料理を教えてほしいと言われ、永田さんは驚いた。
発言の内容ではなく、長年見てきた殿井家のおぼっちゃんが自分に初めて話しかけてきたことに驚いたのである。
最近、家に友人を連れてきたりと、それまでになく生き生きとした毎日を過ごしているようだった。永田さんは喜んで承知した。
「まずは包丁の持ち方と研ぎ方からですね」
殿井は戸惑いながらうなずいた。いきなり野菜を切らせてはもらえなかった。
殿井は、主に棚田からの指摘により、自分がほかの人間とはいろいろと感覚が違うということをおぼろげに理解しはじめていた。
特に金銭感覚というものが具体的に掴めていないのは、今後飛鳥と接する中で差し障りがあるのではないか。殿井は真剣に悩んでいた。
言葉としてはなんとなくわかるものの、それが自分に備わっているかといえば甚だ心許ない。
そもそも殿井はそれほど欲しいものもなく、小遣いも貰ったことがなかった。
必要なものはすぐ用意されたが、欲しいものは、両親の承諾がなければ駄目だった。
何かが欲しい場合は、土日の夕食の席で、具体的な商品名と欲しい理由、競合品の中からなぜそれを選んだかというようなことを交えプレゼンしなければならない。それに通って初めて買ってもらえるのだが、当然通らない場合もある。その場合は翌週指摘された点を改善し、またプレゼンする。
小学生のころからそれを徹底されていたが、その手間をかけてまで欲しいものはあまりなかった。
どうすれば金銭感覚を身につけられるのかわからない。しかし棚田たちに聞いてもいろいろ馬鹿にされて終わるだけのような気もした。そこで、まずは婿養子である父親に聞くことにした。
殿井の父親は省庁勤めを経て、現在は民間の経済研究所の上席研究員をしている。土曜日の夕方、家に帰ってきた父親に、殿井は尋ねた。
「あのさ、世の中というか、経済の仕組みを知りたい」
殿井の父は、眉間にシワを寄せながら、経済を学ぶための基本書をいくつか挙げ、書斎にある本を殿井に渡した。
最近ではほとんど話すことのない息子が、自分の研究分野に興味を抱いていたのかと、殿井の父はこのわずかな会話に喜んだ。
しかしその表情はほとんど変わらず、父親と瓜二つだとよく言われていた息子にも、父の感情の変化はわからなかった。
こうして勉強と走ることしかしなかった殿井に、馬の世話以外の新たな趣味が加わった。
体育祭が終わって以降、飛鳥たちは自然と昼休みは教室を出て、5組の男子も混じってみんなで食べるようになった。
3、4組は下から持ち上がってきた生徒が多く、コミュニティが入学時にすでにできていたが、1組と5組は高校から入ってきた生徒がほとんどだ。
学力と一芸という、お互い勝負する分野がかち合わない人間同士、殿井家での打ち上げですぐに仲よくなった。
「トノっちさー、何読んでんの?」
学校のカフェテリアで春山が聞いた。注文しなくても、カフェテリアは席をとったもの勝ちである。弁当を持参する飛鳥と棚田とほか何人かが、みんなの分の席をとっていた。
ブックカバーとして巻かれた白い紙から、タイトルの一部と思しき「資本主義と新自由主義」という字が透けて見える。春山がそれに目をやりながら、殿井に重ねて聞いた。
「大学、経済いくの?」
「えっ?……あぁ、まぁ」
飛鳥は「へーっ」と言いながら春山の買ったプリッツを食べた。棚田は志望分野をみんなの前で聞かれるのってビミョーだよなと春山の無神経さに眉をしかめた。
しかし春山は、その殿井の反応が「鈴本飛鳥関連に見られる顕著な受け答え例」であることを敏感に嗅ぎ取り、さらに聞いた。
「トノっちさー、その指どうしたの」
手先の器用な殿井が包丁で指を切ることはなかったが、水仕事でささくれが一気にできたので、絆創膏を巻いていた。
「あー……ささくれ」
ふーん、と言って春山がイチゴミルクをストローでキュッキュッと飲みながら、殿井を観察した。
殿井の隣では、最近仲よくなった5組の男子と飛鳥がしゃべっている。
殿井は横目で飛鳥の手を見た。飛鳥は昔から寝る前にハンドクリームを塗って寝ていたが、多少の手荒れはあった。
昼休みが終わり、みんなで教室に戻る途中、春山が殿井の耳元で囁いた。
「料理の腕あがったかよ?」
殿井は春山を驚愕の面持ちで凝視した。
春山は顔を離すと、耳を小指でほじりながら、だるそうに言った。
「あとトノっちさー、金銭感覚って、世界経済とかそういうのとはまたちょっと違うから」
「えっ?そうか……」
「だからそういうのがズレてんだよ」
「じゃあ俺もアスカのコンビニでバイト……」
「孫が校則違反かよ!じいちゃんのメンツを考えろよ」
後ろでボソボソと殿井と話す様子が気になり、飛鳥は振り返って「なに話してんの?」と聞いた。
殿井が口を開く間もなく、春山が間髪入れずに「好きな子のために頑張ってるらしいよ、トノっち」と答えた。
そのふざけた回答に逆上し、顔を赤くした殿井が春山の頭を殴ろうとして、春山がさっとよけた。
