真宵(まよい)立羽(たては)は、森を抜けた小高い丘から荒野を眺めた。黒と褐色の礫に覆われた乾地。ところどころ、柱のように屹立する玄武岩が、風に磨かれて鈍い艶を帯びている。
 そのさらに奥、地平を横切って炎河(えんが)が流れていた。赤橙の熔流(ようりゅう)が幾条もの帯を編み、表皮を張っては破り、ぼこりと泡を吐いてはまた次の皮膜を作る。河上に立ち上る熱波が、遠景を波打つように歪めていた。

「あれが、炎河……」
「はい。赤国と橙国の天然の境界です」

 燃える川の手前には、(とう)国の国境詰所が間隔を置いて点在した。低い石積みの物見台と、庇のある小さな石小屋。屋根の上には深い橙地に鮮やかな蜜柑色の五弁花が描かれた旗がはためく。

 兵たちは暑気用の軽装で、上半身を露わにし、水袋を腰に下げて交替で見張りに立っているようだった。各々(おのおの)、弓と矢筒を背負っている。見つかったが最後、四方八方から矢雨を浴びることだろう。

 真宵は緊張にごくりと喉を鳴らし、蝶の姿の立羽に問うた。

「そういえば、どうやってこの炎河を超えるのか、答えを聞いている途中にさっきの斑猫(はんみょう)が来たんでしたね」

 赤い蝶は同じ位置で羽ばたきながら、くるりと真宵を振り返る。

「飛び越えるのが最短ではありますが、熱波を避けるためには相当の上空を飛ばねばなりません。しかし、そうなれば橙の国境警備兵に見つかり、撃ち落とされる危険が高い。ですから、先ほど言いかけましたとおり、橙国側の把握していない溶岩洞(ようがんどう)を使うのです」
「ヨウガンドウって?」
「熔流の外側だけが冷えて壁と天井になり、あとから中身が流れ去ってできた長い空洞のことをいいます。炎河の地下にはそうした空洞がいくつも走っていて、中には赤国と橙国とを繋ぐものもあるのです。そして、これから向かう一本は、まだ橙国には知られていないそれなのです」

 赤い蝶に導かれて真宵は丘を下っていく。
 いつしか日は傾き、荒野に長い影が伸び始めていた。

「黄昏時とは『(たれ)(かれ)』、顔が判然としづらくなる(とき)です。隠れ進むには最適でしょう」

 立羽が囁く。真宵は身を低くして、岩陰から長草の中を通り次の岩陰へと渡り歩く。
 炎河に近づくにつれ、周囲の温度が上がっていく。息を吸うたびに、硫黄の匂いが乾いた喉の奥でヒリつく。

夜華君(やかぎみ)、もうひと息です。間もなく溶岩洞の口が見えてまいります」

 立羽のその言葉に、真宵の緊張がホッと緩んだ時だった。
 遠くで声がした。警備兵たちの会話ではない。荒野に響き渡る野太い男の声と、それに呼応する甲高い少年の声。

 立羽が真宵の頭に飛びつく。

「岩陰に伏せてください。そう、低く」

 言われるまま地に腹をつけた真宵の、肩に留まった蝶が言う。

「あの声は……橙王(とうおう)柑陽(かんよう)。気性の荒いお方です。見つかれば非常に厄介。(とも)橙蟲間(とうちゅうかん)角兜臣(かくとみ)も同様。あれは心が幼いせいか、抑えが効きません」

 真宵は恐怖心もあったが、橙王というものに興味を引かれて、岩陰から片目を覗かせた。自分を覆う長草越しに、ぎょっとするような光景を見る。

 色素の薄い(あんず)色の髪、相対的な褐色の肌。両肩を露出した筋骨隆々の男が、全長一.六間(約三メートル)はある橙色の兜蟲(かぶとむし)の背に立ち、手綱を握っている。
 兜蟲は力強い六脚で礫を蹴り、炎河の方角へ疾走していく。その巨大蟲の動きが不意に止まった。

「待てよ柑陽、なんか匂う」

 朗らかな少年の声が、剛力な兜蟲から発せられている事実に真宵は戸惑った。
 硬い甲の上に仁王立ちした橙王が、面倒そうに顔を(しか)める。

「ああん? 炎河が硫黄臭いのはいつものことだろうが」
「ちがうって、そういうんじゃねーの」

 王も蟲も揃って声が大きい。耳にビリビリくる声量に真宵は眉根を寄せるが、立ち番の兵士たちは慣れているのか、顔色ひとつ変えない。

「硫黄じゃねぇなら何だよ」
「うーん何だろうなぁ……」

「夜華君、羽衣を深くお被りください。橙蟲間に気づかれます」

 耳元で声がして、真宵は慌てて羽衣を引っ張り、地面に端を付けてドームのように全身を覆った。

「ここは風下です。御身の芳香は届きません。しばらくこのままで」

 告げる蝶に目でわかったと合図をして、息を殺す。
 布越しに少年と男の声が聞こえてくる。

「あれ、匂いがしなくなった」
「何だよ、メンドクセェ」
「気のせいだったのかなぁ……いや、確かに何か感じて――」
「オイ! 余計なことはいいから、さっさと走れクソガキ」
「……あ、臭いの原因わかったかも。柑陽昨日、湯浴みサボったァ?」
「……テメェ、言うに事欠いて俺がクセェってのか」
「事欠いてというか、いつか言おうと思ってたんだけど」
「ぶっ殺すぞ角兜臣ィィ」

 言い合いが始まる。さすがに不味いと思ったのか、止めに入る兵士たちの声が混じる。

「今です、参りましょう」

 立羽の合図で真宵は立ち上がり、低い姿勢で前進していく。橙王と橙蟲間が騒がしいせいで、誰も真宵には気づかない。

 岩の段の陰に、下方へ続く黒い口があった。近づいてみると、縁は火で舐めたように滑らかで、内側からは地上の炎河に熱せられた温風がふうと立ち上っている。

 立羽は蝶の姿から女の姿へと戻った。

「溶岩洞の中は恐らく、熱に耐性のある蟲たちの住処になっていることでしょう。夜華君、どうか私のそばをお離れなさいますな」

 彼女は左手を差し伸ばして、真宵の右手を取った。そして固く握る。
 気恥ずかしさを感じつつも、真宵はその手を振り払わなかった。