「終わっちまったなぁ~あ~片づけめんどくさ!」
「文句言ってないで手ぇ動かせ、ノロマ右田」
「はあ!? 伊佐治、最近俺への当たり強くねえ!?」
すっかり日も沈み、今年の文化祭は幕を下ろした。
教室にはお疲れモードのクラスメイトで溢れ、のろのろと服を脱いで着替えを始めていた。ホワイトボードにはまだ『女装♡カフェ』という文字が残っている。出し物に使ったハートの風船を割りながら、俺も片づけに協力していた。
「まーちゃん、目ぇ真っ赤だけど大丈夫?」
「うん……ちょっとね」
伊佐治くんに指摘され、俺は目元を擦った。
二人には言わないが、本当はさっきトイレで泣いてしまった。西浦くんと他の人のキスシーンを思い出してしまったからだ。演技だと分かっていても辛いものは辛い。けど、同時に俺の家に来たときの西浦くんを思い出した。あの日、俺は彼にキスができなかった。したいという気持ちはあったものの受け身になっていた。あれじゃいつまで経ってキスができるはずがない。
(澪くんは恥ずかしがり屋だし。俺は、先輩なんだから)
年下にリードしてもらうんじゃなくて、俺がリードしてもいい。そんなのどっちがどっちというのは決まっていない。
片づけが終わった後にでも西浦くんを捕まえて告白しようと思っている。
「そういや、まーちゃん。今日、西浦たちのクラスこの後打ち上げらしいよ」
「え?」
「だから、早めに行ったほうがいいかも」
伊佐治くんはふとそんなことを言いながら、俺が持っていた風船を割った。パンッとはじけ目を丸くする。なんでまたそんな情報を知っているのだろうか。
(それじゃあ、今行ったほうがいい感じ?)
しかし、クラスの片づけがある。それをほっぽって告白なんてしに行っていいものなのだろうか。
悶々と悩んでいれば、伊佐治くんが肩を叩く。
「俺は、まーちゃんのこと応援してる。ここは、右田と俺に任せて行きなって。言うって決めたんじゃないの?」
「伊佐治くん、何で」
「見てれば分かる。だてにまーちゃんと付き合い短くないから」
ほら、と伊佐治くんは優しく笑う。
相変わらず右田くんは伊佐治くんに肩を組まれ理解していない様子だったが、伊佐治くんは背中を押してくれたのだ。
「ありがとう、二人とも」
俺は二人にお礼を言って教室を出る。
教室の外も片付けが終わりはじめ、飾りや看板などは撤去されていた。
急いで一年生の教室に向かったのだが、そこには西浦くんはおらず、変わりに東田くんが「生徒会室にものを返しに行った」と教えてくれた。もしかしたら入れ違いになるかもしれない、と思いつつ、人気のない廊下を通って生徒会室へと向かった。
◇◇◇
(――西浦くん!!)
その道中の廊下で、制服に着替え段ボールを三つほど積んで歩いている西浦くんを見つけた。
俺は迷うことなく彼の名前を呼ぶ。
「澪くん!!」
「真緒……先輩?」
彼は俺に気づくと立ち止まり、こちらを振り返った。
その間に彼のもとまで走る。廊下には俺のパタパタという足音が響いていた。窓から差し込む光はオレンジ色で温かく、俺が走るとともに小さな影が一緒についてくる。
西浦くんの前まで来て、俺は両膝に手をつき呼吸を整えた。少し走っただけだが、これから彼に告白するんだと思うと緊張して動悸が激しくなる。
でも、もう言わないなんていう選択肢はない。
「どうしてここに?」
「澪くん、好きです」
「え……?」
いきなりの告白に、西浦くんは驚いてゴッと持っていた段ボールを落とす。中には衣装が入っており、段ボールの角が潰れる。
好きですの“す”が裏返ってしまった気がした。けれど、訂正する余裕はなくて、西浦くんを見上げる。夕日に照らされた彼の顔はオレンジ色だったが、徐々に頬が色づき始める。
「俺、澪くんのことが好き。先輩後輩の関係じゃなくて、一緒にご飯を食べるだけの関係じゃなくて、付き合ってほしいです」
お願いします、とあれだけいろいろと考えていた告白はとてもシンプルなものになってしまった。
バッと頭を下げて彼に手を差し出す。
俺の手を握って、俺を好きだって言って……好きにさせる。心臓は彼に聞こえるんじゃないかと思うくらい大きくなっていた。
しかし、いくら待っても彼からの返事が来ない、もしかしてダメなのかもしれない、そう思って顔をあげると、そこには口元を手で覆い目に涙を浮かべる西浦くんの姿があった。
「澪くん?」
俺が彼の名前を呼ぶと、一筋の涙がこぼれ頬を伝って落ちる。
「れ、澪くん!?」
「す、んません……嬉しくて。いや、ごめんなさい」
「ええっと、それは、付き合うのは無理ってこと?」
俺が訊ねれば「じゃなくて」と言ってごしごしと腕で目元を擦る。でも、腕を外してもその目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
「しまらないっすね、俺。大好きな先輩に告白してもらったのに」
「澪くん、な、泣かないで」
泣いてません、と絶対に突き通せるわけがない嘘を口にする。
「……本当は、俺から告白したかったのに先越されちゃいました。先輩の勇気に驚いて、嬉しくて……けど、自分が情けなくもあります」
西浦くんはそう言うと、俺が差し出していた手をぎゅっと握り返した。それはつまりOKと……そういうことだろう。
だが、また西浦くんは黙ってしまい、俺の間には静寂が訪れる。夕日が雲に隠れたのかだんだんと薄暗くなっていく。
「今、こっちから音? しなかったか」
「怖いこと言うなよ。こっちってあんま使われてない棟じゃん」
二人ほどの声とともに足音がこちらに近づいてくるのが聞こえた。
告白の現場を見られてしまうかもしれない、なんて思っていると西浦くんが強引に腕をひき、空き教室へと連れ込んだ。
扉をピシャンと閉めたため、さらに俺たちの存在を知らしめてしまったかもしれない。
「は? 誰もいないじゃん。てか、これ一年生が借りてた衣装じゃね?」
「誰だよ。こんなところにおきっぱにして。ま、持って行ってやるか」
廊下からはそんなやり取りが聴こえ、ほどなくして足音も聞こえなくなった。
◇◇◇
(行ったかな……?)