飛鳥はそのやりとりに雷が落ちたほどの衝撃を受けた。殿井は確かに何度か告白されているようだったが、すべて断っていたのは好きな人がいたからなのか。
春山はその相手を知っているようなのに、自分は聞かされていない。その事実に大変な不満を感じた。
「えー誰?誰?タナは知ってんの?」
飛鳥はすぐに殿井に駆け寄った。そして肩を組み、ベタベタとまとわりつきしつこく聞いた。殿井はまっすぐ前を向いて歩き、黙っていた。
「誰?教えてくれたっていーじゃん!」
だいたい春山よりも一緒にいて、打ち明ける機会も多くあるはずなのに、なぜ自分には教えてくれないのか。飛鳥はムッとした。
どんな人が好きなのか、知りたかった。殿井の好きな人を知る権利は、自分にだってあるはずだ。殿井の腕をつかんで、そこにギュッと抱きついた。
「なんでさー、俺には言えないの?」
殿井は久々に激しい動揺に襲われた。最近ではどもらずに飛鳥と会話することができていたのに、春山に本心を指摘されて、恥ずかしくてしょうがなかった。
飛鳥とくっついたところから、その隠していた気持ちが伝わりそうに思った。
「ねーケイ、誰?ケチだなー。ねーって」
「……くっつくなよ!」
殿井は思わず飛鳥を振り払った。その瞬間、さっと飛鳥の表情が変わった。
体をパッと離すと、なにも言わず、棚田たちの後を追いかけ走っていく。
殿井は呆然としてその後ろ姿を見た。春山がニヤニヤと殿井を見ながら、横を通り過ぎていった。
……春山、あいつぶっ殺す。
殿井は拳を強く握りしめた。
授業が終わるとすぐに、殿井は珍しく自分から1組に行った。そしてドアの近くに座る生徒に、「春山いるか」と聞いた。
飛鳥はそれを離れたところで聞き、少し落胆した。
自分に用事があるのかと一瞬期待した。もしかしたら、さっきのことで殿井が飛鳥に謝り、好きな人でも打ち明けてくれるのかと思った。でも殿井が呼び出したのは春山で、秘密を打ち明けているのも春山だった。
期待して馬鹿みたいだと思った。それなのに胸が潰れそうになった。でもなんでもないふりをして、棚田と会話を続けた。
「あれ?殿井、ハルに用事?」
棚田が立ち上がり、ドアを塞ぐように仁王立ちする殿井のところに行った。
「……そうだよ。春山だけに用事があんだよ」
春山がバッグを肩にかけて立ち上がり、面倒そうにドアのところへ行った。殿井がネクタイをガッとつかんで顔を近づけ、「ちょっと来いよ」と低い声で言った。
棚田がそれを見て目を丸くし、春山を引きずるようにして連れ出す殿井を黙って見送った。
「あいつら、結構仲よかったんだな」
席に戻った棚田が飛鳥に言った。飛鳥は無感情に「そーだね」と返し、バッグを手に取って席を立った。
生物準備室では、バイオがせっせと「バイオ」の記事を打っている。その横で、殿井は腕組みをして春山に聞いた。
「お前、なんなんだよ!適当なこと捏造するな!」
「えー捏造?誰がだよ。トノっちさー、わかりやすすぎだろ」
「何がだよ」
「飛鳥だよ」
殿井が黙った。
「部活やってるのも、飛鳥のためって言ってたよな?飛鳥が好きって、前にこの部屋で言ってたじゃん?」
殿井が眉間にシワを寄せた。
「……それって友達として好きなの?」
春山に言われ、殿井はギュッと口を引き結んだ。以前であればすぐに即答しただろう。でもそうではないことに気づいてしまった。
告白できないなら、せめて飛鳥から嫌われない人間になりたかった。それなのに、どうしてもうまくいかない。せめて友達でいたい。一番仲のよい、友達として、飛鳥の横で存在していたい。
「……そうだよ」
ふーん、と春山が冷めた目で殿井を見つめた。
「俺も飛鳥好きだよ」
えっ、と殿井は驚きの声を上げた。その様子に春山が爆笑した。
「友達としてに決まってんだろ!でもトノっちはさー、違くない?飛鳥に気づかれんの、時間の問題じゃない?」
殿井の目が見開かれた。動揺を隠しきれない殿井に、春山が畳みかける。
「まー協力してやるよ、おもしろいから」
春山は将来のために、殿井に恩を売っておこうと考えていた。
生物室と準備室をつなぐ薄いドアの前で、飛鳥が立っていた。殿井に似た声が聞こえると思い、近くに寄った。そして春山とのやりとりを聞いた。
冬休み前には部室の大掃除がある。徳田は部室に置いてあったバックナンバーの「バイオ」をとりあえず生物室の窓側の棚の上に移動させろと命じ、その膨大な量を飛鳥は朝運んだ。
しかし時間がなかったので、積み上げるだけにしていた「バイオ」を適当に整理したのち帰ろうと、飛鳥は急いで生物室に寄ったところだった。
殿井の今までの様子が、飛鳥の中ですべて一本の線でつながった。
なぜ自分の前でだけ態度が違うのか。なぜ親切にしてくれるのか。そしてなぜ好きな相手を教えてくれなかったのか。すべてを悟った。飛鳥は戸惑った。
……好きって、友達としてじゃなく?春やんとかタナと同じ感じじゃなく?好き?……ってなに?なんで?
