(誰かを待つってこんなにワクワクするんだ)
 予定のある土曜日はとても充実した一日になる。
「先輩、遅れてすみません」
 駅前の時計下の広場で待っていると、かっこよく決めた西浦くんが走ってくるのが見えた。俺は、持っていたスマホを鞄に入れて西浦くんのほうを向き直る。
 西浦くんは黒いキャップに黒いパーカー、白いロゴ入りのTシャツに、白黒のかっこいいスニーカーを履いていた。
「似合ってる。俺もそのスニーカーのメーカー好き」
「あざっす……先輩もかわ、かっこいいです」
 俺の服は、オーバーサイズのパーカーなのだが、このパーカーは猫耳になっているので絶対に被らない。サイズや印刷されていた模様が好きで即決したのだが、フード部分が猫耳になっていたのは盲点で買ってから後悔した。でも、おばあちゃんもお母さんもいいじゃんと言ってくれるから捨てずに着ている。
 それにしても、制服じゃない西浦くんはより足の長さやスタイルの良さが強調されてかっこよかった。
 周りにいる人たちも「モデル?」と西浦くんのことをチラチラとみている。すごく目立つ。
「西浦くん、見られてるね」
「俺、苦手です」
「注目されるのダメなんだ」
「ダメというか、いや、ダメです。だから、寮で一緒のやつらと一緒にいて、あいつらの陰に隠れようかと」
「寮生? 東田くんと、他に二人いるんだっけ?」
 はい、と西浦は答えながら場所を移動しようと俺の手を握る。だが、ここで無意識に手を握ってしまったことに気づいたのか慌ててパッと手を離す。
「いいよ。手、つないでも」
「いえ。軽率すぎて、すんません……というか、間中先輩。手、ちっちゃいっすね」
 西浦くんは、にぎにぎと自身の手をぐーぱーさせ、最後はギュッと指を丸めた。
 確かに、西浦くんの手はすごく大きくて骨ばっていて男らしい。俺なんか握りつぶされそうで怖い。けど、彼の手は少し臆病で熱かった。
「寮生、はい。そうです。東田(あずまだ)南川(みなかわ)北嶋(きたじま)と俺と四人部屋です。今日は、あいつら三人で家系ラーメン行ってるみたいです」
「西浦くんは良かったの?」
「俺は油物とか辛いもの得意じゃないですから。その後、トリプルデートするとか言ってました。あ、仲はいいんで心配しないでください」
「し、してないよ」
「そこは嘘でもしてください」
 そういえば、西浦くん以外には他校に恋人がいると言っていた気がする。
 四人部屋なのに西浦くん抜きの三人で行くのか、となんだか寂しい気持ちになったが、無理して好きじゃないものを食べに行く必要はない。美味しいものを食べたい人と食べたることが重要だ。
「それに、俺は今日先輩と甘いもの行くって決めてましたから。それがメインです」
「メインってメインディッシュみたいだね」
「先輩、頭の中食べることでいっぱいですね」
「はっ……ダ、ダメかな?」
「いえ、すごく間中先輩だなーって思います。今日も、美味しそうに食べてるとこ見せてくださいね」
「見せるものじゃないと思うけど」
 クスクスと笑う西浦くんはとても楽しそうだ。
 出会った当初は表情筋が機能していないのかと思っていたが、どうやらそうじゃないらしい。
(西浦くんも楽しみにしていてくれたんだ。同じ気持ち……)
 右田くんと伊佐治くんとカラオケやファミレスに行ったことはあったが、こんなにも楽しみで前日眠れないなんてことはなかった。
 何が違うのかは分からないが、俺を慕ってくれて、仲良くしてくれる後輩とお近づきになれたのは嬉しい。
「じゃあ、行きましょうか。一応予約は取ってるんですけど……」
「どうしたの?」
「先輩、あの店入って嫌だったら言ってくださいね」
「ん?」
 何故か、心配そうに見つめる彼に首をかしげる。
 一応店内の様子は楽しみすぎて口コミは調べてきたが、そこまで言うほどだろうか。
「季節限定のイチゴのアフタヌーンティー、でしょ? 楽しもう! いっぱい食べるぞー!!」
「なんかそれ、ビュッフェ前の景気づけみたいな感じですね」
「まだ、今日は始まったばっかりだけど、西浦くんと食べ放題も行きたい。西浦くんとは舌があいそう」
