頼られたいし、甘えてほしい。でも、俺は小さくてみんな"お姫さま"って言うから頼ってくれない。
 かっこいいことに憧れるし、俺を見た目なんかじゃなくてちゃんと見てくれる人に出会いたい――そう思いながら俺の男子校生活は二年目に突入した。

 四時間目の数Ⅱの授業が始まって早々、先週やった小テストが返却された。
 教卓に一列に並び、答案用紙が返却される。
 眼鏡をかけた難関大卒の先生は、わざとらしく「○○、二十九点赤点だぞ!」と声を張り上げて言う。教卓の前で膝から崩れ落ちるクラスメイト、ガッツポーズを決めるクラスメイトとテスト返しの瞬間はとても盛り上がる。
 今日も男子校の教室は騒がしい。
(あ、ここケアレスミスしてる……)
 そんな俺――間中真緒(まなかまお)は、誰かと点数を見せ合うでもなく、一人自分の席で答案用紙と解答用紙と見比べていた。
間中(まなか)~小テスト何点だった?」
「んー八十三点。ケアレスミスしてるからもうちょっと伸ばせたかも」
「うわっ、チョーいいじゃん。俺と伊佐治(いさじ)は赤点。再テストなんだよぉお!」
「わっ、バカ。なんで俺の点数までばらすんだよ。バカ右田(うだ)
「いやぁ~同じく再テストのバカ伊佐治にバカって言われたくないわ~」
 すでにぐちゃぐちゃにした答案用紙をひらひらさせながら、天然パーマがすごい右田くんと、前髪を眉うえで切られてしまったらしい伊佐治くんが俺の机の前にやってくる。二人とは高校一年生のときから付き合いで、同じ通学組だ。
 俺が通うこの男子校は、遠方の人は通学か寮を選べる。ちなみに寮は四人部屋だ。
 俺は学校からちょっと近いおばあちゃんの家から通っている。その通学路で途中まで二人と一緒なのだ。クラスも一緒だし、こうやって話しかけてくれる。
 伊佐治くんと右田くんはお互いの答案用紙を見せ合ってにらみ合っていた。そんな、二人の答案用紙には十七点と大きく書かれている。
「ほんっと、間中はすっげえ頭いいよな。頭良くて、かわいくて」
「勉強もできて、男子校ではありえないほどの礼儀の正しさ! 歩き方とか、体育の着替えのときに服たたむとか几帳面で家庭的!! やっぱ、まーちゃんは男子校のお姫さまって感じ!!」
「それってお姫さまなのかな? それと勉強は頑張った分だけ身になるよ。あと礼儀が正しいって……普通に生活しているだけだから」
 二人は俺のことなんて気にせず「お姫さまは俺たちが守らなきゃな」と数秒前までいがみ合っていたのに、結託して固い握手を交わしていた。俺はそんな二人を見て苦笑する。
(男子校のお姫さま、か)
 彼らは時々俺のことを『男子校のお姫さま』と言う。入学当初から言われているが、いまいちピンとこない言葉だ。
 確かに俺は、身長が百五十八センチでクラスで一番低いし、髪の毛も癖毛でふわっとしている。目鼻立ちも幼く見えるし、実際に「君、中学生?」と間違われたことだってある。
(俺、二人みたいに筋肉もつきにくい身体だし。お姫さまって言われても嬉しくないんだけどな)
 周りも俺のことを「姫ちゃん」や「まーちゃん、まおちゃん」と呼んでいるし、伊佐治くんも例にもれずだ。
 クラスのみんなは仲いいし、俺のことをからかっていっているわけじゃないから今更「あまり嬉しくないかも」なんていう勇気はない。でも、学校中どこへ行っても「二年のお姫さま」って言われるのは正直恥かしい。
 俺は男らしい自分に憧れている。
「あっ、そうだ、間中。今日購買いかね?」
