二月に入り、飛鳥は同じクラスの女子生徒・浅野から、廊下でこっそり話しかけられた。あとで聞きたいことがあるという。
昼休みになり、棚田たちにはカフェテリアに先に行ってもらった。飛鳥は廊下の隅で女子三名に取り囲まれ、殿井は誰かと付き合っているのかと問い詰められた。
コーナーに追いやられた飛鳥は、タジタジとなりながら、「……いないみたいだよ。でも、好きな人?は、いる……っぽいのかなー?」と曖昧に言ってヘラヘラと笑った。
言いながら、ま~それ俺なんだけどさ、と心の内でつぶやき、小さい優越感と罪悪感を感じた。
「殿井くん、今年最後だからさ、ほかのクラスでも告る子いるみたい」
5組の女子が横にいる浅野に深刻そうに言うので、飛鳥は目を丸くして「なにが最後なの?」と聞いた。
「だって殿井くん、二年からアメリカ行っちゃうんでしょ?」
「えっ?」
「え?鈴本知らないの?一番仲いいんでしょ?」
浅野が驚いた顔で言った。その横にいた女子が、「ほかのクラスの人も、結構知ってると思うよ」と言った。
2月14日、殿井は朝から緊張していた。
昼、カフェテリアに向かおうとするところで1組の女子に呼び止められ、放課後に会う約束をさせられそうになったが、明日にしてくれ、と言って振り切った。
途中、棚田たちのグループに追いつき、飛鳥におずおずと声をかけた。ここのところ、飛鳥はまたほかの人間としゃべっていることが多く、話す機会が取れなかった。
飛鳥は、「なに?」と無表情で答えた。今まで見たことのない様子に殿井は驚いたが、臍のあたりにぐっと力を込め、今日の放課後、飛鳥の家に行ってもいいかと殿井は聞いた。
「うーん、俺放課後いそがしいし。知ってるよね?ムリ」
「あ、あのさ、竜太とか遊馬にも、あげたいんだ」
「え?なにあげんの?」
「……ケーキ」
飛鳥は黙っていた。
「……あの、家、行ってもいいかな?迷惑かな……」
飛鳥はぷいっと顔を背け、殿井を無視してカフェテリアと反対側に歩き、教室に戻っていってしまった。棚田が振り返り、飛鳥に声をかけた。
「教室で食べる〜」と飛鳥が振り向かずに大声で答えた。
殿井はいったん家に帰ると、紙袋をとって駅へと急ぎ、二駅先で降りて飛鳥の家に向かった。去年の夏以来の街並みに、殿井は緊張のあまり腹が痛くなってきた。
これまで知識として、この時期にチョコレートが売れているということは知っていたが、まさか自分が関わることになるとは、思ってもいなかった。
アパートの外の階段をのぼり、インターホンを押すと、中から竜太が出てきた。
「カゲカツじゃん!どしたの?」
突然の訪問に喜ぶ竜太に、殿井は「これ食えよ」と言ってさっと紙袋を渡した。
「アスカはねー、もうすぐ帰るな。今買いもん行ってるから」
家に入れという竜太に、殿井は「これで帰るよ」と言い、遊馬が出てくる前に急いでドアから離れた。
そのときちょうど、向こうからスーパーの袋を下げて歩いてくる飛鳥が見えた。
殿井は階段を一段飛ばしで下り、走っていって前から飛鳥に声をかけた。下を向いて歩く飛鳥がその声に顔を上げ、殿井の姿に少し驚いた。
「あ……あのさ、さっき、竜太に渡したから、よかったら、食べて」
「……なにを?」
「焼き菓子……」
殿井は下に目を泳がせながら行った。飛鳥は憮然とした表情でその様子を見ていた。
「……もらいもん?ならタナたちにも……」
「違うよ、作ったんだよ」
殿井の言う意味がわからなかった飛鳥は、ムスッとした顔で殿井の横を通り過ぎ、さっさと家に向かおうとした。
「あ、あのさ、アスカ……なんか怒ってる?」
その言葉に飛鳥の足がピタッと止まった。くるっと振り返った。
「なんでいっつも俺にはなんも言ってくれないんだよ!」
「……え?」
眉間にシワを寄せて怪訝な顔をする殿井に向かって、飛鳥がさらに続けた。
「アメリカ行くってなんだよ!俺、知らねーし!」
殿井の顔がさっと青ざめた。
「……誰から聞いた?」
「誰でもいーだろ!みんな知ってんだってな!俺は知らなかったけど!」
殿井は下を向いてしばらく黙った。二人の横を何台か車が過ぎていった。殿井は顔をあげて、飛鳥の目を見ながら言った。
「ごめん、俺、終業式の日、言おうと思ったんだけど、アスカにちゃんと目見て話すまではダメだって言われてさ」
飛鳥は全身の血が逆流するように思った。
「俺、いっつもアスカにちゃんと話、できなくてさ、ごめん。棚田たちには12月には言ってたんだ。……でも、あのときも、アスカ、怒ってたし、終業式の時まで言えなくて」
殿井の眉がギュッと寄せられたが、いつもと違って悲しそうな表情になっていた。
正面を向き、目を見ながら話すその顔が、飛鳥からよく見えた。殿井は、いつも飛鳥を怒らせてしまう自分に嫌気がさした。
