「西浦くん、用事って……」
「わ、ほんとに来た」
HRが終わった後に西浦くんから『昼休み一年五組の教室に来てください』というメッセージが入った。
西浦くんかとは日ごろから連絡を取り合っているが、彼から自分の教室に誘うのは珍しかった。そんなこともあり、一年生の教室に足を運ぶと扉を開けた瞬間に西浦くん――ではなく、東田くんと目が合った。
東田くんは西浦くんと同室のちょっとチャラい一年生だ。
彼は俺を見つけると「こっち、こっち」と手招く。東田くんと、他にも二人の計三人が西浦くんを取り囲んで逃がさないようにしている。
「東田くん……だよね。どうしたの?」
「先輩、すんません。こいつが勝手にメッセージ送りました」
「ネタばらし早っ!? まあ、そういうことなんすよーせーんぱい」
東田くんはパチンとウィンクをした。でも、俺には何が何だかわからず首をかしげる。
また、西浦くんの様子を見ると、俺がここに来るのをあまり歓迎していないようだ。
「ほぉ~ん、やっぱり近くで見るとすげえかわいいな。先輩。俺、男もいけるんでお近づきに――いてえええ! 西浦、腕、腕折れる!」
「先輩に手ぇ出したらお前のソレもぐからな」
「よ、容赦ねえ……」
「先輩に謝れよ」
「いや、実際西浦、先輩と食べる予定だったんだろ? いーじゃん。今日はここで食べてもらったら」
西浦くんは、東田くんの腕をひねり上げており、他二人もやれやれといった感じに見ていた。
「えっと、これは。俺、どうすればいいかな?」
「先輩、弁当持ってきたんですよね。俺と食べましょう……はあ、先輩がよければこいつらも」
「おまけみたいに言うな~?」
東田くんはウリウリと西浦くんの肩を組んでつつき始めた。まるで、右田くんみたいだな、と思って西浦くんを見れば、心底嫌そうな顔で歯を食いしばっていた。
「俺は大丈夫だよ。それに、西浦くんが他の友だちと一緒にいるところ、あの日以来に見るから」
「はあ~っ!! 西浦、お前ボッチだって思われてやんの」
「東田、お前うるさい。南川も北嶋も、黙ってみてないでこいつ黙らせてくれ」
西浦くんは、後ろに立っていた高身長で爽やかな男子と、これまたモデルのような体形で小顔な男子に声をかけていた。
二人がどうやら噂に聞く南川くんと北嶋くんらしい。
わちゃわちゃと取っ組み合っているような様はまさに男子だと思ったし、西浦くんがいつにもまして年相応に見えた。
その後、西浦くんは東田くんを無視しながら、残りの二人と俺が座る席をと五つ机を合わせて場所を作ってくれた。
俺はその間、教室を見るなりして時間を潰していた。
「間中先輩どこ座ります?」
「やっぱり、お誕生日席じゃね?」
「東田、お前黙ってろって言ったよな……先輩、俺の隣どうですか?」
とにかく、東田くんは西浦くんにちょっかいをかけないと気が済まないのか、俺をお誕生日席に誘ってきた。しかし、西浦くんのフォローもあり、そこに座ることなく西浦くんの隣に座ることとなった。ちなみに、お誕生日席は東田くんが座ってる。
「西浦お前、先輩のこと好きすぎだろ」
「先輩を、東田みたいな毎週彼女が変わるようなやつの近くに座らせられない」
「彼女変ってるんじゃねーの。女友達」
東田くんはそう言いながら机に大量のパンを置いた。菓子パンからハードパンまでバリエーションは豊かだ。
一方西浦くんは水曜日ということもあってあのくまちゃんパンをゲットしてきている。
「すんません、こいつうるさくて」
「いいよ。それに、仲良さそうで賑やかで楽しい」
右田くんと伊佐治くんもずっと喋っているが、ここではずっと東田くんが喋っている。でも、話題を吹っ掛けられても全部西浦くんがガードしてくれるし、変な質問には答えなくていい。
南川くんも北嶋くんも気を聞かせて俺にいろんなことを聞いてくれている。夏休み明けに進路希望調査を出すらしいので、文系か理系か迷っているので相談に乗ってほしいとも言われた。
後輩に慕われている先輩という感じがして、居心地がとてもいい。
あの二人が、恋人持ちですかしている奴らだ、なんて散々なことを言っていたがまったくそんな印象は受けなかった。
(あ、そうだ……)
俺は、みんなとの食事を楽しみながらあることを思い出し、こそっと西浦くんに耳打ちをする。
「西浦くん、今週の土曜日とかあいてない?」
「今週の土曜日ですか? えっと、その日は――」
「まーなか先輩! こいつ、空いてる!! な、お前ら!」
西浦くんが答える前に、東田くんが身を乗り出し口をはさむ。彼が親指をグッと立てると、あわせるように南川くんと北嶋くんも首を縦に振って、グッと親指を立てた。
「お前ら……」
「西浦くん何か用事あった?」
「いいえ、何もありません。予定空けとくんでまた内容送ってください」
ペコリ、と丁寧に頭を下げ西浦くんはそういった。そんな彼の背中をベシンベシンと東田くんが叩いている。
「よかったな~西浦」
「……チッ、頼んでもないお膳立てして」
西浦くんは何やら気に食わない様子だったが、俺は断られなくてよかったと胸をなでおろす。
(この間の熱中症の時のお礼がしたいんだよね)
