文化祭以降、殿井は同じクラスだけでなく、違うクラスの人間からも話しかけられることが多くなった。
殿井は環境の変化に戸惑いつつも、棚田や春山に対するように周囲に接していたため、殿井の評価は「話せば意外と普通」というものに改められた。
さらに秋の校内マラソン大会で、殿井は上位に入っていた。5組には、スポーツ推薦で入学してきた生徒が一定数いる。勉強ばかりできると思われていた殿井は、同じクラスの男子から好意的に受け止められた。
3、4組の生徒は小学校から殿井を知る人間が多かったが、本人の印象は変わらないのにまわりの反応が変わったことに驚く人間もいた。
そして文武両道を地でいき、かつ見た目もよく家が裕福である殿井は、いつの間にか女子の間では「殿」から「王子」と呼ばれる存在になっていた。
しかし、そんな周囲の反応は、殿井の知るところではなかった。殿井はなぜ飛鳥の前でだけ不自然な動きになり、あまり会話できないのかということについて、ひたすら思い悩んでいた。
文化祭、マラソン大会を経て、二週間後に中間考査が控える頃。
弁当を広げる飛鳥の前に、購買でパンを買ってきた春山が座った。
「あれ棚田は?」
「速攻でメシ食って図書館で勉強してる」
飛鳥は梅干しの果肉をちまちまと白米に広げながら、春山に言った。
ラグビー部の方に勤しんでいた棚田は、一学期の期末で上位20位から外れてしまったのだ。飛鳥は10位、春山は3位、殿井は2位だった。
「秋ってイベント目白押しだなー」
飛鳥はもぐもぐとご飯を口に入れながら言った。
中間考査の後はすぐに体育祭がある。飛鳥は体育祭を楽しみにしていたが、1組ではお遊びの一環として捉えられていた。
「殿井ってマラソン得意なんだな」
春山がクリームパンをかじりながら、弁当を食べ終わった飛鳥にプリッツをくれた。
「そりゃそうだよー、だって夏休みもさー、うちのほうまで走ってきてたもん。だから毎日顔合わせてたんだよ」
結構距離あるのにさ、と言いながらうれしそうにプリッツを食べる飛鳥を見て、春山は引きつった顔でうなずいた。
殿井は、いつものように学校のカフェテリアで昼食を済ませた。文化祭以降は、同じ5組の男子数人と一緒だ。
そこに図書館から出てきた棚田と出くわした。棚田が声をかけ、殿井の首に腕を回した。
「お前さー、予備校とか行ってる?」
「行ったことない」
「まじですか!……お前ウチ来る前って凱風行ってたんでしょ?」
「家庭教師が来てた」
あ〜ハイハイすいませんでしたと棚田が腕を外し言った。その感じの悪い言い方に殿井はイラつき、「受験の前だけな」と言った。
「高校入ってからは来てないけど。アスカはあの家でよく勉強できるな」
「……ったくさー、お前の家みたく大豪邸じゃなくたって勉強はできんだよ!」
「小さい弟とかがいるって意味だよ!」
棚田と言い争いをしながら歩いていると、1組の前の廊下に春山と飛鳥が出ていた。
殿井は飛鳥の姿を見た途端、口をつぐんだ。言い争う姿を見られたくない。殿井は硬い表情で5組までスタスタと歩いていった。
その後ろ姿を見ながら、飛鳥はなんとなくおもしろくないものを感じていた。
基本的に人のことに関心がなく、それゆえ好き嫌いもなく、誰にでもニコニコと接する飛鳥は、初めて他人に対し何かモヤモヤとした苛立ちを覚えた。
「……あいつ、変じゃない?」
春山が棚田に言った。
「前から変だろ!今更かよ!」
棚田が呆れたように春山を見て、その反応に春山も呆れた。春山は飛鳥を見た。
殿井の歩いて行ったほうを見て、少しムスッとした顔をしていた。
その日の放課後、殿井は夕方の作業を終えて生物準備室で制服に着替えていた。バイオは隣の生物室で明日の授業準備をしており、徳田もバイオを手伝っている。
そこに春山がやってきた。
「トノっちいるー?あ、いた」
春山はさっさと木の椅子に腰掛けると、膝に肘をついて、頬杖で殿井に呼びかけた。
「トノっちさー」
殿井は無表情で春山を見た。
「他の学校の女子から告られたっしょ」