飛鳥はわからなかった。驚きのほうが大きく、よく考えられなかった。
しかし春山が殿井と秘密を共有しているのがこのことだったのかと、少し安心もした。
殿井の好きな人のことでわだかまりを抱えていたのが、急におかしくなってきて、ひとりでにやけた。
そして、これからどうすればいいのだろうと、ふと思った。殿井に、いつか告白されるのだろうか。
だがこっそり立ち聞きしてしまった以上、これまで通りに振る舞い、何も知らないふりをするしかない。
それなのに飛鳥は、普通に振る舞おうとして、普通がどんな感じだったかわからなくなった。
殿井は飛鳥を見れば、相変わらず目をそらすか、俯くか、赤くなったりしている。言われてみれば、これほどわかりやすい反応もなかった。
そういう殿井に、今までのように肩を組んだり背後から乗ったりすることはできなかった。座るときも、なんとなく離れて座った。
殿井がそう思っていることを、嫌だとは思わなかった。正直に言えば、うれしかった。今まで気がつかなくて、悪かったなと思った。
でもどうしていいのかわからなかった。だからなんとなく、殿井を避けるようになった。
しばらくそんなことが続き、二学期の終業式を迎えた。
「5組のやつとさ、このあと殿井ん家に行こっつってんだけど。10人くらいで」
講堂から戻る途中、隣にいる棚田が飛鳥に言った。
「俺、いいや」
飛鳥がポツリと言った。
さすがにここのところ様子が違うと感じていた棚田は、飛鳥に「殿井とケンカしたの?」と聞いた。
飛鳥はなんといえばいいかわからず、お茶を濁した。棚田は振り返り、すぐ後ろを歩く春山に声をかけた。
「ハル、知ってる?」
「トノっちの好きなやつ教えてもらえなくてスネてんだろ」
その言葉を聞き、飛鳥はキッと春山をにらんだ。
そのとき殿井が5組の男子と数人で歩いてきて、棚田に声をかけた。
「飛鳥は行けねぇって」と棚田が言い、殿井は下を向き「そっか」と小さくつぶやいた。
その様子を見た棚田は、先に歩いていこうとする飛鳥の襟を後ろからぐっとつかみ、「お前、なんか殿井に言いたいことあんなら言えよ!」と言って殿井の前に引きずりだした。
「え。えーと。特に、ない!」
飛鳥は目を泳がせ、明らかに挙動不審になり、棚田の手を外すと走って逃げた。
殿井はその様子を見て、ショックを受けた。脳内の「アスカフォルダ」を参照すれば、自分が飛鳥に好きな人を聞かれ、振り払ってからあの調子だ。
しかし好きな人を打ち明けるわけにもいかず、どうすればいいのか見当もつかなかった。一刻も早く、普通の状態に戻りたいのに。
春山が横から、「大丈夫だって。俺あいつと唯一の同中だから」と声をかけた。春山は飛鳥の後を追って、急いで駐輪場に向かった。
「飛鳥、怒んなよ」
「怒ってねぇし!」
「じゃあなんでトノっち避けんの?すげーショック受けてるよ」
飛鳥は自転車を出す手を止めた。春山が頭を掻いた。
「なんかムカついてるんじゃなけりゃ、普通にしてやれよ」
「……だって、ケイのがふつーじゃないじゃん。ほかのやつのときと違うじゃん」
「……お前みたいなタイプ、初めてなんだって」
春山がポケットに両手を突っ込み、面倒そうに言った。
「……別に俺がいじってただけで、あいつの好きなやつのことなんて知らねぇよ」
春山が飛鳥に近づいた。
「とにかく今まで通りにしなきゃ、トノっちがかわいそうだろうがよ」
飛鳥が俯き、黙りこんだ。
「……殿井、お前に話したいことがあるんだよ」
飛鳥の心臓がドキッとし、なにかが刺さったように思った。
「今日、来いよ?」という春山の言葉に、飛鳥は迷いながらうなずいた。
小学校の終業式はもう少し先で、この日、すぐに帰る必要はなかった。
殿井の家にはホームシアターがあった。みんなで大騒ぎをしながら、誰かが持参した爆音響く映画のDVDを見た。