俺は体を起こし、扉を開けて確認しようとしたが体勢が体勢のため動けずにいた。
「澪、くん」
「真緒先輩」
空き教室に連れ込まれた際、俺は西浦くんに押し倒されてしまった。
もちろん彼はそんな気は全然なかっただろうし、慌てていたからこのような形になってしまったのだ。俺はぎゅっと胸の真ん中で両手を握り、覆いかぶさるように押し倒した西浦くんを見上げていた。
また、俺たちの間に沈黙が流れた。
しかし、今回違ったのは、その沈黙を破ったのが西浦くんだったということ。
「先輩、告白、ありがとうございました。俺も、好きです」
「う、うん」
押し倒されたままそう言われたので、ドキッと強く心臓が鳴る。
だが、西浦くんの顔は少し浮かなく、もそもそっとした感じに話し始める。体勢を変えないのかな、と思ったが彼のまっすぐな黒い瞳を見て察した。うっすらと涙が浮かんでいるものの、獣のようにギラギラとした目が俺を見下ろしている。俺を逃す気がないっていう獣の眼に射抜かれれば、動けなくなってしまう。
「本当は、夏祭りのとき告白しようと思ってたんです。先輩から誘ってもらえて、二人きりになって。今日こそはって思ってたんですけど、勇気が出なくて……文化祭のときにも言おう、言おうって考えてたんですけど。さっき、先輩が傷ついた顔をしていっちゃったから。ダメかもしれないって思っちゃって」
「こっちこそごめん。あのときは逃げちゃって……俺、ちゃんと、劇みたよ。澪くんが見たくて。でも、澪くんが他の人と演技でもキスのふりしているところ見てて胸が痛くなって。なんであそこに俺がいないんだろうって」
わがままなことを思った。
これまでそんなことは一度も思ったことがなかったのに。西浦くんが絡むと、どうも平常心を保てない。かっこよくいようと思っても、彼の前では取り繕う暇もなくて。
でも、人一倍独占欲があるんだってわかった。
「かっこ悪いよね」
「そんなことないです。俺こそ、かっこ悪いです。結果、先輩に告白してもらって、それにOKする形で。真緒、先輩も……俺のこと好きだったんですか?」
「え、気づいてなかったの!?」
俺がそう言うと、西浦くんはぶんぶんと首を縦に振った。それから、申し訳なさそうに視線をふら~と逸らす。
「……俺、自分に自信なくて。周りが過大評価してるだけかなって。先輩はいつも通り美味しそうに食べてますし。俺のことただの後輩って思ってるのかなって」
心外だ――いや、俺のアピールも微々たるものだったかもしれないけど。
(確かに、澪くんのほうがアピールというか、すごかったよね)
今思えば、何度も俺に触れて、たまにかっこいいこと言って。けど、ヘタレでかわいくて。無自覚に、俺の手を握っちゃって。
俺は何度彼にドキドキさせられただろうか。
(きっと、出会ったあの日から――)
いつもは無表情で、食べるときに限らずよく眉間にしわが寄って怖い顔になるけれど。その顔が結構コロコロ変わるんだってことは俺だけが知っていることだと思う。
「そんなことないよ。俺、ただの後輩にはここまでしない。澪くんだから、澪くんは特別だから……一緒に甘いもの食べるし、家に誘うし、祭りも行く。君のこと、もうただの後輩として見れない」
「……っ、俺も、ずいぶんと前からそうでした」
「じゃ、じゃあ一緒だ!」
「でも――」
西浦くんはそう言って頬を撫でる。愛おしそうに、俺の輪郭をゆっくりとなぞり、それからふにっと俺の唇に親指を当てる。
それはいつぞや俺の部屋に来たときと状況が重なる。西浦くんが俺にキスしたいって顔で、見下ろしている。
「俺のほうが先に隙になりました。先輩と出会ったあの日、一口が小さくておいしそうに食べるアンタを見て真緒先輩に一目惚れしました」
「ひとめ、ぼれ」
「はい。だから、わざわざくまちゃんパン手に入れて、アンタとの接点作って。後輩っていうのを利用して、ちょっとずつでもいいから意識してもらおうって……ヘタレなせいで、現状に満足しちゃってましたが、先輩に告白されてもう歯止めが利きません」
まるでそれは子どもが言い訳をするようだった。
けれど、彼の言葉に嘘偽りはなく、本当に俺に『一目惚れ』したのだと分かる。
(そんな前から)
それは知らなかった。
けど、俺もあの日初めて西浦くんに出会って、こんなにかっこいい人がいるんだと惹かれた。西浦くんはそれ以上の衝撃をあの日受けたというのだ。
かっこいいことを言った彼は、顔を真っ赤にしていた。それから、「恥ずかしくてずっと言えませんでした」とかわいいことを言う。
しかし、何かを決意したようにギュッと下唇を噛んだ後、顔を近づけてきた。
「やっぱり、俺からも告白させてください。このまま、返事して言わないの、情けなくてどうにかなりそうです」
「そんなことないよ」
「あります。俺だって、先輩にかわいいじゃなくて、かっこいいって思われたい」
そう言った西浦くんの顔には覚悟が見えた。
もうすでに両思いであることは分かっている。西浦くんはそれでもやり直したい、自分からも言いたいというのだ。そんなこと言ってくれるなんて俺も嬉しくてどうにかなってしまいそうだ。
西浦くんは、すぅーはぁーと深呼吸をした後、俺を見る。一寸の狂いもなく、俺を見下ろし、目を合わせ形のいい口を開く。
「真緒先輩、好きです、大好きです。これからも俺と一緒にご飯を食べてください、いっぱい先輩を独り占めさせてください……俺と付き合ってください」
「はい……俺も好き。澪くんが好きだよ」
彼の首に腕を回しぎゅっと抱き寄せる。
しかし、西浦くんは俺の行動が予想外だったようで、そのまま俺に抱き寄せられると体勢を崩し上に乗っかってしまった。体格差があるのですごく重くて、肺が潰れそうだ。
彼は慌ててすぐに退いたが、また自分がやってしまったと落ち込んだ。
そんなところがかわいくていいのだが、と思って体を起こすと、まだ不服そうな西浦くんは俺のほうを見た。
「澪くんどうしたの?」
「一応訂正しておきますけど。先輩、俺、中野とはなんもないですからね」
「中野くんって白雪姫を演じてた子?」
いきなり何を言い出すかと思えば、さっきのこと。