春山の言葉の意味を理解するのに少し時間がかかった。そして先週、違うクラスの話したこともない、しかし中学から一緒であると言う女子に呼び出され、見たこともない制服の女子に何かごにょごにょと告げられたのを思い出した。
「うーん……」
「さっき、美術部で聞いたんだけど」
女子生徒の付き合ってほしいという言葉に、「ごめんちょっと意味がよくわからない」と殿井は告げ、そのまま帰ってしまったのだった。
「お前さー、誰か好きなやついんの?」
春山は頬杖をついたまま殿井の表情を観察した。殿井の頭には、飛鳥の顔に「好きだ」の言葉がオーバーラップしたときの映像がすぐに思い浮かんだ。
「アスカかな」
ストレート剛速球を投げられ、春山が固まった。
「……まぁ……いいやつだもんな」
「うん」
殿井が着替え終わると同時に、生物室と準備室をつなぐドアが開き、凶悪な表情を浮かべた徳田が入ってきた。
「おい!殿井!部員以外立ち入り禁止だ!勝手に人入れんじゃねぇ!」
「いやここ部室じゃないでしょ」
殿井が眉間にシワを寄せて徳田に言った。部室は別に部室棟にあったが、徳田の私物と「バイオ」のバックナンバーで部屋は埋まっていた。
春山が言った。
「準備室なんだから誰がいてもいいんですよ」
「邪魔なんだよ!」
徳田が黒縁メガネの奥の目をそばめ、二人を睥睨した。
「ったく、鈴本を見習え!」
「……なんでアスカは徳田さんの言うことなんでも聞くんですかね」
殿井が、床に置いた鞄を持ち上げながら言った。
「さんづけで呼ぶんじゃねぇ!先輩だろ!……鈴本は俺には逆らえないんだよ、約束があるからな」
その言葉に殿井の動きが止まった。
「約束?」
その殿井の疑問に、徳田は何も答えずニヤリと笑っただけだった。殿井は強い危機感を覚えた。
飛鳥は夕方のタイムセールに合わせて買い物をしたあと、夕飯のメインを作り、母親が週末に作り置きしている常備菜を食卓に出して、小学生の弟二人の宿題の確認と持ち物チェックを終え、まだ一人で風呂に入るのを怖がる遊馬と入浴した。食事をしながら、部活を終え帰宅した妹に夕食を出し、さらにまた遅く帰宅する母親のために食事の用意をした。そしてその合間に洗濯を行った。
しかし、今日は曜日によって変わるセールの値引き対象品目を間違え、宿題を見たという確認の保護者欄に上下反対にハンコを押し、リンスではなく二度もシャンプーを手に出してしまった。
ちょっと落ち込む。
そして今、大量の洗濯物をたたみながら、殿井に対するモヤモヤの正体を晴らさなければ、この先、より大きなムダをしでかす恐れがあると考えた。
土曜日になり、秋蒔き用の種をまくため飛鳥は授業後に菜園に行った。
顧問のバイオは普段の手入れをマメにはしないが、こうした年間の栽培計画に関するところには必ず顔を出す。
必然的に徳田もついてくるので、作業のためジャージに長靴姿になった殿井は、仁王立ちになり邪魔だなと徳田を見た。制服姿の徳田も、相変わらず邪魔だなと同じことを思い、殿井を睨んだ。
飛鳥はその様子を見て、またモヤモヤとするものを感じた。そしてモヤモヤの原因が、自分とほかの人間とに対する、殿井の態度の差にあることにようやく気づいた。
殿井はさっさとシャベルで土を耕して畝を作り、飛鳥は畝に等間隔に穴を開けて肥料を小分けに入れていった。その息のあった動きを見て、バイオが「ふたりは仲いいねぇ!」と言った。
飛鳥はその言葉に顔をあげ、関心なさそうにつぶやいた。
「別にそうでもないですよ」
その言葉に、殿井は胸に刀を突き立てられたほどのショックを受けた。
「でもよく家に行くんでしょ」
殿井から話を聞かされていたバイオが重ねて言った。
「だって殿井、ほかの人と話してるほうが楽しそうだし」
飛鳥は手を休めずに言った。
「えーでも殿井は鈴本のこと好きなんだろ」
徳田が突然会話に割り込み、殿井はさらなる衝撃で発言の主を見た。徳田は準備室での春山と殿井の会話を耳にしていたのだった。
「だからお前、せっせと手伝ってたんだな!」