俺が考えていることがお礼になるかどうかは分からないし、何だったら俺のほうが楽しみになってしまっている。
「西浦くん、当日までのお楽しみね」
「ん? 何かよくわかりませんが、はい。楽しみにしています」
きょとんとした顔でこちらをみた西浦くんに、ついふふっと思わず笑みをこぼしてしまった。
◇◇◇
「家、おっきいっすね」
土曜日、駅前で待ち合わせをした西浦くんを俺は自宅まで連れてきた。
ギリギリまでどこに行くか伝えず、サプライズ的な意味で彼を引っ張ってきたのだが、彼は道中嫌がるそぶりを一切見せなかった。そして、俺の家――おばあちゃんの家を前に感嘆の声を漏らしていた。
「うん。俺の部屋は二階」
「……先輩、の、部屋」
「俺、この間熱中症で倒れたでしょ? そのときのお礼がしたくて……ああ、あと、普通に一回家に来てほしかった」
「な、何でですか。というか、言ってくれればもっとなんか、お土産とか持ってきたのに」
「そんなのいいって。ほら、入ろう」
グイグイと彼の大きな背中を押し、玄関へと向かう。
西浦くんはいつにもましてカチコチと身体が固まっていた。筋肉もあるし、まるで石のようだ。
今日誘ったのは、もちろんあの時のお礼がしたかったのと、仲のいい後輩を家族に紹介したかったからだ。といっても、今家にいるのはおばあちゃんだけだ。
西浦くんは「お邪魔します」と低い声で言って玄関で靴を脱ぐ。それから、俺に連れられリビングへと向かう。
リビングにはすでにおばあちゃんがいて、俺と西浦くんに気づくと「よくきたねえ」とスッと立ち上がって会釈をする。つられて西浦くんもぎこちなく挨拶を返した。
「真緒から話はそれはもうたくさん聞いてるよ。かっこいい後輩ができたって。毎日君の話で盛り上がってぇ」
「も、もう、おばあちゃん、い、いいから! に、西浦くん」
「は、はい。何ですか。先輩」
「今のは聞かなかったことにして」
キッと西浦くんを見れば、半開きになった口をぎゅっと閉じて「嫌です」と真顔で返されてしまった。
確かに、俺は毎日のように西浦くんの話をしているが、本人の前でそれをばらされるのはさすがに恥ずかしかった。おばあちゃんはうふふと笑いながら「若い者二人で」と部屋へと帰っていく。
「何で聞かなかったことにしてくれないの」
「先輩が、俺の話いっぱいしてくれてるって嬉しくなっちゃったので」
「だって西浦くん、毎日一緒に食べるだけなのに、いっぱい面白いこと話してくれるし。家での話題、尽きないよ」
家に上がってもらって早々こんなことがバレるとは思わなかったが、西浦くんはまんざらでもない顔をしている。
そんな西浦くんを見ていると恥ずかしくなってきたので、今日彼をここに呼んだ最大の理由、したいことを始めようと取り掛かることにした。
キッチンで手を洗い、冷蔵庫から朝切り分けたフルーツが入ったボールを持ってくる。リビングとキッチンは併設しているので、何度か往復し、具材を全部テーブルに置いて俺専用のエプロンを装着した。
「先輩、これは?」
「クレープ……」
「え?」
「今日は、西浦くんとクレープ作るために呼んだ。お礼になるか分からないけど、一緒に甘いもの作って食べれたらなって思って。張り切って準備しちゃった」
ダメかな? と西浦くんを見れば、彼はフハッと今までで一番大きく噴き出した。
「ははっ、あははっ……いや、ダメじゃないです。全然ダメじゃないです。でも、ちょっと、予想外すぎて。すげえ嬉しくて」
喜んでくれているのだろう。
腹を抱え笑い続ける西浦くんを前に、どう反応すればいいか困ってしまい、口を開閉し続ける。西浦くんはずっと笑っていて、目に生理的な涙が浮かんでいた。
そんな西浦くんを前に、俺はこの間通販で買ったクレープメーカーという丸いフライパンのようなものを掲げて見せる。
「た、楽しみすぎて、クレープ専用の機械も買っちゃった」
「なんか俺、今からそれでなぐられるんです?」
「い、意外と軽いよ」
「間中先輩、準備万端すぎます。けど、そんなお礼って。そこまでしてもらうようなことしてませんよ」
「いや! 単純に、俺が西浦くんとクレープ食べたかったから。あと、君のこと家に呼びたかった」
「……っ、ちょっとそんなこと言われたら期待しますよ」
「西浦くん、何か言った?」
「いーえ、何にも。嬉しくて、お腹も減ってきたので早くやりましょ」
西浦くんは何かをごまかすようにそう言ってキッチンで手を洗いに行った。
俺はそんな彼の背中を見つめてから、彼が手を洗っている間に卵と牛乳を入れようと準備を始める。
「でも、こんなものがあるんですね」
「均一に焼けるのが魅力。こうやって、プレートのほうを生地になる液体に浸して……こう!」
「なるほど、これならフライパンでひっくり返すよりも楽そうですね」
俺が実践してみせると、感心したように西浦くんは声をあげる。また、横からその様子を覗いていた。少し近くて耳に彼の息がかかるので、くすぐったくてあまり集中できない。
(ち、近いよ。西浦くん)
いつもより距離が近い気がする。
「ジャ、ジャンジャンやるよ! 西浦くんは甘党だからって、張り切ってたくさん具材も準備したから!」