「購買?」
「そうそう。俺、弁当忘れちゃってさ。あと、今日はカツサンドがあるらしいって耳に挟んで!! 食べてぇ―って!」
「へえ、そうなんだ」
「おい、右田!! まーちゃんをあんな初売りセールみたいなのに巻き込むなよ。まーちゃん小さいから上級生にプレスされて、それこそサンドイッチの具になっちゃうだろ!」
 右田くんがそう言うと、伊佐治くんが俺の机を隠すように前に出てボディーガードのように腕を組む。それから、右田くんに「一人で行け」と冷たく言う。
 そんな二人のやり取りを見ながら、俺はリュックの中に手を突っ込んだ。右田くんが弁当を忘れたというので、俺も不安になってきたからだ。
 しかし、俺のリュックにはいつも入れている保冷バックがなかった。
「あ、ない」
「どしたの、まーちゃん」
「いや、俺も弁当忘れたなーって……だから、右田くんと購買に行くよ」
「マジか! いや、まーちゃんは、俺の弁当分けるからあんなんに参加すんなって。な?」
「大丈夫。三回くらい参加したことあるから。あれでしょ? 購買のパン争奪戦」
 俺が言うと、伊佐治くんは顔をひきつらせた。
 うちの学校は、弁当組、学食組、購買組の三種類に分けられる。
 中でも購買でのパンの争奪戦は苛烈極まりないのだ。
 過去に負傷者が出たり、パンの奪い合いで暴力沙汰になったりしたと噂もあるほど。でも、そんな中パンを勝ち取った人は、午後の授業でものすごく調子が良くなると言われている。
 俺がパン争奪戦の参加の意を示せば、伊佐治くんは顔を梅干しのようにしかめて「まーちゃんを一人にできない……覚悟を決めるしかない」と答案用紙をさらに握りしめていた。
「おっしゃぁ~じゃあ、間中。授業終わり教室の外で集合な」
 右田くんはそう言うと大股で自分の席に戻っていった。そんな右田くんを伊佐治くんは呆れた顔で眺めていた。
「まーちゃんさ。けっこう男気あるね。あの争奪戦、俺でもビビんのに。足踏まれるし、平気で人押しのけるし。あざだらけになんよ?」
「俺も男だからね。男気あってなんぼ。それに心配しなくても、大丈夫」
「おっ、まーちゃんイケメンじゃん」
 伊佐治くんは、答案用紙を丸めてズボンのポケットに突っこみながらそう言った。
 
◇◇◇

「右田のアホー!!」
「いやぁ、悪かったって。先生粘ったら二点あげてくれたし。てへっ」
「てへっ、言うな気持ちわるっ!! 鳥肌立ったわ、キモ右田!」
 階段に伊佐治くんの声が響く。
 四時間目の終わり、教室の外で待ち合わせとのことだったが、右田くんが「ここ、点数上げられませんか」と先生と交渉して授業が長引いてしまった。そのせいで、チャイムが鳴ってから五分ほど経過してしまったのだ。
 伊佐治くんは右田くんに「二点なんて変わらんって。結局赤点だろ!」と罵りながら階段を駆け下りる。俺もおいていかれないように購買目指して走った。
「ほら、出遅れた。アホ右田のせいで」
「アホにアホ言われたくねえんだけど!? うわあ……やっべぇ。今日、昼飯なしじゃん」
「絶望すんのはっや。あーでも分かるわー……さすが、本学名物パン争奪戦。スーパーのセールのときよりヤバいじゃん」
 購買に行くと、すでに人が群がっていた。
 一年生も、三年生も関係なく皆もみくちゃになってパンを奪いに行っている。もはや並ぶという概念は存在していない。
 二人はすでに戦意喪失しており動く気配はなかった。その間にもパンを手に入れて、人込みから抜けていく人が現れる。