西浦くんはこくりと頷き、さらに眉間にしわを寄せる。すぐに感情が表に出てすごいかわいいと思うのに、この甘い空気に似つかわしくない顔をしている。
「ほんと何にもないんで。ああいう営業で……俺は嫌って言ったんですけど」
「う、うん。そんなことわかってるから!」
そうやってその場を切り抜けようとしたが、西浦くんの言っていたことはだいたいあっていた。
もちろん、営業だと分かっていたのにいじけたのは俺だ。そこは紛れもない事実で、今すぐに隠蔽したい、記憶から消したいことだった。
「キスしてません」
「わかってる! わかってるってば!!」
あの時だって、キスしようとしてしてくれなかったのは、俺たちの関係がまだ次の段階に進むには早かったからっていう理由と、きっと西浦くんがそういうのに慣れていないからっていう理由だったのだろう。
彼もキス初心者で、俺もキス初心者だと。まだ俺たちのファーストキスは散っていない。
(うん、うん。だから、ゆっくりでもいいんだよ)
西浦くんがその気になってくれた時に、俺もしたい。
でも、そんな俺の態度が気に食わなかったのか、拗ねたようにぷくっと頬を膨らました西浦くんは、何かを思い出したようにポケットをまさぐった。
「キャンディー?」
彼の胸ポケットから出てきたのはリンゴのイラストが印刷されたキャンディーだった。それをどうするのかと眺めていれば、彼は封を開け、俺の口にポンと押し込んだ。
「ん? ……っ!?」
そして、次の瞬間彼は俺の唇を奪いキスをする。
「れ、れぇくんっ」
「これが、俺のファーストキスです。これからも、俺の初めて全部先輩に捧げます」
「へぇっ……んんっ、んっ!!」
ファーストキスと言いながら、思い切り深いキスをしてくる西浦くんに、抵抗も何もできなかった。
彼に後頭部を押さえられ、口の中のキャンディーを転がしながらキスをされる。変なところで大胆になる西浦くんは本当に心臓に悪い。もしかしたら、俺がキスを後回しにしようと舌から、ちょっと拗ねているのかもしれない。
西浦くんもキスしたかったんじゃないだろうか。
(あ、甘い……っ)
ファーストキスはレモン味というが、俺たちのファーストキスはリンゴ味だ。
角度を変えてむさぼられ、口の端からは甘い蜜のような唾液が垂れる。
西浦くんに翻弄され、されるがままになっていた。その後、ようやく離れた西浦くんと俺の間には水あめのような糸が伸びぷつんと切れる。
口の中に残っていた欠片のようなリンゴのキャンディーを、ごくんと飲み込んでしまう。
「の、飲んじゃった」
「大丈夫ですか、真緒先輩」
「う、うん……というか、澪くんいきなり大胆すぎるよ」
「だって、先輩が俺とのキスどうでもいいみたいに言うから」
「言ってないよ……もう、びっくりした。こういうのって順を追ってとかじゃない、の」
「でも、これで俺とのファーストキス忘れませんよね」
「ちょっと拗ねてる?」
西浦は頑なに「拗ねていません」という。その言い方がかわいくて、俺が頬に「えいっ」とキスをすれば、西浦くんは見る見るうちに耳まで真っ赤になる。彼は、口を金魚のようにパクパクとさせ俺がキスしたところに手を当てていた。
やっぱり、西浦くんは西浦くんだ。
「ふはっ」
「も、もう、先輩心臓に悪いです」
「さっき、俺に深いキスした人が言う言葉じゃないよ」
「真緒先輩が、好きで仕方がないから……それと、昨日からずっと言おうと思っていたんですけど」
西浦くんはそう言いながら、俺の被っていたウィッグをとる。
そういえば、俺はメイド服のまま出てきてしまったなと今更思い出した。制服の西浦くんとメイド服の俺、なんだかアンバランスだ。
ウィッグをとった西浦くんは、俺のフワフワの髪の毛を優しく撫でる。
「俺は、ウィッグしている先輩より、こっちのほうが自然で、すげえかわいいと思います」
「タイプ」と小さい声で言うと、西浦くんはごまかすように頭を撫で続けた。
また、西浦くんから言われたかわいいに、胸がギュンギュンとしてしまう。西浦くんにならかわいいといわれても嫌じゃないのは知っていたが、今のは破壊力が強すぎた。
「澪くん、そういうとこ」
「どういうことですか?」
「もーいい。澪くん、もう一回キスして」
「え!? ど、どうして」
「甘かったから、好き……ううん、俺からする。キスしよう。澪くん」
受け身はダメだ。俺から行かなきゃ。
まあ、攻めると西浦くんがたじたじになってしまうが、そんな彼をみれるのは恋人の特権だからいい。
俺が顔を近づければ、西浦くんは逃げ道を探したが、覚悟を決めたのか唇を突き出した。それから触れるようなキスをする。
まだ、リンゴの味が残っていて、二回目のキスもとても甘かった。
空き教室の窓から差し込む光はまた暖かなオレンジ色になっていて、俺たちを祝福するように優しく照らしていた。
◇◇◇
文化祭が開けてすぐにテスト期間がやってくる。
右田くんは「一生文化祭が続けばいいのにー」とぼやき、授業終わりに返ってきた赤点の小テストに口をあんぐり開けていた。それはどうやら伊佐治くんも同じようで「まーちゃん、今度マンツーマンで教えてくれね?」とこっそり聞いてきた。
「おい、伊佐治!! 抜け駆けは禁止だからな!!」
「抜け駆けじゃねえし。じゃあ、バカ右田も頼めばいいだろ!?」
(今日も二人はいつも通りだな)
俺の席の前で言い争っているこの光景はもう見慣れたものだった。
チャイムが鳴り、二人はその場で号令と共に前を向いて挨拶をする。右田くんは、点数を上げてもらえないかとチャレンジしようとしたが、すぐに先生が出ていったことで敵わなくなってしまった。
「伊佐治くん、一応『恋人』に聞いてからね?」
「う……絶対だめなやつだろそれ。だって、まーちゃんの恋人、忠犬から番犬にシフトチェンジしたじゃん」
「ずっとかわいいと思うんだけどな」
そう思っているのはまーちゃんだけ、と指摘されてしまい首をかしげるしかなかった。
右田くんは「はあ!? 間中に恋人!?」と気づいていないようだ。そんな右田に「これだからバカ右田は」と言われていたが、俺の恋人についてはそれ以上言及しなかった。
「お、俺たちの間中に恋人が……間中誰なんだよ!! その恋人ってのは!!」