徳田が腕組みをし、殿井を見て踏んぞりかえった。殿井はシャベルをその場に投げ捨て、ツカツカと徳田に近づきながら軍手を外した。そして徳田の襟元をつかみながら怒鳴った。
「先輩も部員ならアスカを手伝ってください!」
友達なら当然のことをしているまでだと思う殿井は、何か鬼の首でもとったかのように偉そうに言う徳田に激しくイラついた。殿井が襟元をつかんだままさらに顔を近づけ、小声で聞いた。
「……アスカとの約束ってなんですか」
徳田はフンと鼻をならし、殿井の手を外した。
「鈴本に聞けよ。お前ら仲いいんだろ」
険悪な表情で二人が睨み合っていたとき、バイオが声をかけた。
「ちょっとみんな!話してないで蒔こうよ!」
バイオは状況を全く読まない笑顔を振りまき、シャッシャッと顔の横で種の袋を振った。
バイオと徳田が、殿井の耕したところにサラサラと小松菜の種を蒔く奥で、飛鳥は畝にキャベツの苗を植え付けていった。殿井は少し離れたところで、来週蒔くスナップエンドウのために苦土石灰を散布してシャベルで耕し、土づくりをしていた。
飛鳥はさっきの徳田の言葉を思い出した。
自分のことが好きならば、なぜ殿井は棚田たちと同じようにしゃべってくれないのか。
飛鳥はしゃがんだまま、手を止めて殿井を見つめていた。
殿井はシャベルを土に挿し、腰を伸ばすように背中をそらして、何気なく飛鳥のほうを見た。殿井がさっと目をそらす。飛鳥はまた違和感を感じた。すぐに立ち上がり、殿井の方へ行って話しかけた。
「なんでケイはさ、目そらすんだよ」
目があったらとりあえず笑いなさいと言われ育った飛鳥には、殿井の行動パターンが全く理解できなかった。
「タナとかにはふつーに話すくせに」
「あ……えーと、ごめん。……あ、あのさ、……徳田とさ、なんの約束してんの?」
殿井が地面に目を泳がせつつ飛鳥に聞いた。
「約束?そんなんしてないよ?」
飛鳥は入部時に交わした密約を、今の段階の話として捉えることができなかった。
約束の存在を否定する飛鳥に、殿井は動揺した。何か人に言えないほどのものなのか。
挙動不審な殿井を見ると、飛鳥はまたムスッとした顔をして畝に戻った。
中間考査が終わり、棚田が掲示を見てガッツポーズをした。今回は9位に入っていた。
近くに殿井がいるのに気づいた棚田は、人混みをかき分け、ガッと腕を殿井の首にまわしながら「1位おめでとうございます!」と言って頭をぐしゃぐしゃかき回した。
最近の殿井は、飛鳥に対し溢れそうになる思いをどうしていいのかわからず、平日はひたすら勉強に集中し、休日は飛鳥の家の近くまで無駄に長距離を走って帰るという日々を過ごしていた。
しかし今、頭の中は自分が1位になったことよりも、掲示された中に飛鳥の名前がないことでいっぱいだった。
最近は収穫物もなく、定期的に雨は降るので、水やりもマメに行う必要がない。朝菜園に行っても、飛鳥の姿はなかった。
そしてこの前の土曜は、いつも殿井に話しかけてくる飛鳥が終始無言で、結局二人黙ったままスナップエンドウの種を蒔き終わった。
飛鳥の機嫌が悪くなったのは、明らかに先々週のことからだったと、殿井は自身の頭の中にある「アスカフォルダ」を参照しながら分析していた。
徳田が余計なことを言ったせいで飛鳥の態度が変わったとしか思えない。
自分が向ける友情は飛鳥にとって迷惑なものでしかなかったのか。もしやその不快感が試験になんらか影響を及ぼしたのではないかとひとり落ち込んだ。
一方飛鳥は、世界史のテストが返ってきた瞬間、記号問題をすべて一つずつずらして記入していたことに気づき、しょんぼりとした。
最近どうもぼんやりすることが多かった。どうすれば棚田や春山に対するように殿井が接してくれるのか、つい考えてしまうのである。飛鳥はもっとフランクに殿井と話したかった。
己の行動を振り返ると、自分だけ殿井に一方的に話しかけている。飛鳥は、いわゆる会話のキャッチボールができていなかったのではないかと分析した。