「ごめん……俺、自分で言いたかったから、みんなには黙っててもらったんだ。目見て話せるようになるまで」
「……なんだよ!そういうのなら、普通話は別だろ!なんで黙ってたんだよ!そんなの、目合わせてとか、カンケーないじゃん!」
飛鳥の言うことが飲み込めず、殿井は眉を寄せて俯いた。
飛鳥は自分が大きな勘違いをしていたことに、とめどない恥ずかしさと後悔を感じた。時間を無駄にした自分への怒りと、殿井に対する八つ当たりで、意味がないとわかっているにも関わらず怒鳴った。
「なんだよ!もう会えなくなるんだったら、なんか言うことないのかよ!もういいよ!バカ!バカ!バカ!もう知らねーよ!」
飛鳥は涙をにじませて口を結び、走って家まで帰った。殿井は呆然とその後ろ姿を見送った。
それ以来、飛鳥は殿井に謝ろうと機会をうかがっていたが、きっかけがつかめなかった。殿井も飛鳥を避けているらしく、菜園にももう来なかった。昼もカフェテリアには来なかった。
三月の最初の土曜日、飛鳥は授業が終わった後で、これからの栽培計画をバイオに説明していた。作った表を見ながら、殿井とふたりでこの一年作業していたことをふと思い出し、話しながら急に涙が溢れて止まらなくなった。
「……うわビビった」
突然泣き出した飛鳥を見て徳田が身を引き、バイオが心配そうに声をかけた。
「殿井くんのこと?」
飛鳥は目を擦りながらうなずいた。
「仲よかったもんねぇ。殿井くんも、鈴本くんのこと、大好きだったもんねぇ」
バイオはうんうんとうなずきながら、「よし!次の号は環境から離れて、脳の不思議スペシャルにしよう!」と徳田に向かって言った。徳田が力強くうなずいた。
3月14日、殿井は朝から緊張していた。
前日に飛鳥から、放課後家に行っていいかメールで聞かれたのだ。もちろん二つ返事でOKしたものの、朝から何もものが喉を通らなかった。先月以来、飛鳥とは顔も合わせていない。
飛鳥の言う通り、こんなふうになるのだったら、早く言えばよかったと何度も後悔した。自分の口からちゃんと伝えたかった。
もう起きたことは「なかったこと」にできないし、過ぎた時間は取り戻せない。それは両親からよく言われていたことだったのに、自分にはその意味が本当の意味ではわかっていなかったのだと思った。
殿井は、アメリカに行ったあとも、ちょこちょこ帰ってくるつもりでいた。だが飛鳥に「もう会えなくなる」と言われて、それが「普通」の感覚だったと突きつけられた。
そしてもう飛鳥と高校に通えることはないのだと思うと、時間を巻き戻して、あの終業式の日からやり直したいと思った。いや、もっと前の、去年この学校に転入したときからやり直したかった。
転入したときから、普通に飛鳥と話せていたら。でもただ時間が戻ったって、結局また同じことの繰り返しになるだけだ。いったいいつまでさかのぼってやり直せばいいのだろう。もっと他の人と同じように、普通に、気兼ねなく、明るく話して、楽しく過ごせればいいのに。
殿井は生まれて初めて、人と自分を比べた。こんなふうにしか人と接することのできなかった自分が情けなく、恥ずかしく、そんな自分が大嫌いだった。
授業が終わると、昇降口で飛鳥が待っていた。一緒に駐輪場に行き、飛鳥が自転車を押しながら、校門を出た。しばらく黙ったまま並んで歩き、学校から離れたところで飛鳥が口を開いた。
「この前、ごめんね。……ずっとごめん。二月、俺ずっと怒ってたかも。もう話せなくなるのにさ。ほんと俺バカだよなー。なのにケイにバカバカ言っちゃった」
飛鳥が笑った。
「あのさ、ケイがくれたケーキとかブラウニー?とか、すげーうまかったよ。あれ、ケイが作ったの?ケイってお菓子作れんの?」
「……練習したんだよ」
そう言って、殿井の顔が真っ赤になった。その様子を見て、飛鳥はよし、と自信を強めた。
殿井の家に着くと、飛鳥は部屋に入るなり、「じゃーん!」と言って、胸ポケットから何かを取り出した。
「え?……なに?」
殿井が、飛鳥の手に握り締められた白い綿棒を見ながら、怪訝な顔をした。
「バレンタインのお返しに、耳かきしてやるよ!」
「え?……いやいいよ!そのくらい自分でやるよ!」
耳まで真っ赤になる殿井を見て、飛鳥は「いーからいーから」と言って床に正座し、パンパンと自分の腿をたたいた。
「だって、俺お菓子とか作れないし、なんか買うカネもないし、なら体で返すしかないじゃん?」
飛鳥が大笑いして言った。
「俺の耳かきテクはすごいかんな!竜太もいまだにやったげてるし」
飛鳥から目をそらし、ひたすら明後日の方を向く殿井を見て、飛鳥は立ち上がり両肩をバンっと掴んだ。
「まだ入れてないのに体動かすな!危ないだろ!」