飛鳥は、春山を挟んで座る殿井のことをずっと考えていた。ホームシアターの音響は素晴らしく、後ろから音に包まれているようだったが、体育座りをした飛鳥の頭に映画の内容はまったく入ってこなかった。
殿井の「好き」は、そういう「好き」なのだろうか。友達ではない「好き」は、すなわちヤリたいということなのか。自分は、そういうことを、殿井とできるのだろうか。飛鳥は爆音響く中でぐるぐると考えた。
映画が終わり、また誰かが持参したDVDが映った。
画質が悪く、洗練されていないタイトルスクロールの後、大写しになった女性の顔が出て、そのままアングルが下がっていく。部屋の中がどよめきに包まれた。
殿井はひとり焦り、音が漏れていないか確かめるために急いで部屋の外に出た。母親が早めに帰ってくる日もある。
異様に盛り上がる部屋の中で、殿井が部屋をでたことに気づいた飛鳥は、そのあとを追って部屋を出た。
ドアのすぐ外に殿井が立っていた。そして飛鳥を見て驚いた。
「あ……あれ?見ないの?」
なんでそんなことを聞くのかわからなかった。俺が見てて、お前はいいのかよ、と飛鳥は内心思った。
「ケイこそ見ないの?興味ないのかよ?」
「え?……いや……音洩れてないか確かめるんで出たんだ」
なんだ、と飛鳥は思った。殿井は、男が好きなのだろうか。相変わらず殿井は下を向いている。
前のように殿井と話したいという気持ちと、好意をもじもじとあらわす殿井へのイラつき。でも知らないふりをしてなきゃダメだという良心のようなものが、一緒くたになった。
そのすべてがぐちゃぐちゃに混ざったカレーライスのようになって、飛鳥はまたわからなくなった。
いつもダメなところがあれば分析をして、改善して、無駄をなくしていく飛鳥は、初めて無駄とも思える気持ちの動きに、とらわれ続けた。
「あのさー、あのさ、ケイの好きなやつってさ、誰?」
「えっ?」
「イエスノーで答えてください。同じ学校ですか、ハイどうぞ!」
「えっ?」
「答えなきゃ、もうしゃべんないからな!ハイ!」
「……イエス」
「同じ学年である」
「イエス」
「同じクラス」
「……ノーです」
「……俺が知ってるやつ?」
殿井は答えに詰まった。
飛鳥は、殿井の好きな「アスカ」を知っているのだろうか。
いつも友達と一緒に楽しそうにして、兄弟のために頑張るアスカを見たことがあるのだろうか。
いつも笑ったり怒ったり、素直に感情を出すアスカを知っているのだろうか。人のことを悪く言わず、誰にでも親切に接する、そういう殿井の憧れる「アスカ」を、飛鳥自身は知っているのだろうか。
けれど、そう思う自分だって、「殿井景勝」のことをどれぐらい知っているのだろう。
殿井は去年まで、自分がこんなふうに誰かを家に呼んだり、一緒にご飯を食べたりするなんて考えもつかなかった。
食事は昔から朝昼晩とひとりで食べるものだったし、家は静かな場所だった。
そして、誰かの反応に一喜一憂するなんて、まったく想像もつかなかった。
自分の知らない自分がいて、それはもしかしたらまだ隠れているのではないかと思った。そしてきっとそれは、「アスカ」も同じなのではないかと思った。
「……ノーかな」
飛鳥はその答えに混乱し、よくわからなくなった。しばらく考えて、無言になった。立ち聞きした内容は、なにかの勘違いだったのだろうか。
そのときドアが乱暴に開き、5組のひとりが「殿井ー、箱ティッ……」と言いかけたと同時に、開いたドアから大音量の喘ぎ声が漏れ、殿井がキレた。
「自分の家で見ろ!」と怒鳴りながら中に入り、停止ボタンを押して換気した。
夕方になりみんなが帰る中、飛鳥は夏に草むしりをした日本庭園のほうへこっそり行って、葉の落ちた楓の木をぼんやり眺めていた。
なんであんなことを自分から聞いてしまったんだろう、と飛鳥は後悔していた。
もし、殿井が誰か違う人を好きなのだったら。応援する?友達として。
もし殿井が女の子を好きだったら。応援するかもしれない。でももしほかの男だったら?
