら今すぐ追い出す」と脅してから、思えば夜猫がそれらの折半に関してゴネたことは一度もない。
「あそっか。じゃあ同居してるじゃないですか」
「そうだね」
「もし先輩に恋人とかいたら、私かなり邪魔だなと思って。今まで気にしたことなかったんですけど」
「生憎そんな間柄の人はいないけど。気にしたことなかったんだね」
「だって理央先輩、私に恋人いるかどうかとか気にしたことあります?」
そう問われて、ゆっくりと思案を巡らせる。
「……こんな大して仲良くもない同大学の異性の先輩の家に転がり込んでくる時点でいないと思ってた」
「そうなりますか。まぁ先輩の言う通り、いないんですけどそんな人」
「安心したよ、夜猫の恋人さんからあらぬ誤解をされるような状況じゃなくて」
取り皿を持ったまま箸を口に運ぶと、ふわりとした口当たりの具に違和感を覚えた。こんなもの入れただろうか。先ず、これ何だ。
「…夜猫」
「ふぁい?」
「これなに?何か入れた?」
もぐもぐと口を動かしていた夜猫が、ごくんと喉を動かしてから答える。
「あぁ、鱈です」
「タラ?」
「冷凍庫から発掘したのでお肉と一緒に入れました」
再び口をもぐもぐと動かしながら夜猫が何てことないように言う。
「ちょっと待ってそれ何時の?」
「わかんないです。でも冷凍してましたし、ちゃんと火通してますから大丈夫ですよ。食べててヤバい味しないでしょう?」
「しないけど…」
戸惑いながら呟く僕に、彼女は欠片の心配も無さそうに続ける。
「じゃあ大丈夫です、先輩そんなに貧弱じゃないですから」
「言っておくけど夜猫、僕も人間だからね。僕が明日身体壊したら夜猫のせいだよ」
「はーい」
分かっているのかいないのか、軽すぎる返事に苦笑いした。
「あ、あと先輩」
「なに?」
「〆、何が良いですか? 私はうどんに一票を投じます」
「僕もそれに一票」
「決まりですね」
お世辞にも表情豊かとは言えない彼女だけど、嬉しそうに弾む声を聞いて、それを楽しみにしているのはすぐに分かった。
「手伝おうか?」
「大丈夫です。これに関しては慣れてるので」
「そう、ありがとう」
「いいえ」
鍋をあらかた食べ終わって、夜猫が台所に立つ。手持ち無沙汰の僕が座卓の前に座ったままぼんやりとしていると、くつくつと耳心地の良い音が台所から微かに聞こえてきた。
夜猫がここに転がり込んできた時にはどうなることかと思ったけど、静かすぎないこの部屋が、今はとても心地良い。ご飯を食べた後特有のとろとろとした眠気を感じながら、ふっと笑った。
「先輩、できましたよ」
顔を上げると、夜猫が鍋を座卓の中央に置いて僕の向かいに座ったところだった。
「あ、ありがとう」
「理央先輩、ご飯食べるとすぐ眠くなるの相変わらずですよね。赤ちゃんなんですか?」
「それは僕が一番思ってるから言わないでおいてくれる?」
僕の言葉を無視して、夜猫がうどんを自分の皿によそっていく。この子の食への執着もなかなかのものだ。
「あんまり酷いようなら病院行ってくださいね」
それだけ言って、「いただきます」と手を合わせる。
「うん、ありがとう。夜猫、これ直箸でいった?」
「あ、すいません。直でいきました」
「分かった、大丈夫」
僕も自分の箸で鍋のうどんを取り皿によそう。湯気と一緒に、優しい香りが鼻を擽った。
いただきます、と手を合わせて、つるりとしたそれを口に運んだ。
「うま」
「ですね。やっぱり美味しい」
「僕、豆乳鍋って今まで食べたこと無かったんだけどさ」
「嘘。人生1割損してますよ」
「1割だけなんだ」
「私、軽率に『人生半分損してる』とか言う人が嫌いで」
はは、と笑い声が零れた。
「夜猫らしいな」