「……ごめん」
飛鳥に膝枕してもらっているという事実で、すでに殿井の精神は崩壊しそうだった。
耳元に綿棒の感覚がきただけで、殿井の体はびくっと動いてしまう。心臓は激しく脈打ち、壊れそうだった。
飛鳥はそっと入り口を一撫でした。また殿井の体がびくっと動いた。
そしてくるくると綿棒が穴の周りをなぞり、飛鳥はそろそろと慎重に動かした。殿井の体に柔らかい快感が広がった。飛鳥は奥のほうに綿棒を入れていった。
「気持ちいい?」
「ん……」
殿井は緊張と恥ずかしさと嬉しさでいっぱいになり、頭がぼんやりとした。
飛鳥は穴の奥まで見えるように、耳たぶを引っ張った。飛鳥の指の感触に殿井はさらに緊張した。
「うーんなんかある気がする」
飛鳥はそう言って、綿棒をさらに奥まで入れた。
「っ……!」
殿井が思わず声を漏らした。
「ゴメン、痛かった?」
「いや大丈夫……」
「奥まで入れすぎたかな」
そう言って飛鳥は綿棒をゆっくり上下させた。殿井が息を吐いた。
「あ……」
「気持ちいい?」
「うん……」
「どこらへんがいい?」
「もっと入り口のほう」
「ここ?」
「うん、あ、そのへん……」
また殿井がかすかに声を漏らした。飛鳥がたまらず言った。
「ケイ、なんかエロい声だすなよ!」
「出してねーよ!」
殿井が思わず声を荒げた。恥ずかしさを隠したかった。
「ハイ、はんたーい」
飛鳥が殿井の肩を叩き、反対側の耳を向けさせた。そしてさっきと同じように綿棒で耳掃除をしてあげた。
飛鳥の股に顔を埋めるような姿勢になり、殿井は快感と理性の狭間で揺れ動いた。
「気持ちいい?」
飛鳥が殿井の耳元で囁いた。
「うん……すげえいい」
「うまいっしょ?」
「うん最高」
綿棒で内壁を優しく擦り続けられて、殿井の体が弛緩した。
「あ……」
殿井が声を漏らした。
「こんなん、人にしてもらわないから、ヤバい」
殿井がつぶやいた。
「自分でやるだけだもんね」
そう言って、飛鳥は殿井の頭を固定する手を滑らせ、そっと頭を撫でた。
飛鳥は、このリラックスした流れで、殿井が次に何を言うか、内心緊張と期待でドキドキとした。
殿井に言わせるために、わざわざ綿棒を持ってきたのだ。
しかしいくらやっても殿井が何か言う気配はない。あまりやりすぎてもよくないので、とりあえず終わりにしようと思った。
「ハイ、終了~」
飛鳥の声に目を開けた殿井は、目の前にジッパーがあるのを見て再び赤面した。飛鳥がその様子を見て、そっとかがみこみ、耳にふっと息を吹きかけた。
殿井がぱっと上を向き、驚いた顔で飛鳥を見た。飛鳥はそれを見て笑った。
「からかうなよ!」
殿井が耳を押さえながら起き上がった。
「最後の仕上げだよ!」
飛鳥は腹を抱えて笑った。笑いながら、自分の目を見て話せるようになった殿井を見て、なんだよ今さら、と思った。何も言わない殿井にやきもきした。そしてもう会えなくなることへの悲しさが胸にこみ上げた。
笑うのをやめてふと俯く飛鳥の様子に、殿井がすぐに気づいた。
「アスカ?」
「……もうさ、会えないね」
「そんなことないよ、俺休みのときは帰ってくるし」
「でも家族で向こうに住むんでしょ?」
「うん……まぁそうだよ」
殿井は夏休みが明けてすぐの日のことを思い出した。突然のアメリカ行きを告げられたのは、両親がそろう日曜日の夕食の席だった。
「お母さんと前から話してはいたんだけど、目処がついたから」
「ベイエリアに出店できそうなのよ。お父さんも向こうの会社からちょうど誘われてたから、みんなで一緒に行こうって」
「ベンチャーキャピタルも多いし、人脈を広げるのにもいい」
「あなたも、そのままあっちの大学に行ったほうが将来的にいいわよ」
「向こうなら、お前の個性をそのまま受け止めてくれる環境がある。のびのび過ごせるぞ。あの辺は所得の高い層ばかりだし、環境もいい」
「そうそう、それに洞院の姉妹校があるから、もうおじいちゃんが手続きしてるわ」
殿井の母親は化粧品会社を経営していた。日本古来の植物成分を配合し、国産原料の使用を謳うメーカーで、直営店舗は全国主要都市にあり、そのほか各デパートにも入っている。アジアへの出店の引き合いもあったが、環境や健康に意識の高いアメリカ西海岸での出店に母親はこだわっていた。
息子の意思を確認することなく、すらすらと話を進める両親を呆然と見ながら、殿井はようやく口を開いた。
「……俺、今の高校、楽しいよ。……俺は行きたくない」
「お前も凱風にそのまま行ってれば、こっちにお前だけ残してっていうのも考えたんだ。でも、お前、やっぱりなじめないって言ったじゃないか。せっかく入ったのにすぐやめて。結局ずっと同じ環境だ。それじゃ、この先、やっていけないぞ」