そんなわけはない。飛鳥は俯いた。殿井のこれまでの反応を考えたら、明らかに好きな相手は自分だ。でも。
……言わせて、どうしたいんだろう、俺。
飛鳥がまだ帰ってないことに気づいた殿井は、キョロキョロとその姿を探し、庭のほうへ回った。そこに、殿井のいつも見ている後ろ姿があった。今がチャンスだと思った。
「アスカ」
飛鳥が振り向くと、真剣な表情を見せる殿井が姿勢よく立っていた。殿井は飛鳥と目が合うと、すぐに下を向いた。
「……あの、俺さ、ちょっと前から、あの、アスカに言わなきゃいけないことが、あったんだ」
飛鳥の胃がギュッとなった。どうすればいいんだろう。
このまま、ずっと殿井といられればいいと思っていた。なにか決定的な言葉が、見えないふわふわしたものを、がんじがらめにするような気がした。
「あの、俺さ……」
「ストップ!」
飛鳥が大声で言った。虚を突かれて、殿井が顔を上げ目をパチクリと瞬いた。
「ケイさ、その前にさ、なんか直すことがあるんじゃないのか?俺に対する、その、変な感じ!目を見て話せよ!それできるようになったら聞いたる!」
「え、でも」
「じゃなかったら、俺は知らないからな!聞かないからな!絶っ対!」
飛鳥の剣幕に、殿井はこくこくとうなずくしかなかった。飛鳥は走って殿井の家を出た。
発言の内容ではなく、長年見てきた殿井家のおぼっちゃんが自分に初めて話しかけてきたことに驚いたのである。
最近、家に友人を連れてきたりと、それまでになく生き生きとした毎日を過ごしているようだった。永田さんは喜んで承知した。
「まずは包丁の持ち方と研ぎ方からですね」
殿井は戸惑いながらうなずいた。いきなり野菜を切らせてはもらえなかった。
殿井は、主に棚田からの指摘により、自分がほかの人間とはいろいろと感覚が違うということをおぼろげに理解しはじめていた。
特に金銭感覚というものが具体的に掴めていないのは、今後飛鳥と接する中で差し障りがあるのではないか。殿井は真剣に悩んでいた。
言葉としてはなんとなくわかるものの、それが自分に備わっているかといえば甚だ心許ない。
そもそも殿井はそれほど欲しいものもなく、小遣いも貰ったことがなかった。
必要なものはすぐ用意されたが、欲しいものは、両親の承諾がなければ駄目だった。
何かが欲しい場合は、土日の夕食の席で、具体的な商品名と欲しい理由、競合品の中からなぜそれを選んだかというようなことを交えプレゼンしなければならない。それに通って初めて買ってもらえるのだが、当然通らない場合もある。その場合は翌週指摘された点を改善し、またプレゼンする。
小学生のころからそれを徹底されていたが、その手間をかけてまで欲しいものはあまりなかった。
どうすれば金銭感覚を身につけられるのかわからない。しかし棚田たちに聞いてもいろいろ馬鹿にされて終わるだけのような気もした。そこで、まずは婿養子である父親に聞くことにした。
殿井の父親は省庁勤めを経て、現在は民間の経済研究所の上席研究員をしている。土曜日の夕方、家に帰ってきた父親に、殿井は尋ねた。
「あのさ、世の中というか、経済の仕組みを知りたい」
殿井の父は、眉間にシワを寄せながら、経済を学ぶための基本書をいくつか挙げ、書斎にある本を殿井に渡した。
最近ではほとんど話すことのない息子が、自分の研究分野に興味を抱いていたのかと、殿井の父はこのわずかな会話に喜んだ。
しかしその表情はほとんど変わらず、父親と瓜二つだとよく言われていた息子にも、父の感情の変化はわからなかった。
こうして勉強と走ることしかしなかった殿井に、馬の世話以外の新たな趣味が加わった。
体育祭が終わって以降、飛鳥たちは自然と昼休みは教室を出て、5組の男子も混じってみんなで食べるようになった。
3、4組は下から持ち上がってきた生徒が多く、コミュニティが入学時にすでにできていたが、1組と5組は高校から入ってきた生徒がほとんどだ。
学力と一芸という、お互い勝負する分野がかち合わない人間同士、殿井家での打ち上げですぐに仲よくなった。
「トノっちさー、何読んでんの?」
学校のカフェテリアで春山が聞いた。注文しなくても、カフェテリアは席をとったもの勝ちである。弁当を持参する飛鳥と棚田とほか何人かが、みんなの分の席をとっていた。
ブックカバーとして巻かれた白い紙から、タイトルの一部と思しき「資本主義と新自由主義」という字が透けて見える。春山がそれに目をやりながら、殿井に重ねて聞いた。
「大学、経済いくの?」
「えっ?……あぁ、まぁ」
飛鳥は「へーっ」と言いながら春山の買ったプリッツを食べた。棚田は志望分野をみんなの前で聞かれるのってビミョーだよなと春山の無神経さに眉をしかめた。
しかし春山は、その殿井の反応が「鈴本飛鳥関連に見られる顕著な受け答え例」であることを敏感に嗅ぎ取り、さらに聞いた。
「トノっちさー、その指どうしたの」
手先の器用な殿井が包丁で指を切ることはなかったが、水仕事でささくれが一気にできたので、絆創膏を巻いていた。
「あー……ささくれ」
ふーん、と言って春山がイチゴミルクをストローでキュッキュッと飲みながら、殿井を観察した。
殿井の隣では、最近仲よくなった5組の男子と飛鳥がしゃべっている。
殿井は横目で飛鳥の手を見た。飛鳥は昔から寝る前にハンドクリームを塗って寝ていたが、多少の手荒れはあった。
昼休みが終わり、みんなで教室に戻る途中、春山が殿井の耳元で囁いた。
「料理の腕あがったかよ?」
殿井は春山を驚愕の面持ちで凝視した。
春山は顔を離すと、耳を小指でほじりながら、だるそうに言った。
