洞窟内を覗いてみると、縄を押し当てたような波模様の床が、暗がりへずっと続いていた。
立羽に手を引かれて足を踏み入れた真宵のローファーの底で、パキン、パキッと軽い音が鳴る。不審に思って尋ねる真宵に立羽は、冷えて固まった熔流の薄い部分が割れる音だと答える。
入り口から二十メートルほど進むと、足元が見えなくなった。立羽がすかさず鱗粉を出し、二人の周囲と足元をごく淡い白光で照らす。明るくしすぎないのは、どこかに潜んでいるであろう野生の蟲を刺激しないためだ。
中は湿り気のある熱気に満ちている。サウナほどとは言わないが、蝉が鳴く夏の真昼のようだった。ただ歩いているだけで、こめかみから顎へと汗が伝う。
目が暗さに慣れてくると、真宵は天井や壁に視線を巡らせた。壁のところどころで黒い玻璃が鋭く尖り、わずかな燐光を受けて刃のようにきらめく。今のところ、蟲らしき姿は見当たらない。いや、そんなものがいたならば、真宵が視界に捉える前に立羽が察知しているのだろうが。
息を殺して耳を澄ますと、遠く、地の底からごう……ごう……と低い唸りが絶え間なく聞こえる。時折、天井がミシ、と軋む音もする。
しばらく、二人の間に言葉はなかった。立羽は前方に注意を払っているのか、真宵を振り向かない。けれど、いつ蟲に襲われるかも知れない緊張の中、握り合わされた手の温もりだけが確かに、真宵の心を強く支える。
指に少し力を込めると、立羽も同じ力で返してくる。そうして応じてもらえることが何故だか妙に嬉しくて、そう思うと同時に、真宵は立羽に幾らか気を許している自分に気づいた。
そのせいか、口も滑らかになり、ずっと抱えていた疑問が流れ出ていく。
「赤国に行って赤女王と会ったら、そのあと僕はどうなるんでしょうか」
立羽は前を向いたまま、一瞬の間のあとに問い返す。
「どうなる、とはどのような意味で?」
「……僕は、どうして連れてこられたんでしょうか。あなたも、あの緑の男の人も、僕の何が欲しいんですか」
重ねられる真宵の問いに、今度こそ立羽は明確に沈黙した。それは息継ぎや嚥唾の隙ではなく、何かを考えるような間。
やがて彼女は、静とした声音で答えた。
「輪廻転生を与える力です」
「輪廻転生? 死んだ後に生まれ変わるっていう?」
「はい」
「でもそれ、仏教だとか一部の宗教の、単なる考え方の話ですよね」
「人界ではそうかもしれませんが、華界では先人が実際に受けた啓示、将来現実に起こり得ることとして語り継がれています。華界が七国に分かたれて争い合うとき、その戦いに勝利するのは、幻の夜華間を手に入れた賢王である。賢王は夜華間から輪廻転生を与えられ、何度も生まれ変わりながら、その国を永久に繁栄させ続ける、と」
真宵の足が止まった。手を繋いだまま、引き留められるような格好となった立羽がようやく真宵を振り返る。
「いかがなされました」
真宵は俯いている。
「僕に、そんな力はありません。ひとりの人を何度も生まれ変わらせるなんて」
「"人を"ではなく"華間"を、ですが」
「同じです。僕から見れば人間も、華間も、蟲間も。相手が誰であろうと、生まれ変わらせる力は、僕にはない」
「夜華君、力がないのではありません。恐らくは、忘れていらっしゃるだけです。人界で、人間に混じって生きてこられたせいで」
「僕は人間です」
「いいえ、あなたは華間です。そして、この世に二人といない幻の夜華間なのです」
真宵は、力なく首を水平に振った。繋いだ手の向こうで、赤い瞳が真っ直ぐ真宵を見ている。立羽の指に力がこもる。
「赤国にはあなた様が必要です。赤女王・珠沙様には……」
熱い血が全身を巡り、どく、どく、と耳の中で鼓動が大きく響いた。吐く息が震える。そこに無理やり声を乗せて呟く。
「……嘘つき」
「嘘ではございません」
