立羽(たては)に手を引かれて、真宵(まよい)は薄暗い廊下を歩いていく。どういうわけか、観音扉を(くぐ)って以降、豪華な装飾の割に明かりが絞られていて、鬱々とした雰囲気がある。

 長い廊下を二度三度と折れて、やがて開けた一室に出る。寝起きも執務も賄えるだけの家具が整い、奥には大きな天蓋つきの寝台。四方に垂れた赤く薄い(しゃ)の内側から、コンコンと乾いた咳が聞こえてくる。

珠沙(じゅしゃ)様」

 立羽が真宵の手を離して駆け寄っていき、紗の内側に身を滑らせる。(かす)れた低音の声が言う。

「喉が痛くて堪らない。枇杷(びわ)蜜をくれ」
「はい、すぐに」

 薄い紗の内側で、立羽の頭が寝台の枕元に近づき――やがて離れた。

「ありがとう。幾らかマシになった」
「珠沙様、そちらへ夜華君(やかぎみ)をお連れしております」
「なんと、夜華の君が」
「こちらへお呼びしても?」
「いや待て。このままではあまりに見苦しい」

 寝台の上で赤女王が上体を起こした。羽織の前合わせを立羽が手早く整え、短い赤髪に手櫛を通す。立羽が紗を持ち上げると、赤女王は静かに足を下ろし、ふらつく気配も見せず歩み出た。病を思わせない悠然とした笑みと、深紅の瞳に宿る柔らかな光。

「夜華の君、先ほどは話の途中で失礼をした。お詫びに内殿の中庭をお見せしたいのだが、いかがか」

 真っ直ぐ向けられる眼差しに、下心や策略の影はない。ただ、思わず近づいてしまいたくなるような引力があった。真宵は天蓋の前に立つ立羽へ視線を送った。立羽は小さく頷く。それを写すように、真宵も首を縦に動かした。




 扉を抜けると、ひやりとした外気が頬を撫でた。中庭は、赤の海だった。起伏の浅い苔地の上に、彼岸花が果てしなく群れている。茎はすらりと直立し、花弁は火焔のように四方にほどけ、長く伸びた雄しべと雌しべは天に向かって反り上がる。

 花群の間には白砂の小径が蛇行し、その先に、朱柱と黒い瓦を頂いた六角の東屋が据えられていた。軒先には小さな風鈴、柱間には巻き上げた葦簾(あしすだれ)

 真宵は赤女王と向かい合って東屋の腰掛けに座った。立羽も一歩下がって控える。すると女王は振り返らずに言った。

「食事をしておいで、できるだけ遠くで」

 立羽は渋る様子を見せたが、真宵を一度見たあと、赤い蝶の姿となって彼岸花群へと飛んでいった。

 赤の上を赤が漂う。ひら、ひら、と小さな翅が、落ち葉のように揺らめいている。
 その光景を眺めながら赤女王が呟く。

「美しいだろう。私はやはりこの花が一番好きだ。国華だからというのではなく」

 黙ったままの真宵に赤女王の視線が向く。

「話せないのは、立羽の術だな」

 見抜かれている。しかし真宵は、そうだと返事をするのを躊躇った。赤女王は眉尻を下げて微笑む。

「優しいお方だ。申し訳ない。私はあれと、深く結びつきすぎたのだ」

 赤い蝶を追う横顔は、凛としていて、どこか遠い。
 彼女が立羽を払ってまで言いたいことは、謝罪ではないと、真宵は直感していた。赤女王は、真宵の無意識の覚悟に応えるように話し出した。

「私はもう長くない。見た目こそ、華間の特性として盛華のときを保っているが、その実、(よわい)は華間の寿命たる三百をとうに超えている。いつ枯れてもおかしくはない」

 ああそうか、と真宵は思った。

「夜華の君、立羽はそなたに願ったのだろう。私の輪廻転生を」

 この女王は、恐れていないのだ。

「けれど私は輪廻転生など、したいとは思わないのだよ」

 自らの死と、それに伴う永久の別れを。

「華は、いつか枯れるからこそ美しい。枯れるからこそ盛華のときを、命尽きるまで咲き誇ろうと思えるのだ。それにね、夜華の君」

 真宵に向けられた瞳はどこか寂しげだった。

「夜華は、賢王に付くと言われる。そして輪廻転生の力でもって、その国を永遠に繁栄させる、と。賢王とは民を第一に考え、私欲より(おおやけ)を選ぶ者」

 赤い蝶が、赤い花畑を横切って飛ぶ。赤い瞳がそれに吸い寄せられる。
 赤女王は口元に自嘲するような、それでいてどこか晴れやかな笑みを浮かべて呟いた。

「私はその器ではないのだ」

 彼女の言葉の本当の意味を、このときの真宵はまだ知らない。



白華山(はっかざん)へ登る。出発は明日の朝だ。今夜のうちに夜華君のご準備を整えろ」

 羽衣に身を包んだ真宵の手を引き、赤女王の寝室入り口の観音扉を出た立羽は、数刻前と寸分違わぬ姿勢で床に(ぬか)づく使蟲間二人にそう命じた。そして顔を上げた二人の前に真宵を押し遣る。

 蜻迅衛(せいじんえ)が細い目を見開き、唇をわななかせて言う。

「白華山、ですって? 何故そのような」
「口答えするな。理由は明白だろう。夜華君に"成華の(ぎょう)"をお受けいただく」
「無茶でございます。人界(じんかい)育ちの華を、いきなり白華山へなどと」
「心配か? お前は夜華君のことを真の夜華ではないと疑っていたようだが」
「私がご心配申し上げているのは立羽様のことです。少々この少年に入れ込みすぎでは?」

 網玲(もうれい)がキャッキャと笑った。

「蜻迅衛ったら嫉妬してるの?」
「断じて違います。口を閉じてなさい、蜘蛛娘」
「蜻迅衛も客室においでよ。そこで羽衣を取った夜華様の香りを嗅いだら、ころっと気が変わるから」

 網玲は片手で蜻迅衛の手を掴み、もう片方で真宵の手を恭しく取った。

「立羽様、ご命令はこの網玲が承りましたっ!」

 少女の手は、子どもの体温ゆえか熱かった。そして真宵の手にぴったりと張りついて、紅葉(もみじ)のような小ささだというのに、まるで離せそうになかった。

「この蜘蛛娘っ。粘糸(ねんし)を使いましたね」

 同じく手が離せない様子の蜻迅衛と共に、真宵は少女に引かれて、来た道を戻った。