「あとトノっちさー、金銭感覚って、世界経済とかそういうのとはまたちょっと違うから」
「えっ?そうか……」
「だからそういうのがズレてんだよ」
「じゃあ俺もアスカのコンビニでバイト……」
「孫が校則違反かよ!じいちゃんのメンツを考えろよ」
後ろでボソボソと殿井と話す様子が気になり、飛鳥は振り返って「なに話してんの?」と聞いた。
殿井が口を開く間もなく、春山が間髪入れずに「好きな子のために頑張ってるらしいよ、トノっち」と答えた。
そのふざけた回答に逆上し、顔を赤くした殿井が春山の頭を殴ろうとして、春山がさっとよけた。
飛鳥はそのやりとりに雷が落ちたほどの衝撃を受けた。殿井は確かに何度か告白されているようだったが、すべて断っていたのは好きな人がいたからなのか。
春山はその相手を知っているようなのに、自分は聞かされていない。その事実に大変な不満を感じた。
「えー誰?誰?タナは知ってんの?」
飛鳥はすぐに殿井に駆け寄った。そして肩を組み、ベタベタとまとわりつきしつこく聞いた。殿井はまっすぐ前を向いて歩き、黙っていた。
「誰?教えてくれたっていーじゃん!」
だいたい春山よりも一緒にいて、打ち明ける機会も多くあるはずなのに、なぜ自分には教えてくれないのか。飛鳥はムッとした。
どんな人が好きなのか、知りたかった。殿井の好きな人を知る権利は、自分にだってあるはずだ。殿井の腕をつかんで、そこにギュッと抱きついた。
「なんでさー、俺には言えないの?」
殿井は久々に激しい動揺に襲われた。最近ではどもらずに飛鳥と会話することができていたのに、春山に本心を指摘されて、恥ずかしくてしょうがなかった。
飛鳥とくっついたところから、その隠していた気持ちが伝わりそうに思った。
「ねーケイ、誰?ケチだなー。ねーって」
「……くっつくなよ!」
殿井は思わず飛鳥を振り払った。その瞬間、さっと飛鳥の表情が変わった。
体をパッと離すと、なにも言わず、棚田たちの後を追いかけ走っていく。
殿井は呆然としてその後ろ姿を見た。春山がニヤニヤと殿井を見ながら、横を通り過ぎていった。
……春山、あいつぶっ殺す。
殿井は拳を強く握りしめた。
授業が終わるとすぐに、殿井は珍しく自分から1組に行った。そしてドアの近くに座る生徒に、「春山いるか」と聞いた。
飛鳥はそれを離れたところで聞き、少し落胆した。
自分に用事があるのかと一瞬期待した。もしかしたら、さっきのことで殿井が飛鳥に謝り、好きな人でも打ち明けてくれるのかと思った。でも殿井が呼び出したのは春山で、秘密を打ち明けているのも春山だった。
期待して馬鹿みたいだと思った。それなのに胸が潰れそうになった。でもなんでもないふりをして、棚田と会話を続けた。
「あれ?殿井、ハルに用事?」
棚田が立ち上がり、ドアを塞ぐように仁王立ちする殿井のところに行った。
「……そうだよ。春山だけに用事があんだよ」
春山がバッグを肩にかけて立ち上がり、面倒そうにドアのところへ行った。殿井がネクタイをガッとつかんで顔を近づけ、「ちょっと来いよ」と低い声で言った。
棚田がそれを見て目を丸くし、春山を引きずるようにして連れ出す殿井を黙って見送った。
「あいつら、結構仲よかったんだな」
席に戻った棚田が飛鳥に言った。飛鳥は無感情に「そーだね」と返し、バッグを手に取って席を立った。
生物準備室では、バイオがせっせと「バイオ」の記事を打っている。その横で、殿井は腕組みをして春山に聞いた。
「お前、なんなんだよ!適当なこと捏造するな!」
「えー捏造?誰がだよ。トノっちさー、わかりやすすぎだろ」
「何がだよ」
「飛鳥だよ」
殿井が黙った。
「部活やってるのも、飛鳥のためって言ってたよな?飛鳥が好きって、前にこの部屋で言ってたじゃん?」
殿井が眉間にシワを寄せた。
「……それって友達として好きなの?」
春山に言われ、殿井はギュッと口を引き結んだ。以前であればすぐに即答しただろう。でもそうではないことに気づいてしまった。
告白できないなら、せめて飛鳥から嫌われない人間になりたかった。それなのに、どうしてもうまくいかない。せめて友達でいたい。一番仲のよい、友達として、飛鳥の横で存在していたい。
「……そうだよ」
ふーん、と春山が冷めた目で殿井を見つめた。
「俺も飛鳥好きだよ」
えっ、と殿井は驚きの声を上げた。その様子に春山が爆笑した。
「友達としてに決まってんだろ!でもトノっちはさー、違くない?飛鳥に気づかれんの、時間の問題じゃない?」
殿井の目が見開かれた。動揺を隠しきれない殿井に、春山が畳みかける。
「まー協力してやるよ、おもしろいから」
春山は将来のために、殿井に恩を売っておこうと考えていた。
生物室と準備室をつなぐ薄いドアの前で、飛鳥が立っていた。殿井に似た声が聞こえると思い、近くに寄った。そして春山とのやりとりを聞いた。
冬休み前には部室の大掃除がある。徳田は部室に置いてあったバックナンバーの「バイオ」をとりあえず生物室の窓側の棚の上に移動させろと命じ、その膨大な量を飛鳥は朝運んだ。
しかし時間がなかったので、積み上げるだけにしていた「バイオ」を適当に整理したのち帰ろうと、飛鳥は急いで生物室に寄ったところだった。
殿井の今までの様子が、飛鳥の中ですべて一本の線でつながった。
なぜ自分の前でだけ態度が違うのか。なぜ親切にしてくれるのか。そしてなぜ好きな相手を教えてくれなかったのか。すべてを悟った。飛鳥は戸惑った。
……好きって、友達としてじゃなく?春やんとかタナと同じ感じじゃなく?好き?……ってなに?なんで?