「二人とも何がいい? 俺、とってくるよ」
「いや、ここは二人を待たせた俺が行く………………ぎゃああ! 足踏まれた!」
 右田くんが率先して人の波の中に突っ込んでいったが、ものの三秒ではじき出され足を押さえながらぴょんぴょんと帰ってきた。
「右田ダサすぎだろ」
「右田くん大丈夫?」
「伊佐治はコロス……間中はマジ天使……!!」
 右田くんは、俺の隣でうずくまり「飯なしだ……」と完全に戦意喪失してしまった。
「伊佐治くん、行こう。もう右田くんは使えないから」
「まーちゃん、たまにひどいこと言うよな。やだけど、お姫さまを守るためにはいかなきゃだよな……って、まーちゃん早っ……いってえええっ!! 誰か、誰か俺の顔にグ―パンした!」
 俺が飛び出せば、ワンテンポ遅れて伊佐治くんが追いかけてきたが、彼もまた人込みに入ってすぐに悲鳴を上げてフェードアウトしていった。
 二人にかまわず、人の小さな隙間を縫ってパンの置いてある箱に近づく。
(うっ、本当にぺちゃんこになっちゃいそう)
 人の間を通り抜けるのも至難の業だ。顔は左右から挟まれるし、あちこちが痛い。たくさんの人たちがいるせいで、汗の臭いや制汗剤の匂いも混じって鼻がバカになりそうだ。
 それでも何とか、パンが置かれている箱の一歩手前までたどり着いた。
 しかし、すでにパンの箱はスカスカだ。
 でも、そこに残っていたくまちゃんパンを見つけ、俺は必死に手を伸ばした。二人の分は取れなかったけど、なんとかこれだけはゲットしたかった。
「――最後のくまちゃんパン!!」
 だが、俺の手の短さでとこの距離からでは届かない。何とか伸ばして指先が触れるか触れないかの距離まで縮める。
(もう、ちょっと……けど、届かない!! 最後の一個!!)
 そんな俺の願いも虚しく、最後の一個を誰かがとっていった。
 そして間もなく「本日のパンは完売しましたー」とおばちゃんの声が響く。
 あれだけ群がっていた人たちも一斉に解散し、みな生気を失った目でのそのそと帰っていく。
 俺もまたその一人で、空箱の前で呆然立ち尽くしていた。
西浦(にしうら)パンゲットできたかー」
「おう」
 そんな俺の近くで声が聞こえる。ふと振り返れば、そこには狙っていたパンを握った男子生徒が、クラスメイトか友だちのほうに歩いていくのが見える。
「待って」
 反射的に彼を引き留めてしまった。ブレザーの裾をきゅっと掴んで、少し強く自分のほうに引っ張る。
 男子生徒は足を止め、こちらを振り返った。
(あ……すごくきれいな人)
 しっとりした濡れ羽色の髪に、切れ長の黒真珠のようにきれいな瞳。スッとした鼻立ちに、全体的に大人っぽい顔立ちも、かっこよくてて見惚れてしまう。
 そんな彼は、目線をゆっくりと下げて俺を見た。それから数回瞬きして首をかしげる。
(上履きの色、この人、一年生)
 稀に見ぬ美形で、つい見惚れてしまった。こんなイケメンがうちの学校にいたなんて驚きだ。
 あまりにもかっこいいから三年生かと思ったが、まだ入学したての一年生だ。
「なあ、西浦。ちゃっちゃとレジに並ぼうぜ」
「あのっ!!」
 友だちに『西浦くん』と呼ばれる彼は、俺と友だちを交互に見る。そして、俺の上履きの色を書き人したのち、少し困ったような顔を向けてきた。
「あんま引っ張らないでください……えっと、先輩」
「ご、ごめん」
(わー困った顔もかっこいい……って、いやいや、見惚れている場合じゃなくて!)