殿井は両親の勧めた学校を受験し合格したが、電車で都心部まで朝通うのが面倒くさく、結局高校を変わったのだった。
しかもその理由は両親に告げず、校風になじめないなどと適当なことを言った自分を、猛烈に呪った。
そして棚田が自分をワガママだと言った意味が、ようやく理解できた。
うなだれて座る飛鳥の目から、ポロポロと涙がこぼれた。
「……俺は、すぐ会いになんか行けないもん。ケイが来なかったら、もう会えないじゃん」
「絶対会いにくるよ。……俺、高校変わってやっぱりよかった。アスカに会えたんだもん」
泣くなよ、と言って殿井が飛鳥の頭に手を乗せた。飛鳥は手の甲で涙を拭った。後から後から涙が出てきた。
飛鳥は顔を上げて、殿井を見た。そのまま目があった。心配そうな顔で、飛鳥を見ていた。その瞬間、飛鳥は殿井にガバッと抱きついた。
「……どしたの」
しばらくして、殿井が声を絞り出すように言った。
「こんなときになんで目合わすんだよ!バカ!バカ!ほんとムカつくわ!」
「……アスカが目合わせろって言ったのに、なんで俺、怒られるの?」
「もういいよ!」
このままこうしていたら、もうそれでいいような気がした。でもこれからは、そばにはいられなくなる。
飛鳥は、自分がどうしたいのか、わからなかった。今まで、殿井にどう接していたのか、わからなくなった。そしてこれから、どう接してほしいのかも、わからなくなった。
でも最後だから、もうなんでもよくなった。殿井の口から、殿井の気持ちを聞きたかった。
最近、いつも殿井に怒っていた気がした。人に対して、そんなふうになったことは初めてだった。
殿井と一番に仲がいいのは自分だと思っていたくて、怒っていた。そして、殿井から、一番に好きだという言葉を聞きたくて、ずっと待っていたことに気がついた。
飛鳥は常にたくさんの人の中で過ごしていた。家でも、学校でも。みんなで仲良く、楽しく過ごせていたらそれでよかった。
その時々に合わせて、一緒にいる人間は変わったし、誰か特定の人間とだけ、ものすごく仲良くなりたいと思ったことなんてなかった。棚田や春山たちと、適当に騒いで遊んでいれば、それで充分だった。
でも殿井は違った。殿井と最初に仲良くなったのは、自分だ。だから、殿井の中で、本当は一番に自分のことを思っていてほしかった。
飛鳥は、自分の知らないアスカがいたことに気がついた。殿井の言った通り、知らない自分がいた。
飛鳥はギュッと体をくっつけた。殿井が飛鳥の頭を撫で、耳元でごめんと謝った。
「……俺、知ってるからな」
殿井の肩に頭を乗っけて、飛鳥が言った。
「ケイ、俺のこと」
「ストップ!」
殿井が飛鳥を強く抱きしめて飛鳥の目が白黒した。
「……俺が言います」
殿井は、大きく深呼吸をした。殿井の胸が広がり、またすぼまったのを感じて、飛鳥も緊張した。飛鳥は体を離し、殿井の顔をすぐそばから見た。
「俺、アスカと、最初に話したときから」
殿井は口の中に溜まった唾を飲み込んだ。なるべく飛鳥の迷惑にならない言い方を考えた。
「……ずっと、アスカが、憧れで……好き、でした。……ごめん」
「なんで謝んの」
「言わないでおこうと思ってたから。……困らせたくないし、また会いたかったから」
殿井の顔がすぐ目の前にあった。目が少し潤んでいた。
「……だから、友達になってくれる?」
「今までは違ったの⁉︎」
思わず飛鳥はツッコミをいれた。この流れで友達かよ、と飛鳥は思った。野球はたいしてできないが、三塁にスライディングしたが思い切りアウトになった気分だった。
「……じゃあ、付き合ってくれる?」
飛鳥は黙って殿井の耳を引っ張った。そして息をふっと吹きかけた。
「……っ!」
殿井が真っ赤になりながら、耳を押さえて飛鳥を見た。その様子を見て飛鳥が笑って言った。
「イエスに決まってるじゃん、バーカ」
「バカバカって、小学生かよ!遊馬と同じだな!」
殿井が怒ったように言った。普通にしゃべる殿井を見て、飛鳥が大笑いした。
「すぐ会いに来いよ。絶対だかんな!」
「向こう、9月始まりだから、冬にこっち来るよ。夏いっぱいは、向こうで英会話のスクール行くことになってる」
「そっか。……じゃ俺もがんばる。メールしろよ」
「うん、毎日メールする」
「このことは、二人の秘密だかんな!」
うん、と殿井が笑った。
飛鳥は口を尖らせ、ムッとした顔をした。その笑顔を他の人間に見せたくなくて、独り占めしたくて、殿井にまた抱きついた。
いつも下のきょうだいに分けるのが当たり前だった飛鳥は、初めて自分だけのものが欲しくなった。
自分だけが知っていることを、作りたかった。自分だけしか知らない、殿井のことを。