「えーっと」
そのタイミングで教室の後ろ扉が開き、教室が「うわっ」というような雰囲気になる。
「なあ、間中恋人! 教えてくれよ」
「――その恋人、俺です」
「澪くん」
うわああああ! と、右田くんは鼓膜が破れそうな悲鳴を上げ飛びのく。
西浦くんはそれを聞いて、とても嫌そうに顔をしかめていた。
「に、西浦があああ!?」
「先輩。今日も早く終わってくまちゃんパン手に入れました」
「すごい。澪くんって、激運持ちだね」
「先輩のこと思ってダッシュしました。二人きりで食べたいです」
少し甘えたような声で西浦くんはそう言うと、俺の手をそっと握る。そういうことはやっぱり、無意識でやってしまうのだろうか。
触られた手が熱く、俺はこくりこくりと頷くことしかできなかった。
後ろで喚き散らかす右田くんに、伊佐治くんがチョップをかまして「シャラップ右田」と注意している。そんな二人を置いて、西浦くんと教室を抜け出す。
◇◇◇
俺たちが初めて一緒に食べた校舎裏にも秋が訪れ、西浦くんが退かそうとしていた石の上に赤とんぼが止まっていた。
二人でコンクリートの校舎の壁に背を預け、しゃがみ込む。西浦くんは俺がお弁当を広げている間にくまちゃんパンの耳をちぎっていた。
「急に寒くなりましたね。先輩、寒くないですか?」
「平気。こう見えて俺、寒さ強いんだよね……くしゅんっ」
言ったそばからくしゃみをしてしまい、まったく説得力がない。「今のは鼻がむずむずしただけ」とごまかす。俺のくしゃみでとまっていた赤とんぼはどこかへ飛んで行ってしまった。
「それよりも、澪くん。今度の土曜どこに行きたい?」
「ハロウィンの季節なので、また甘いもの……限定スイーツ食べに行きたいです」
「いいね。ハロウィンのアフタヌーンティーってあるのかな」
「調べてみます」
甘いもののことになると反応速度がいつもの三倍増しになる。
すぐにスマホを取り出し調べようとしたが、彼は何故かポケットに戻して俺のほうを見た。
「どうしたの?」
「いや、先輩といるのにスマホ見るのはなんか違うなーって思って」
「俺のこと好きだね」
「当たり前です。ずっと前から好きでした」
「う、うん、ありがとう」
本気ですよ? と、西浦くんは俺の反応に対して物申してきた。もちろん、分かっている。
そして、俺が食べるときジッと見つめてくるのもあの頃から変わっていない。むしろちょっとエスカレートしている。そんなに見つめられると食べられないんだよな、と思っているが、俺が幸せそうに食べているのを見て、少し頬を緩ませて食べる西浦くんが見えるのでそこは役得だと思う。
西浦くんにとって食事の時間は苦痛だったというが、今ではそんなことを感じさせないほど楽しそうに食べてくれている。眉間に寄っていたしわも前よりも浅い気がする。
弁当箱を開ける。中には煮物や白身魚が入っている。昨日おばあちゃんと一緒に作ったやつだ。
その中でも、かぼちゃの煮つけを箸でつまんで西浦くんのほうに持って行く。
「かぼちゃの煮つけ作ったんだ、よかったら食べる?」
「はい。真緒先輩の手作りなら何でも」
西浦くんはそう言って、ぱくりと一口で食べる。大きな一口はいつ見ても圧巻だ。
しばらくの咀嚼の後、ごくんと大きな喉ぼとけが上下する。
「すげえ美味しいです。毎日食べたい……先輩、俺に毎日味噌汁作ってください」
「えっ、う、うん。ずっと一緒にいようね」
「え、あ……はい。責任取って一緒にいます」
自分で言ったくせに、たじろぐ西浦くんを見ているとさらに恥ずかしくなっていく。
俺たちはいつもこんな感じだ。でも、このかけがえのない時間がとても幸せで、甘くて溶けそうになる。
西浦くんは頬をかきながら、もう片手でくまちゃんパンの耳をくれる。黒いくまちゃんパンの耳からは美味しそうなカスタードクリームが覗いた。
俺はそのくまちゃんパンの耳にかぷっとかぶりつく。俺はいつも一口が小さめだ。
西浦くんはそんな俺を横から幸せそうに見ていた。
「んんんっ!! すごく美味しい。澪くんと食べてるからかな」
今日も俺は幸せだ。
きっとこれからも、二人で一緒に時間を過ごして、美味しいものと、幸せな思い出をたくさん作っていくんだと思う。
フッと優しく微笑んだ、西浦くんは「ついてます」と長い指を伸ばし、口についたカスタードクリームを拭って、ぺろりと舐める。
「先輩、すごくかわいいです」
「あ、ありがとう」
あの日と同じだ。
俺は照れ笑いを返しながら、もう一度「ありがとう」と彼に伝えたのだった。
「文句言ってないで手ぇ動かせ、ノロマ右田」
「はあ!? 伊佐治、最近俺への当たり強くねえ!?」
すっかり日も沈み、今年の文化祭は幕を下ろした。
教室にはお疲れモードのクラスメイトで溢れ、のろのろと服を脱いで着替えを始めていた。ホワイトボードにはまだ『女装♡カフェ』という文字が残っている。出し物に使ったハートの風船を割りながら、俺も片づけに協力していた。
「まーちゃん、目ぇ真っ赤だけど大丈夫?」
「うん……ちょっとね」
伊佐治くんに指摘され、俺は目元を擦った。
二人には言わないが、本当はさっきトイレで泣いてしまった。西浦くんと他の人のキスシーンを思い出してしまったからだ。演技だと分かっていても辛いものは辛い。けど、同時に俺の家に来たときの西浦くんを思い出した。あの日、俺は彼にキスができなかった。したいという気持ちはあったものの受け身になっていた。あれじゃいつまで経ってキスができるはずがない。
(澪くんは恥ずかしがり屋だし。俺は、先輩なんだから)
年下にリードしてもらうんじゃなくて、俺がリードしてもいい。そんなのどっちがどっちというのは決まっていない。
片づけが終わった後にでも西浦くんを捕まえて告白しようと思っている。
「そういや、まーちゃん。今日、西浦たちのクラスこの後打ち上げらしいよ」
「え?」
「だから、早めに行ったほうがいいかも」
伊佐治くんはふとそんなことを言いながら、俺が持っていた風船を割った。パンッとはじけ目を丸くする。なんでまたそんな情報を知っているのだろうか。
(それじゃあ、今行ったほうがいい感じ?)
