『マヨイくんって天然だよね』

 その言葉が決して誉め言葉ではないことに、あるとき気づいた。
 "天然だね"、と言われていたものは、中学に上がって以降、"変わってるね"になった。

『マヨイ、お前耳の後ろどうしたの? なんか黒くね?』
『あ、ほんとだ。怪我? 痛い?』

 打ち上げ花火のような形の黒い痣。生まれつきのもので、痣消しのレーザー治療を何度受けても、浮かび上がってくる。

『それ、感染(うつ)ったりしないよね?』

 人生最大のコンプレックスであり、トラウマ。
 隠すためにずっと、男子にしては長く髪を伸ばしていた。



「……か……、……ぎみ」

 何者かになりたいと心のどこかで思いながら、一方で、他者と同じで在りたいと願う気持ちが、自分という生命の大半を占めていた人生だった。

「……か君、夜華君(やかぎみ)

 真宵(まよい)ではない名前で呼ばれることに違和感しかないはずなのに、どこか安心する自分がいる。
 嗅いだことのないような、瑞々しく(かんば)しい香りが真宵を包んでいた。身体を支えているのは、温かくて柔らかいもの。

「夜華君、どうかお目覚めくださいませ」

 身体を小さく揺すられる感覚に、真宵は瞼を上げた。輝く木漏れ日を背にして、紅玉のような瞳と赤い髪を持つ美女が真宵を覗き込んでいる。

「タ、テハ……さん?」

 真宵は、知ったばかりの名を無意識に口にする。すると立羽は感極まった様子で腕の中の少年を胸に抱き寄せた。

「ああ……お目覚めにならないので、ご心配申し上げました」

 鼻と口が半ば塞がれて息苦しい。

「は、離して……」
「離せませぬ。しばしお待ちを」

 立羽は片腕で真宵を抱いたまま、もう片方の腕で、赤い羽衣を一枚脱いだ。そしてその羽衣で真宵の頭と顔を隠すように覆ってしまう。

「これは?」
「御身をお隠しするためです。(やみ)色の髪、象牙色の肌、落栗(おちぐり)色の瞳。華界においてこれらを持つ華間は、私の知る限りあなたのほかにいらっしゃいません。ひと目で夜華間と知れてしまいます」
「知られるとまずいの?」
「当然です。(りょく)蟲間(ちゅうかん)のように、あなたを欲しがる者は大勢いるのですから」
「でも僕、何も特別なことなんて――」
「さあ、目と口を閉じていてください、鱗粉が入らないように。羽衣の色を橙に近いものに変えます」

 言われたとおりにしている間、真宵はふと、口の中に甘い味がすることに気がついた。何かを食べた記憶はないのに不思議だった。

「もうよろしいですよ」

 促されて目を開ける。すると、真宵の頭を覆う羽衣は赤色から朱色に変わっていた。
 朱色の羽衣を頭から被った真宵はようやく立羽の腕から解放される。

「ここは(とう)国です」

 草地に膝を付いていた立羽は立ち上がりながら話し始めた。

「華界へ転移する瞬間、緑蟲間の妨害が入りました。そのため転移先の地点がずれて、(せき)国の隣の橙国へ出てしまったのです」
「トウコク?」
「橙、というのはつまり、蜜柑(みかん)のような色のことです。あれをご覧なさい」

 立羽の視線の先には、オレンジ色の花々が陽光を浴びて咲き乱れる花畑があった。

「あれが橙色です」
「……綺麗だね」
「否定はいたしませんが、降り立った地が赤色の華群(かぐん)であったなら、どれほどよかったか」
「降り立った……。僕たちは公園の花壇からあの花畑に飛んできたってこと?」
「ええ。華界と人界との行き来には華群(かぐん)の力を使います。転移のための門は、華群の中でしか開きません」