そう呟いた僕を見てポカンとしている夜猫が、何だか可笑しい。
「先輩って、1人だとひたすらに刺激物だけ食べて体調崩しそうですよね」
うどんを食べながら夜猫がそう言ってきて、僕は心外だと思いながら顔を顰めて見せる。
「どこから来たの、その捻じ曲がったイメージは」
取り皿に残った鍋つゆにふぅふぅと息を吹きかけながら、夜猫が続ける。
「だって理央先輩、辛いもの好きじゃないですか。こういう優しい味のものとか、一切食べなさそう」
「そんなことないよ。………たぶん」
「ほら」
夜猫を真似て鍋つゆを啜る僕を見ながら、彼女の目が悪戯っぽく笑った。強く否定できない自分が悔しい。
「はぁ、美味しかった」
悶々とする僕に見向きもせずに、夜猫が何事もなかったかのように笑う。
彼女が手を合わせたのを見て、僕も慌てて一緒に手を合わせた。
「「ごちそうさまでした」」
「先輩、朝です。起きてください」
どうやら遠慮というものを知らないらしい夜猫が、僕の部屋にずかずかと入ってくる。僕は頭から布団を被ったまま呻き声を上げた。
「ゔーん、今、何時」
「6時半です。先輩、今日1限からって言ってましたよね」
「……やっば!」
だから言ったじゃないですか、と文句を言う彼女を尻目に、ばたばたと僕は支度を始める。
「朝ごはん食べます?」
「時間ない!」
「ですよね、わかりました」
着替えて顔を洗って歯を磨き、机の上に投げてあった大学の課題を鞄に放り込んで、慌ただしく玄関に立った。
「夜猫は?何時ぐらいに出るの?」
コートを掴みながら訊ねると、夜猫がのんびりとした調子で答えた。
「今日は昼からなので、10時過ぎぐらいですかね」
「分かった、戸締りよろしくね」
「はーい、行ってらっしゃい」
少し気怠げに手を振る同居人の彼女。
彼女は、僕の家族ではない。恋人でもない。ただの大学の後輩だ。
そして今僕が扉を閉めたこのアパートの一室も、元は僕が借りたもの。1人で寂しく、でも気ままに自由に暮らしていたところに、大学で知り合った夜猫が突然転がり込んできた。捨て猫のようにしおらしくしていたらすぐに受け入れただろうに、ふらりとやってきた彼女は旅猫みたいだった。だから揉めに揉めたけど、最終的には僕が根負けして今に至る。
そう、彼女は旅猫だ。
僕以上に気ままで自由で孤高の人で、その癖不思議なほど人の目を引きつける。悔しいけど、僕もそのうちの1人だ。
恋愛とか庇護欲とかそういうのじゃなくて、ただ魅了された、というか。気付けば4ヶ月、無理やり追い出すこともできないまま、絶妙な距離感を保って一緒にいる。
同居人。それ以外、僕らの関係性を示す言葉はないはずなのに。
「……なーんでここまで引きつけられちゃうかな」
バス停でバスを待ちながら自嘲の籠った嗤いを洩らして、鞄の中をがさごそと漁る。空腹だ。何か食べるもの入ってたりしないかな。
「……あれ」
思わず声を上げた。鞄の中に入っていたのは、小さめのパン。でも、こんなの買った記憶がない。十中八九、夜猫が僕の鞄に放り込んだのだろう。
ポケットに入れていたスマホが震えたのを感じて、パンを齧りながら取り出す。
《先輩の鞄にパンいれたので》
《飢え死にする前に食べてください》
短い文が立て続けに届いていた。
《ありがとう、助かった》
そう打ち込んで送信すると、すぐに既読がつく。
《ちなみにそれ、私が今日の昼ごはんとして食べる予定だったものです》
と夜猫。
《食べた後に言われても》
《今日の夕飯はお鍋がいいです》
確かに今日の夕食当番は僕だ。夜猫はなんにも考えてないように見えて、こういうところは妙にちゃっかりしている。
《食べたい味買ってきてくれたら作る》
そう打って送信ボタンを押してから、スマホをポケットに仕舞った。