「違う。あなたは僕を騙した」
バッ、と渾身の力で真宵は立羽の手を振り解く。立羽の瞳が困惑に揺れる。その美しい紅玉を、恨みがましく見据えて言った。
「僕は帰れない。あなたは最初から、僕を帰す気なんてないでしょう!?」
「夜華君――」
「来るなっ」
踏み出しかけた立羽の足が止まる。
「……このヒトデナシ」
真宵は踵を返して、元来た道を駆け出した。
「夜華君ッ!」
背後で立羽が叫ぶが、追ってくる気配はない。
人でなし。これほど乱暴な言葉を、真宵は他人に向けて初めて口にした。煮えるような怒りがふつふつと、胸の底から気泡を上げている。その熱い空気に乗せて今ならば、さらに酷く相手を傷つける言葉さえ吐けそうだった。走りながら、頭が沸騰しそうになる。
真宵を探していたのも、緑の男や斑猫から守ってくれたのも、決して真宵のためじゃない。真宵が持つと彼女らが信じる、輪廻転生の力のためだ。腕に抱かれて一瞬でも心地よく感じた自分が馬鹿みたいだ、と真宵は自分を責めた。
堪らなく何かに腹が立って、堪らなく何かが……悲しく思えた。
「縛粉」
清冽な声がして、真宵の背後から赤透明の糸たちが乱れ伸びてくる。それらはたちまち真宵の腹や手足に巻きつき、真宵の自由を奪った。
「離せっ、てばぁ!」
糸に持ち上げられた真宵はそのまま立羽の正面へと運ばれる。物憂げな顔をした赤い女が真宵を待ち構えている。悪態をつこうと口を開くのに、何故だろう、立羽の顔を見ると上手く言葉が出てこない。これは真宵の中の良心がそうさせるのか。
立羽の両手が伸びて、真宵の両頬を優しく包んだ。ふわり、と浮き上がるように一瞬で、立羽の美しい顔が、焦点の合わないほどに近づいてくる。
唇に柔らかいものが当たる。何か言おうと半開きだった隙間から、ぬるりとしたものが忍び込む。
脳天を突くような甘さを舌の上に感じた瞬間、真宵の意識は途切れた。
――他者と交わす、初めての口づけだった。
立羽に手を引かれて足を踏み入れた真宵のローファーの底で、パキン、パキッと軽い音が鳴る。不審に思って尋ねる真宵に立羽は、冷えて固まった熔流の薄い部分が割れる音だと答える。
入り口から二十メートルほど進むと、足元が見えなくなった。立羽がすかさず鱗粉を出し、二人の周囲と足元をごく淡い白光で照らす。明るくしすぎないのは、どこかに潜んでいるであろう野生の蟲を刺激しないためだ。
中は湿り気のある熱気に満ちている。サウナほどとは言わないが、蝉が鳴く夏の真昼のようだった。ただ歩いているだけで、こめかみから顎へと汗が伝う。
目が暗さに慣れてくると、真宵は天井や壁に視線を巡らせた。壁のところどころで黒い玻璃が鋭く尖り、わずかな燐光を受けて刃のようにきらめく。今のところ、蟲らしき姿は見当たらない。いや、そんなものがいたならば、真宵が視界に捉える前に立羽が察知しているのだろうが。
息を殺して耳を澄ますと、遠く、地の底からごう……ごう……と低い唸りが絶え間なく聞こえる。時折、天井がミシ、と軋む音もする。
しばらく、二人の間に言葉はなかった。立羽は前方に注意を払っているのか、真宵を振り向かない。けれど、いつ蟲に襲われるかも知れない緊張の中、握り合わされた手の温もりだけが確かに、真宵の心を強く支える。
指に少し力を込めると、立羽も同じ力で返してくる。そうして応じてもらえることが何故だか妙に嬉しくて、そう思うと同時に、真宵は立羽に幾らか気を許している自分に気づいた。
そのせいか、口も滑らかになり、ずっと抱えていた疑問が流れ出ていく。
「赤国に行って赤女王と会ったら、そのあと僕はどうなるんでしょうか」
立羽は前を向いたまま、一瞬の間のあとに問い返す。
「どうなる、とはどのような意味で?」
「……僕は、どうして連れてこられたんでしょうか。あなたも、あの緑の男の人も、僕の何が欲しいんですか」