そのため、この前の農作業時にはなるべく黙ったままでいたのだが、それでも殿井は黙々と作業を進めていた。その様子を見て、もしかしたら今まで作業中に話しかけるのは、迷惑だったのかもしれないという結論に至った。
考えてみれば、棚田も春山も、殿井に絡んで会話が続いていく。もともと無口なのに悪かったな、と飛鳥は反省した。
自分を好きだというのだし、嫌われてはいないだろうがなぁ、などと相変わらず弁当を食べながら悩んでいた。
そこに、購買から戻った春山が「トノっちついに1位だって〜」と言いながら、菓子パンの袋で飛鳥の頭を叩いた。
「え?まじで?」
飛鳥は急いで弁当をかきこむと、走って掲示を見に行った。
そこで、棚田にヘッドロックされ、頭をぐしゃぐしゃにされている殿井の姿を見、これか!と天啓が降りた。
ラグビー部所属棚田の、体当たりのコミュニケーション術を学んだのである。
飛鳥は「ケイ!すごいじゃん!」と言いながら、殿井の首に後ろから両腕を回し、抱きつくように背中に乗った。
殿井は、一瞬何が起きたかわからず、0.5秒後に事態を把握した瞬間、心臓が止まるほどの衝撃と嬉しさと恥ずかしさにより顔が真っ赤になった。
「タナのせいでケイの髪、ぐしゃぐしゃじゃん!」
「飛鳥、どうしたんだよ?今回」
「世界史でマークミスして15点くらい落とした」
「まじかよ!アホすぎるわ」
棚田と飛鳥のやりとりが遠くに聞こえた。
飛鳥が正面に回り、自分の髪を直してくれているのに呆然となった殿井は、目の前にシャッターが降りるかのように視界が上から暗くなった。
殿井はベージュの天井を見た。遠くで少しざわめきが聞こえる。立ちくらみのようなものを感じ、フラフラになって保健室のベッドで横になっていたのだった。
顔が赤くなったあと、青くなり、そして白くなった殿井の顔を見て飛鳥は焦り、棚田と二人で保健室に連れてきた。
まだ弁当を食べていなかった棚田は教室に戻り、養護教諭は昼食中で席を外していた。飛鳥はひとり、殿井に付き添った。
殿井が身を起こしたことに気づき、飛鳥がベッドの脇に立った。
「大丈夫かよ?体弱いの?夏も具合悪くなってたよな?」
「え?……あ、あぁ……うん……」
「もしかして体弱いから走ってんの?俺なんて風邪もひかないよ!やっぱケイ、おぼっちゃんだからかなー」
飛鳥は黙りこくる殿井を見て、再びいつものクセが出てしまったと反省し、ベッドに腰かけた。なんと声をかけたらいいのか。
「あ、あのさ」
殿井の言葉に、飛鳥が期待に満ちた目を向けた。
「……この前さ、徳田がさ、アスカは俺の言うことに逆らえないって言ってたんだけど……」
「あぁ〜その代わりみんな畑で採れたもの、うちに持って帰っていいことになってるんだ」
なんだ、とつぶやき、殿井はホッとした。徳田の性格からして、何かもっと卑劣なことをあれこれ想像していた。
「もしかしてさ、畑でなんか先輩と言ってたの、それ?」
「え?あ……なんか徳田が弱みでも握って脅してるのかって……」
その言葉を聞き、「まさか」と言って飛鳥は屈託なく笑った。
「先輩、バイオ関わらなければいい人だよ。よく缶詰とか素麺くれるしさ」
両親が税理士を務める徳田の家にはお歳暮やお中元の類が多く、食べきれないものや好みに合わない分を鈴本家に大量にくれるのである。ちなみに、飛鳥の家で殿井が食べた素麺も、徳田家から来た高級桐箱入り揖保乃糸だ。
それは施しではないのかと不審そうに眉をひそめる殿井に、「過去問もくれるよ」と飛鳥が付け加えた。
「それより、俺の弱みはケイが握ってるんだよ!」
「……えっ?」
「タナと春やんにも、俺がバイトしてるの言ってないんだからな!二人だけの秘密だからな!」
二人の秘密という言葉に、殿井は何か甘美なものを感じた。実際にはもう二人のものではなくなってしまったが。
殿井は、棚田の挑発に乗って迂闊に話してしまった己を斬り捨てたい気分になった。
飛鳥は、殿井が自分を心配してくれていたことにうれしくなった。もっと殿井と普通に話していたかった。
