空が泣いていた。
そんな詩的な表現ができるような言葉のセンスがあれば、私の国語の成績はもう少しあがるのかもしれない。
そんなことを考えながら空を見上げると、真っ青な空からポツポツと雨が落ちてきた。
もし本当に泣いているというのなら、せめて曇るくらいしたらいいのに。
今日に限ってどうしてこんなに青いのか。神様とかいう崇高な存在は、つくづく意地悪だ。
「あれ、真坂じゃん」
不意に教室の戸が開いて、息が止まる。顔を背けているのに、肩の震えはあっさりバレてしまったようだ。
最悪だ。
こいつにはいちばん、会いたくなかったのに。
「なんで空見てんの」
そんな私の心中などまったく察してくれない彼は、ためらう素振りもなく平気で教室に入ってきた。
うつむいて、できるだけ目が合わないようにと必死に手を握り締める。
声の正体は一発で分かった。
不本意にも、こいつの声は小さい頃からずっと聞いてきたから。
園川翔。そんな名前を持つ男だ。
チトセちゃん、カケちゃん。
ちとせ、かける。
マサカ。ソノカワ。
呼び方というのは、たった数年という期間で簡単に変わってしまうらしいのだ。
高校に入って、園川は私を苗字で呼ぶようになった。
小学生と中学生のときは、何度も名前で呼ばれていたというのに。
『ちとせ、行くぞ』『ありがと、ちとせ』
──ちとせ、チトセ。
「真坂」
ほら、また。先に距離をとったのは、こいつだ。
こうやって距離をとって突き放すくせに、空気を読んでくれはしないんだ。
もう興味がないのなら、私のことなんて放っておけばいいのに。こいつはいつもズルい男だ。
昔から、変わることなく。
肩に手の重みが加わる。次の瞬間、ふわりとスポーツタオルが頭にかけられた。
覚えのある柑橘系の香りが鼻をつく。
「なんで泣いてんの、ちとせ」
ほら、またズルい。
顔なんて見えていなかったはずだし、涙が溢れるほど大号泣しているというわけでもない。
それなのに、すべてこいつにはバレてしまうのだ。
「腹痛いのか?」
「……泣いてる理由第一候補が腹痛って。小学生じゃ、ないんだからさ」
「小学生バカにすんなよお前。んで、だったらなんだよ」
隣の机に浅く座って、そう問いかけてくる園川。
あんたのせいだよ、ばーか。
そう言いたくなる気持ちは胸に押し込んだ。
私の涙の元因はすべてこの園川翔という男にある。
ずっと昔から一緒にいるのだ。意図せずとも他人に向けるような気持ちとはまた別のものが生まれてしまった。
それなのに、こいつは離すのか捕まえるのかよく分からない距離感で接してくるから、余計にむなしくなるのだ。
私はついさっき見てしまった。
園川が女の子に告白されているのを。
相手は学年でも可愛いと言われているような女子だった。
あんなに可愛い人に告られるとかあるんだ、と思ったけれど、小さい頃よりも成長した肩幅や体駆、引き締まったフェイスラインやずいぶんと彫りが深くなった顔。
そういうものをもう一度見つめると、なんだか納得できそうで嫌になる。
「ごめん。俺、好きな人いるんだよね」
その答えに、当事者でもなんでもない私がホッとするのはどうかしてる。そう分かってはいたけれど、安堵が心を包み込んだのがわかった。
「誰?何組?何部の子?」
「そんなの教えないけど」
「お願い、何部?」
相手の女の子は想願するように詰め寄る。少しでも、一矢片でも多くの情報を掴みたかったのだろう。
自分を納得させるため、そして彼女の後に次ぐであろう周囲を納得させるために。
近寄った女の子は、園川の耳元で何かを発した。
「────、────」
肝心な部分は私の耳には届かなかったけれど、皮肉なことに次の園川の声だけは届いてしまった。
さっきまで心を埋め尽くしていた安堵は、次の園川の言葉によって一瞬で崩壊する。
「運動部」
────私は、文化部。
中学の時、怪我が原因でテニス部をやめた。それ以降テニスはしていない。
だから間違いなく私ではない。
それだけが、今はっきりと分かる事実だった。
足から力が抜けていく。
頭を鈍器で殴られたような感覚だった。
「なぜ泣いているのか」という彼の問いの答えは、こんなみっともなくて情けない出来事だ。
こんなの、言えるはずがない。
目は合っていないのに、すべて見透かされているような気がした。
「泣いてないよ」
「泣いてるだろ。昔から、お前はずっとそうだよ」
「そういうのやめてよ。ほんとにさぁ……なんでよ」
人の気も知らないで。変に寄り添おうとしないでよ。
中途半端な同情がいちばん人を傷つけるって知らないの。
タオルの中で頭を振った私に、園川は呆れたようにため息をついた。
「てか、今雨降ってんだな」
「……は?」
「見ろよ、真坂」
急に話題を変えられて拍子抜けする。けれど飄々としている園川を見ていると、それは敢えてなのだとわかった。
「泣けよ、ちとせ。んで、笑え」
「どっち」
「空も同じだろ。晴れてるくせに泣いてんのが一番綺麗なんだから」
「……ちょっとクサいね」
「うるせえ」
こいつのことは大嫌いだ。大嫌いなのに、それでもどうしようもなく好きだ。
長い間抱いていた恋心は、簡単に消えやしない。
「こういう雨、なんていうか分かる?」
「……知らない」
「じゃあ、教えてやるよ」
園川は立ち上がって、私の顔を覗き込んだ。
慌ててタオルで目を隠すと、ポン、とタオルの上から頭に手が乗る。
「晴れの日の雨は、」
「……うん」
────天泣、というらしい。



