「はわわ……はわ……」
と、間の抜けた声を上げて蜻迅衛は床に尻もちをついた。その頬は眠る真宵を初めて目にしたときの網玲と同じく紅潮し、白うさぎのような赤い瞳は潤んでさえいる。
蜻迅衛は羽衣を脱いだ真宵に釘づけのまま床を這っていき、真宵の足元まで来ると、ためらいなくその足首に縋りついた。
「ボ、ボクをあなた様の蟲間に、して、くらさっ」
「やめなよ、蜻迅衛。夜華様が困ってるでしょ。それに蜻迅衛はもう立羽様の使蟲間だし」
網玲は、真宵の足に頬を寄せる蜻迅衛の首に、背中側から腕を回して締めるように引っ張った。蟲間ゆえの子どもらしからぬ力は、夜華の芳香に惑わされた同じ蟲間の青年を上回るらしく、蜻迅衛は簡単に剥がされていく。
「ぐえぇ、じぬっ、じぬっ」
「ほら、これでわかったでしょ。夜華様は本物なんだよ」
解放された蜻迅衛は床にぐったりと這いつくばる。反論しない様子を見るに、ひとまずこれで、真宵が夜華間かどうかの決着はついたらしい。
聞きたかったことが、ようやく聞ける。
真宵は網玲の袖をつついて自分のほうを向かせた。続いて、自分の唇を指し示して注目させ、口をゆっくり大きく動かす。
『白華山ってどんな場所?』
「『小豆が食べたい』? 承知しました!」
勢いよく踵を返した少女の背を、真宵は慌てて引き留め、ぶんぶんと首を横に振った。
「あれ、違いました?」
もう一度。
『白華山ってどんな場所?』
「ああ、紅梅糖でございますね」
真宵はすかさず首を横に。
「では、柘榴餅でしょうか」
さらに横に。網玲はううむと眉根を寄せ、次の瞬間ぱっと表情を明るくした。
「わからないので、とにかくいろいろ持ってまいりますね!」
元気よく客室を飛び出していく。
そこへ背後から低い囁き。
「夜華様」
振り向くと、鼻先が触れそうなほど近くに蜻迅衛が立っていた。細い目がじっと真宵の唇を見据えている。先ほどまでの熱に浮かされたような様子はなく、妙に真剣だ。
「もう一度、この蜻迅衛におっしゃってくださいませ」
真宵は考える。網玲の言った『頭でっかちの赤蜻蛉』という揶揄が本当ならば、蜻迅衛は元赤蜻蛉なのだろう。蜻蛉の複眼は物がよく見えるという。
わずかな期待を胸に、真宵ははっきりと口を動かす。
『白華山ってどんな場所?』
「なるほど、承知いたしました! すぐにご用意いたします!」
胸に手を当てて一礼すると、風のように走り去っていった。
本当に伝わったのだろうか、と不安に思っていると、扉がノックされる。
「失礼いたします」
入ってきたのは立羽だった。腕には剣ひと振りほどの大きさに丸めた古めかしい紙を抱えている。彼女は室内を一瞥し、眉を寄せた。
「網玲と蜻迅衛はどこへ?」
真宵は唇を動かす。
『わからないです』
「……まったく」
立羽は小さくため息をつくと、円卓の前へ進み、紙をぱさりと広げた。羊皮紙のようなざらついた質感。墨の線は褪せているが、筆致は力強い。
それは地図だった。中央に黒々とした円があり、その周囲に七枚の花弁のような土地が集まった図。花弁の一枚ごとに、薄く色が塗られている。
「知識としてお伝えしておきます。これが華界です。北側には寒色の国が集まり、南側には暖色の国が集まっています」
立羽は中心から南西へ伸びる花弁に指を置く。
「ここが赤国です。その右隣、南に伸びるのが橙国、東南が黄国、東が緑国、北東が青国、北西が藍国、西が紫国。明日、私たちが向かうのは、赤国の中でも南側に位置する霊峰・白華山です」
立羽はその山を指し示すが、真宵の目は地図の中心――黒い円に奪われていた。
『ここは?』
「……縦穴です」
答えるまでに、僅かな間があった。
『縦穴……』
「有象無象の蟲たちが住む危険な場所です。華間様も蟲間も、用がなければほとんど近寄りません」
『用って?』
「誇華の園を探し出して、願いを叶えてもらうのです」
誇華の園。先ほど赤女王の寝室の前で耳にした、網玲と蜻迅衛の会話が蘇る。
蜻迅衛が言っていた。立羽が赤女王の願いを叶えるために、そこへ身を投げたのだ、と。
『願いが叶うと、その"人"はどうなるの』
「願いが叶った"華間《かかん》"の使役する"蟲間"が命を落とします。正確には誇華の園は、そこへ身を投げた蟲間の命と引き換えに、その蟲間の魂が最も深く交わる華間の願いを叶えるのです」
『立羽は?』
問えば、立羽は意外そうに目を瞬いた。けれども、すぐに合点した様子で目元を緩める。