殿井の耳たぶを軽く噛んだ。柔らかい感触だった。
殿井の目の前が白くなった。
昼休みになり、棚田たちにはカフェテリアに先に行ってもらった。飛鳥は廊下の隅で女子三名に取り囲まれ、殿井は誰かと付き合っているのかと問い詰められた。
コーナーに追いやられた飛鳥は、タジタジとなりながら、「……いないみたいだよ。でも、好きな人?は、いる……っぽいのかなー?」と曖昧に言ってヘラヘラと笑った。
言いながら、ま~それ俺なんだけどさ、と心の内でつぶやき、小さい優越感と罪悪感を感じた。
「殿井くん、今年最後だからさ、ほかのクラスでも告る子いるみたい」
5組の女子が横にいる浅野に深刻そうに言うので、飛鳥は目を丸くして「なにが最後なの?」と聞いた。
「だって殿井くん、二年からアメリカ行っちゃうんでしょ?」
「えっ?」
「え?鈴本知らないの?一番仲いいんでしょ?」
浅野が驚いた顔で言った。その横にいた女子が、「ほかのクラスの人も、結構知ってると思うよ」と言った。
2月14日、殿井は朝から緊張していた。
昼、カフェテリアに向かおうとするところで1組の女子に呼び止められ、放課後に会う約束をさせられそうになったが、明日にしてくれ、と言って振り切った。
途中、棚田たちのグループに追いつき、飛鳥におずおずと声をかけた。ここのところ、飛鳥はまたほかの人間としゃべっていることが多く、話す機会が取れなかった。
飛鳥は、「なに?」と無表情で答えた。今まで見たことのない様子に殿井は驚いたが、臍のあたりにぐっと力を込め、今日の放課後、飛鳥の家に行ってもいいかと殿井は聞いた。
「うーん、俺放課後いそがしいし。知ってるよね?ムリ」
「あ、あのさ、竜太とか遊馬にも、あげたいんだ」
「え?なにあげんの?」
「……ケーキ」
飛鳥は黙っていた。
「……あの、家、行ってもいいかな?迷惑かな……」
飛鳥はぷいっと顔を背け、殿井を無視してカフェテリアと反対側に歩き、教室に戻っていってしまった。棚田が振り返り、飛鳥に声をかけた。
「教室で食べる〜」と飛鳥が振り向かずに大声で答えた。
殿井はいったん家に帰ると、紙袋をとって駅へと急ぎ、二駅先で降りて飛鳥の家に向かった。去年の夏以来の街並みに、殿井は緊張のあまり腹が痛くなってきた。
これまで知識として、この時期にチョコレートが売れているということは知っていたが、まさか自分が関わることになるとは、思ってもいなかった。
アパートの外の階段をのぼり、インターホンを押すと、中から竜太が出てきた。
「カゲカツじゃん!どしたの?」
突然の訪問に喜ぶ竜太に、殿井は「これ食えよ」と言ってさっと紙袋を渡した。
「アスカはねー、もうすぐ帰るな。今買いもん行ってるから」
家に入れという竜太に、殿井は「これで帰るよ」と言い、遊馬が出てくる前に急いでドアから離れた。
そのときちょうど、向こうからスーパーの袋を下げて歩いてくる飛鳥が見えた。
殿井は階段を一段飛ばしで下り、走っていって前から飛鳥に声をかけた。下を向いて歩く飛鳥がその声に顔を上げ、殿井の姿に少し驚いた。
「あ……あのさ、さっき、竜太に渡したから、よかったら、食べて」
「……なにを?」
「焼き菓子……」
殿井は下に目を泳がせながら行った。飛鳥は憮然とした表情でその様子を見ていた。
「……もらいもん?ならタナたちにも……」
「違うよ、作ったんだよ」
殿井の言う意味がわからなかった飛鳥は、ムスッとした顔で殿井の横を通り過ぎ、さっさと家に向かおうとした。
「あ、あのさ、アスカ……なんか怒ってる?」
その言葉に飛鳥の足がピタッと止まった。くるっと振り返った。
「なんでいっつも俺にはなんも言ってくれないんだよ!」
「……え?」
眉間にシワを寄せて怪訝な顔をする殿井に向かって、飛鳥がさらに続けた。
「アメリカ行くってなんだよ!俺、知らねーし!」
殿井の顔がさっと青ざめた。
「……誰から聞いた?」
「誰でもいーだろ!みんな知ってんだってな!俺は知らなかったけど!」
殿井は下を向いてしばらく黙った。二人の横を何台か車が過ぎていった。殿井は顔をあげて、飛鳥の目を見ながら言った。
「ごめん、俺、終業式の日、言おうと思ったんだけど、アスカにちゃんと目見て話すまではダメだって言われてさ」
飛鳥は全身の血が逆流するように思った。
「俺、いっつもアスカにちゃんと話、できなくてさ、ごめん。棚田たちには12月には言ってたんだ。……でも、あのときも、アスカ、怒ってたし、終業式の時まで言えなくて」
殿井の眉がギュッと寄せられたが、いつもと違って悲しそうな表情になっていた。
正面を向き、目を見ながら話すその顔が、飛鳥からよく見えた。殿井は、いつも飛鳥を怒らせてしまう自分に嫌気がさした。