「もうテスト終わったしさ、日曜日、ケイの家行ってもいい?ダメ?」
「えっ?」
「また遊馬が見たいって、アスカ」
自分の名前を言ってるようでおかしくなり、飛鳥はひとり笑った。笑いながら殿井に寄りかかり、殿井はそのぬくもりに再びのめまいを感じた。
殿井は環境の変化に戸惑いつつも、棚田や春山に対するように周囲に接していたため、殿井の評価は「話せば意外と普通」というものに改められた。
さらに秋の校内マラソン大会で、殿井は上位に入っていた。5組には、スポーツ推薦で入学してきた生徒が一定数いる。勉強ばかりできると思われていた殿井は、同じクラスの男子から好意的に受け止められた。
3、4組の生徒は小学校から殿井を知る人間が多かったが、本人の印象は変わらないのにまわりの反応が変わったことに驚く人間もいた。
そして文武両道を地でいき、かつ見た目もよく家が裕福である殿井は、いつの間にか女子の間では「殿」から「王子」と呼ばれる存在になっていた。
しかし、そんな周囲の反応は、殿井の知るところではなかった。殿井はなぜ飛鳥の前でだけ不自然な動きになり、あまり会話できないのかということについて、ひたすら思い悩んでいた。
文化祭、マラソン大会を経て、二週間後に中間考査が控える頃。
弁当を広げる飛鳥の前に、購買でパンを買ってきた春山が座った。
「あれ棚田は?」
「速攻でメシ食って図書館で勉強してる」
飛鳥は梅干しの果肉をちまちまと白米に広げながら、春山に言った。
ラグビー部の方に勤しんでいた棚田は、一学期の期末で上位20位から外れてしまったのだ。飛鳥は10位、春山は3位、殿井は2位だった。
「秋ってイベント目白押しだなー」
飛鳥はもぐもぐとご飯を口に入れながら言った。
中間考査の後はすぐに体育祭がある。飛鳥は体育祭を楽しみにしていたが、1組ではお遊びの一環として捉えられていた。
「殿井ってマラソン得意なんだな」
春山がクリームパンをかじりながら、弁当を食べ終わった飛鳥にプリッツをくれた。
「そりゃそうだよー、だって夏休みもさー、うちのほうまで走ってきてたもん。だから毎日顔合わせてたんだよ」
結構距離あるのにさ、と言いながらうれしそうにプリッツを食べる飛鳥を見て、春山は引きつった顔でうなずいた。
殿井は、いつものように学校のカフェテリアで昼食を済ませた。文化祭以降は、同じ5組の男子数人と一緒だ。
そこに図書館から出てきた棚田と出くわした。棚田が声をかけ、殿井の首に腕を回した。
「お前さー、予備校とか行ってる?」
「行ったことない」
「まじですか!……お前ウチ来る前って凱風行ってたんでしょ?」
「家庭教師が来てた」
あ〜ハイハイすいませんでしたと棚田が腕を外し言った。その感じの悪い言い方に殿井はイラつき、「受験の前だけな」と言った。
「高校入ってからは来てないけど。アスカはあの家でよく勉強できるな」
「……ったくさー、お前の家みたく大豪邸じゃなくたって勉強はできんだよ!」
「小さい弟とかがいるって意味だよ!」
棚田と言い争いをしながら歩いていると、1組の前の廊下に春山と飛鳥が出ていた。
殿井は飛鳥の姿を見た途端、口をつぐんだ。言い争う姿を見られたくない。殿井は硬い表情で5組までスタスタと歩いていった。
その後ろ姿を見ながら、飛鳥はなんとなくおもしろくないものを感じていた。
基本的に人のことに関心がなく、それゆえ好き嫌いもなく、誰にでもニコニコと接する飛鳥は、初めて他人に対し何かモヤモヤとした苛立ちを覚えた。
「……あいつ、変じゃない?」
春山が棚田に言った。
「前から変だろ!今更かよ!」
棚田が呆れたように春山を見て、その反応に春山も呆れた。春山は飛鳥を見た。
殿井の歩いて行ったほうを見て、少しムスッとした顔をしていた。
その日の放課後、殿井は夕方の作業を終えて生物準備室で制服に着替えていた。バイオは隣の生物室で明日の授業準備をしており、徳田もバイオを手伝っている。
そこに春山がやってきた。
「トノっちいるー?あ、いた」
春山はさっさと木の椅子に腰掛けると、膝に肘をついて、頬杖で殿井に呼びかけた。