「ああ、網玲と蜻迅衛が言い争うのをお聞きになられたのでしたね。はい。私も誇華の園へ身を投げました」
『でも生きている』
「しかし願いは叶ったのです」
『赤女王の願いは』
「夜華君をお見つけし、そばにいていただくこと」
『僕は』
「そして輪廻転生をお与えいただくこと」
『何のために』
「賢王たる当代赤女王が生まれ変わりを繰り返し、在位し続けることで、この赤国を永久に繁栄させ続けるために、です」
真宵は地図の上、赤国を形作る薄赤い花弁に目を落として、唇を動かした。
『立羽』
「はい」
『それは本当に、赤女王の願いなのだろうか』
立羽の睫毛がふっと揺れる。返答が生まれるより先に――
バン、とノックもなしに扉が開いた。
「お待たせいたしました夜華様っ!」
両手にそれぞれ大きな丸盆を乗せた網玲と、酒壺をいくつも抱えた蜻迅衛が、口論しながら押し合うように駆け寄ってくるや、広げていた地図の上にそれらをどさりと置いた。
「ご所望の紅梅糖と石榴餅、それに山査子糕、木苺羹、桃花酥です!」
「まったく、何ですかそれは。夜華様は幼蟲ではないのですよ。ご所望なのはこちらでございますよね! さあご覧ください、選り取り見取り。紅麹酒に、桂皮酒、棗蜜酒、朱霞酒」
「いやいや、お疲れでしょうし甘味でほっこりしましょうよ、夜華様」
「いえいえ、お休み前にゆるりと一杯飲まれたいでしょう、夜華様」
二人が鼻息も荒く身を乗り出す背後で、立羽が冷ややかに片手を上げた。
「縛粉」
「ひぃぃやぁあああ」
「ひょぉおぇえええ」
無数の赤透明の糸が走り、使蟲間たちはそれぞれの持ち込んだ甘味と酒瓶と共に巻き取られて、客室の外へと放り出された。
バタン、と赤い糸は無情にも扉まで閉ざす。
立羽は何事もなかったかのように静かな声で言った。
「後ほど"私が"お食事をお持ちします。それが済んだら"私が"湯浴み処へご案内しましょう」
真宵は遠慮がちに、唇を動かす。
『あの、明日って』
「何もご心配にはおよびません。明日の朝は"私が"お起こしに参ります」
『じゃなくて……白華山って結局どんな場所なの?』
ようやく、まともに問えた。立羽は意味ありげな笑みを浮かべて答える。
「華間様の、修行の場でございます」
と、間の抜けた声を上げて蜻迅衛は床に尻もちをついた。その頬は眠る真宵を初めて目にしたときの網玲と同じく紅潮し、白うさぎのような赤い瞳は潤んでさえいる。
蜻迅衛は羽衣を脱いだ真宵に釘づけのまま床を這っていき、真宵の足元まで来ると、ためらいなくその足首に縋りついた。
「ボ、ボクをあなた様の蟲間に、して、くらさっ」
「やめなよ、蜻迅衛。夜華様が困ってるでしょ。それに蜻迅衛はもう立羽様の使蟲間だし」
網玲は、真宵の足に頬を寄せる蜻迅衛の首に、背中側から腕を回して締めるように引っ張った。蟲間ゆえの子どもらしからぬ力は、夜華の芳香に惑わされた同じ蟲間の青年を上回るらしく、蜻迅衛は簡単に剥がされていく。
「ぐえぇ、じぬっ、じぬっ」
「ほら、これでわかったでしょ。夜華様は本物なんだよ」
解放された蜻迅衛は床にぐったりと這いつくばる。反論しない様子を見るに、ひとまずこれで、真宵が夜華間かどうかの決着はついたらしい。
聞きたかったことが、ようやく聞ける。
真宵は網玲の袖をつついて自分のほうを向かせた。続いて、自分の唇を指し示して注目させ、口をゆっくり大きく動かす。
『白華山ってどんな場所?』
「『小豆が食べたい』? 承知しました!」
勢いよく踵を返した少女の背を、真宵は慌てて引き留め、ぶんぶんと首を横に振った。
「あれ、違いました?」
もう一度。
『白華山ってどんな場所?』
「ああ、紅梅糖でございますね」
真宵はすかさず首を横に。
「では、柘榴餅でしょうか」
さらに横に。網玲はううむと眉根を寄せ、次の瞬間ぱっと表情を明るくした。
「わからないので、とにかくいろいろ持ってまいりますね!」
元気よく客室を飛び出していく。
そこへ背後から低い囁き。
「夜華様」
振り向くと、鼻先が触れそうなほど近くに蜻迅衛が立っていた。細い目がじっと真宵の唇を見据えている。先ほどまでの熱に浮かされたような様子はなく、妙に真剣だ。
「もう一度、この蜻迅衛におっしゃってくださいませ」
真宵は考える。網玲の言った『頭でっかちの赤蜻蛉』という揶揄が本当ならば、蜻迅衛は元赤蜻蛉なのだろう。蜻蛉の複眼は物がよく見えるという。
わずかな期待を胸に、真宵ははっきりと口を動かす。