一枚焼けたらすぐにお皿に移して二枚目を焼く。ヘラでぺらりとはがれる感覚が何とも楽しい。
西浦くんには、盛り付けを頼み、俺は液体がなくなるまでクレープを焼き続けた。その枚数はゆうに三十枚は越えてしまい、そういえばそんなに食べれないかもと思ったころには、五十枚に到達した。さすがに焼きすぎてしまった。
西浦くんのほうも、クレープを巻くのに手間取っているらしく、業務用の生クリームを机に飛ばして何度も机に謝っていた。
「――お、終わった」
「すごい焼きましたね。一週間クレープ生活できそうです」
「そのうちに腐ったらどうしよう」
「俺持って帰りますよ。タッパーとか……近くにスーパーありましたよね。それ買って持って帰ります」
「東田くんたちと食べるの?」
俺がそう聞くと、彼はその発想はなかったというように目を丸くした。
「いえ、俺が一人で全部食べます」
「すごい量だよ?」
「先輩と一緒に作ったんですから、俺が責任もって食べます。あいつらには食わせません」
必死になって言うので、うん、と頷くことしかできず、目の前の大量に積まれたクレープに視線を移した。我ながら張り切りすぎた気がする。
俺は、西浦くんが作ってくれたちょっと歪な巻き方のクレープを手に取った。中にはバナナとチョコとカスタードが入っている。
「先輩って何が好きですか?」
「食べ物? 基本的に何でも好きだよ。でも、最近は西浦くんと一緒にいるから甘党になってるかも」
酸っぱいものから辛いものまで何でもいける。昔から偏食はなく、むしろ進んで子どもが食べないようなものを食べていた記憶がある。
だが、これと言って好きなものがあるかと言われたら思いつかなかった。
最近は、西浦くんと一緒に食べているから、彼と一緒に食べるものが好き、記憶に残っているという感じだろか。
西浦くんを見ると、嬉しそうに頬をほころばせていた。
「もう少ししたら、おばあちゃんが夕ご飯の準備はじめると思から俺の部屋に持って行って食べよう。西浦くんジュース何がいい?」
「もう夕飯の支度ですか。早いですね。じゃあ、フルーツ系ありますか?」
「野菜ジュースならあるよ」
「じゃあ、それでお願いします」
野菜はフルーツ系じゃないな、と思ったが中にフルーツが入っているやつもあるだろう。
俺は、戸棚からコップを二つ出してパックの野菜ジュースをなみなみと注ぎ入れる。それから、大きなお盆にコップとクレープを乗せる。残ったクレープにはラップをかけて冷蔵庫に入れた。
「俺が持ちますよ」
「大丈夫だよ。これくらい……危なっ」
「お、俺が持ちますから。先輩は、部屋まで案内してください」
「面目なさすぎる……」
お盆を持って立ち上がった瞬間に滑りそうになった。思った以上に重たくて手がプルプルもしていた。
代わりに西浦くんが持ってくれることとなり、俺が自分の部屋まで案内することとなる。
二階へと上がり、一番奥の部屋の扉を開ける。部屋の中には、部屋にはベッドと勉強机、クローゼットがあり、昨日のうちにきれいに整頓しておいた。
「あんまり広くないけど。あ、西浦くん、お盆はこの机に置いて」
部屋の中央にある机にお盆を置いてもらい、そのうちに俺は彼が座るようのクッションを持ってくる。
西浦くんは、部屋の中をキョロキョロと見渡しており少し落ち着かない様子だ。
「そういえば今日、もともと何か予定はいってなかった?」
「またラーメン食べに行かないかって誘われてました。替え玉が学生料金で安いところに。まあ、いつものメンバーで」
「よかったの?」
「俺、甘党ですし。あと、これは関係ない話なんですけど。この間あいつら寮にデリバリーのピザ頼んでて、俺まで一緒に怒られました」
「青春だね」
寮は基本的にそういったサービス類は禁止だ。学校近くにチェーン店はいくつもあるのでそこまで歩いていけばいいのだが、ピザを頼む猛者がいたなんて驚きだった。
俺は、西浦くんから聞かされるエピソードに笑いながらクレープを食べ始める。彼が作ってくれたクレープには、大量の生クリームが入っており、キャラメルソースがかけられているものや、チョコチップがかかっているものとバリエーション豊かだった。西浦くんが甘党だとよくわかる盛り付けに、見ているだけでしたが甘みを感じるほどだ。
それをゆっくりと頬張り、時々野菜ジュースを飲む。とても幸せな時間だった。
そんな俺をじっと見つめている西浦くんは、コップの縁をなぞりながら口を開く。
「だから全然、間中先輩気にしなくていいですよ。俺、先輩と一緒にいるの好きですから」
「本当?」
「俺、先輩に対しては真摯に向き合ってます。先輩と一緒に食事をとるこの時間が、すごい好きです。それに――」
彼の長い指がスッと俺の口元へと伸びる。
「……っ、にし、うら、くん」
「一口がちっちゃい先輩がおいしそうに頬張っているところ見るの、すげえ興奮するんで」
彼は、俺の口の端についた生クリームを指で拭い、それをぺろりと舐めとり、不敵に微笑んだ。
それは出会ったあの日にされたことと同じことだった。でも、あのときよりも心臓が痛いくらいに跳ね上がる。
(て、てか、今興奮って言った!?)