「ごめん……俺、自分で言いたかったから、みんなには黙っててもらったんだ。目見て話せるようになるまで」
「……なんだよ!そういうのなら、普通話は別だろ!なんで黙ってたんだよ!そんなの、目合わせてとか、カンケーないじゃん!」
飛鳥の言うことが飲み込めず、殿井は眉を寄せて俯いた。
飛鳥は自分が大きな勘違いをしていたことに、とめどない恥ずかしさと後悔を感じた。時間を無駄にした自分への怒りと、殿井に対する八つ当たりで、意味がないとわかっているにも関わらず怒鳴った。
「なんだよ!もう会えなくなるんだったら、なんか言うことないのかよ!もういいよ!バカ!バカ!バカ!もう知らねーよ!」
飛鳥は涙をにじませて口を結び、走って家まで帰った。殿井は呆然とその後ろ姿を見送った。
それ以来、飛鳥は殿井に謝ろうと機会をうかがっていたが、きっかけがつかめなかった。殿井も飛鳥を避けているらしく、菜園にももう来なかった。昼もカフェテリアには来なかった。
三月の最初の土曜日、飛鳥は授業が終わった後で、これからの栽培計画をバイオに説明していた。作った表を見ながら、殿井とふたりでこの一年作業していたことをふと思い出し、話しながら急に涙が溢れて止まらなくなった。
「……うわビビった」
突然泣き出した飛鳥を見て徳田が身を引き、バイオが心配そうに声をかけた。
「殿井くんのこと?」
飛鳥は目を擦りながらうなずいた。
「仲よかったもんねぇ。殿井くんも、鈴本くんのこと、大好きだったもんねぇ」
バイオはうんうんとうなずきながら、「よし!次の号は環境から離れて、脳の不思議スペシャルにしよう!」と徳田に向かって言った。徳田が力強くうなずいた。
3月14日、殿井は朝から緊張していた。
前日に飛鳥から、放課後家に行っていいかメールで聞かれたのだ。もちろん二つ返事でOKしたものの、朝から何もものが喉を通らなかった。先月以来、飛鳥とは顔も合わせていない。
飛鳥の言う通り、こんなふうになるのだったら、早く言えばよかったと何度も後悔した。自分の口からちゃんと伝えたかった。
もう起きたことは「なかったこと」にできないし、過ぎた時間は取り戻せない。それは両親からよく言われていたことだったのに、自分にはその意味が本当の意味ではわかっていなかったのだと思った。
殿井は、アメリカに行ったあとも、ちょこちょこ帰ってくるつもりでいた。だが飛鳥に「もう会えなくなる」と言われて、それが「普通」の感覚だったと突きつけられた。
そしてもう飛鳥と高校に通えることはないのだと思うと、時間を巻き戻して、あの終業式の日からやり直したいと思った。いや、もっと前の、去年この学校に転入したときからやり直したかった。
転入したときから、普通に飛鳥と話せていたら。でもただ時間が戻ったって、結局また同じことの繰り返しになるだけだ。いったいいつまでさかのぼってやり直せばいいのだろう。もっと他の人と同じように、普通に、気兼ねなく、明るく話して、楽しく過ごせればいいのに。
殿井は生まれて初めて、人と自分を比べた。こんなふうにしか人と接することのできなかった自分が情けなく、恥ずかしく、そんな自分が大嫌いだった。
授業が終わると、昇降口で飛鳥が待っていた。一緒に駐輪場に行き、飛鳥が自転車を押しながら、校門を出た。しばらく黙ったまま並んで歩き、学校から離れたところで飛鳥が口を開いた。
「この前、ごめんね。……ずっとごめん。二月、俺ずっと怒ってたかも。もう話せなくなるのにさ。ほんと俺バカだよなー。なのにケイにバカバカ言っちゃった」
飛鳥が笑った。
「あのさ、ケイがくれたケーキとかブラウニー?とか、すげーうまかったよ。あれ、ケイが作ったの?ケイってお菓子作れんの?」
「……練習したんだよ」
そう言って、殿井の顔が真っ赤になった。その様子を見て、飛鳥はよし、と自信を強めた。
殿井の家に着くと、飛鳥は部屋に入るなり、「じゃーん!」と言って、胸ポケットから何かを取り出した。
「え?……なに?」
殿井が、飛鳥の手に握り締められた白い綿棒を見ながら、怪訝な顔をした。
「バレンタインのお返しに、耳かきしてやるよ!」
「え?……いやいいよ!そのくらい自分でやるよ!」
耳まで真っ赤になる殿井を見て、飛鳥は「いーからいーから」と言って床に正座し、パンパンと自分の腿をたたいた。
「だって、俺お菓子とか作れないし、なんか買うカネもないし、なら体で返すしかないじゃん?」
飛鳥が大笑いして言った。
「俺の耳かきテクはすごいかんな!竜太もいまだにやったげてるし」
飛鳥から目をそらし、ひたすら明後日の方を向く殿井を見て、飛鳥は立ち上がり両肩をバンっと掴んだ。
「まだ入れてないのに体動かすな!危ないだろ!」
「……ごめん」
