蜻迅衛の真宵を見る目は、最初から好意を含んでいなかった。その理由が真宵にはわからない。
蜻迅衛は真宵の全身にひと通り視線を巡らせると、ねめつけるようにまた網玲を見下ろした。
「本当に幻の夜華間なのですか。確かに、闇色の髪、象牙色の肌、落栗色の瞳は言い伝えのとおりですが」
真宵はどきりとした。このおかっぱ頭の男は、羽衣越しに真宵の容姿を確認したというのか。
網玲が眉を顰める。
「蜻迅衛、疑うの?」
「見た目だけならば、ある程度の偽装が可能です」
「でも立羽様が連れてきたんだよ?」
今度は蜻迅衛の眉が、神経質にピクリと動いた。
「……それがまた腹立たしいのです。どうして立羽様は、使蟲間たるこの蜻迅衛にすら黙って縦穴に」
「言ったら全力で反対されるからでしょ」
「当然です。聞いたときには震えが止まりませんでしたよ。あの方はおひとりで縦穴の底へ行き、誇華の園に身を投げられた。その命と引き換えに、陛下の願いを叶えるために」
「でも立羽様は生きて戻られたよ? しかも陛下の命をお救いできる夜華様を連れて」
「そこがよくわからないのです。喜ばしいことではありますが、何故立羽様は生きておられる? 誇華の園は何を代償に、この赤国へ夜華をもたらした?」
「網玲もわかんない。網玲にそんなこと聞かないでよ」
「別にあなたに答えを求めたわけじゃありません。私が言いたいのは、あなたが引き連れてきたその少年が、非常に怪しいということです。立羽様は生きておられる。それはつまり、言い伝えどおりの結果になっていないということ。ゆえにその少年は、真の夜華ではない可能性が高い」
網玲は子どもらしく頬を膨らませる。
「蜻迅衛は夜華様の香りを嗅いでいないから、そんなこと言うんだよ」
「ならば嗅がせていただけますか。その羽衣を脱いで」
「だっ、駄目だよ! こんな結界もない場所で脱いだら変な蟲がわらわら寄ってくる」
「私とあなたとで駆除すればいいでしょう」
「でもっ、陛下の寝室近くで戦闘なんてしたら」
「蜘蛛の子は頭が悪いですね。くだらない蟲どもを、王宮に一歩でも入れるはずないでしょう。手前ですべて捕らえて殺すのです。まあそれも、この少年が本当に夜華の惹力を持っていたときの話ですが」
「だから本物だって言ってるでしょ! どうして信じてくれないの!?」
「私は自分で見たものや感じたことしか信じません。誇華の園の言い伝えですら、立羽様が生きて戻られた今となっては半信半疑です」
「頭でっかちの赤蜻蛉!」
「未熟な子蜘蛛に何を言われたところで」
その時だった。蜻迅衛が背にした観音扉が、内側から開いた。薄闇の向こうから、立羽が滑るように姿を現す。表情は険しく、視線は刃のように冷たい。
「お前たち、何を騒いでいる」
剣呑なひと言に、二人の使蟲間は同時に床へ膝をつき、頭を垂れた。
「申し訳ございません」
「ごめんなさい、立羽様」
「"誇華の園"と聞こえたが……言ったはずだろう、私がその場所へ行ったことは珠沙様には伏せてあると。それをこんな場所で騒ぎ立てて。奥の間までは聞こえないだろうが、万が一にでもお耳に入ることがあれば……お前たち、ただの蟲に戻してやってもいいのだぞ」
立羽の容赦ない言葉に、二人の使蟲間は床に額づいて閉口した。冷えた緊張感が場を支配していた。
まもなく立羽の目が、使蟲間たちを越えて、その後ろに立つ真宵へと向けられた。
「夜華君……おいででしたか」
言葉を奪われた真宵は返事ができず黙っている。
「ちょうど、お迎えに上がろうと思っていたところです。珠沙様――赤女王のお身体の具合を診ていただきたく」
真宵は否定の意味で首を振った。真宵は医者ではない。病人の、それも人間でない者の診察などできようはずがなかった。
しかし立羽は強引だ。ひらりと距離を詰めてきて真宵の腕を掴み、有無を言わせぬ力で引いていく。真宵は反論の声も上げられないまま、重厚な観音扉の内側に引きずり込まれた。