聞き間違いだろうか。西浦くんのほうを見れば、彼も涼しい顔をしているし、きっと聞き間違いだろう。それとも自分が言ったことに気づいていないのだろか。
頭の中がぐるぐると回っていき、ちょうど床についた手がつるんと滑った。
「――先輩っ!?」
何かにつかまろうと思わず西浦くんにい手を伸ばす。だが、彼の服を掴んだまま結局のけぞり、同時に机にガンと肘をぶつけてしまった。
「い……てて……西浦くん、ごめん、俺……っ」
ギュッと閉じていた目を開き、飛び込んできたのは真っ赤になって俺を押し倒している西浦くんの顔だった。
(西浦くん?)
照明の明かりが背中に当たって、彼の顔は少し暗くなっている。それでも、西浦くんの顔が真っ赤になっていることにはすぐに気が付いた。
形のいい唇をきゅっと噛んで、何度か小さく喉を上下させる。何かに堪えるような表情に、真剣な黒い瞳が俺を射抜いて離さなかった。
俺は今、西浦くんに押し倒されている。
「先輩、大丈夫ですか。あと、ごめんなさい」
「いいよ、謝らなくて」
「す、すぐ退くので……うっ」
情けない声を上げ、俺の真横にあった手がずるりと滑り落ちた。それまでプルプルと震えていて、自分の体重を押さえるのも苦しそうだったので、それが今崩壊した感じた。
さらに西浦くんの顔が近づき、鼻と鼻がぶつかっている。もう少し動けば、彼の唇と俺の唇が当たってしまう距離にある。西浦くんの存在がいつもより近くに感じられ、心臓の音が相手に聞こえるんじゃないかと思うくらい早鐘を打っている。
「間中先輩……」
「う、うん、西浦くん……」
「かっこ悪いこと言っていいですか」
「え、うん。いいよ?」
「………………足つりました」
「へ?」
西浦くんはまた情けなく顔をしかめ、申し訳なさそうに眉間にしわを寄せながら八の字眉になる。
今は肘で身体を支えるプランクのような姿勢になっており、先ほどより苦しそうだ。そのうえ、足がつっているらしく身体は小刻みに震えている。
そんな状態でも、彼は俺にのしかかることなく耐えているようで、この隙間から抜け出したほうが彼のためになるんじゃないかと思うくらいだった。
(でも、動いたら口、当たっちゃうよ)
「に、西浦くん。そのままキープできる?」
「う、嘘!? でしょ……俺、このまま……っ」
「だ、だって、このままだったら、俺たち、キス……しちゃうよ」
「……っ!?」
なるべく唇を奥に引っ込めて見たが、それでも鼻と鼻がぶつかっている状況は改善されない。上からかかる彼の吐息に、俺のフワフワした髪に、彼のしっとりとした前髪が絡み合う。見つめ合っていたらおかしくなりそうだ。
部屋のエアコンは入れたはずなのに、体中が熱い。
西浦くんはたじたじになって、目を回していた。だが、対処方法が見つからないのだから仕方がない。
「でも、無理です。ちょ、このままキープとか」
「じゃあ、キス、する?」
「え、あ、え……まな、間中先輩……」
「………………西浦くん、したそうにみえる。キス、するのかと思った」
俺がそう言うと、西浦くんはガバッと体を起こしぶんぶんと首を横に振った。
それは一瞬のことで、足がつっていたという割にはすぐに離れたので驚いてしまった。俺は倒れたまま西浦くんを見上げている。
(あ、俺、何言ってんだろ)
彼が離れてから、自分の唇に触れる。少しクリームでべたつく唇はちょっとカサカサだ。
(――違う。俺がしてほしかったんだ。あんな目で見られて……俺、西浦くんも同じ気持ちかもって、勝手に思っちゃった)
必死になって俺を見つめる目。
いつもはクールで、でも甘党で、口数が少ない大型犬みたいだけど。でも、押し倒されたあの瞬間の彼の表情は獲物を狙う獣のような目をしていた。
(俺、西浦くんとキスしたいって……俺、西浦くんのこと……)
俺はゆっくりと体を起こし、机の上を見る。
「ああっ!! クレープ、びたびただ……」
俺が肘をぶつけた拍子に野菜ジュースの入ったコップが倒れてしまったらしく、西浦くんが盛り付けてくれたクレープの乗った皿にオレンジ色が広がっていた。クレープもべちゃべちゃになっており、あたりには野菜の匂いが広がっていた。
「……食べますよ。俺」
同じく呆然と眺めていた西浦くんはそう言うと、スッとフォークを手に取りべちゃべちゃな生地を持ち上げ、ぱくりと食べた。
「うん、美味しい。間中先輩、ニンジンの味もします」
西浦くんはそんなフォローをいれつつ、美味しい、ともう一口食べていた。彼の一口はやはり大きく、どんどんとオレンジ色のクレープが彼の口に吸い込まれていく様を俺は見つめていた。
それから、俺も小さく切り分けたクレープを一口食べる。
(……甘くて、野菜の酸っぱい味がする)
けど、二人で作ったクレープだからかとても美味しく感じた。
「わ、ほんとに来た」
HRが終わった後に西浦くんから『昼休み一年五組の教室に来てください』というメッセージが入った。
西浦くんかとは日ごろから連絡を取り合っているが、彼から自分の教室に誘うのは珍しかった。そんなこともあり、一年生の教室に足を運ぶと扉を開けた瞬間に西浦くん――ではなく、東田くんと目が合った。