飛鳥に膝枕してもらっているという事実で、すでに殿井の精神は崩壊しそうだった。
耳元に綿棒の感覚がきただけで、殿井の体はびくっと動いてしまう。心臓は激しく脈打ち、壊れそうだった。
飛鳥はそっと入り口を一撫でした。また殿井の体がびくっと動いた。
そしてくるくると綿棒が穴の周りをなぞり、飛鳥はそろそろと慎重に動かした。殿井の体に柔らかい快感が広がった。飛鳥は奥のほうに綿棒を入れていった。
「気持ちいい?」
「ん……」
殿井は緊張と恥ずかしさと嬉しさでいっぱいになり、頭がぼんやりとした。
飛鳥は穴の奥まで見えるように、耳たぶを引っ張った。飛鳥の指の感触に殿井はさらに緊張した。
「うーんなんかある気がする」
飛鳥はそう言って、綿棒をさらに奥まで入れた。
「っ……!」
殿井が思わず声を漏らした。
「ゴメン、痛かった?」
「いや大丈夫……」
「奥まで入れすぎたかな」
そう言って飛鳥は綿棒をゆっくり上下させた。殿井が息を吐いた。
「あ……」
「気持ちいい?」
「うん……」
「どこらへんがいい?」
「もっと入り口のほう」
「ここ?」
「うん、あ、そのへん……」
また殿井がかすかに声を漏らした。飛鳥がたまらず言った。
「ケイ、なんかエロい声だすなよ!」
「出してねーよ!」
殿井が思わず声を荒げた。恥ずかしさを隠したかった。
「ハイ、はんたーい」
飛鳥が殿井の肩を叩き、反対側の耳を向けさせた。そしてさっきと同じように綿棒で耳掃除をしてあげた。
飛鳥の股に顔を埋めるような姿勢になり、殿井は快感と理性の狭間で揺れ動いた。
「気持ちいい?」
飛鳥が殿井の耳元で囁いた。
「うん……すげえいい」
「うまいっしょ?」
「うん最高」
綿棒で内壁を優しく擦り続けられて、殿井の体が弛緩した。
「あ……」
殿井が声を漏らした。
「こんなん、人にしてもらわないから、ヤバい」
殿井がつぶやいた。
「自分でやるだけだもんね」
そう言って、飛鳥は殿井の頭を固定する手を滑らせ、そっと頭を撫でた。
飛鳥は、このリラックスした流れで、殿井が次に何を言うか、内心緊張と期待でドキドキとした。
殿井に言わせるために、わざわざ綿棒を持ってきたのだ。
しかしいくらやっても殿井が何か言う気配はない。あまりやりすぎてもよくないので、とりあえず終わりにしようと思った。
「ハイ、終了~」
飛鳥の声に目を開けた殿井は、目の前にジッパーがあるのを見て再び赤面した。飛鳥がその様子を見て、そっとかがみこみ、耳にふっと息を吹きかけた。
殿井がぱっと上を向き、驚いた顔で飛鳥を見た。飛鳥はそれを見て笑った。
「からかうなよ!」
殿井が耳を押さえながら起き上がった。
「最後の仕上げだよ!」
飛鳥は腹を抱えて笑った。笑いながら、自分の目を見て話せるようになった殿井を見て、なんだよ今さら、と思った。何も言わない殿井にやきもきした。そしてもう会えなくなることへの悲しさが胸にこみ上げた。
笑うのをやめてふと俯く飛鳥の様子に、殿井がすぐに気づいた。
「アスカ?」
「……もうさ、会えないね」
「そんなことないよ、俺休みのときは帰ってくるし」
「でも家族で向こうに住むんでしょ?」
「うん……まぁそうだよ」
殿井は夏休みが明けてすぐの日のことを思い出した。突然のアメリカ行きを告げられたのは、両親がそろう日曜日の夕食の席だった。
「お母さんと前から話してはいたんだけど、目処がついたから」
「ベイエリアに出店できそうなのよ。お父さんも向こうの会社からちょうど誘われてたから、みんなで一緒に行こうって」
「ベンチャーキャピタルも多いし、人脈を広げるのにもいい」
「あなたも、そのままあっちの大学に行ったほうが将来的にいいわよ」
「向こうなら、お前の個性をそのまま受け止めてくれる環境がある。のびのび過ごせるぞ。あの辺は所得の高い層ばかりだし、環境もいい」
「そうそう、それに洞院の姉妹校があるから、もうおじいちゃんが手続きしてるわ」
殿井の母親は化粧品会社を経営していた。日本古来の植物成分を配合し、国産原料の使用を謳うメーカーで、直営店舗は全国主要都市にあり、そのほか各デパートにも入っている。アジアへの出店の引き合いもあったが、環境や健康に意識の高いアメリカ西海岸での出店に母親はこだわっていた。
息子の意思を確認することなく、すらすらと話を進める両親を呆然と見ながら、殿井はようやく口を開いた。
「……俺、今の高校、楽しいよ。……俺は行きたくない」
「お前も凱風にそのまま行ってれば、こっちにお前だけ残してっていうのも考えたんだ。でも、お前、やっぱりなじめないって言ったじゃないか。せっかく入ったのにすぐやめて。結局ずっと同じ環境だ。それじゃ、この先、やっていけないぞ」