 とても困っているような八の字眉の顔を向けられて、申し訳なさで胸がいっぱいになってくる。早く友だちのもとへと返してあげたいが、彼の手に握られているくまちゃんパンと目があってしまってダメだった。
 もちろん、後輩にこんなことを言うのは気が引ける。でも、お腹は限界まですいていて、くまちゃんパン以外考えられなかった。
「あの! 俺にそのくまちゃんパン、一口だけちょうだい」
 恥を忍んで、ちゃんと相手と目を合わせ真剣に見つめる。俺の身長では、身長の高い彼に対して上目遣いの形になってしまうが、致し方がない。
 西浦くんは手に持っていた、潰れたくまちゃんパンを見て「くまちゃんパンってこれのことですか」と言う。
 俺は、ぶんぶんと首を縦に振る。先ほど勇気を振り絞っていったためか、声が出なくなっていた。西浦くんはじっと見つめてくるばかりで、ほぼ無表情と変わらない。何を考えているかわからなかった。
「なあなあ、西浦何やってんの」
「いや、なんか先輩に引き留められて」
「何? お前、もう先輩の知り合いできたの?」
 俺と西浦くんが見つめあっていれば、センター分けのちょっとチャラそうな男子が近づいてきた。上履きの色が彼と一緒だから一年生だ。先ほど、西浦くんの名前を呼んでいたのも彼だろう。
 その子は西浦くんの肩を組み、俺のほうをじっと見つめてきた。彼もまた背が高いので二人を前にすると蛇に睨まれた蛙のような気持ちになる。
「間中パンどうだった」
「まーちゃん怪我してない……って、うわっ!! 東西南北騎士団の、西浦澪(にしうられい)東田亮(あずまだりょう)じゃん!」
 俺が帰ってこないことを心配したのか、右田くんと伊佐治くんも駆け付ける。そして、伊佐治は二人の後輩を指さしてそんなことを言い出したのだ。
 聞き慣れないその単語に首をかしげたが、言われた二人も首をかしげていた。
 その間に、右田くんが俺の肩を掴んで後輩二人から距離を離すと威嚇するように睨み始めた。
「ねえ、伊佐治くん、そのなんちゃらなんちゃらって何?」
「まーちゃん、それほぼなんちゃらじゃん。東西南北騎士団。今年入ってきた一年生四人の呼称的なやつ。全員寮生で同部屋、入学当初から女の子の影があるって噂のイケメン軍団!!」
 伊佐治くんはまくしたてるように言い「男子校に通ってんのにどうやったら女の子とつながりできるんだよー」と自分の傷を抉っていた。
(有名人なんだ)
 確かに、西浦くんともう一人の東田くんはモデルのようにすらっとしていてかっこいい。
 俺のクラスにも寮生はいるが、寮の実態はあまり知らない。
「え、何それ。俺ら先輩にそんな呼ばれ方してんの? 西浦知ってる?」
「知らない」
「だよな~てか、先輩たち西浦に何の用?」
 東田くんと呼ばれたセンター分けの子は、俺たちを睨みつけた。その睨みは右田くんのものより鋭く、二人して俺の後ろに隠れてしまう。
「西浦くんが持っていた、くまちゃんパンを分けてほしくて」
「くまちゃんパンってこれのこと? じゃあ、先輩なんか代わりに西浦の昼飯くれるわけ?」
「え、えっと」
「何もないのに西浦からカツアゲしようとしてた感じ? いやあ、それ酷くないっすか?」
 東田くんは「な?」と西浦くんに同意を求めた。
 しかし、西浦くんは身が出そうなほど握ったくまちゃんパンを見つめるばかりで反応を示さない。
 一年生とは思えないほど、東田くんはかなり威圧的だった。もちろん、自分が欲しいからって後輩が手に入れたパンをねだる先輩の俺が悪いんだろうけど。
「うわ、東田ってこんな感じなのかよ」
「チャラ男だし、なんかすぐに彼女に暴力振るいそう」
 後ろでこそこそ隠れながら、二人は口々にそんなことを言っていた。本人に聞かれたらどうするつもりなのだろうか。
(まあ、俺が考えなしに引き留めちゃったのが悪いよね。それに、西浦くんは正々堂々パン争奪戦でパンを手に入れたんだし。そのくまちゃんパンは彼のだよ)