東田くんは西浦くんと同室のちょっとチャラい一年生だ。
彼は俺を見つけると「こっち、こっち」と手招く。東田くんと、他にも二人の計三人が西浦くんを取り囲んで逃がさないようにしている。
「東田くん……だよね。どうしたの?」
「先輩、すんません。こいつが勝手にメッセージ送りました」
「ネタばらし早っ!? まあ、そういうことなんすよーせーんぱい」
東田くんはパチンとウィンクをした。でも、俺には何が何だかわからず首をかしげる。
また、西浦くんの様子を見ると、俺がここに来るのをあまり歓迎していないようだ。
「ほぉ~ん、やっぱり近くで見るとすげえかわいいな。先輩。俺、男もいけるんでお近づきに――いてえええ! 西浦、腕、腕折れる!」
「先輩に手ぇ出したらお前のソレもぐからな」
「よ、容赦ねえ……」
「先輩に謝れよ」
「いや、実際西浦、先輩と食べる予定だったんだろ? いーじゃん。今日はここで食べてもらったら」
西浦くんは、東田くんの腕をひねり上げており、他二人もやれやれといった感じに見ていた。
「えっと、これは。俺、どうすればいいかな?」
「先輩、弁当持ってきたんですよね。俺と食べましょう……はあ、先輩がよければこいつらも」
「おまけみたいに言うな~?」
東田くんはウリウリと西浦くんの肩を組んでつつき始めた。まるで、右田くんみたいだな、と思って西浦くんを見れば、心底嫌そうな顔で歯を食いしばっていた。
「俺は大丈夫だよ。それに、西浦くんが他の友だちと一緒にいるところ、あの日以来に見るから」
「はあ~っ!! 西浦、お前ボッチだって思われてやんの」
「東田、お前うるさい。南川も北嶋も、黙ってみてないでこいつ黙らせてくれ」
西浦くんは、後ろに立っていた高身長で爽やかな男子と、これまたモデルのような体形で小顔な男子に声をかけていた。
二人がどうやら噂に聞く南川くんと北嶋くんらしい。
わちゃわちゃと取っ組み合っているような様はまさに男子だと思ったし、西浦くんがいつにもまして年相応に見えた。
その後、西浦くんは東田くんを無視しながら、残りの二人と俺が座る席をと五つ机を合わせて場所を作ってくれた。
俺はその間、教室を見るなりして時間を潰していた。
「間中先輩どこ座ります?」
「やっぱり、お誕生日席じゃね?」
「東田、お前黙ってろって言ったよな……先輩、俺の隣どうですか?」
とにかく、東田くんは西浦くんにちょっかいをかけないと気が済まないのか、俺をお誕生日席に誘ってきた。しかし、西浦くんのフォローもあり、そこに座ることなく西浦くんの隣に座ることとなった。ちなみに、お誕生日席は東田くんが座ってる。
「西浦お前、先輩のこと好きすぎだろ」
「先輩を、東田みたいな毎週彼女が変わるようなやつの近くに座らせられない」
「彼女変ってるんじゃねーの。女友達」
東田くんはそう言いながら机に大量のパンを置いた。菓子パンからハードパンまでバリエーションは豊かだ。
一方西浦くんは水曜日ということもあってあのくまちゃんパンをゲットしてきている。
「すんません、こいつうるさくて」
「いいよ。それに、仲良さそうで賑やかで楽しい」
右田くんと伊佐治くんもずっと喋っているが、ここではずっと東田くんが喋っている。でも、話題を吹っ掛けられても全部西浦くんがガードしてくれるし、変な質問には答えなくていい。
南川くんも北嶋くんも気を聞かせて俺にいろんなことを聞いてくれている。夏休み明けに進路希望調査を出すらしいので、文系か理系か迷っているので相談に乗ってほしいとも言われた。
後輩に慕われている先輩という感じがして、居心地がとてもいい。
あの二人が、恋人持ちですかしている奴らだ、なんて散々なことを言っていたがまったくそんな印象は受けなかった。
(あ、そうだ……)
俺は、みんなとの食事を楽しみながらあることを思い出し、こそっと西浦くんに耳打ちをする。
「西浦くん、今週の土曜日とかあいてない?」
「今週の土曜日ですか? えっと、その日は――」
「まーなか先輩! こいつ、空いてる!! な、お前ら!」
西浦くんが答える前に、東田くんが身を乗り出し口をはさむ。彼が親指をグッと立てると、あわせるように南川くんと北嶋くんも首を縦に振って、グッと親指を立てた。
「お前ら……」
「西浦くん何か用事あった?」
「いいえ、何もありません。予定空けとくんでまた内容送ってください」
ペコリ、と丁寧に頭を下げ西浦くんはそういった。そんな彼の背中をベシンベシンと東田くんが叩いている。
「よかったな~西浦」
「……チッ、頼んでもないお膳立てして」
西浦くんは何やら気に食わない様子だったが、俺は断られなくてよかったと胸をなでおろす。
(この間の熱中症の時のお礼がしたいんだよね)
俺が考えていることがお礼になるかどうかは分からないし、何だったら俺のほうが楽しみになってしまっている。
「西浦くん、当日までのお楽しみね」
「ん? 何かよくわかりませんが、はい。楽しみにしています」
