薄曇りの午後、図書室の窓はひどく鈍い光を返していた。春だというのに、校庭の桜はまだ半分しか咲いていない。まるで、誰かが開花のタイミングを間違えたみたいに。
私はその窓際の席で、本を読んでいるふりをしていた。
頁はきちんとめくられていく。けれど、文字はひとつも体内に入ってこない。 。視界の端で、彼女——結城真帆が、カウンターの前で司書の先生と話しているのを、ただ、見ていた。
真帆はずっと笑っていた。けれど、その笑顔はほんの少しだけ、ずれている。
あの子がいなくなったのは、三日前のことだ。
同じクラスの佐伯遥は放課後、部活に行くと言って教室を出たきり、家に帰らなかったらしい。警察も来たが、先生たちは「自発的な可能性が高いから事件性はない」と、感情を含まない声で繰り返すだけだった。 でも、わたしたちは知っている。遥は、誰にも言わずにいなくなるような子じゃない。そして、遥が最後に言い争っていたのは、真帆だった。
——ねえ、あのこと、みんなに言うつもり?
廊下の隅で、確かにそう聞こえた。私は靴音を殺し、息を止めた。聞いてしまった。聞いてしまったのに、聞かなかったふりをした。ページをめくる音が、やけに大きく響く。
真帆がこちらを見る。一瞬、目が合った。
その瞬間、胸の奥に氷のような冷たいものが落ちた。溶けていくたびにその氷が全身を巡り、私の身体を震わせる。
私は、真帆の秘密を知っている。正確には、「秘密かもしれないもの」を知っている。
先週の金曜日のことだ。
放課後の音楽室で誰もいないはずの部屋から、ピアノの音がしていた。私は気になって扉の隙間から覗きに、そこから見えたのは、真帆と遥が向かい合って立っている姿だった。
真帆の声は酷く震えていた。
「どうして、そんなこと言うの」
遥は、泣きそうな顔で笑っていた。
「だって、みんな知ったほうがいいよ」
そのあと、何があったのかは見ていない。私は怖くてなって、その場を離れてしまったから。
だから、私は“決定的な瞬間”を知らない。知らないはずなのに。
もし、真帆が何かをしたのだとしたら。もし、遥が自分から消えたのだとしたら。
どちらにしても、私はあのとき、扉を開けなかっただろう。
図書室の時計が四時を告げると、真帆がゆっくりとこちらに歩いてくる。
「……何読んでるの?」
穏やかな声。けれど、その奥に探るような色がある。
「ミステリー」
とっさにそう答える。実際は、タイトルすら覚えていない。
「ふうん。犯人、もうわかった?」
その問いに、心臓が跳ねた。わたしは曖昧に笑う。
「全然。たぶん、いちばん疑われてない人だと思う」
真帆の表情が、ほんの一瞬だけ凍る。それを、私は見逃さなかった。でも。
本当に疑われていないのは、誰だろう。
遥と最後に言い争った真帆?それとも、すべてを聞いていながら、何もしなかったわたし?