しかし、クラスの片づけがある。それをほっぽって告白なんてしに行っていいものなのだろうか。
悶々と悩んでいれば、伊佐治くんが肩を叩く。
「俺は、まーちゃんのこと応援してる。ここは、右田と俺に任せて行きなって。言うって決めたんじゃないの?」
「伊佐治くん、何で」
「見てれば分かる。だてにまーちゃんと付き合い短くないから」
ほら、と伊佐治くんは優しく笑う。
相変わらず右田くんは伊佐治くんに肩を組まれ理解していない様子だったが、伊佐治くんは背中を押してくれたのだ。
「ありがとう、二人とも」
俺は二人にお礼を言って教室を出る。
教室の外も片付けが終わりはじめ、飾りや看板などは撤去されていた。
急いで一年生の教室に向かったのだが、そこには西浦くんはおらず、変わりに東田くんが「生徒会室にものを返しに行った」と教えてくれた。もしかしたら入れ違いになるかもしれない、と思いつつ、人気のない廊下を通って生徒会室へと向かった。
◇◇◇
(――西浦くん!!)
その道中の廊下で、制服に着替え段ボールを三つほど積んで歩いている西浦くんを見つけた。
俺は迷うことなく彼の名前を呼ぶ。
「澪くん!!」
「真緒……先輩?」
彼は俺に気づくと立ち止まり、こちらを振り返った。
その間に彼のもとまで走る。廊下には俺のパタパタという足音が響いていた。窓から差し込む光はオレンジ色で温かく、俺が走るとともに小さな影が一緒についてくる。
西浦くんの前まで来て、俺は両膝に手をつき呼吸を整えた。少し走っただけだが、これから彼に告白するんだと思うと緊張して動悸が激しくなる。
でも、もう言わないなんていう選択肢はない。
「どうしてここに?」
「澪くん、好きです」
「え……?」
いきなりの告白に、西浦くんは驚いてゴッと持っていた段ボールを落とす。中には衣装が入っており、段ボールの角が潰れる。
好きですの“す”が裏返ってしまった気がした。けれど、訂正する余裕はなくて、西浦くんを見上げる。夕日に照らされた彼の顔はオレンジ色だったが、徐々に頬が色づき始める。
「俺、澪くんのことが好き。先輩後輩の関係じゃなくて、一緒にご飯を食べるだけの関係じゃなくて、付き合ってほしいです」
お願いします、とあれだけいろいろと考えていた告白はとてもシンプルなものになってしまった。
バッと頭を下げて彼に手を差し出す。
俺の手を握って、俺を好きだって言って……好きにさせる。心臓は彼に聞こえるんじゃないかと思うくらい大きくなっていた。
しかし、いくら待っても彼からの返事が来ない、もしかしてダメなのかもしれない、そう思って顔をあげると、そこには口元を手で覆い目に涙を浮かべる西浦くんの姿があった。
「澪くん?」
俺が彼の名前を呼ぶと、一筋の涙がこぼれ頬を伝って落ちる。
「れ、澪くん!?」
「す、んません……嬉しくて。いや、ごめんなさい」
「ええっと、それは、付き合うのは無理ってこと?」
俺が訊ねれば「じゃなくて」と言ってごしごしと腕で目元を擦る。でも、腕を外してもその目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
「しまらないっすね、俺。大好きな先輩に告白してもらったのに」
「澪くん、な、泣かないで」
泣いてません、と絶対に突き通せるわけがない嘘を口にする。
「……本当は、俺から告白したかったのに先越されちゃいました。先輩の勇気に驚いて、嬉しくて……けど、自分が情けなくもあります」
西浦くんはそう言うと、俺が差し出していた手をぎゅっと握り返した。それはつまりOKと……そういうことだろう。
だが、また西浦くんは黙ってしまい、俺の間には静寂が訪れる。夕日が雲に隠れたのかだんだんと薄暗くなっていく。
「今、こっちから音? しなかったか」
「怖いこと言うなよ。こっちってあんま使われてない棟じゃん」
二人ほどの声とともに足音がこちらに近づいてくるのが聞こえた。
告白の現場を見られてしまうかもしれない、なんて思っていると西浦くんが強引に腕をひき、空き教室へと連れ込んだ。
扉をピシャンと閉めたため、さらに俺たちの存在を知らしめてしまったかもしれない。
「は? 誰もいないじゃん。てか、これ一年生が借りてた衣装じゃね?」
「誰だよ。こんなところにおきっぱにして。ま、持って行ってやるか」
廊下からはそんなやり取りが聴こえ、ほどなくして足音も聞こえなくなった。
◇◇◇
(行ったかな……?)