バスがエンジン音を立てながらバス停にやってくる。乗り込んで空いていた椅子に腰掛け、そっと目を閉じた。
「ただいまです」
夜猫の静かだけどよく通る声が聞こえて、僕は台所から顔を覗かせた。
「おかえり夜猫、鍋の素買ってきてくれた?」
「ちゃんと買ってきましたよ、豆乳鍋。やっぱり寒い日はお鍋に限りますね」
そう言いながら、夜猫が鍋の素を台所の前のカウンターに置いた。彼女の鞄に付けられた鈴が、ちりんと音を立てる。
「そうだね、でも僕辛いやつが良かったなぁ」
「事前に言わない先輩が悪いです」
「……ご尤もです」
冷蔵庫の中の野菜を食べやすい大きさに切って、火が通りづらいものから鍋に入れていく。
「あ、夜猫、お肉はまだ」
「え?」
「豆腐先に入れてよ」
「分かりました」
くつくつと煮立ってきた鍋から立ちのぼる出汁の香りが鼻を擽った。
「お肉入れて良いですか?」
「良いよ。てかさ、レシピそこにあるんだから自分で見てよ」
「活字が苦手で」
「何言ってるんだ文学部」
「私は英文学科なので、日本語が苦手なんですよ」
「よく19年も日本で生きて来られたね」
屁理屈を捏ねる夜猫に、皮肉を込めて言葉を返す。
「冗談です、めんどくさいだけです」
「……うわぁ」
大袈裟に眉を顰めると、夜猫も大袈裟に肩をすくめた。
「素で引かないでください、普通に傷付きます」
「はいはい。じゃあ葉物入れて」
「了解です。良い匂いですね」
「うん、冬は鍋だね」
そう言うと、夜猫が勝ち誇ったように目を細めた。
「やっぱり正解でしたね、私が鍋って言って」
「あ、夜猫そんなに火強くしちゃだめ」
「話聞いてます?」
「4割は」
「駄目じゃないですか」
コンロの火を止めると、夜猫が布巾を使って鍋を座卓に持っていく。
「鍋敷きは? 持って行った?」
「あ」
「机焦げるよ」
「先輩お願いします。可愛い後輩の頼みだと思って」
「……はいはい」
厚手のタオルを座卓の真ん中に置くと、夜猫がその上に鍋をそっと置いた。
「あ、先輩、取り皿とかの用意ありがとうございます」
「うん、まぁ夜猫が帰ってくるまで手持ち無沙汰だったし。じゃ、食べようか」
「はい」
僕の向かいに座った夜猫が嬉しそうに笑って、揃って「いただきます」と手を合わせた。
「理央先輩」
「ん?」
声を掛けられて顔を上げると、夜猫が真面目な顔をして白菜を口に運んでいるのが見えた。
「先輩って、恋人とかいないんですか?」
唐突な話題に、思わずゴホゴホと咳き込みながら「はい?」と素っ頓狂な声を上げる。
「なに急に」
「私気付いたんですけど、私って今先輩の家に言うなれば居候してるじゃないですか」
「家賃と生活費は半分出してもらってるから同居じゃなくて?」
夜猫が家に転がり込んできた時「生活費と家賃を半分出さないなら今すぐ追い出す」と脅してから、思えば夜猫がそれらの折半に関してゴネたことは一度もない。
「あそっか。じゃあ同居してるじゃないですか」
「そうだね」
「もし先輩に恋人とかいたら、私かなり邪魔だなと思って。今まで気にしたことなかったんですけど」
「生憎そんな間柄の人はいないけど。気にしたことなかったんだね」
「だって理央先輩、私に恋人いるかどうかとか気にしたことあります?」
そう問われて、ゆっくりと思案を巡らせる。
「……こんな大して仲良くもない同大学の異性の先輩の家に転がり込んでくる時点でいないと思ってた」
「そうなりますか。まぁ先輩の言う通り、いないんですけどそんな人」
「安心したよ、夜猫の恋人さんからあらぬ誤解をされるような状況じゃなくて」
取り皿を持ったまま箸を口に運ぶと、ふわりとした口当たりの具に違和感を覚えた。こんなもの入れただろうか。先ず、これ何だ。