『白華山ってどんな場所?』
「なるほど、承知いたしました! すぐにご用意いたします!」
胸に手を当てて一礼すると、風のように走り去っていった。
本当に伝わったのだろうか、と不安に思っていると、扉がノックされる。
「失礼いたします」
入ってきたのは立羽だった。腕には剣ひと振りほどの大きさに丸めた古めかしい紙を抱えている。彼女は室内を一瞥し、眉を寄せた。
「網玲と蜻迅衛はどこへ?」
真宵は唇を動かす。
『わからないです』
「……まったく」
立羽は小さくため息をつくと、円卓の前へ進み、紙をぱさりと広げた。羊皮紙のようなざらついた質感。墨の線は褪せているが、筆致は力強い。
それは地図だった。中央に黒々とした円があり、その周囲に七枚の花弁のような土地が集まった図。花弁の一枚ごとに、薄く色が塗られている。
「知識としてお伝えしておきます。これが華界です。北側には寒色の国が集まり、南側には暖色の国が集まっています」
立羽は中心から南西へ伸びる花弁に指を置く。
「ここが赤国です。その右隣、南に伸びるのが橙国、東南が黄国、東が緑国、北東が青国、北西が藍国、西が紫国。明日、私たちが向かうのは、赤国の中でも南側に位置する霊峰・白華山です」
立羽はその山を指し示すが、真宵の目は地図の中心――黒い円に奪われていた。
『ここは?』
「……縦穴です」
答えるまでに、僅かな間があった。
『縦穴……』
「有象無象の蟲たちが住む危険な場所です。華間様も蟲間も、用がなければほとんど近寄りません」
『用って?』
「誇華の園を探し出して、願いを叶えてもらうのです」
誇華の園。先ほど赤女王の寝室の前で耳にした、網玲と蜻迅衛の会話が蘇る。
蜻迅衛が言っていた。立羽が赤女王の願いを叶えるために、そこへ身を投げたのだ、と。
『願いが叶うと、その"人"はどうなるの』
「願いが叶った"華間《かかん》"の使役する"蟲間"が命を落とします。正確には誇華の園は、そこへ身を投げた蟲間の命と引き換えに、その蟲間の魂が最も深く交わる華間の願いを叶えるのです」
『立羽は?』
問えば、立羽は意外そうに目を瞬いた。けれども、すぐに合点した様子で目元を緩める。
「ああ、網玲と蜻迅衛が言い争うのをお聞きになられたのでしたね。はい。私も誇華の園へ身を投げました」
『でも生きている』
「しかし願いは叶ったのです」
『赤女王の願いは』
「夜華君をお見つけし、そばにいていただくこと」
『僕は』
「そして輪廻転生をお与えいただくこと」
『何のために』
「賢王たる当代赤女王が生まれ変わりを繰り返し、在位し続けることで、この赤国を永久に繁栄させ続けるために、です」
真宵は地図の上、赤国を形作る薄赤い花弁に目を落として、唇を動かした。
『立羽』
「はい」
『それは本当に、赤女王の願いなのだろうか』
立羽の睫毛がふっと揺れる。返答が生まれるより先に――
バン、とノックもなしに扉が開いた。
「お待たせいたしました夜華様っ!」
両手にそれぞれ大きな丸盆を乗せた網玲と、酒壺をいくつも抱えた蜻迅衛が、口論しながら押し合うように駆け寄ってくるや、広げていた地図の上にそれらをどさりと置いた。
「ご所望の紅梅糖と石榴餅、それに山査子糕、木苺羹、桃花酥です!」
「まったく、何ですかそれは。夜華様は幼蟲ではないのですよ。ご所望なのはこちらでございますよね! さあご覧ください、選り取り見取り。紅麹酒に、桂皮酒、棗蜜酒、朱霞酒」
「いやいや、お疲れでしょうし甘味でほっこりしましょうよ、夜華様」
「いえいえ、お休み前にゆるりと一杯飲まれたいでしょう、夜華様」
二人が鼻息も荒く身を乗り出す背後で、立羽が冷ややかに片手を上げた。
「縛粉」
「ひぃぃやぁあああ」
「ひょぉおぇえええ」
無数の赤透明の糸が走り、使蟲間たちはそれぞれの持ち込んだ甘味と酒瓶と共に巻き取られて、客室の外へと放り出された。
バタン、と赤い糸は無情にも扉まで閉ざす。
立羽は何事もなかったかのように静かな声で言った。
「後ほど"私が"お食事をお持ちします。それが済んだら"私が"湯浴み処へご案内しましょう」
真宵は遠慮がちに、唇を動かす。
『あの、明日って』
「何もご心配にはおよびません。明日の朝は"私が"お起こしに参ります」
『じゃなくて……白華山って結局どんな場所なの?』
ようやく、まともに問えた。立羽は意味ありげな笑みを浮かべて答える。
「華間様の、修行の場でございます」