 俺はあきらめることにして、右田くんと伊佐治くんに声をかけようと振り返る。
 すると「先輩」と西浦くんが俺を呼んだ。
「あの、これそんなに欲しいんですか」
「ほし……ああ、でも! 西浦くんが頑張って手に入れたパンだし。君の戦利品。さすがに、一口ちょうだいなんておこがましかったよね」
 お昼休みは貴重な時間だ。今から食堂に行けば何か食べることができるだろうか。まあ、あっちも混雑していそうだが。
 つぶらな瞳で見てくるくまちゃんパンから視線を逸らしつつ、次のことを考えていた。
 しかし、次の瞬間俺のお腹からきゅるるる……と大きな悲鳴が聞こえてくる。その音は、この場にいた全員に聞こえていたようで視線が一点に集中する。
 俺は、カッと頬を赤く染めお腹を押さえた。それでもまだ腹の音は収まらない。
「こ、これは、その!! お腹減ってるから!!」
「ぷっ……」
「へ?」
 噴き出したのは、先ほどから反応が薄い西浦くんだった。
「先輩ちっちゃいのに、お腹の音はおっきいんですね」
「ち、ちっちゃいって言わないで」
「そんなにお腹が減っているなんて思いませんでした」
 西浦くんはそう言うと「ちょっと待っててください」と東田くんの腕を振り払い、レジにパンを持って行った。そして、ものの数秒で返ってくると俺の前で袋をぺりぺりと開き始める。
「はい、先輩。さすがに全部はあげれませんけど、耳でいいならどうぞ」
 西浦くんは、俺の目の前でくまちゃんパンの耳をちぎってみせた。
 丸い耳からはトロりとカスタードクリームがのぞく。その美しい黄金のカスタードクリームに、ごくりとつばを飲み込む。
「い、いいの?」
「先輩。まだまだ成長期は終わりじゃないです。なので、これ食べてもう少し大きくなってください」
(ど、同情されてる!?)
 背が低いことはそれなりにコンプレックスだったため、そこを刺激されたのはかなり精神的ダメージが来た。
 でも、善意で言ってくれているのだからと耐える。ここは我慢だ。
 それから、ちらりと西浦くんの顔を見る。
(やっぱり、笑ってない)
 先ほど噴き出した一瞬だけ笑った気がしたが、彼の顔は相変わらず何を考えているか分からない仏頂面だ。
 彼の友だちの東田くんは表情が分かりやすいのに、まるで石のようだ。ジッと見つめてくるその目も少し怖い。
「食べないんですか?」
「た、食べる。ありがたく、食べる!」
「ありがたく食べるって。はい、どうぞ」
 西浦くんは手の上にちぎった耳を乗せる。彼の手は俺の両手を包み込んでしまうくらい大きかった。
 俺は、ふわっと香ったカスタードの匂いにうっとりしながら一口かぷっとかぶりつく。
「ん、んんんん~~~~!!」
 口の中に入れた瞬間広がった甘味に頬が落ちそうになる。
(表面はサクサクしているのに、中はフワフワで、カスタードクリームの甘みも絶妙で最高!!)
「おいひぃ~~」
 思わず口から洩れるほどの美味しさに、感動する。
「西浦、お前優しすぎだろ」
「別に。先輩が困ってたから助けただけ」
「そう言ってさあ。あの先輩かわいいからじゃね? お前、ああいうのタイプなの?」
「………………一口ちっちゃ」
「おーい、西浦。俺の話無視すんなー?」
 一口、また一口と食べ進める。
 食べていくうちに減っていくくまちゃんパンの耳に、喪失感を覚えつつ、最後の日と口を口に入れた。一段とゆっくりと咀嚼し、ごくりと飲み込む。
「美味しかった。西浦くん、ありがとう」
「いえ。困ったときはお互い様ですから」
「うん。じゃあ、俺は西浦くんが困ってたら助けるね」
「………………そうですか」
 西浦くんはどこか歯切れ悪そうにそう言って、ふいっと顔を逸らした。
 もしかしてシャイなのかもしれない。そんなことを思っていると、後ろで怯えていた伊佐治くんが「まーちゃん、口にクリームついてる」と俺に指を伸ばした。
 しかし、それよりも早く西浦くんの指が俺の唇の端を掠めた。