飛鳥はわからなかった。驚きのほうが大きく、よく考えられなかった。
しかし春山が殿井と秘密を共有しているのがこのことだったのかと、少し安心もした。
殿井の好きな人のことでわだかまりを抱えていたのが、急におかしくなってきて、ひとりでにやけた。
そして、これからどうすればいいのだろうと、ふと思った。殿井に、いつか告白されるのだろうか。
だがこっそり立ち聞きしてしまった以上、これまで通りに振る舞い、何も知らないふりをするしかない。
それなのに飛鳥は、普通に振る舞おうとして、普通がどんな感じだったかわからなくなった。
殿井は飛鳥を見れば、相変わらず目をそらすか、俯くか、赤くなったりしている。言われてみれば、これほどわかりやすい反応もなかった。
そういう殿井に、今までのように肩を組んだり背後から乗ったりすることはできなかった。座るときも、なんとなく離れて座った。
殿井がそう思っていることを、嫌だとは思わなかった。正直に言えば、うれしかった。今まで気がつかなくて、悪かったなと思った。
でもどうしていいのかわからなかった。だからなんとなく、殿井を避けるようになった。
しばらくそんなことが続き、二学期の終業式を迎えた。
「5組のやつとさ、このあと殿井ん家に行こっつってんだけど。10人くらいで」
講堂から戻る途中、隣にいる棚田が飛鳥に言った。
「俺、いいや」
飛鳥がポツリと言った。
さすがにここのところ様子が違うと感じていた棚田は、飛鳥に「殿井とケンカしたの?」と聞いた。
飛鳥はなんといえばいいかわからず、お茶を濁した。棚田は振り返り、すぐ後ろを歩く春山に声をかけた。
「ハル、知ってる?」
「トノっちの好きなやつ教えてもらえなくてスネてんだろ」
その言葉を聞き、飛鳥はキッと春山をにらんだ。
そのとき殿井が5組の男子と数人で歩いてきて、棚田に声をかけた。
「飛鳥は行けねぇって」と棚田が言い、殿井は下を向き「そっか」と小さくつぶやいた。
その様子を見た棚田は、先に歩いていこうとする飛鳥の襟を後ろからぐっとつかみ、「お前、なんか殿井に言いたいことあんなら言えよ!」と言って殿井の前に引きずりだした。
「え。えーと。特に、ない!」
飛鳥は目を泳がせ、明らかに挙動不審になり、棚田の手を外すと走って逃げた。
殿井はその様子を見て、ショックを受けた。脳内の「アスカフォルダ」を参照すれば、自分が飛鳥に好きな人を聞かれ、振り払ってからあの調子だ。
しかし好きな人を打ち明けるわけにもいかず、どうすればいいのか見当もつかなかった。一刻も早く、普通の状態に戻りたいのに。
春山が横から、「大丈夫だって。俺あいつと唯一の同中だから」と声をかけた。春山は飛鳥の後を追って、急いで駐輪場に向かった。
「飛鳥、怒んなよ」
「怒ってねぇし!」
「じゃあなんでトノっち避けんの?すげーショック受けてるよ」
飛鳥は自転車を出す手を止めた。春山が頭を掻いた。
「なんかムカついてるんじゃなけりゃ、普通にしてやれよ」
「……だって、ケイのがふつーじゃないじゃん。ほかのやつのときと違うじゃん」
「……お前みたいなタイプ、初めてなんだって」
春山がポケットに両手を突っ込み、面倒そうに言った。
「……別に俺がいじってただけで、あいつの好きなやつのことなんて知らねぇよ」
春山が飛鳥に近づいた。
「とにかく今まで通りにしなきゃ、トノっちがかわいそうだろうがよ」
飛鳥が俯き、黙りこんだ。
「……殿井、お前に話したいことがあるんだよ」
飛鳥の心臓がドキッとし、なにかが刺さったように思った。
「今日、来いよ?」という春山の言葉に、飛鳥は迷いながらうなずいた。
小学校の終業式はもう少し先で、この日、すぐに帰る必要はなかった。
殿井の家にはホームシアターがあった。みんなで大騒ぎをしながら、誰かが持参した爆音響く映画のDVDを見た。
飛鳥は、春山を挟んで座る殿井のことをずっと考えていた。ホームシアターの音響は素晴らしく、後ろから音に包まれているようだったが、体育座りをした飛鳥の頭に映画の内容はまったく入ってこなかった。
殿井の「好き」は、そういう「好き」なのだろうか。友達ではない「好き」は、すなわちヤリたいということなのか。自分は、そういうことを、殿井とできるのだろうか。飛鳥は爆音響く中でぐるぐると考えた。
映画が終わり、また誰かが持参したDVDが映った。
画質が悪く、洗練されていないタイトルスクロールの後、大写しになった女性の顔が出て、そのままアングルが下がっていく。部屋の中がどよめきに包まれた。