真帆は、わたしの向かいの席に座り、両腕を立ててそこにちょこんと、擬音が付くくらいに顎を乗せる。
「ねえ」と、彼女は言う。その声は、あまりにも静かで、あまりにも優しかった。
「愛香ちゃん、何か知ってるよね?」
窓の外で、ようやく一輪、桜が開いた。私はその花を見つめながら、思う。
——物語の犯人は、たいていひとりだ。
でも、現実はどうだろう。あの日、扉を開けなかった私もまた、共犯者なのかもしれない。
黒曜石みたいに光を吸い込んでいる真帆の瞳が、私から逃げ場をなくしていく。
本棚の隙間にたまった埃まで息をひそめているみたいに図書室は静かだった。
「愛香ちゃん、何か知ってるよね?」
真帆は笑っている。笑っているのに、まばたきをしない。その目が、わたしの喉元を測るみたいに細い。
「知らないよ」
そう口に出した瞬間、自分の声がひび割れた陶器みたいに乾いているのがわかった。
嘘をつくのは、こんなに簡単だっただろうか。もっと苦く苦しいものだと思っていた。こんな風に、するりと喉を通ってしまうものだったのか。
窓の外で、風が桜を揺らす。咲ききらない花びらが、枝にしがみついたまま震えている。
「そっか」
真帆はあっさりと引いき微笑む。けれど、その笑みはやはり、どこか半音ずれている。
あまりにあっさりで、私の中で用意していたいい訳が行き場をなくして崩れた。問い詰められる覚悟までしていたのに。
不意に沈黙が落ちる。図書室の時計の秒針だけが、やけに律儀だった。ひとつ、ひとつ、私の鼓動と少しずれて進む。
あの日の音楽室も、こんなふうに静かだった。
ピアノの蓋は閉じられていたのに、確かに音がしていた単音。間違えた指づかいみたいな、弾き損ねたみたいな、不自然な間。
—どうして、そんなこと言うの。
震えていたのは真帆の声だった。
でも、怯えていたのはどちらだったのか、今となっては曖昧だ。怖がっていたのは、もしかしたら私の方だったかもしれない。
扉の隙間から、ふたりの影だけをじっと見ていた。
夕方の逆光で、顔はよく見えなかった。ただ、遥が一歩前に出たのはわかった。
それから。
——みんな知ったほうがいいよ。
そのあと、何があったのか。
本当に、わたしは知らないのだろうか。
何かが倒れる鈍い音、どたどたともめ合うような足音。それとも、譜面台が揺れただけ?
思い出そうとするたびに耳の奥がぎゅっと縮む
「遥さ」
真帆が、ふいに名前を出す。
「最近、変だったよね」
わたしは顔を上げる。
「変って?」
「なんていうか……思いつめてる感じ?誰かに相談してたのかなって」
その言葉は、私の胸の奥の、まだ触れられたくない場所を正確に擦る。
あの日の昼休み、遥は私に何か言いかけて、やめた。
それを私は気づかないふりをして、意識してパンの袋を開ける音を立てた。
——今じゃなくていいや。
そう言ったのは、どっちだっただろう。
「ねえ」
真帆が机から少し身を乗り出す。
「愛香ちゃんは、遥と仲良かったよね」
否定しようとして、できなかった。
仲が良い、というほどではない。でも、悪くもなかった。
少なくとも、助けを求めるかもしれない声を聞き流せる距離ではなかった。
「もしさ」
真帆の細い指先が、机をとん、と叩く。
「遥が、自分からいなくなったとしたら?」
その仮定は、やけに整い過ぎているように聞こえた。
「……どうして、そう思うの」
「だって、事件じゃないって先生たち言ってたし」
先生たちの声が蘇る。
——自発的な可能性が高い。
感情を削いだ言葉は、便利で清潔で、誰の責任も指ささない。でも、本当にそうだろうか。
真帆は、わたしの目をまっすぐ見る。
「誰のせいでもないってこと、あると思う?」
その問いは、刃物みたいに薄い。
誰のせいでもない。
それはつまり、誰のせいでもある、ということだ。
わたしは、あの日、扉を開けなかった。
遥が何を言おうとしていたのか、聞かなかった。
真帆が何を隠しているのか、確かめなかった。
何もしていない。
何も。
司書の先生が図書室の扉が開き、風が入り込む。
「愛香ちゃん」
真帆が、囁く。
「本当に、何も知らない?」
その瞬間、わたしはようやく理解する。
真帆は、責めに来たのではなく確かめに来たのだ。
私がどこまで聞いていたのか。
どこまで見ていたのか。
そして——どこまで、黙っていられるのか。
本を閉じると表紙に印刷された題名がくっきり視界に入る。そこには、犯人の名前がもう書かれていた。
でも、私はまだ最後のページを読んでいない。
「ねえ、真帆」
自分の声が、遠く感じる。
「もし、私が何か知ってたら、どうする?」
真帆は少しだけ首を傾げる。あまりにも無垢であどけない仕草だった。
「どうもしないよ。だって——」
彼女は笑う。
「愛香ちゃんは、何もしない人でしょ?」
秒針が、四時十分を刻む。
図書室は静まり返っている。
けれど、どこかでまた、あの単音が鳴った気がした。
閉じられたはずのピアノの、触れていない鍵盤の音。
わたしは目を伏せる。
扉を開けなかったあの日から、物語はずっと、同じ頁をめくり続けている。
犯人は、まだ決まらない。
——決めないのは、私かもしれない。
私はその窓際の席で、本を読んでいるふりをしていた。
頁はきちんとめくられていく。けれど、文字はひとつも体内に入ってこない。 。視界の端で、彼女——結城真帆が、カウンターの前で司書の先生と話しているのを、ただ、見ていた。
真帆はずっと笑っていた。けれど、その笑顔はほんの少しだけ、ずれている。
あの子がいなくなったのは、三日前のことだ。
同じクラスの佐伯遥は放課後、部活に行くと言って教室を出たきり、家に帰らなかったらしい。警察も来たが、先生たちは「自発的な可能性が高いから事件性はない」と、感情を含まない声で繰り返すだけだった。 でも、わたしたちは知っている。遥は、誰にも言わずにいなくなるような子じゃない。そして、遥が最後に言い争っていたのは、真帆だった。
——ねえ、あのこと、みんなに言うつもり?