きょとんとした顔でこちらをみた西浦くんに、ついふふっと思わず笑みをこぼしてしまった。
◇◇◇
「家、おっきいっすね」
土曜日、駅前で待ち合わせをした西浦くんを俺は自宅まで連れてきた。
ギリギリまでどこに行くか伝えず、サプライズ的な意味で彼を引っ張ってきたのだが、彼は道中嫌がるそぶりを一切見せなかった。そして、俺の家――おばあちゃんの家を前に感嘆の声を漏らしていた。
「うん。俺の部屋は二階」
「……先輩、の、部屋」
「俺、この間熱中症で倒れたでしょ? そのときのお礼がしたくて……ああ、あと、普通に一回家に来てほしかった」
「な、何でですか。というか、言ってくれればもっとなんか、お土産とか持ってきたのに」
「そんなのいいって。ほら、入ろう」
グイグイと彼の大きな背中を押し、玄関へと向かう。
西浦くんはいつにもましてカチコチと身体が固まっていた。筋肉もあるし、まるで石のようだ。
今日誘ったのは、もちろんあの時のお礼がしたかったのと、仲のいい後輩を家族に紹介したかったからだ。といっても、今家にいるのはおばあちゃんだけだ。
西浦くんは「お邪魔します」と低い声で言って玄関で靴を脱ぐ。それから、俺に連れられリビングへと向かう。
リビングにはすでにおばあちゃんがいて、俺と西浦くんに気づくと「よくきたねえ」とスッと立ち上がって会釈をする。つられて西浦くんもぎこちなく挨拶を返した。
「真緒から話はそれはもうたくさん聞いてるよ。かっこいい後輩ができたって。毎日君の話で盛り上がってぇ」
「も、もう、おばあちゃん、い、いいから! に、西浦くん」
「は、はい。何ですか。先輩」
「今のは聞かなかったことにして」
キッと西浦くんを見れば、半開きになった口をぎゅっと閉じて「嫌です」と真顔で返されてしまった。
確かに、俺は毎日のように西浦くんの話をしているが、本人の前でそれをばらされるのはさすがに恥ずかしかった。おばあちゃんはうふふと笑いながら「若い者二人で」と部屋へと帰っていく。
「何で聞かなかったことにしてくれないの」
「先輩が、俺の話いっぱいしてくれてるって嬉しくなっちゃったので」
「だって西浦くん、毎日一緒に食べるだけなのに、いっぱい面白いこと話してくれるし。家での話題、尽きないよ」
家に上がってもらって早々こんなことがバレるとは思わなかったが、西浦くんはまんざらでもない顔をしている。
そんな西浦くんを見ていると恥ずかしくなってきたので、今日彼をここに呼んだ最大の理由、したいことを始めようと取り掛かることにした。
キッチンで手を洗い、冷蔵庫から朝切り分けたフルーツが入ったボールを持ってくる。リビングとキッチンは併設しているので、何度か往復し、具材を全部テーブルに置いて俺専用のエプロンを装着した。
「先輩、これは?」
「クレープ……」
「え?」
「今日は、西浦くんとクレープ作るために呼んだ。お礼になるか分からないけど、一緒に甘いもの作って食べれたらなって思って。張り切って準備しちゃった」
ダメかな? と西浦くんを見れば、彼はフハッと今までで一番大きく噴き出した。
「ははっ、あははっ……いや、ダメじゃないです。全然ダメじゃないです。でも、ちょっと、予想外すぎて。すげえ嬉しくて」
喜んでくれているのだろう。
腹を抱え笑い続ける西浦くんを前に、どう反応すればいいか困ってしまい、口を開閉し続ける。西浦くんはずっと笑っていて、目に生理的な涙が浮かんでいた。
そんな西浦くんを前に、俺はこの間通販で買ったクレープメーカーという丸いフライパンのようなものを掲げて見せる。
「た、楽しみすぎて、クレープ専用の機械も買っちゃった」
「なんか俺、今からそれでなぐられるんです?」
「い、意外と軽いよ」
「間中先輩、準備万端すぎます。けど、そんなお礼って。そこまでしてもらうようなことしてませんよ」
「いや! 単純に、俺が西浦くんとクレープ食べたかったから。あと、君のこと家に呼びたかった」
「……っ、ちょっとそんなこと言われたら期待しますよ」
「西浦くん、何か言った?」
「いーえ、何にも。嬉しくて、お腹も減ってきたので早くやりましょ」
西浦くんは何かをごまかすようにそう言ってキッチンで手を洗いに行った。
俺はそんな彼の背中を見つめてから、彼が手を洗っている間に卵と牛乳を入れようと準備を始める。
「でも、こんなものがあるんですね」
「均一に焼けるのが魅力。こうやって、プレートのほうを生地になる液体に浸して……こう!」
「なるほど、これならフライパンでひっくり返すよりも楽そうですね」
俺が実践してみせると、感心したように西浦くんは声をあげる。また、横からその様子を覗いていた。少し近くて耳に彼の息がかかるので、くすぐったくてあまり集中できない。
(ち、近いよ。西浦くん)
いつもより距離が近い気がする。
「ジャ、ジャンジャンやるよ! 西浦くんは甘党だからって、張り切ってたくさん具材も準備したから!」
一枚焼けたらすぐにお皿に移して二枚目を焼く。ヘラでぺらりとはがれる感覚が何とも楽しい。