俺は体を起こし、扉を開けて確認しようとしたが体勢が体勢のため動けずにいた。
「澪、くん」
「真緒先輩」
空き教室に連れ込まれた際、俺は西浦くんに押し倒されてしまった。
もちろん彼はそんな気は全然なかっただろうし、慌てていたからこのような形になってしまったのだ。俺はぎゅっと胸の真ん中で両手を握り、覆いかぶさるように押し倒した西浦くんを見上げていた。
また、俺たちの間に沈黙が流れた。
しかし、今回違ったのは、その沈黙を破ったのが西浦くんだったということ。
「先輩、告白、ありがとうございました。俺も、好きです」
「う、うん」
押し倒されたままそう言われたので、ドキッと強く心臓が鳴る。
だが、西浦くんの顔は少し浮かなく、もそもそっとした感じに話し始める。体勢を変えないのかな、と思ったが彼のまっすぐな黒い瞳を見て察した。うっすらと涙が浮かんでいるものの、獣のようにギラギラとした目が俺を見下ろしている。俺を逃す気がないっていう獣の眼に射抜かれれば、動けなくなってしまう。
「本当は、夏祭りのとき告白しようと思ってたんです。先輩から誘ってもらえて、二人きりになって。今日こそはって思ってたんですけど、勇気が出なくて……文化祭のときにも言おう、言おうって考えてたんですけど。さっき、先輩が傷ついた顔をしていっちゃったから。ダメかもしれないって思っちゃって」
「こっちこそごめん。あのときは逃げちゃって……俺、ちゃんと、劇みたよ。澪くんが見たくて。でも、澪くんが他の人と演技でもキスのふりしているところ見てて胸が痛くなって。なんであそこに俺がいないんだろうって」
わがままなことを思った。
これまでそんなことは一度も思ったことがなかったのに。西浦くんが絡むと、どうも平常心を保てない。かっこよくいようと思っても、彼の前では取り繕う暇もなくて。
でも、人一倍独占欲があるんだってわかった。
「かっこ悪いよね」
「そんなことないです。俺こそ、かっこ悪いです。結果、先輩に告白してもらって、それにOKする形で。真緒、先輩も……俺のこと好きだったんですか?」
「え、気づいてなかったの!?」
俺がそう言うと、西浦くんはぶんぶんと首を縦に振った。それから、申し訳なさそうに視線をふら~と逸らす。
「……俺、自分に自信なくて。周りが過大評価してるだけかなって。先輩はいつも通り美味しそうに食べてますし。俺のことただの後輩って思ってるのかなって」
心外だ――いや、俺のアピールも微々たるものだったかもしれないけど。
(確かに、澪くんのほうがアピールというか、すごかったよね)
今思えば、何度も俺に触れて、たまにかっこいいこと言って。けど、ヘタレでかわいくて。無自覚に、俺の手を握っちゃって。
俺は何度彼にドキドキさせられただろうか。
(きっと、出会ったあの日から――)
いつもは無表情で、食べるときに限らずよく眉間にしわが寄って怖い顔になるけれど。その顔が結構コロコロ変わるんだってことは俺だけが知っていることだと思う。
「そんなことないよ。俺、ただの後輩にはここまでしない。澪くんだから、澪くんは特別だから……一緒に甘いもの食べるし、家に誘うし、祭りも行く。君のこと、もうただの後輩として見れない」
「……っ、俺も、ずいぶんと前からそうでした」
「じゃ、じゃあ一緒だ!」
「でも――」
西浦くんはそう言って頬を撫でる。愛おしそうに、俺の輪郭をゆっくりとなぞり、それからふにっと俺の唇に親指を当てる。
それはいつぞや俺の部屋に来たときと状況が重なる。西浦くんが俺にキスしたいって顔で、見下ろしている。
「俺のほうが先に隙になりました。先輩と出会ったあの日、一口が小さくておいしそうに食べるアンタを見て真緒先輩に一目惚れしました」
「ひとめ、ぼれ」
「はい。だから、わざわざくまちゃんパン手に入れて、アンタとの接点作って。後輩っていうのを利用して、ちょっとずつでもいいから意識してもらおうって……ヘタレなせいで、現状に満足しちゃってましたが、先輩に告白されてもう歯止めが利きません」
まるでそれは子どもが言い訳をするようだった。
けれど、彼の言葉に嘘偽りはなく、本当に俺に『一目惚れ』したのだと分かる。
(そんな前から)
それは知らなかった。
けど、俺もあの日初めて西浦くんに出会って、こんなにかっこいい人がいるんだと惹かれた。西浦くんはそれ以上の衝撃をあの日受けたというのだ。
かっこいいことを言った彼は、顔を真っ赤にしていた。それから、「恥ずかしくてずっと言えませんでした」とかわいいことを言う。
しかし、何かを決意したようにギュッと下唇を噛んだ後、顔を近づけてきた。
「やっぱり、俺からも告白させてください。このまま、返事して言わないの、情けなくてどうにかなりそうです」
「そんなことないよ」
「あります。俺だって、先輩にかわいいじゃなくて、かっこいいって思われたい」
そう言った西浦くんの顔には覚悟が見えた。
もうすでに両思いであることは分かっている。西浦くんはそれでもやり直したい、自分からも言いたいというのだ。そんなこと言ってくれるなんて俺も嬉しくてどうにかなってしまいそうだ。
西浦くんは、すぅーはぁーと深呼吸をした後、俺を見る。一寸の狂いもなく、俺を見下ろし、目を合わせ形のいい口を開く。
「真緒先輩、好きです、大好きです。これからも俺と一緒にご飯を食べてください、いっぱい先輩を独り占めさせてください……俺と付き合ってください」
「はい……俺も好き。澪くんが好きだよ」
彼の首に腕を回しぎゅっと抱き寄せる。
しかし、西浦くんは俺の行動が予想外だったようで、そのまま俺に抱き寄せられると体勢を崩し上に乗っかってしまった。体格差があるのですごく重くて、肺が潰れそうだ。