「気が合いそうじゃなくて?」
 西浦くんは俺の回答に、またぷっと笑う。
 そんな西浦くんにつられて笑いが漏れる。そうして、ひとしきり笑った後場所を移動することにした。

◇◇◇

 店につくとすでに行列ができていた。
 だが、俺たちは予約をしていたためその長い列を通り過ぎて店内に通される。
 店内はイチゴのアフタヌーンティーをやっているからか、どこもかしこもピンク色でイチゴのオブジェからイチゴのクッションまで、空間づくりも完璧だ。
 どうぞ、と言って席に通され着席するがそこも白とピンクといった愛らしい色で統一されていた。座った席も中世ヨーロッパにありそうな厳かな装飾に柄物の椅子で、一人で座るにはスペースができるくらいの広さをしていた。そこにイチゴのクッションがある。
 そんな空間で、俺の目の前に座る西浦くんの顔は何故か硬い表情にに戻っていた。あそこまで楽しみにしていたのにイメージと違ったからだろうか。
「西浦くん?」
「……先輩は平気ですか」
 質問の意味が分からず首を傾げると、西浦くんはふと店内に視線を移した。俺たちがいるのは窓側の席で暖かな五月の日差しが入ってきている。
 俺も彼の視線に誘導され店内を見ると、ここにいるのが女性だけに気づく。しかも、中高生から大人まで若い女性たちで埋め尽くされていた。店員も女性ばかりのようで俺たちはちょっと場違いにも思える。
(女の人ばっかりって、気にしてるのかな)
 男は俺たちだけ。しかも、カジュアルな服装だし店の雰囲気に似合っていない。かといって追い出されるなんてことはないだろう。
 店には男性禁止の文字も書かれていなかった。ただ、レビューやSNSでの反応は女性ばかりだった気がする。
 西浦くんの眉間にしわが寄っていき、彼はこの空間にいるのがすごくつらそうに見えた。
「西浦くん!」
「何ですか、先輩。やっぱり男子で二人こんなとこ……」
「甘い匂いがするね」
「は?」
「俺、こんなところ始めてきた。西浦くんが誘ってくれなかったら一生行かなかったかも。めっちゃいい場所!」
「そう、っすか。無理してません?」
 西浦くんの言葉にぶんぶんと首を横に振る。
 それから俺はきれいに折りたたまれた厚手の白いメニューを開く。そこには長い日本語の下に英語が書いてあり、いったん閉じる。そして、再び開いて西浦くんに見せる。
「西浦くん見て、英語だ」
「日本語書いてあります」
「うん……西浦くん、美味しいものを食べる権利は男でも女でもあるよ。だから、恥かしがらなくていいし、西浦くんが甘いもの食べたないらそれでいいじゃん。俺は美味しいもの食べに行くならいつでも付き合うから。こんな甘い匂い前にそんな顔しないで」
「間中先輩……」
「あと、俺、英語わかんないから選んで」
「は、はい」
 西浦くんにメニューを突き出すと、彼はすぐにそれに目を通した。俺は何が何だか分からないので西浦くんに任せ、その間クッションの柔らかさを再度チェックしていた。店員を呼び寄せ注文を伝え、メニューを下げてもらったところで、西浦くんが再びこちらを見る。
「間中先輩ありがとうございます」
「お礼なんていいよ。だって俺、美味しいもの食べに来ただけだし……ああ、西浦くんとね! そこが重要」
「重要って」
「誰と何を食べるかじゃん。俺は今日、西浦くんが食べたいものを西浦くんと食べに来たんだから」
「……すみません、いや、ありがとうございます」
 西浦くんはそう言いながら膝の上で指を組み替えた。
「この土日でこのフェア終わるんです。だから一回行ってみたくて。でも一人で行く勇気も、女性ばかりの店に入る勇気もなくて。誰かについてきてもらったら大丈夫かなって……そんな気持ちから先輩のこと誘っちゃいました」
 けどこのありさま、と西浦くんは嘲るように言う。
 彼でも怖いことや勇気を振り絞れない瞬間があるんだ、とまた意外に感じる。
(あ、俺、彼に対して先入観持ってたかも)
 『西浦くんは大きいのに』と彼のことを容姿で決めつけていた。
 俺自身、小さくてかわいい守らなきゃとか思われるのが嫌なのに、人のことはそういう目で見てしまうんだ、と情けなくなる。