 それを聞いた真宵は、花畑へ向かって歩いていく。

「何をなさるのです」
「帰らなきゃ」
「お帰しすることはできません」
「なんで」

 オレンジ色の花畑の中心で、真宵は草地にいる立羽を振り返る。足元から立ち上る花々の芳香が鼻腔を満たすが、ささくれ立った心を癒すには足らない。

「帰りたいよ。僕はタテハさんの言うヤカギミなんかじゃない」
「いいえ、あなたは紛れもなく夜華君です。それに誓いの言葉をおっしゃいました」

 言われて真宵は思い出す。公園の花壇の上で、絞め殺されたくなければ復唱しろと脅されて言った言葉。

 我、華界へ還り 七神の(しもべ)と為るを 此処(ここ)に誓う

「あんなの、だってっ、言わなきゃ殺すってあなたが!」
「しいっ、声を荒げなさいますな。ここは敵国です」

 ふわり、と浮遊するように立羽が近づいてきて、真宵を抱き込もうと手を伸ばす。真宵は咄嗟に後ろに下がってそれを避けた。

 その時、真宵は自身の身体の軽さに気がついた。まだ日は高くて夜は遠いというのに、いつものだるさが無い。頭も霧が晴れたようにすっきりしている。

「ああ、夜華君。暁霞(ぎょうか)の蜜が効いたのですね。しかし……今はまだ、お飲ませすべきではなかった。さあ、立羽の手をお取りください」
「嫌だ」
「聞き分けのないことをおっしゃいますな」
「どっちがだよ! 意味不明なことばかり言って、ヒトを勝手にさらっておいて」

 真宵が怒りの感情を向けると、立羽は差し伸ばしていた手を下ろして言った。

「しないのではなく、できないのです。誓いを立てて人界から華界へ還った華間は、七神すべてのお許しを受けなければ人界へは戻れません」
「じゃあそのシチシンに会わせてよ!」
「七神がいらっしゃるのは華界のさらに上、玄天(げんてん)です。そして玄天へ行くには、七神のうちいずれか御一人からの召命、または、七国の王すべての推薦状が必要なのです」
「そんな……」

 これまで感じたことのない絶望感が、真宵の胸を支配した。今日、自分はたまたま家の鍵を忘れただけなのだ。他に行く場所がなくて図書室に行き、起きていてもぼうっとしてだるいだけだから眠っていた。それだけなのだ。
 図書室の閉まるころには起きて、帰宅するはずだった。その時間ならば、仕事を終えた母が家にいる。そこから先は何も変わらない、いつもの日常のはずだったのに。

「赤国へ参りましょう、夜華君。赤国は豊かで良い国ですし、赤女王は勇敢で心根の真っ当なお方。夜華君をお迎えする準備はとうにできているのです。何もかも、きっとお気に召しましょう」

 足音も立てずに近づいてきた立羽が、真宵を柔らかく抱きしめる。

「赤国へ来ていただけるなら、あなたが人界へ戻れるよう、赤女王に嘆願いたします。赤女王ならば、ほかの六国を説得し、あなたを玄天へ遣る推薦状を得ることがきっとできます」

 立羽の全身が、淡い赤色の光を放つ。真宵の身体を包んでいた温もりが消え、代わりに手のひら大の赤い蝶が真宵の目の前に現れた。
 蝶から声が聞こえてくる。

「赤蟲間たる我が身は目立ちますゆえ、国境を超えるまでは極力この姿でおります。それでは夜華君、私の後ろに付いてきてください」

 赤い蝶はひらひらと翅を動かし、進み出す。

 真宵はすべてを納得したわけではなかった。けれど、異界の地で今頼れるのはこの蝶だけ。ならば従うしかない。

 元の世界へ帰ること、それを心の支えに真宵は、自分をさらった蝶のあとを追う。橙一色の花畑を出て、ブレザーの上にまとった朱色の羽衣(ひるがえ)し。

 帰りたい。帰るのだ。

 一匹の蝶と夜華間は、橙国を西へ歩み始めた。