彼は慌ててすぐに退いたが、また自分がやってしまったと落ち込んだ。
そんなところがかわいくていいのだが、と思って体を起こすと、まだ不服そうな西浦くんは俺のほうを見た。
「澪くんどうしたの?」
「一応訂正しておきますけど。先輩、俺、中野とはなんもないですからね」
「中野くんって白雪姫を演じてた子?」
いきなり何を言い出すかと思えば、さっきのこと。
西浦くんはこくりと頷き、さらに眉間にしわを寄せる。すぐに感情が表に出てすごいかわいいと思うのに、この甘い空気に似つかわしくない顔をしている。
「ほんと何にもないんで。ああいう営業で……俺は嫌って言ったんですけど」
「う、うん。そんなことわかってるから!」
そうやってその場を切り抜けようとしたが、西浦くんの言っていたことはだいたいあっていた。
もちろん、営業だと分かっていたのにいじけたのは俺だ。そこは紛れもない事実で、今すぐに隠蔽したい、記憶から消したいことだった。
「キスしてません」
「わかってる! わかってるってば!!」
あの時だって、キスしようとしてしてくれなかったのは、俺たちの関係がまだ次の段階に進むには早かったからっていう理由と、きっと西浦くんがそういうのに慣れていないからっていう理由だったのだろう。
彼もキス初心者で、俺もキス初心者だと。まだ俺たちのファーストキスは散っていない。
(うん、うん。だから、ゆっくりでもいいんだよ)
西浦くんがその気になってくれた時に、俺もしたい。
でも、そんな俺の態度が気に食わなかったのか、拗ねたようにぷくっと頬を膨らました西浦くんは、何かを思い出したようにポケットをまさぐった。
「キャンディー?」
彼の胸ポケットから出てきたのはリンゴのイラストが印刷されたキャンディーだった。それをどうするのかと眺めていれば、彼は封を開け、俺の口にポンと押し込んだ。
「ん? ……っ!?」
そして、次の瞬間彼は俺の唇を奪いキスをする。
「れ、れぇくんっ」
「これが、俺のファーストキスです。これからも、俺の初めて全部先輩に捧げます」
「へぇっ……んんっ、んっ!!」
ファーストキスと言いながら、思い切り深いキスをしてくる西浦くんに、抵抗も何もできなかった。
彼に後頭部を押さえられ、口の中のキャンディーを転がしながらキスをされる。変なところで大胆になる西浦くんは本当に心臓に悪い。もしかしたら、俺がキスを後回しにしようと舌から、ちょっと拗ねているのかもしれない。
西浦くんもキスしたかったんじゃないだろうか。
(あ、甘い……っ)
ファーストキスはレモン味というが、俺たちのファーストキスはリンゴ味だ。
角度を変えてむさぼられ、口の端からは甘い蜜のような唾液が垂れる。
西浦くんに翻弄され、されるがままになっていた。その後、ようやく離れた西浦くんと俺の間には水あめのような糸が伸びぷつんと切れる。
口の中に残っていた欠片のようなリンゴのキャンディーを、ごくんと飲み込んでしまう。
「の、飲んじゃった」
「大丈夫ですか、真緒先輩」
「う、うん……というか、澪くんいきなり大胆すぎるよ」
「だって、先輩が俺とのキスどうでもいいみたいに言うから」
「言ってないよ……もう、びっくりした。こういうのって順を追ってとかじゃない、の」
「でも、これで俺とのファーストキス忘れませんよね」
「ちょっと拗ねてる?」
西浦は頑なに「拗ねていません」という。その言い方がかわいくて、俺が頬に「えいっ」とキスをすれば、西浦くんは見る見るうちに耳まで真っ赤になる。彼は、口を金魚のようにパクパクとさせ俺がキスしたところに手を当てていた。
やっぱり、西浦くんは西浦くんだ。
「ふはっ」
「も、もう、先輩心臓に悪いです」
「さっき、俺に深いキスした人が言う言葉じゃないよ」
「真緒先輩が、好きで仕方がないから……それと、昨日からずっと言おうと思っていたんですけど」
西浦くんはそう言いながら、俺の被っていたウィッグをとる。
そういえば、俺はメイド服のまま出てきてしまったなと今更思い出した。制服の西浦くんとメイド服の俺、なんだかアンバランスだ。
ウィッグをとった西浦くんは、俺のフワフワの髪の毛を優しく撫でる。
「俺は、ウィッグしている先輩より、こっちのほうが自然で、すげえかわいいと思います」
「タイプ」と小さい声で言うと、西浦くんはごまかすように頭を撫で続けた。
また、西浦くんから言われたかわいいに、胸がギュンギュンとしてしまう。西浦くんにならかわいいといわれても嫌じゃないのは知っていたが、今のは破壊力が強すぎた。
「澪くん、そういうとこ」
「どういうことですか?」
「もーいい。澪くん、もう一回キスして」
「え!? ど、どうして」
「甘かったから、好き……ううん、俺からする。キスしよう。澪くん」
受け身はダメだ。俺から行かなきゃ。
まあ、攻めると西浦くんがたじたじになってしまうが、そんな彼をみれるのは恋人の特権だからいい。
俺が顔を近づければ、西浦くんは逃げ道を探したが、覚悟を決めたのか唇を突き出した。それから触れるようなキスをする。
まだ、リンゴの味が残っていて、二回目のキスもとても甘かった。
空き教室の窓から差し込む光はまた暖かなオレンジ色になっていて、俺たちを祝福するように優しく照らしていた。
◇◇◇
文化祭が開けてすぐにテスト期間がやってくる。
右田くんは「一生文化祭が続けばいいのにー」とぼやき、授業終わりに返ってきた赤点の小テストに口をあんぐり開けていた。それはどうやら伊佐治くんも同じようで「まーちゃん、今度マンツーマンで教えてくれね?」とこっそり聞いてきた。