重ねられる真宵の問いに、今度こそ立羽は明確に沈黙した。それは息継ぎや嚥唾の隙ではなく、何かを考えるような間。
やがて彼女は、静とした声音で答えた。
「輪廻転生を与える力です」
「輪廻転生? 死んだ後に生まれ変わるっていう?」
「はい」
「でもそれ、仏教だとか一部の宗教の、単なる考え方の話ですよね」
「人界ではそうかもしれませんが、華界では先人が実際に受けた啓示、将来現実に起こり得ることとして語り継がれています。華界が七国に分かたれて争い合うとき、その戦いに勝利するのは、幻の夜華間を手に入れた賢王である。賢王は夜華間から輪廻転生を与えられ、何度も生まれ変わりながら、その国を永久に繁栄させ続ける、と」
真宵の足が止まった。手を繋いだまま、引き留められるような格好となった立羽がようやく真宵を振り返る。
「いかがなされました」
真宵は俯いている。
「僕に、そんな力はありません。ひとりの人を何度も生まれ変わらせるなんて」
「"人を"ではなく"華間"を、ですが」
「同じです。僕から見れば人間も、華間も、蟲間も。相手が誰であろうと、生まれ変わらせる力は、僕にはない」
「夜華君、力がないのではありません。恐らくは、忘れていらっしゃるだけです。人界で、人間に混じって生きてこられたせいで」
「僕は人間です」
「いいえ、あなたは華間です。そして、この世に二人といない幻の夜華間なのです」
真宵は、力なく首を水平に振った。繋いだ手の向こうで、赤い瞳が真っ直ぐ真宵を見ている。立羽の指に力がこもる。
「赤国にはあなた様が必要です。赤女王・珠沙様には……」
熱い血が全身を巡り、どく、どく、と耳の中で鼓動が大きく響いた。吐く息が震える。そこに無理やり声を乗せて呟く。
「……嘘つき」
「嘘ではございません」
「違う。あなたは僕を騙した」
バッ、と渾身の力で真宵は立羽の手を振り解く。立羽の瞳が困惑に揺れる。その美しい紅玉を、恨みがましく見据えて言った。
「僕は帰れない。あなたは最初から、僕を帰す気なんてないでしょう!?」
「夜華君――」
「来るなっ」
踏み出しかけた立羽の足が止まる。
「……このヒトデナシ」
真宵は踵を返して、元来た道を駆け出した。
「夜華君ッ!」
背後で立羽が叫ぶが、追ってくる気配はない。
人でなし。これほど乱暴な言葉を、真宵は他人に向けて初めて口にした。煮えるような怒りがふつふつと、胸の底から気泡を上げている。その熱い空気に乗せて今ならば、さらに酷く相手を傷つける言葉さえ吐けそうだった。走りながら、頭が沸騰しそうになる。
真宵を探していたのも、緑の男や斑猫から守ってくれたのも、決して真宵のためじゃない。真宵が持つと彼女らが信じる、輪廻転生の力のためだ。腕に抱かれて一瞬でも心地よく感じた自分が馬鹿みたいだ、と真宵は自分を責めた。
堪らなく何かに腹が立って、堪らなく何かが……悲しく思えた。
「縛粉」
清冽な声がして、真宵の背後から赤透明の糸たちが乱れ伸びてくる。それらはたちまち真宵の腹や手足に巻きつき、真宵の自由を奪った。
「離せっ、てばぁ!」
糸に持ち上げられた真宵はそのまま立羽の正面へと運ばれる。物憂げな顔をした赤い女が真宵を待ち構えている。悪態をつこうと口を開くのに、何故だろう、立羽の顔を見ると上手く言葉が出てこない。これは真宵の中の良心がそうさせるのか。
立羽の両手が伸びて、真宵の両頬を優しく包んだ。ふわり、と浮き上がるように一瞬で、立羽の美しい顔が、焦点の合わないほどに近づいてくる。
唇に柔らかいものが当たる。何か言おうと半開きだった隙間から、ぬるりとしたものが忍び込む。
脳天を突くような甘さを舌の上に感じた瞬間、真宵の意識は途切れた。
――他者と交わす、初めての口づけだった。