 西浦くんは、背が大きくて、甘いもの好きで、ちょっと勇気がない男子だ。あと、あんまり笑わない。
 俺はきゅっと膝の上で拳を握った。
「けど、西浦くんはちゃんとメニュー頼んだじゃん。俺ならいくらでも誘ってよ。俺も、一人焼肉もいいけど、二人で食べたいし」
「え、ああ、そう。あり、ありがとうございます?」
 目を丸くし「焼肉、焼肉か……」と復唱する。それから、ぷっとまた噴き出した。
「先輩も、見た目に寄らず大食らいなんですね。けど、一口はちっちゃい」
「たくさん食べるよ。だから、この後二店舗目も大丈夫」
「頼もしいです」
 西浦くんがそういったタイミングで頼んだものが運ばれてきた。
 それは、お店のサイトで見たものと同じだったが目の前に来るととても迫力があった。
「わ……わ、なんかこう、チョコフォンデュみたいな迫力ある」
 とりあえずスマホを手に取り写真を撮ってしまった。
 こういう店では撮らないほうがいいのだろうか、と思いつつドデカく"パシャッ"なんてシャッター音が響く。
「ケーキスタンドですね。上からスイーツ、スコーン、サンドイッチです。スコーンには、ジャムとクロテッドクリームをぬって……」
 店員が下がった後、西浦くんが順に教えてくれた。
 でも、そのどれもが呪文のように聞こえて頭の中がこんがらがる。右から左へと抜けていくお菓子の名前に、ちょこんと座って聞いているふりをすることしかできなかった。
「あとは……間中先輩?」
「ど、どどど、どうしたの!?」
「もっとちゃんとした高いお店とかでは、マナーとかいろいろあるだろうし、服装もこれじゃいけないんですけど。ここは、手軽にアフタヌーンティーセットが楽しめる場所です。なので、俺が今言ったこと全部無視してください」
 西浦くんはそう言って、俺のティーカップに紅茶を注ぎ入れてくれる。トポトポトポと白い陶器が赤橙色に満たされていく。ふわりと茶葉の匂いが香り、さらに甘い匂いがあたりに充満する。
 口の中にはすでに唾液が滲んでおり、小さいながらも存在感を主張するスイーツたちが宝石のように輝いていた。
 どれもこれも一口サイズで食べるのがもったいない愛らしい形をしている。
「上から……うーん、下から……」
 俺が悩んでいるうちに西浦くんは、一番下のサンドイッチに手を伸ばす。俺も彼に合せて震える手でサンドイッチを掴んでみる。
 サンドイッチもピンク色で中には生クリームとイチゴが挟んである。
 それを一口ぱくりと食べれば、口の中にイチゴの酸味と甘くない濃厚な生クリームが広がった。
「んんんっ!!」
 もう片方の手で頬を押さえ、目を見開く。今まで食べたどのフルーツサンドよりも美味しかったからだ。
「本当に間中先輩って美味しそうに食べますよね」
「西浦くんも美味しい!?」
「はい。満足です」
 期待通りの味だと西浦くんは、サンドイッチをぺろりと平らげてしまう。西浦くんは一口がとても大きいタイプなようだ。
 それにしても彼の食べ方はとてもきれいだ。俺はお世辞にもきれいとは言えないし、口が小さいため口の周りによくつく。時々それを舐めてしまうし。
(でも、どこか楽しくなさそうなんだよな)
 きれいな食べ方をするわりには、食を楽しんでいる感じがしない。真剣に食べていると言ってしまえばそれまでだが、たまに眉間にしわが寄るのはなんでだろうか。
「西浦くん、眉寄っちゃってる」
 俺が自分の眉間にグッと手を当てて教えれば、西浦くんの黒い瞳がこちらを見た。それから、長い指を額に当ててぐにーとしわを伸ばしてみるが、どうやらうまくいかないらしい。
「俺、食べるときいつもこうなっちゃうんですよ」
「怒ってるのかと思った」
「美味しいんですけど……うちが、食事のマナーにうるさくて」
 そう言うと西、一旦膝の上に手を置き、テーブルに置いてあったナプキンで口を拭う。
 その後、彼の口からはあ……と深くどんよりとしたため息が漏れる。
「中学までは月に一回ドレスコードが必要な店にいって食べるんですよ。そこに行っても恥じないようにって、昔からマナー叩き込まれました」