そして羽衣を剥ぎ取られる。
「ご安心ください。珠沙様の寝室には私が結界を張っておりますゆえ、夜華君の芳香は外へは漏れませぬ」
扉の内側は、薄暗い廊下だった。赤女王は、奥の間という場所にいるらしい。
真宵は一歩後ずさり、首を横に振った。そこには様々な意味が込められていた。安心などできない、立羽を信用できない、病人を診るなんてできない、理不尽に言葉を奪われたまま言いなりになんかなりたくない。
真宵は自分の喉元を叩き、『元に戻して』と口を動かした。立羽には通じたらしく、彼女は小さく首を水平に動かす。
「申し訳ございませんが、できません」
『なんで』
「それはどちらの意味でしょうか。『何故言葉を奪ったのか』あるいは『何故元に戻せないのか』」
『両方に決まってる!』
「では言葉を奪った理由から。夜華君、あなた様が珠沙様へ、余計なことを知らせてしまわないためです。先ほど外の使蟲間たちにも申しましたが、私は私の主に幾らか嘘をついています。その一部があなた様をお見つけした方法であり、場所なのです。私は珠沙様に、『夜華君を、赤国内の僻地の見回り時に偶然お見つけした』とお伝えしています」
『それが何?』
「夜華君には、ご出自と華界へいらした経緯を黙っていていただきたいのです」
どうして、という思いと、やはり、という確信が真宵の中で同時に立った。どうして、は、どうしてそんな嘘を主につく必要があるのか。やはり、は、やはり立羽には真宵を人界に帰す気などなかったのだ、という。出自と経緯を黙っていろということは、赤女王へ、七神に会うための推薦状を嘆願できないということだ。
遣る瀬なさに駆られながら、それを隠して真宵はまた口を動かす。
『黙っていると約束したら、喋れるようにしてくれるの?』
「いえ。次に、あなた様の状態を元に戻せない理由ですが、こちらは単純です。解毒法のない毒鱗粉をお飲ませしたからです」
『じゃあ、どうすれば』
「ご心配にはおよびません。鱗粉は時間をかけてお身体から排出されます。そういう蟲術です」
『時間って、どれくらい?』
「三月もあれば」
『……酷い』
あまりに長い。
「申し訳ございません。三月の間、私の鱗粉があなた様の発声と筆記の能力を制限するでしょう。しかし、幸いなことに私は唇を読むのが得意なのです。この術を、他者にかけ慣れているせいかもしれませんが。ですので、込み入ったご用があれば私にお話しくださいませ」
三か月間、立羽以外とろくに会話ができない。筆談もできない。なんと不便なことか。そして何より腹立たしい。赤女王に余計なことを伝えさせないために言葉を封じたと立羽は言った。しかしそれは本当に必要なことだったのか。今のように、事情を話して「黙っていてほしい」というのでは駄目だったのか。
いや、駄目だったのだろうと真宵は思った。溶岩洞で真宵は、自分がなぜ連れてこられたのかと立羽に問うた。そして立羽はその問いに、輪廻転生の力のためだ、と真実を答えた。華界の古い言い伝えの話もしてくれた。けれどその直後、真宵は立羽の語るすべてを否定し、拒否し、激昂して逃げ出した。立羽にも非があるとはいえ、その状態の真宵に「黙っていてほしい」などと嘆願する余裕は彼女になかっただろう。
立羽には、力でもって真宵を黙らせるほかに、手段がなかったのだ。
「立羽、いるのか? こちらに来てくれ」
廊下の奥から、赤女王の声が聞こえてきた。落ち着いた低音だが、僅かに掠れている。
「ただ今、参ります」
立羽は答え、真宵に向けて声を潜めて言った。
「さあ、夜華君。おいでください。悪いようにはいたしませぬ」
『そうだね。もう悪くされているもの』
一瞬、彼女の瞳に憂いが宿った。だがすぐ消え、薄い微笑みに置き換わる。
「私をいくら嫌おうと、今のあなた様には私の手を取るほか、道はないはずです」
『まるで悪"人"の台詞だ』
「どうお思いでも結構です。私は"人"ではありませぬゆえ」