廊下の隅で、確かにそう聞こえた。私は靴音を殺し、息を止めた。聞いてしまった。聞いてしまったのに、聞かなかったふりをした。ページをめくる音が、やけに大きく響く。
真帆がこちらを見る。一瞬、目が合った。
その瞬間、胸の奥に氷のような冷たいものが落ちた。溶けていくたびにその氷が全身を巡り、私の身体を震わせる。
私は、真帆の秘密を知っている。正確には、「秘密かもしれないもの」を知っている。
先週の金曜日のことだ。
放課後の音楽室で誰もいないはずの部屋から、ピアノの音がしていた。私は気になって扉の隙間から覗きに、そこから見えたのは、真帆と遥が向かい合って立っている姿だった。
真帆の声は酷く震えていた。
「どうして、そんなこと言うの」
遥は、泣きそうな顔で笑っていた。
「だって、みんな知ったほうがいいよ」
そのあと、何があったのかは見ていない。私は怖くてなって、その場を離れてしまったから。
だから、私は“決定的な瞬間”を知らない。知らないはずなのに。
もし、真帆が何かをしたのだとしたら。もし、遥が自分から消えたのだとしたら。
どちらにしても、私はあのとき、扉を開けなかっただろう。
図書室の時計が四時を告げると、真帆がゆっくりとこちらに歩いてくる。
「……何読んでるの?」
穏やかな声。けれど、その奥に探るような色がある。
「ミステリー」
とっさにそう答える。実際は、タイトルすら覚えていない。
「ふうん。犯人、もうわかった?」
その問いに、心臓が跳ねた。わたしは曖昧に笑う。
「全然。たぶん、いちばん疑われてない人だと思う」
真帆の表情が、ほんの一瞬だけ凍る。それを、私は見逃さなかった。でも。
本当に疑われていないのは、誰だろう。
遥と最後に言い争った真帆?それとも、すべてを聞いていながら、何もしなかったわたし?
真帆は、わたしの向かいの席に座り、両腕を立ててそこにちょこんと、擬音が付くくらいに顎を乗せる。
「ねえ」と、彼女は言う。その声は、あまりにも静かで、あまりにも優しかった。
「愛香ちゃん、何か知ってるよね?」
窓の外で、ようやく一輪、桜が開いた。私はその花を見つめながら、思う。
——物語の犯人は、たいていひとりだ。
でも、現実はどうだろう。あの日、扉を開けなかった私もまた、共犯者なのかもしれない。
黒曜石みたいに光を吸い込んでいる真帆の瞳が、私から逃げ場をなくしていく。
本棚の隙間にたまった埃まで息をひそめているみたいに図書室は静かだった。
「愛香ちゃん、何か知ってるよね?」
真帆は笑っている。笑っているのに、まばたきをしない。その目が、わたしの喉元を測るみたいに細い。
「知らないよ」
そう口に出した瞬間、自分の声がひび割れた陶器みたいに乾いているのがわかった。
嘘をつくのは、こんなに簡単だっただろうか。もっと苦く苦しいものだと思っていた。こんな風に、するりと喉を通ってしまうものだったのか。
窓の外で、風が桜を揺らす。咲ききらない花びらが、枝にしがみついたまま震えている。
「そっか」
真帆はあっさりと引いき微笑む。けれど、その笑みはやはり、どこか半音ずれている。
あまりにあっさりで、私の中で用意していたいい訳が行き場をなくして崩れた。問い詰められる覚悟までしていたのに。
不意に沈黙が落ちる。図書室の時計の秒針だけが、やけに律儀だった。ひとつ、ひとつ、私の鼓動と少しずれて進む。
あの日の音楽室も、こんなふうに静かだった。
ピアノの蓋は閉じられていたのに、確かに音がしていた単音。間違えた指づかいみたいな、弾き損ねたみたいな、不自然な間。
—どうして、そんなこと言うの。
震えていたのは真帆の声だった。
でも、怯えていたのはどちらだったのか、今となっては曖昧だ。怖がっていたのは、もしかしたら私の方だったかもしれない。
扉の隙間から、ふたりの影だけをじっと見ていた。
夕方の逆光で、顔はよく見えなかった。ただ、遥が一歩前に出たのはわかった。
それから。
——みんな知ったほうがいいよ。
そのあと、何があったのか。
本当に、わたしは知らないのだろうか。
何かが倒れる鈍い音、どたどたともめ合うような足音。それとも、譜面台が揺れただけ?