「おい、伊佐治!! 抜け駆けは禁止だからな!!」
「抜け駆けじゃねえし。じゃあ、バカ右田も頼めばいいだろ!?」
(今日も二人はいつも通りだな)
俺の席の前で言い争っているこの光景はもう見慣れたものだった。
チャイムが鳴り、二人はその場で号令と共に前を向いて挨拶をする。右田くんは、点数を上げてもらえないかとチャレンジしようとしたが、すぐに先生が出ていったことで敵わなくなってしまった。
「伊佐治くん、一応『恋人』に聞いてからね?」
「う……絶対だめなやつだろそれ。だって、まーちゃんの恋人、忠犬から番犬にシフトチェンジしたじゃん」
「ずっとかわいいと思うんだけどな」
そう思っているのはまーちゃんだけ、と指摘されてしまい首をかしげるしかなかった。
右田くんは「はあ!? 間中に恋人!?」と気づいていないようだ。そんな右田に「これだからバカ右田は」と言われていたが、俺の恋人についてはそれ以上言及しなかった。
「お、俺たちの間中に恋人が……間中誰なんだよ!! その恋人ってのは!!」
「えーっと」
そのタイミングで教室の後ろ扉が開き、教室が「うわっ」というような雰囲気になる。
「なあ、間中恋人! 教えてくれよ」
「――その恋人、俺です」
「澪くん」
うわああああ! と、右田くんは鼓膜が破れそうな悲鳴を上げ飛びのく。
西浦くんはそれを聞いて、とても嫌そうに顔をしかめていた。
「に、西浦があああ!?」
「先輩。今日も早く終わってくまちゃんパン手に入れました」
「すごい。澪くんって、激運持ちだね」
「先輩のこと思ってダッシュしました。二人きりで食べたいです」
少し甘えたような声で西浦くんはそう言うと、俺の手をそっと握る。そういうことはやっぱり、無意識でやってしまうのだろうか。
触られた手が熱く、俺はこくりこくりと頷くことしかできなかった。
後ろで喚き散らかす右田くんに、伊佐治くんがチョップをかまして「シャラップ右田」と注意している。そんな二人を置いて、西浦くんと教室を抜け出す。
◇◇◇
俺たちが初めて一緒に食べた校舎裏にも秋が訪れ、西浦くんが退かそうとしていた石の上に赤とんぼが止まっていた。
二人でコンクリートの校舎の壁に背を預け、しゃがみ込む。西浦くんは俺がお弁当を広げている間にくまちゃんパンの耳をちぎっていた。
「急に寒くなりましたね。先輩、寒くないですか?」
「平気。こう見えて俺、寒さ強いんだよね……くしゅんっ」
言ったそばからくしゃみをしてしまい、まったく説得力がない。「今のは鼻がむずむずしただけ」とごまかす。俺のくしゃみでとまっていた赤とんぼはどこかへ飛んで行ってしまった。
「それよりも、澪くん。今度の土曜どこに行きたい?」
「ハロウィンの季節なので、また甘いもの……限定スイーツ食べに行きたいです」
「いいね。ハロウィンのアフタヌーンティーってあるのかな」
「調べてみます」
甘いもののことになると反応速度がいつもの三倍増しになる。
すぐにスマホを取り出し調べようとしたが、彼は何故かポケットに戻して俺のほうを見た。
「どうしたの?」
「いや、先輩といるのにスマホ見るのはなんか違うなーって思って」
「俺のこと好きだね」
「当たり前です。ずっと前から好きでした」
「う、うん、ありがとう」
本気ですよ? と、西浦くんは俺の反応に対して物申してきた。もちろん、分かっている。
そして、俺が食べるときジッと見つめてくるのもあの頃から変わっていない。むしろちょっとエスカレートしている。そんなに見つめられると食べられないんだよな、と思っているが、俺が幸せそうに食べているのを見て、少し頬を緩ませて食べる西浦くんが見えるのでそこは役得だと思う。
西浦くんにとって食事の時間は苦痛だったというが、今ではそんなことを感じさせないほど楽しそうに食べてくれている。眉間に寄っていたしわも前よりも浅い気がする。
弁当箱を開ける。中には煮物や白身魚が入っている。昨日おばあちゃんと一緒に作ったやつだ。
その中でも、かぼちゃの煮つけを箸でつまんで西浦くんのほうに持って行く。
「かぼちゃの煮つけ作ったんだ、よかったら食べる?」
「はい。真緒先輩の手作りなら何でも」
西浦くんはそう言って、ぱくりと一口で食べる。大きな一口はいつ見ても圧巻だ。
しばらくの咀嚼の後、ごくんと大きな喉ぼとけが上下する。
「すげえ美味しいです。毎日食べたい……先輩、俺に毎日味噌汁作ってください」
「えっ、う、うん。ずっと一緒にいようね」
「え、あ……はい。責任取って一緒にいます」
自分で言ったくせに、たじろぐ西浦くんを見ているとさらに恥ずかしくなっていく。
俺たちはいつもこんな感じだ。でも、このかけがえのない時間がとても幸せで、甘くて溶けそうになる。
西浦くんは頬をかきながら、もう片手でくまちゃんパンの耳をくれる。黒いくまちゃんパンの耳からは美味しそうなカスタードクリームが覗いた。
俺はそのくまちゃんパンの耳にかぷっとかぶりつく。俺はいつも一口が小さめだ。
西浦くんはそんな俺を横から幸せそうに見ていた。
「んんんっ!! すごく美味しい。澪くんと食べてるからかな」
今日も俺は幸せだ。
きっとこれからも、二人で一緒に時間を過ごして、美味しいものと、幸せな思い出をたくさん作っていくんだと思う。
フッと優しく微笑んだ、西浦くんは「ついてます」と長い指を伸ばし、口についたカスタードクリームを拭って、ぺろりと舐める。
「先輩、すごくかわいいです」
「あ、ありがとう」
あの日と同じだ。
俺は照れ笑いを返しながら、もう一度「ありがとう」と彼に伝えたのだった。