身体の脇に垂れていた真宵の左手を、立羽は攫うように取った。
蜻迅衛は真宵の全身にひと通り視線を巡らせると、ねめつけるようにまた網玲を見下ろした。
「本当に幻の夜華間なのですか。確かに、闇色の髪、象牙色の肌、落栗色の瞳は言い伝えのとおりですが」
真宵はどきりとした。このおかっぱ頭の男は、羽衣越しに真宵の容姿を確認したというのか。
網玲が眉を顰める。
「蜻迅衛、疑うの?」
「見た目だけならば、ある程度の偽装が可能です」
「でも立羽様が連れてきたんだよ?」
今度は蜻迅衛の眉が、神経質にピクリと動いた。
「……それがまた腹立たしいのです。どうして立羽様は、使蟲間たるこの蜻迅衛にすら黙って縦穴に」
「言ったら全力で反対されるからでしょ」
「当然です。聞いたときには震えが止まりませんでしたよ。あの方はおひとりで縦穴の底へ行き、誇華の園に身を投げられた。その命と引き換えに、陛下の願いを叶えるために」
「でも立羽様は生きて戻られたよ? しかも陛下の命をお救いできる夜華様を連れて」
「そこがよくわからないのです。喜ばしいことではありますが、何故立羽様は生きておられる? 誇華の園は何を代償に、この赤国へ夜華をもたらした?」
「網玲もわかんない。網玲にそんなこと聞かないでよ」
「別にあなたに答えを求めたわけじゃありません。私が言いたいのは、あなたが引き連れてきたその少年が、非常に怪しいということです。立羽様は生きておられる。それはつまり、言い伝えどおりの結果になっていないということ。ゆえにその少年は、真の夜華ではない可能性が高い」
網玲は子どもらしく頬を膨らませる。
「蜻迅衛は夜華様の香りを嗅いでいないから、そんなこと言うんだよ」
「ならば嗅がせていただけますか。その羽衣を脱いで」
「だっ、駄目だよ! こんな結界もない場所で脱いだら変な蟲がわらわら寄ってくる」
「私とあなたとで駆除すればいいでしょう」
「でもっ、陛下の寝室近くで戦闘なんてしたら」
「蜘蛛の子は頭が悪いですね。くだらない蟲どもを、王宮に一歩でも入れるはずないでしょう。手前ですべて捕らえて殺すのです。まあそれも、この少年が本当に夜華の惹力を持っていたときの話ですが」
「だから本物だって言ってるでしょ! どうして信じてくれないの!?」
「私は自分で見たものや感じたことしか信じません。誇華の園の言い伝えですら、立羽様が生きて戻られた今となっては半信半疑です」
「頭でっかちの赤蜻蛉!」
「未熟な子蜘蛛に何を言われたところで」
その時だった。蜻迅衛が背にした観音扉が、内側から開いた。薄闇の向こうから、立羽が滑るように姿を現す。表情は険しく、視線は刃のように冷たい。
「お前たち、何を騒いでいる」
剣呑なひと言に、二人の使蟲間は同時に床へ膝をつき、頭を垂れた。
「申し訳ございません」
「ごめんなさい、立羽様」
「"誇華の園"と聞こえたが……言ったはずだろう、私がその場所へ行ったことは珠沙様には伏せてあると。それをこんな場所で騒ぎ立てて。奥の間までは聞こえないだろうが、万が一にでもお耳に入ることがあれば……お前たち、ただの蟲に戻してやってもいいのだぞ」
立羽の容赦ない言葉に、二人の使蟲間は床に額づいて閉口した。冷えた緊張感が場を支配していた。
まもなく立羽の目が、使蟲間たちを越えて、その後ろに立つ真宵へと向けられた。
「夜華君……おいででしたか」
言葉を奪われた真宵は返事ができず黙っている。
「ちょうど、お迎えに上がろうと思っていたところです。珠沙様――赤女王のお身体の具合を診ていただきたく」
真宵は否定の意味で首を振った。真宵は医者ではない。病人の、それも人間でない者の診察などできようはずがなかった。
しかし立羽は強引だ。ひらりと距離を詰めてきて真宵の腕を掴み、有無を言わせぬ力で引いていく。真宵は反論の声も上げられないまま、重厚な観音扉の内側に引きずり込まれた。
そして羽衣を剥ぎ取られる。