殿井はひとり焦り、音が漏れていないか確かめるために急いで部屋の外に出た。母親が早めに帰ってくる日もある。
異様に盛り上がる部屋の中で、殿井が部屋をでたことに気づいた飛鳥は、そのあとを追って部屋を出た。
ドアのすぐ外に殿井が立っていた。そして飛鳥を見て驚いた。
「あ……あれ?見ないの?」
なんでそんなことを聞くのかわからなかった。俺が見てて、お前はいいのかよ、と飛鳥は内心思った。
「ケイこそ見ないの?興味ないのかよ?」
「え?……いや……音洩れてないか確かめるんで出たんだ」
なんだ、と飛鳥は思った。殿井は、男が好きなのだろうか。相変わらず殿井は下を向いている。
前のように殿井と話したいという気持ちと、好意をもじもじとあらわす殿井へのイラつき。でも知らないふりをしてなきゃダメだという良心のようなものが、一緒くたになった。
そのすべてがぐちゃぐちゃに混ざったカレーライスのようになって、飛鳥はまたわからなくなった。
いつもダメなところがあれば分析をして、改善して、無駄をなくしていく飛鳥は、初めて無駄とも思える気持ちの動きに、とらわれ続けた。
「あのさー、あのさ、ケイの好きなやつってさ、誰?」
「えっ?」
「イエスノーで答えてください。同じ学校ですか、ハイどうぞ!」
「えっ?」
「答えなきゃ、もうしゃべんないからな!ハイ!」
「……イエス」
「同じ学年である」
「イエス」
「同じクラス」
「……ノーです」
「……俺が知ってるやつ?」
殿井は答えに詰まった。
飛鳥は、殿井の好きな「アスカ」を知っているのだろうか。
いつも友達と一緒に楽しそうにして、兄弟のために頑張るアスカを見たことがあるのだろうか。
いつも笑ったり怒ったり、素直に感情を出すアスカを知っているのだろうか。人のことを悪く言わず、誰にでも親切に接する、そういう殿井の憧れる「アスカ」を、飛鳥自身は知っているのだろうか。
けれど、そう思う自分だって、「殿井景勝」のことをどれぐらい知っているのだろう。
殿井は去年まで、自分がこんなふうに誰かを家に呼んだり、一緒にご飯を食べたりするなんて考えもつかなかった。
食事は昔から朝昼晩とひとりで食べるものだったし、家は静かな場所だった。
そして、誰かの反応に一喜一憂するなんて、まったく想像もつかなかった。
自分の知らない自分がいて、それはもしかしたらまだ隠れているのではないかと思った。そしてきっとそれは、「アスカ」も同じなのではないかと思った。
「……ノーかな」
飛鳥はその答えに混乱し、よくわからなくなった。しばらく考えて、無言になった。立ち聞きした内容は、なにかの勘違いだったのだろうか。
そのときドアが乱暴に開き、5組のひとりが「殿井ー、箱ティッ……」と言いかけたと同時に、開いたドアから大音量の喘ぎ声が漏れ、殿井がキレた。
「自分の家で見ろ!」と怒鳴りながら中に入り、停止ボタンを押して換気した。
夕方になりみんなが帰る中、飛鳥は夏に草むしりをした日本庭園のほうへこっそり行って、葉の落ちた楓の木をぼんやり眺めていた。
なんであんなことを自分から聞いてしまったんだろう、と飛鳥は後悔していた。
もし、殿井が誰か違う人を好きなのだったら。応援する?友達として。
もし殿井が女の子を好きだったら。応援するかもしれない。でももしほかの男だったら?
そんなわけはない。飛鳥は俯いた。殿井のこれまでの反応を考えたら、明らかに好きな相手は自分だ。でも。
……言わせて、どうしたいんだろう、俺。
飛鳥がまだ帰ってないことに気づいた殿井は、キョロキョロとその姿を探し、庭のほうへ回った。そこに、殿井のいつも見ている後ろ姿があった。今がチャンスだと思った。
「アスカ」
飛鳥が振り向くと、真剣な表情を見せる殿井が姿勢よく立っていた。殿井は飛鳥と目が合うと、すぐに下を向いた。
「……あの、俺さ、ちょっと前から、あの、アスカに言わなきゃいけないことが、あったんだ」
飛鳥の胃がギュッとなった。どうすればいいんだろう。
このまま、ずっと殿井といられればいいと思っていた。なにか決定的な言葉が、見えないふわふわしたものを、がんじがらめにするような気がした。
「あの、俺さ……」
「ストップ!」
飛鳥が大声で言った。虚を突かれて、殿井が顔を上げ目をパチクリと瞬いた。
「ケイさ、その前にさ、なんか直すことがあるんじゃないのか?俺に対する、その、変な感じ!目を見て話せよ!それできるようになったら聞いたる!」
「え、でも」
「じゃなかったら、俺は知らないからな!聞かないからな!絶っ対!」
飛鳥の剣幕に、殿井はこくこくとうなずくしかなかった。飛鳥は走って殿井の家を出た。