西浦くんには、盛り付けを頼み、俺は液体がなくなるまでクレープを焼き続けた。その枚数はゆうに三十枚は越えてしまい、そういえばそんなに食べれないかもと思ったころには、五十枚に到達した。さすがに焼きすぎてしまった。
西浦くんのほうも、クレープを巻くのに手間取っているらしく、業務用の生クリームを机に飛ばして何度も机に謝っていた。
「――お、終わった」
「すごい焼きましたね。一週間クレープ生活できそうです」
「そのうちに腐ったらどうしよう」
「俺持って帰りますよ。タッパーとか……近くにスーパーありましたよね。それ買って持って帰ります」
「東田くんたちと食べるの?」
俺がそう聞くと、彼はその発想はなかったというように目を丸くした。
「いえ、俺が一人で全部食べます」
「すごい量だよ?」
「先輩と一緒に作ったんですから、俺が責任もって食べます。あいつらには食わせません」
必死になって言うので、うん、と頷くことしかできず、目の前の大量に積まれたクレープに視線を移した。我ながら張り切りすぎた気がする。
俺は、西浦くんが作ってくれたちょっと歪な巻き方のクレープを手に取った。中にはバナナとチョコとカスタードが入っている。
「先輩って何が好きですか?」
「食べ物? 基本的に何でも好きだよ。でも、最近は西浦くんと一緒にいるから甘党になってるかも」
酸っぱいものから辛いものまで何でもいける。昔から偏食はなく、むしろ進んで子どもが食べないようなものを食べていた記憶がある。
だが、これと言って好きなものがあるかと言われたら思いつかなかった。
最近は、西浦くんと一緒に食べているから、彼と一緒に食べるものが好き、記憶に残っているという感じだろか。
西浦くんを見ると、嬉しそうに頬をほころばせていた。
「もう少ししたら、おばあちゃんが夕ご飯の準備はじめると思から俺の部屋に持って行って食べよう。西浦くんジュース何がいい?」
「もう夕飯の支度ですか。早いですね。じゃあ、フルーツ系ありますか?」
「野菜ジュースならあるよ」
「じゃあ、それでお願いします」
野菜はフルーツ系じゃないな、と思ったが中にフルーツが入っているやつもあるだろう。
俺は、戸棚からコップを二つ出してパックの野菜ジュースをなみなみと注ぎ入れる。それから、大きなお盆にコップとクレープを乗せる。残ったクレープにはラップをかけて冷蔵庫に入れた。
「俺が持ちますよ」
「大丈夫だよ。これくらい……危なっ」
「お、俺が持ちますから。先輩は、部屋まで案内してください」
「面目なさすぎる……」
お盆を持って立ち上がった瞬間に滑りそうになった。思った以上に重たくて手がプルプルもしていた。
代わりに西浦くんが持ってくれることとなり、俺が自分の部屋まで案内することとなる。
二階へと上がり、一番奥の部屋の扉を開ける。部屋の中には、部屋にはベッドと勉強机、クローゼットがあり、昨日のうちにきれいに整頓しておいた。
「あんまり広くないけど。あ、西浦くん、お盆はこの机に置いて」
部屋の中央にある机にお盆を置いてもらい、そのうちに俺は彼が座るようのクッションを持ってくる。
西浦くんは、部屋の中をキョロキョロと見渡しており少し落ち着かない様子だ。
「そういえば今日、もともと何か予定はいってなかった?」
「またラーメン食べに行かないかって誘われてました。替え玉が学生料金で安いところに。まあ、いつものメンバーで」
「よかったの?」
「俺、甘党ですし。あと、これは関係ない話なんですけど。この間あいつら寮にデリバリーのピザ頼んでて、俺まで一緒に怒られました」
「青春だね」
寮は基本的にそういったサービス類は禁止だ。学校近くにチェーン店はいくつもあるのでそこまで歩いていけばいいのだが、ピザを頼む猛者がいたなんて驚きだった。
俺は、西浦くんから聞かされるエピソードに笑いながらクレープを食べ始める。彼が作ってくれたクレープには、大量の生クリームが入っており、キャラメルソースがかけられているものや、チョコチップがかかっているものとバリエーション豊かだった。西浦くんが甘党だとよくわかる盛り付けに、見ているだけでしたが甘みを感じるほどだ。
それをゆっくりと頬張り、時々野菜ジュースを飲む。とても幸せな時間だった。
そんな俺をじっと見つめている西浦くんは、コップの縁をなぞりながら口を開く。
「だから全然、間中先輩気にしなくていいですよ。俺、先輩と一緒にいるの好きですから」
「本当?」
「俺、先輩に対しては真摯に向き合ってます。先輩と一緒に食事をとるこの時間が、すごい好きです。それに――」
彼の長い指がスッと俺の口元へと伸びる。
「……っ、にし、うら、くん」
「一口がちっちゃい先輩がおいしそうに頬張っているところ見るの、すげえ興奮するんで」
彼は、俺の口の端についた生クリームを指で拭い、それをぺろりと舐めとり、不敵に微笑んだ。
それは出会ったあの日にされたことと同じことだった。でも、あのときよりも心臓が痛いくらいに跳ね上がる。
(て、てか、今興奮って言った!?)