「トノっちさー」
殿井は無表情で春山を見た。
「他の学校の女子から告られたっしょ」
春山の言葉の意味を理解するのに少し時間がかかった。そして先週、違うクラスの話したこともない、しかし中学から一緒であると言う女子に呼び出され、見たこともない制服の女子に何かごにょごにょと告げられたのを思い出した。
「うーん……」
「さっき、美術部で聞いたんだけど」
女子生徒の付き合ってほしいという言葉に、「ごめんちょっと意味がよくわからない」と殿井は告げ、そのまま帰ってしまったのだった。
「お前さー、誰か好きなやついんの?」
春山は頬杖をついたまま殿井の表情を観察した。殿井の頭には、飛鳥の顔に「好きだ」の言葉がオーバーラップしたときの映像がすぐに思い浮かんだ。
「アスカかな」
ストレート剛速球を投げられ、春山が固まった。
「……まぁ……いいやつだもんな」
「うん」
殿井が着替え終わると同時に、生物室と準備室をつなぐドアが開き、凶悪な表情を浮かべた徳田が入ってきた。
「おい!殿井!部員以外立ち入り禁止だ!勝手に人入れんじゃねぇ!」
「いやここ部室じゃないでしょ」
殿井が眉間にシワを寄せて徳田に言った。部室は別に部室棟にあったが、徳田の私物と「バイオ」のバックナンバーで部屋は埋まっていた。
春山が言った。
「準備室なんだから誰がいてもいいんですよ」
「邪魔なんだよ!」
徳田が黒縁メガネの奥の目をそばめ、二人を睥睨した。
「ったく、鈴本を見習え!」
「……なんでアスカは徳田さんの言うことなんでも聞くんですかね」
殿井が、床に置いた鞄を持ち上げながら言った。
「さんづけで呼ぶんじゃねぇ!先輩だろ!……鈴本は俺には逆らえないんだよ、約束があるからな」
その言葉に殿井の動きが止まった。
「約束?」
その殿井の疑問に、徳田は何も答えずニヤリと笑っただけだった。殿井は強い危機感を覚えた。
飛鳥は夕方のタイムセールに合わせて買い物をしたあと、夕飯のメインを作り、母親が週末に作り置きしている常備菜を食卓に出して、小学生の弟二人の宿題の確認と持ち物チェックを終え、まだ一人で風呂に入るのを怖がる遊馬と入浴した。食事をしながら、部活を終え帰宅した妹に夕食を出し、さらにまた遅く帰宅する母親のために食事の用意をした。そしてその合間に洗濯を行った。
しかし、今日は曜日によって変わるセールの値引き対象品目を間違え、宿題を見たという確認の保護者欄に上下反対にハンコを押し、リンスではなく二度もシャンプーを手に出してしまった。
ちょっと落ち込む。
そして今、大量の洗濯物をたたみながら、殿井に対するモヤモヤの正体を晴らさなければ、この先、より大きなムダをしでかす恐れがあると考えた。
土曜日になり、秋蒔き用の種をまくため飛鳥は授業後に菜園に行った。
顧問のバイオは普段の手入れをマメにはしないが、こうした年間の栽培計画に関するところには必ず顔を出す。
必然的に徳田もついてくるので、作業のためジャージに長靴姿になった殿井は、仁王立ちになり邪魔だなと徳田を見た。制服姿の徳田も、相変わらず邪魔だなと同じことを思い、殿井を睨んだ。
飛鳥はその様子を見て、またモヤモヤとするものを感じた。そしてモヤモヤの原因が、自分とほかの人間とに対する、殿井の態度の差にあることにようやく気づいた。
殿井はさっさとシャベルで土を耕して畝を作り、飛鳥は畝に等間隔に穴を開けて肥料を小分けに入れていった。その息のあった動きを見て、バイオが「ふたりは仲いいねぇ!」と言った。
飛鳥はその言葉に顔をあげ、関心なさそうにつぶやいた。
「別にそうでもないですよ」
その言葉に、殿井は胸に刀を突き立てられたほどのショックを受けた。
「でもよく家に行くんでしょ」
殿井から話を聞かされていたバイオが重ねて言った。
「だって殿井、ほかの人と話してるほうが楽しそうだし」
飛鳥は手を休めずに言った。
「えーでも殿井は鈴本のこと好きなんだろ」