 彼のきれいな指先に黄色いカスタードクリームが乗っている。それを目で追っていれば、彼はぱくりとそのカスタードクリームを食べた。
「ん、甘い」
「に、西浦くん?」
 一瞬大きく心臓が跳ねた。
 彼の赤い舌が、きれいな形の口から覗く。その行動一つ一つにくぎ付けになってしまう。
 後ろでは「さすがは女の子の影がちらつく男の一人」と右田くんが言っていた。
 でも、その声が遠く聞こえるほど、今されたことに頭が追い付かなかった。
 そんなふうに見惚れていれば、伊佐治くんが「学食! 学食移動しよ。まーちゃん」と声をかけてきたため、反射的に「うん」と返してしまった。
「あ、西浦くんありがとう。パンごちそうさま」
 ちゃんとお礼は言わなきゃ、と頭を下げ、先を歩く二人に「待って」と言いながら走る。
「西浦お前、少女漫画でも見て勉強しての?」
「――名前」
「ん?」
「先輩の名前、聞いときゃよかった」
 後ろで二人の会話が聞こえた気がしたが、俺のはわざわざ聞きに戻ることはしなかった。

◇◇◇

(すごい、いい子だったな。西浦くん)
 ああいうのを王子さまっていうのだろうか。
 俺は、彼が触れたところに手を当てながら歩く。
「間中、遅い」
「いや、右田がまーちゃん置いて、あいつらから逃げるように歩き出したんだろ」
「モテる男と一緒にいたら、俺のモテレベルまで吸い取られるかと思って」
「アホか。お前のレベルは万年ゼロだよ!」
「二人ともごめん。結局、パンゲットできなかった」
 購買からちょっと歩いたところにある学食に向かいながら、二人に謝った。元はと言えば、俺がパン争奪戦でパンをゲットしてくるはずがあんなことになってしまったのだから。
 道中の渡り廊下で足を止めれば、二人も足を止め、顔を見合わせて「気にすんな」と言ってくれる。
「つーか、間中すげえな。あの西浦に話しかけに言ってさ」
「さっきも言ってたけど、西浦くんって有名なの?」
「有名ってか、西浦と同じ部屋の三人が有名? いや、あいつも目立つけどさあ……てか、間中顔赤くね?」
「え?」
 右田くんに指摘され俺は自分の頬に手を当ててみる。確かに、俺の頬は少し暖かく火照っているみたいだ。
 心なしか、心臓もドキドキと早鐘を打っているような気がする。
(あれ、何でだろう?)
 そして、何故か頭の中に西浦くんの顔が浮かんできて、心臓に胸を当てながら首をこてんと傾げた。
「でもまあ、学年違うし、そう簡単に会える相手でもないだろ。会っても嬉しくねーし」
「会えないかな」
「寮に行けば……いや、まーちゃんやめときなよ。あそこ臭いよ」
 二人は全力で止めにかかるが、ますます西浦くんのことが気になってきてしまった。しかし、二人の言う通り学年も違う、通学生でもない西浦くんともう一度会うのは難しいだろう。俺たちもたまたま今日だけ購買に行っただけだし。
(会えないかな。お礼、したいんだけどな)
 未だに目の前の二人は「男子校でモテるやつとか意味わかんねー」と、彼にもう二度と会いたくないようなことを言っていた。
 俺はもう一度会いたいのに、接点がこれと言ってないのが悔やまれる。
「二人とも、学食行こ」
「お、そーだな。間中! あいつらいなくなったら腹減ってきたわ。飯だ飯~」
「右田って頭の中筋肉でできてそうだよな」
「伊佐治くん、すんごい悪口だよ」
 そんな他愛もない話をしながら学食に向かう。
 もう一度くらいは西浦くんに会いたいな、と思ったが望みは薄そうだ。
 そう思っていたのに――

◇◇◇

「先輩」
 そう言った西浦くんは相変わらずの無表情だった。
 あの出来事から一週間。忘れたころに彼はあのくまちゃんパンを持って、俺たちの教室を訪ねてきた。
 思わぬ訪問者に胸が高鳴る。会いたいと思っていたらあっちから会いに来てくれた。
「あ、西浦くん。お久しぶり」
「お久しぶりです。先輩」
 何を考えているかよくわからない顔。でも、彼の手には似つかないかわいらしいあのくまちゃんパンが握られていたのだった。