聞き間違いだろうか。西浦くんのほうを見れば、彼も涼しい顔をしているし、きっと聞き間違いだろう。それとも自分が言ったことに気づいていないのだろか。
頭の中がぐるぐると回っていき、ちょうど床についた手がつるんと滑った。
「――先輩っ!?」
何かにつかまろうと思わず西浦くんにい手を伸ばす。だが、彼の服を掴んだまま結局のけぞり、同時に机にガンと肘をぶつけてしまった。
「い……てて……西浦くん、ごめん、俺……っ」
ギュッと閉じていた目を開き、飛び込んできたのは真っ赤になって俺を押し倒している西浦くんの顔だった。
(西浦くん?)
照明の明かりが背中に当たって、彼の顔は少し暗くなっている。それでも、西浦くんの顔が真っ赤になっていることにはすぐに気が付いた。
形のいい唇をきゅっと噛んで、何度か小さく喉を上下させる。何かに堪えるような表情に、真剣な黒い瞳が俺を射抜いて離さなかった。
俺は今、西浦くんに押し倒されている。
「先輩、大丈夫ですか。あと、ごめんなさい」
「いいよ、謝らなくて」
「す、すぐ退くので……うっ」
情けない声を上げ、俺の真横にあった手がずるりと滑り落ちた。それまでプルプルと震えていて、自分の体重を押さえるのも苦しそうだったので、それが今崩壊した感じた。
さらに西浦くんの顔が近づき、鼻と鼻がぶつかっている。もう少し動けば、彼の唇と俺の唇が当たってしまう距離にある。西浦くんの存在がいつもより近くに感じられ、心臓の音が相手に聞こえるんじゃないかと思うくらい早鐘を打っている。
「間中先輩……」
「う、うん、西浦くん……」
「かっこ悪いこと言っていいですか」
「え、うん。いいよ?」
「………………足つりました」
「へ?」
西浦くんはまた情けなく顔をしかめ、申し訳なさそうに眉間にしわを寄せながら八の字眉になる。
今は肘で身体を支えるプランクのような姿勢になっており、先ほどより苦しそうだ。そのうえ、足がつっているらしく身体は小刻みに震えている。
そんな状態でも、彼は俺にのしかかることなく耐えているようで、この隙間から抜け出したほうが彼のためになるんじゃないかと思うくらいだった。
(でも、動いたら口、当たっちゃうよ)
「に、西浦くん。そのままキープできる?」
「う、嘘!? でしょ……俺、このまま……っ」
「だ、だって、このままだったら、俺たち、キス……しちゃうよ」
「……っ!?」
なるべく唇を奥に引っ込めて見たが、それでも鼻と鼻がぶつかっている状況は改善されない。上からかかる彼の吐息に、俺のフワフワした髪に、彼のしっとりとした前髪が絡み合う。見つめ合っていたらおかしくなりそうだ。
部屋のエアコンは入れたはずなのに、体中が熱い。
西浦くんはたじたじになって、目を回していた。だが、対処方法が見つからないのだから仕方がない。
「でも、無理です。ちょ、このままキープとか」
「じゃあ、キス、する?」
「え、あ、え……まな、間中先輩……」
「………………西浦くん、したそうにみえる。キス、するのかと思った」
俺がそう言うと、西浦くんはガバッと体を起こしぶんぶんと首を横に振った。
それは一瞬のことで、足がつっていたという割にはすぐに離れたので驚いてしまった。俺は倒れたまま西浦くんを見上げている。
(あ、俺、何言ってんだろ)
彼が離れてから、自分の唇に触れる。少しクリームでべたつく唇はちょっとカサカサだ。
(――違う。俺がしてほしかったんだ。あんな目で見られて……俺、西浦くんも同じ気持ちかもって、勝手に思っちゃった)
必死になって俺を見つめる目。
いつもはクールで、でも甘党で、口数が少ない大型犬みたいだけど。でも、押し倒されたあの瞬間の彼の表情は獲物を狙う獣のような目をしていた。
(俺、西浦くんとキスしたいって……俺、西浦くんのこと……)
俺はゆっくりと体を起こし、机の上を見る。
「ああっ!! クレープ、びたびただ……」
俺が肘をぶつけた拍子に野菜ジュースの入ったコップが倒れてしまったらしく、西浦くんが盛り付けてくれたクレープの乗った皿にオレンジ色が広がっていた。クレープもべちゃべちゃになっており、あたりには野菜の匂いが広がっていた。
「……食べますよ。俺」
同じく呆然と眺めていた西浦くんはそう言うと、スッとフォークを手に取りべちゃべちゃな生地を持ち上げ、ぱくりと食べた。
「うん、美味しい。間中先輩、ニンジンの味もします」
西浦くんはそんなフォローをいれつつ、美味しい、ともう一口食べていた。彼の一口はやはり大きく、どんどんとオレンジ色のクレープが彼の口に吸い込まれていく様を俺は見つめていた。
それから、俺も小さく切り分けたクレープを一口食べる。
(……甘くて、野菜の酸っぱい味がする)
けど、二人で作ったクレープだからかとても美味しく感じた。