徳田が突然会話に割り込み、殿井はさらなる衝撃で発言の主を見た。徳田は準備室での春山と殿井の会話を耳にしていたのだった。
「だからお前、せっせと手伝ってたんだな!」
徳田が腕組みをし、殿井を見て踏んぞりかえった。殿井はシャベルをその場に投げ捨て、ツカツカと徳田に近づきながら軍手を外した。そして徳田の襟元をつかみながら怒鳴った。
「先輩も部員ならアスカを手伝ってください!」
友達なら当然のことをしているまでだと思う殿井は、何か鬼の首でもとったかのように偉そうに言う徳田に激しくイラついた。殿井が襟元をつかんだままさらに顔を近づけ、小声で聞いた。
「……アスカとの約束ってなんですか」
徳田はフンと鼻をならし、殿井の手を外した。
「鈴本に聞けよ。お前ら仲いいんだろ」
険悪な表情で二人が睨み合っていたとき、バイオが声をかけた。
「ちょっとみんな!話してないで蒔こうよ!」
バイオは状況を全く読まない笑顔を振りまき、シャッシャッと顔の横で種の袋を振った。
バイオと徳田が、殿井の耕したところにサラサラと小松菜の種を蒔く奥で、飛鳥は畝にキャベツの苗を植え付けていった。殿井は少し離れたところで、来週蒔くスナップエンドウのために苦土石灰を散布してシャベルで耕し、土づくりをしていた。
飛鳥はさっきの徳田の言葉を思い出した。
自分のことが好きならば、なぜ殿井は棚田たちと同じようにしゃべってくれないのか。
飛鳥はしゃがんだまま、手を止めて殿井を見つめていた。
殿井はシャベルを土に挿し、腰を伸ばすように背中をそらして、何気なく飛鳥のほうを見た。殿井がさっと目をそらす。飛鳥はまた違和感を感じた。すぐに立ち上がり、殿井の方へ行って話しかけた。
「なんでケイはさ、目そらすんだよ」
目があったらとりあえず笑いなさいと言われ育った飛鳥には、殿井の行動パターンが全く理解できなかった。
「タナとかにはふつーに話すくせに」
「あ……えーと、ごめん。……あ、あのさ、……徳田とさ、なんの約束してんの?」
殿井が地面に目を泳がせつつ飛鳥に聞いた。
「約束?そんなんしてないよ?」
飛鳥は入部時に交わした密約を、今の段階の話として捉えることができなかった。
約束の存在を否定する飛鳥に、殿井は動揺した。何か人に言えないほどのものなのか。
挙動不審な殿井を見ると、飛鳥はまたムスッとした顔をして畝に戻った。
中間考査が終わり、棚田が掲示を見てガッツポーズをした。今回は9位に入っていた。
近くに殿井がいるのに気づいた棚田は、人混みをかき分け、ガッと腕を殿井の首にまわしながら「1位おめでとうございます!」と言って頭をぐしゃぐしゃかき回した。
最近の殿井は、飛鳥に対し溢れそうになる思いをどうしていいのかわからず、平日はひたすら勉強に集中し、休日は飛鳥の家の近くまで無駄に長距離を走って帰るという日々を過ごしていた。
しかし今、頭の中は自分が1位になったことよりも、掲示された中に飛鳥の名前がないことでいっぱいだった。
最近は収穫物もなく、定期的に雨は降るので、水やりもマメに行う必要がない。朝菜園に行っても、飛鳥の姿はなかった。
そしてこの前の土曜は、いつも殿井に話しかけてくる飛鳥が終始無言で、結局二人黙ったままスナップエンドウの種を蒔き終わった。
飛鳥の機嫌が悪くなったのは、明らかに先々週のことからだったと、殿井は自身の頭の中にある「アスカフォルダ」を参照しながら分析していた。
徳田が余計なことを言ったせいで飛鳥の態度が変わったとしか思えない。
自分が向ける友情は飛鳥にとって迷惑なものでしかなかったのか。もしやその不快感が試験になんらか影響を及ぼしたのではないかとひとり落ち込んだ。
一方飛鳥は、世界史のテストが返ってきた瞬間、記号問題をすべて一つずつずらして記入していたことに気づき、しょんぼりとした。
最近どうもぼんやりすることが多かった。どうすれば棚田や春山に対するように殿井が接してくれるのか、つい考えてしまうのである。飛鳥はもっとフランクに殿井と話したかった。