「…夜猫」
「ふぁい?」
「これなに?何か入れた?」
もぐもぐと口を動かしていた夜猫が、ごくんと喉を動かしてから答える。
「あぁ、鱈です」
「タラ?」
「冷凍庫から発掘したのでお肉と一緒に入れました」
再び口をもぐもぐと動かしながら夜猫が何てことないように言う。
「ちょっと待ってそれ何時の?」
「わかんないです。でも冷凍してましたし、ちゃんと火通してますから大丈夫ですよ。食べててヤバい味しないでしょう?」
「しないけど…」
戸惑いながら呟く僕に、彼女は欠片の心配も無さそうに続ける。
「じゃあ大丈夫です、先輩そんなに貧弱じゃないですから」
「言っておくけど夜猫、僕も人間だからね。僕が明日身体壊したら夜猫のせいだよ」
「はーい」
分かっているのかいないのか、軽すぎる返事に苦笑いした。
「あ、あと先輩」
「なに?」
「〆、何が良いですか? 私はうどんに一票を投じます」
「僕もそれに一票」
「決まりですね」
お世辞にも表情豊かとは言えない彼女だけど、嬉しそうに弾む声を聞いて、それを楽しみにしているのはすぐに分かった。
「手伝おうか?」
「大丈夫です。これに関しては慣れてるので」
「そう、ありがとう」
「いいえ」
鍋をあらかた食べ終わって、夜猫が台所に立つ。手持ち無沙汰の僕が座卓の前に座ったままぼんやりとしていると、くつくつと耳心地の良い音が台所から微かに聞こえてきた。
夜猫がここに転がり込んできた時にはどうなることかと思ったけど、静かすぎないこの部屋が、今はとても心地良い。ご飯を食べた後特有のとろとろとした眠気を感じながら、ふっと笑った。
「先輩、できましたよ」
顔を上げると、夜猫が鍋を座卓の中央に置いて僕の向かいに座ったところだった。
「あ、ありがとう」
「理央先輩、ご飯食べるとすぐ眠くなるの相変わらずですよね。赤ちゃんなんですか?」
「それは僕が一番思ってるから言わないでおいてくれる?」
僕の言葉を無視して、夜猫がうどんを自分の皿によそっていく。この子の食への執着もなかなかのものだ。
「あんまり酷いようなら病院行ってくださいね」
それだけ言って、「いただきます」と手を合わせる。
「うん、ありがとう。夜猫、これ直箸でいった?」
「あ、すいません。直でいきました」
「分かった、大丈夫」
僕も自分の箸で鍋のうどんを取り皿によそう。湯気と一緒に、優しい香りが鼻を擽った。
いただきます、と手を合わせて、つるりとしたそれを口に運んだ。
「うま」
「ですね。やっぱり美味しい」
「僕、豆乳鍋って今まで食べたこと無かったんだけどさ」
「嘘。人生1割損してますよ」
「1割だけなんだ」
「私、軽率に『人生半分損してる』とか言う人が嫌いで」
はは、と笑い声が零れた。
「夜猫らしいな」
そう呟いた僕を見てポカンとしている夜猫が、何だか可笑しい。
「先輩って、1人だとひたすらに刺激物だけ食べて体調崩しそうですよね」
うどんを食べながら夜猫がそう言ってきて、僕は心外だと思いながら顔を顰めて見せる。
「どこから来たの、その捻じ曲がったイメージは」
取り皿に残った鍋つゆにふぅふぅと息を吹きかけながら、夜猫が続ける。
「だって理央先輩、辛いもの好きじゃないですか。こういう優しい味のものとか、一切食べなさそう」
「そんなことないよ。………たぶん」
「ほら」
夜猫を真似て鍋つゆを啜る僕を見ながら、彼女の目が悪戯っぽく笑った。強く否定できない自分が悔しい。
「はぁ、美味しかった」
悶々とする僕に見向きもせずに、夜猫が何事もなかったかのように笑う。
彼女が手を合わせたのを見て、僕も慌てて一緒に手を合わせた。
「「ごちそうさまでした」」