「すごいご家庭だ」
「そんなんじゃないですよ。家での食事も息が詰まりました。箸が落ちるだけで夫婦喧嘩がはじまるし、皿にナイフをぶつけて音を立てたたら手が飛んできました。冷めていくスープに、味の分からない料理……俺にとって家庭の食事の場っていうのは、戦場に立たされたような終始気の抜けない時間だったんです」
「西浦くん」
「そういう理由もあって、俺は家になるべく帰らないで済む寮生活を選んだんですよ」
 彼の表情から食事が楽しくないというのが伝わってきた。
 でも、ここに来たいって楽しみにしていた西浦くんは本当だ。
 だから、本当の彼は食事を楽しみたいし、会話をしながら食べたいんじゃないだろうか。
 西浦くんは「先輩には絶対に強要しませんから」と笑ってくれるが、その笑みも乾いていた。
「だから、間中先輩が美味しそうに食べている姿を見て、食事って本来そうあるべきだなって思いましたし、実はちょっと見惚れてました。食べるのがかわいくて、幸せそうで。見ていてすげえ気持ちがいい」
「えっ!?」
「だから誘ったんですよ。他の誰でもない、間中先輩を。俺の前で美味しそうに食べてくれる先輩を見ていたら、きっと百倍このアフタヌーンティーが楽しくなるって」
 先ほどは勇気がないからついてきてもらったと言っていた。もちろんそれも理由としてあったのだろうが、そんな理由も含まれていたなんて。
 西浦くんにそう言われ、頬に熱が集まっていくのを感じた。彼に向けられる熱っぽい目は、そういう思いが込められていたのか。
(に、にしては見すぎだよね。まるで、獲物を狙うライオン……)
 ギラギラとした目で見てくるので、ちょっと食べにくい。
 でも、西浦くんにとってはそういう冷めた家庭の食卓とは違って、解放された楽しい空間なのだろう。
 俺は、切り分けてもらったスコーンにジャムを乗せてパクリと一口食べる。その間も終始西浦くんはうっとりとした目で見つめてきた。
 向けられるキラキラ、ギラギラした目にこっちは恥ずかしくなってくる。会話をしたいけど、目を合わせたらまたポッポと顔が熱くなるから仕方がない。
(だって、西浦くんかっこいいし。そんなふうに見つめられたの初めてだから)
 かっこいい西浦くんの視線を独占していいのだろか。
 俺は、先ほどよりも表情がやわらかくなっている西浦くんを前に、会話の話題一つも出てこなかった。
「たくさん食べてくださいね。間中先輩」
(う~~~~眩しい!! これじゃあ、見つめないでって言えない!!)
 言いたかった文句もきゅっと喉の奥に引っ込んで、ごくんと甘いスコーンを飲み込んだのだった。

◇◇◇

「アイス驕ってもらっちゃってよかったの?」
「はい。今日ついてきてくれたお礼です」
 俺の手にはバニラ、イチゴ、チョコと三つの大玉のアイスクリームが握られている。
 アフタヌーンティーを楽しんだ後、少しぶらぶらと駅前を散策し、最後に西浦くんがお礼にと買ってくれたやつだ。俺はそれをぺろぺろ舐めながら西浦くんの隣を歩いていた。
「今日すごく楽しかったです」
「こちらこそ。また誘って欲しいし、なんだったら俺から誘うよ! 嫌いなものは早めに言ってね」
「辛いもの以外なら。ああ、でも、先輩が言ってたみたいに二人で焼肉とか行ってみたいです」
「いいね、焼肉。そうしよう。でも、寮のみんなはいいの?」
 俺が訊ねれば、西浦くんは少しだけむすっとした顔になった。口もギュッと上がっている。
「俺は先輩と二人で行きたいです。他のやつ誘っちゃうと、先輩と話せないじゃないですか」
 最後のほうはごにょごにょと言って聞き取れなかった。それに、恥ずかしそうに口元を手で覆って視線をそらしてしまう。
 そんな西浦くんのかわいい姿に気をとられていると、ぽたぽたとアイスが手に落ちてくる。
「あっ」
 俺がアイスを舐めようとしたとき、彼の手がスッと手に触れた。
「やっぱり、三つは多かったんじゃないですか」
「食べれるよ。でも、垂れちゃったのはもったいないかも」