「ご安心ください。珠沙様の寝室には私が結界を張っておりますゆえ、夜華君の芳香は外へは漏れませぬ」
扉の内側は、薄暗い廊下だった。赤女王は、奥の間という場所にいるらしい。
真宵は一歩後ずさり、首を横に振った。そこには様々な意味が込められていた。安心などできない、立羽を信用できない、病人を診るなんてできない、理不尽に言葉を奪われたまま言いなりになんかなりたくない。
真宵は自分の喉元を叩き、『元に戻して』と口を動かした。立羽には通じたらしく、彼女は小さく首を水平に動かす。
「申し訳ございませんが、できません」
『なんで』
「それはどちらの意味でしょうか。『何故言葉を奪ったのか』あるいは『何故元に戻せないのか』」
『両方に決まってる!』
「では言葉を奪った理由から。夜華君、あなた様が珠沙様へ、余計なことを知らせてしまわないためです。先ほど外の使蟲間たちにも申しましたが、私は私の主に幾らか嘘をついています。その一部があなた様をお見つけした方法であり、場所なのです。私は珠沙様に、『夜華君を、赤国内の僻地の見回り時に偶然お見つけした』とお伝えしています」
『それが何?』
「夜華君には、ご出自と華界へいらした経緯を黙っていていただきたいのです」
どうして、という思いと、やはり、という確信が真宵の中で同時に立った。どうして、は、どうしてそんな嘘を主につく必要があるのか。やはり、は、やはり立羽には真宵を人界に帰す気などなかったのだ、という。出自と経緯を黙っていろということは、赤女王へ、七神に会うための推薦状を嘆願できないということだ。
遣る瀬なさに駆られながら、それを隠して真宵はまた口を動かす。
『黙っていると約束したら、喋れるようにしてくれるの?』
「いえ。次に、あなた様の状態を元に戻せない理由ですが、こちらは単純です。解毒法のない毒鱗粉をお飲ませしたからです」
『じゃあ、どうすれば』
「ご心配にはおよびません。鱗粉は時間をかけてお身体から排出されます。そういう蟲術です」
『時間って、どれくらい?』
「三月もあれば」
『……酷い』
あまりに長い。
「申し訳ございません。三月の間、私の鱗粉があなた様の発声と筆記の能力を制限するでしょう。しかし、幸いなことに私は唇を読むのが得意なのです。この術を、他者にかけ慣れているせいかもしれませんが。ですので、込み入ったご用があれば私にお話しくださいませ」
三か月間、立羽以外とろくに会話ができない。筆談もできない。なんと不便なことか。そして何より腹立たしい。赤女王に余計なことを伝えさせないために言葉を封じたと立羽は言った。しかしそれは本当に必要なことだったのか。今のように、事情を話して「黙っていてほしい」というのでは駄目だったのか。
いや、駄目だったのだろうと真宵は思った。溶岩洞で真宵は、自分がなぜ連れてこられたのかと立羽に問うた。そして立羽はその問いに、輪廻転生の力のためだ、と真実を答えた。華界の古い言い伝えの話もしてくれた。けれどその直後、真宵は立羽の語るすべてを否定し、拒否し、激昂して逃げ出した。立羽にも非があるとはいえ、その状態の真宵に「黙っていてほしい」などと嘆願する余裕は彼女になかっただろう。
立羽には、力でもって真宵を黙らせるほかに、手段がなかったのだ。
「立羽、いるのか? こちらに来てくれ」
廊下の奥から、赤女王の声が聞こえてきた。落ち着いた低音だが、僅かに掠れている。
「ただ今、参ります」
立羽は答え、真宵に向けて声を潜めて言った。
「さあ、夜華君。おいでください。悪いようにはいたしませぬ」
『そうだね。もう悪くされているもの』
一瞬、彼女の瞳に憂いが宿った。だがすぐ消え、薄い微笑みに置き換わる。
「私をいくら嫌おうと、今のあなた様には私の手を取るほか、道はないはずです」
『まるで悪"人"の台詞だ』
「どうお思いでも結構です。私は"人"ではありませぬゆえ」
身体の脇に垂れていた真宵の左手を、立羽は攫うように取った。
