夜華(やか)様、何かお返事なさってくださいませ」

 言われて真宵(まよい)は声が出ないことを身振り手振りで伝えた。すると網玲(もうれい)はハッと気づいた様子で部屋を飛び出していき、ほどなく紙束と木炭筆を抱えて戻ってくる。真宵はそれらを受け取り、紙の上に筆先を置いた。黒い点がひとつ生まれる。

 だが――そこから先が動かない。まるで見えない糸で"止め"を掛けられているようだ。
 真宵は眉を寄せ、もう一度、手に力を込める。点は濃くなるが、線にはならない。

 困惑する真宵を見て、網玲が小さく呟いた。

「夜華様は、お話と筆記のお力を七神にお返しになったのですね」

 意味がわからず、真宵は怪訝に首を傾げる。網玲は続けた。

「耳にしたことがあります。華界には、ほかとは違う特別な力を持った華間(かかん)様がいるけれど、彼らは皆、その力と引き換えに七神に別の力をお返しになったのだと。たとえば物を見る力、音を聞く力。手足や臓器の一部などをお返しになった方もいるそうで」

 真宵ははっきりと首を横に振った。違う。そんな覚えはない。話せず、書けないのは別の理由――立羽が何かしたせいだ。
 そう伝えたくて手を動かすが、その曖昧な動きは幼い少女を困らせるだけだった。やはり言葉で伝えられなければ埒が明かない。早く立羽に、この奇妙な状態を解いてもらわねば。

 真宵は寝台から足を下ろし、朱塗りの靴置きに揃えられていたローファーに足を差し入れる。白いワイシャツにグレーのスラックスという格好はこの世界では明らかに浮いているが、着替えはない。

「や、夜華様、いかがなされました?」

 おろおろする網玲へ、真宵は出入り口の扉を指さした。

「だっ、駄目でございます。この部屋には立羽様の結界が張られておりますので安全ですが、外に出たら夜華様の芳香が……」

 衣桁《いこう》に立羽の赤い羽衣が掛けてあった。気を失う前、真宵が身に着けていたものだ。蟲を寄せつけてしまうという夜華間特有の匂いも、これを着ていれば問題ないのだろう。
 真宵は羽衣を手に取って、(とう)国でそうしていたように頭から被る。

「あっ、あっ、確かにそれがあれば芳香は抑えられますが、でもっ」

 制止しようとする少女には悪いと思いつつ、それでも真宵は扉に手を掛け、外へ出た。

 赤を基調とした、天井の高い内廊下。朱漆に金の紋様の浮いた太い円柱が等間隔に並び、赤い格子窓からは、ガラス越しの光が淡く桃色に広がる。

 左右どちらへ向かえばよいのか逡巡していると、背後で扉が開き、網玲が飛び出してきた。

「お、お待ちください夜華様っ。わかりました。紅葩宮(こうはきゅう)は広くて複雑ですので、どこかへ行かれるとのことであれば、網玲がご案内いたします。閑所(かんじょ)(御手洗)でしょうか。それともお腹が空かれましたか?」

 真宵は首を横に振り、両手の親指を交差させて蝶の形を作った。翅をぱたぱたと動かし、目で訴えかけると、網玲は「ああ」と晴れやかに微笑んだ。

「立羽様をお探しなのですね。かしこまりました」

 少女が歩き出し、真宵はその小さな背に続く。

「立羽様は恐らく、陛下の寝室においでです。並の華間様や蟲間は決して入れませんが、この網玲と一緒なら、きっと大丈夫なはずです」

 振り返った少女が、歩みを緩めずに話す。

「網玲は、立羽様の使()蟲間なのですよ。赤女王陛下と主従の契約をされた赤蟲間たる立羽様には、複数の蟲を蟲間化して使役するお力があるのです。他国の“色つき蟲間”も皆同じです。王や女王に仕える色つき蟲間は、何匹かの蟲を蟲間化して(しもべ)とし、共に主を守らせるのです。……夜華様、もうじき第二禁門ですので、守衛にお顔を見られないよう、羽衣を深くお被りください」

 廊下を何度か曲がって歩いた先に、観音開きの扉があった。両脇には一名ずつ、武装した男たちが立っている。真宵は羽衣で髪と肌を覆い、俯いたまま少女に付き従う。

「お疲れさまです」

 網玲の屈託のない声音に、男たちは慣れた調子で挨拶を返す。

「網玲殿、後ろの方は……」
「こちらは立羽様がお連れした、陛下へのお客様です。体調をお悪くされて客室で休んでいらしたのですが、回復されたようなので陛下のもとへご案内するのです」
「承知した。そちらのお方、念のためにお顔を拝見しても?」
「駄目です、駄目です! とんでもない!」

 網玲は両手をぱたぱたと振って大げさに抗議した。

「他国からいらした、とっても高貴なお方なのですよ。網玲やお二方程度の身分でお顔を見せろだなどと、陛下に叱られてしまいます!」
「お、おお、そうでしたか。それはご無礼を……」

 真宵はチラ、と視線を上げる。羽衣の薄布越しに、鎧の男たちが半身を折って立礼する姿が見えた。真宵も会釈で応える。男たちは正面に直ると、観音扉を押し開けた。

「ありがとうございます」

 明るく礼を述べた網玲に続き、真宵も扉を潜る。
 そうして壮麗な廊下を歩いていくと、また守衛のいる扉に突き当たった。今度も先ほどと同じように、網玲の話術で通り抜ける。

「さて、ようやく内殿まで来ましたね。陛下の寝室はもうすぐです」

 内殿、と網玲が呼んだ扉の内側は、一段と華やかだった。壁の赤は深く、柱金具の意匠は彼岸花。天井飾りの金箔は格子窓から入る光に煌めき、靴音の良く響く廊下の石床も、艶やかで高級感がある。

 やや狭くなった廊下を抜けた先、ひときわ重厚な観音扉が鎮座していた。扉の前に立つ影はひとつだけ。鎧姿の衛兵ではなく、赤い薄衣をまとった優男だ。サラサラの赤髪は肩の上で切りそろえられていて、細い目と、ツンと澄ました顔からは感情が読み取れない。男は腕組みをして網玲を見下ろす。

「網玲。あなたまた勝手な真似を」
「だって蜻迅衛(せいじんえ)、夜華様が立羽様に会いたがっていらっしゃるんだもの」

 網玲はさらりと言ってのけた。この男相手には、真宵の正体を隠そうともしない。

 蜻迅衛と呼ばれた優男の目が、真宵へ移る。羽衣に隠れて顔は見えないはずだが、それでも、薄布を透かして品定めするような視線が肌に触れている気がして、真宵は緊張で息を呑んだ。