 西浦くんはサッとポケットからハンカチを取り出し、俺の手を拭いてくれる。舐めようと思っていたからもったいない、なんて思いつつ彼の黒いハンカチにアイスのシミができていくのを黙ってみていた。
「西浦くんも一口あげる」
「いいんですか?」
「西浦くんと一緒に食べたい」
「ありがとうございます。じゃあ、お言葉に甘えて」
 そういったかと思うと、西浦くんは耳から落ちてきた黒い髪をスッとかけ直し、大きな口を開くと一番上のバニラをべろりと舐めた。赤くて長い、分厚い舌がアイスを舐めとる。なんだかすごくエッチだ。
「……っ、お、美味しい?」
「はい。甘くて冷たくて美味しいです。先輩、どうしたんです? 顔赤いですよ」
「そ、そうかな」
 指摘され、俺はパタパタと手で顔を仰ぐ。
「そういえば、西浦くんはこの後寮に戻るんだよね」
「いえ、今日は家のほうに戻ろうかと」
「えっ、じゃあ時間大丈夫?」
「大丈夫ですよ。この駅から乗って、乗り換えれば帰れます」
 西浦くんは、どうやって帰るのか事細かに教えてくれた。
 詳しく聞くと、どうやら途中まで俺と同じ路線らしく、一緒に帰ることにした。
 アイスに苦戦し、コーンの下についていた紙を捨てるころにはすっかり日が日が沈み始めていた。

 改札を抜けてホームへと進む。土曜日にしては人が少なく、やってきた電車に乗り込めばちょうど二人が並んで座れるスペースがあった。俺たちはそこに腰かける。
 横に並ぶと西浦くんの体格の良さがまたしてもよくわかる。
 電車の扉が閉まったところで、西浦くんは大きなあくびをした。
「眠たそうだね」
「はい。今日が楽しみで夜更かししました」
「イチゴ、美味しかったもんね」
「じゃなくて……」
 西浦くんはそう言いながらまたあくびをする。うっすらと目の下に隈ができているような気がして、彼の体力の限界に俺は気づいた。
「西浦くんが降りる駅が来たら教えてあげるから寝ててもいいよ」
「そんな、申し訳ないです」
「いいんだよ。俺、先輩だよ? 後輩に甘えられるってちょっと夢だったんだ」
 中学生の頃も後輩はいたが、みんな俺をかわいがって、俺は全然先輩って感じじゃなかった。
 だから、西浦くんに甘えてもらったり、先輩だって慕ってもらえたりするのはすごく嬉しい。
「面白い夢ですね。じゃあ、すぐに叶いますよ」
 いいんです? と、もう一度西浦くんは聞いてきた。
 俺は任せろ、と胸に手を当てる。するとすぐに西浦くんは「甘えます」と言って、俺の肩にもたれかかってきた。これは予想外でビクッと身体を揺らしてしまうが、もう瞼を閉じていた西浦くんを前に動けなくなってしまった。起こしたらかわいそうだ。
 俺は、開いていた足をきゅっと閉じて膝の上に握りこぶしを二つのせる。
(まつ毛長い。あと、いいにおいする)
 肩にもたれかかってきた西浦くんの顔は、昼間見たときよりも少し幼く見えた。
 首筋にかかる彼の黒髪はくすぐったく、耳元で聞こえる寝息も小さくてかわいい。
 今まで、俺は小さいから頼りにされることもなかったし、みんながいろいろ気を使ってやってくれた。でもそれは、だいたい一人でできることばかりだったのだ。
 けど、西浦くんは俺を先輩だって言ってくれるし、今だって俺に委ねてくれている。
 俺よりも大きい一つ年下の後輩。
 今日一日、すごく楽しかった。
「先輩……そんなに、食べるんですかぁ……」
「寝言でも俺と食べに行ってるのかな……わっ」
 かわいい寝言だな、なんて思っていると電車がキューカーブを曲がり大きく身体が傾いた。その拍子に、肩を借りて寝ていた西浦くんの頭が、俺の膝に落ちてくる。それでも西浦くんは起きる様子がなかった。
(ひ、膝枕……)
 されているんじゃなくて、している側。
 心臓が痛いくらいに早鐘を打っている。
 ただの先輩後輩の関係のはずなのに、西浦くんがかっこいいからかドキドキしてしまうのだろうか。
 俺は西浦くんに起きないで、と心の中で祈りながら彼の黒髪を撫でた。さらりとした髪は指の隙間を通り抜けていく。何だか、黒猫を撫でているみたいだ。
 暖かな夕日が俺たちを照らし、段々と電車のスピードが落ちていく。車内には『次は○○駅』とアナウンスが流れたのだった。