殿井は両親の勧めた学校を受験し合格したが、電車で都心部まで朝通うのが面倒くさく、結局高校を変わったのだった。
しかもその理由は両親に告げず、校風になじめないなどと適当なことを言った自分を、猛烈に呪った。
そして棚田が自分をワガママだと言った意味が、ようやく理解できた。
うなだれて座る飛鳥の目から、ポロポロと涙がこぼれた。
「……俺は、すぐ会いになんか行けないもん。ケイが来なかったら、もう会えないじゃん」
「絶対会いにくるよ。……俺、高校変わってやっぱりよかった。アスカに会えたんだもん」
泣くなよ、と言って殿井が飛鳥の頭に手を乗せた。飛鳥は手の甲で涙を拭った。後から後から涙が出てきた。
飛鳥は顔を上げて、殿井を見た。そのまま目があった。心配そうな顔で、飛鳥を見ていた。その瞬間、飛鳥は殿井にガバッと抱きついた。
「……どしたの」
しばらくして、殿井が声を絞り出すように言った。
「こんなときになんで目合わすんだよ!バカ!バカ!ほんとムカつくわ!」
「……アスカが目合わせろって言ったのに、なんで俺、怒られるの?」
「もういいよ!」
このままこうしていたら、もうそれでいいような気がした。でもこれからは、そばにはいられなくなる。
飛鳥は、自分がどうしたいのか、わからなかった。今まで、殿井にどう接していたのか、わからなくなった。そしてこれから、どう接してほしいのかも、わからなくなった。
でも最後だから、もうなんでもよくなった。殿井の口から、殿井の気持ちを聞きたかった。
最近、いつも殿井に怒っていた気がした。人に対して、そんなふうになったことは初めてだった。
殿井と一番に仲がいいのは自分だと思っていたくて、怒っていた。そして、殿井から、一番に好きだという言葉を聞きたくて、ずっと待っていたことに気がついた。
飛鳥は常にたくさんの人の中で過ごしていた。家でも、学校でも。みんなで仲良く、楽しく過ごせていたらそれでよかった。
その時々に合わせて、一緒にいる人間は変わったし、誰か特定の人間とだけ、ものすごく仲良くなりたいと思ったことなんてなかった。棚田や春山たちと、適当に騒いで遊んでいれば、それで充分だった。
でも殿井は違った。殿井と最初に仲良くなったのは、自分だ。だから、殿井の中で、本当は一番に自分のことを思っていてほしかった。
飛鳥は、自分の知らないアスカがいたことに気がついた。殿井の言った通り、知らない自分がいた。
飛鳥はギュッと体をくっつけた。殿井が飛鳥の頭を撫で、耳元でごめんと謝った。
「……俺、知ってるからな」
殿井の肩に頭を乗っけて、飛鳥が言った。
「ケイ、俺のこと」
「ストップ!」
殿井が飛鳥を強く抱きしめて飛鳥の目が白黒した。
「……俺が言います」
殿井は、大きく深呼吸をした。殿井の胸が広がり、またすぼまったのを感じて、飛鳥も緊張した。飛鳥は体を離し、殿井の顔をすぐそばから見た。
「俺、アスカと、最初に話したときから」
殿井は口の中に溜まった唾を飲み込んだ。なるべく飛鳥の迷惑にならない言い方を考えた。
「……ずっと、アスカが、憧れで……好き、でした。……ごめん」
「なんで謝んの」
「言わないでおこうと思ってたから。……困らせたくないし、また会いたかったから」
殿井の顔がすぐ目の前にあった。目が少し潤んでいた。
「……だから、友達になってくれる?」
「今までは違ったの⁉︎」
思わず飛鳥はツッコミをいれた。この流れで友達かよ、と飛鳥は思った。野球はたいしてできないが、三塁にスライディングしたが思い切りアウトになった気分だった。
「……じゃあ、付き合ってくれる?」
飛鳥は黙って殿井の耳を引っ張った。そして息をふっと吹きかけた。
「……っ!」
殿井が真っ赤になりながら、耳を押さえて飛鳥を見た。その様子を見て飛鳥が笑って言った。
「イエスに決まってるじゃん、バーカ」
「バカバカって、小学生かよ!遊馬と同じだな!」
殿井が怒ったように言った。普通にしゃべる殿井を見て、飛鳥が大笑いした。
「すぐ会いに来いよ。絶対だかんな!」
「向こう、9月始まりだから、冬にこっち来るよ。夏いっぱいは、向こうで英会話のスクール行くことになってる」
「そっか。……じゃ俺もがんばる。メールしろよ」
「うん、毎日メールする」
「このことは、二人の秘密だかんな!」
うん、と殿井が笑った。
飛鳥は口を尖らせ、ムッとした顔をした。その笑顔を他の人間に見せたくなくて、独り占めしたくて、殿井にまた抱きついた。
いつも下のきょうだいに分けるのが当たり前だった飛鳥は、初めて自分だけのものが欲しくなった。
自分だけが知っていることを、作りたかった。自分だけしか知らない、殿井のことを。
殿井の耳たぶを軽く噛んだ。柔らかい感触だった。
殿井の目の前が白くなった。