思い出そうとするたびに耳の奥がぎゅっと縮む
「遥さ」
真帆が、ふいに名前を出す。
「最近、変だったよね」
わたしは顔を上げる。
「変って?」
「なんていうか……思いつめてる感じ?誰かに相談してたのかなって」
その言葉は、私の胸の奥の、まだ触れられたくない場所を正確に擦る。
あの日の昼休み、遥は私に何か言いかけて、やめた。
それを私は気づかないふりをして、意識してパンの袋を開ける音を立てた。
——今じゃなくていいや。
そう言ったのは、どっちだっただろう。
「ねえ」
真帆が机から少し身を乗り出す。
「愛香ちゃんは、遥と仲良かったよね」
否定しようとして、できなかった。
仲が良い、というほどではない。でも、悪くもなかった。
少なくとも、助けを求めるかもしれない声を聞き流せる距離ではなかった。
「もしさ」
真帆の細い指先が、机をとん、と叩く。
「遥が、自分からいなくなったとしたら?」
その仮定は、やけに整い過ぎているように聞こえた。
「……どうして、そう思うの」
「だって、事件じゃないって先生たち言ってたし」
先生たちの声が蘇る。
——自発的な可能性が高い。
感情を削いだ言葉は、便利で清潔で、誰の責任も指ささない。でも、本当にそうだろうか。
真帆は、わたしの目をまっすぐ見る。
「誰のせいでもないってこと、あると思う?」
その問いは、刃物みたいに薄い。
誰のせいでもない。
それはつまり、誰のせいでもある、ということだ。
わたしは、あの日、扉を開けなかった。
遥が何を言おうとしていたのか、聞かなかった。
真帆が何を隠しているのか、確かめなかった。
何もしていない。
何も。
司書の先生が図書室の扉が開き、風が入り込む。
「愛香ちゃん」
真帆が、囁く。
「本当に、何も知らない?」
その瞬間、わたしはようやく理解する。
真帆は、責めに来たのではなく確かめに来たのだ。
私がどこまで聞いていたのか。
どこまで見ていたのか。
そして——どこまで、黙っていられるのか。
本を閉じると表紙に印刷された題名がくっきり視界に入る。そこには、犯人の名前がもう書かれていた。
でも、私はまだ最後のページを読んでいない。
「ねえ、真帆」
自分の声が、遠く感じる。
「もし、私が何か知ってたら、どうする?」
真帆は少しだけ首を傾げる。あまりにも無垢であどけない仕草だった。
「どうもしないよ。だって——」
彼女は笑う。
「愛香ちゃんは、何もしない人でしょ?」
秒針が、四時十分を刻む。
図書室は静まり返っている。
けれど、どこかでまた、あの単音が鳴った気がした。
閉じられたはずのピアノの、触れていない鍵盤の音。
わたしは目を伏せる。
扉を開けなかったあの日から、物語はずっと、同じ頁をめくり続けている。
犯人は、まだ決まらない。
——決めないのは、私かもしれない。