己の行動を振り返ると、自分だけ殿井に一方的に話しかけている。飛鳥は、いわゆる会話のキャッチボールができていなかったのではないかと分析した。
そのため、この前の農作業時にはなるべく黙ったままでいたのだが、それでも殿井は黙々と作業を進めていた。その様子を見て、もしかしたら今まで作業中に話しかけるのは、迷惑だったのかもしれないという結論に至った。
考えてみれば、棚田も春山も、殿井に絡んで会話が続いていく。もともと無口なのに悪かったな、と飛鳥は反省した。
自分を好きだというのだし、嫌われてはいないだろうがなぁ、などと相変わらず弁当を食べながら悩んでいた。
そこに、購買から戻った春山が「トノっちついに1位だって〜」と言いながら、菓子パンの袋で飛鳥の頭を叩いた。
「え?まじで?」
飛鳥は急いで弁当をかきこむと、走って掲示を見に行った。
そこで、棚田にヘッドロックされ、頭をぐしゃぐしゃにされている殿井の姿を見、これか!と天啓が降りた。
ラグビー部所属棚田の、体当たりのコミュニケーション術を学んだのである。
飛鳥は「ケイ!すごいじゃん!」と言いながら、殿井の首に後ろから両腕を回し、抱きつくように背中に乗った。
殿井は、一瞬何が起きたかわからず、0.5秒後に事態を把握した瞬間、心臓が止まるほどの衝撃と嬉しさと恥ずかしさにより顔が真っ赤になった。
「タナのせいでケイの髪、ぐしゃぐしゃじゃん!」
「飛鳥、どうしたんだよ?今回」
「世界史でマークミスして15点くらい落とした」
「まじかよ!アホすぎるわ」
棚田と飛鳥のやりとりが遠くに聞こえた。
飛鳥が正面に回り、自分の髪を直してくれているのに呆然となった殿井は、目の前にシャッターが降りるかのように視界が上から暗くなった。
殿井はベージュの天井を見た。遠くで少しざわめきが聞こえる。立ちくらみのようなものを感じ、フラフラになって保健室のベッドで横になっていたのだった。
顔が赤くなったあと、青くなり、そして白くなった殿井の顔を見て飛鳥は焦り、棚田と二人で保健室に連れてきた。
まだ弁当を食べていなかった棚田は教室に戻り、養護教諭は昼食中で席を外していた。飛鳥はひとり、殿井に付き添った。
殿井が身を起こしたことに気づき、飛鳥がベッドの脇に立った。
「大丈夫かよ?体弱いの?夏も具合悪くなってたよな?」
「え?……あ、あぁ……うん……」
「もしかして体弱いから走ってんの?俺なんて風邪もひかないよ!やっぱケイ、おぼっちゃんだからかなー」
飛鳥は黙りこくる殿井を見て、再びいつものクセが出てしまったと反省し、ベッドに腰かけた。なんと声をかけたらいいのか。
「あ、あのさ」
殿井の言葉に、飛鳥が期待に満ちた目を向けた。
「……この前さ、徳田がさ、アスカは俺の言うことに逆らえないって言ってたんだけど……」
「あぁ〜その代わりみんな畑で採れたもの、うちに持って帰っていいことになってるんだ」
なんだ、とつぶやき、殿井はホッとした。徳田の性格からして、何かもっと卑劣なことをあれこれ想像していた。
「もしかしてさ、畑でなんか先輩と言ってたの、それ?」
「え?あ……なんか徳田が弱みでも握って脅してるのかって……」
その言葉を聞き、「まさか」と言って飛鳥は屈託なく笑った。
「先輩、バイオ関わらなければいい人だよ。よく缶詰とか素麺くれるしさ」
両親が税理士を務める徳田の家にはお歳暮やお中元の類が多く、食べきれないものや好みに合わない分を鈴本家に大量にくれるのである。ちなみに、飛鳥の家で殿井が食べた素麺も、徳田家から来た高級桐箱入り揖保乃糸だ。
それは施しではないのかと不審そうに眉をひそめる殿井に、「過去問もくれるよ」と飛鳥が付け加えた。
「それより、俺の弱みはケイが握ってるんだよ!」
「……えっ?」
「タナと春やんにも、俺がバイトしてるの言ってないんだからな!二人だけの秘密だからな!」
二人の秘密という言葉に、殿井は何か甘美なものを感じた。実際にはもう二人のものではなくなってしまったが。
殿井は、棚田の挑発に乗って迂闊に話してしまった己を斬り捨てたい気分になった。
飛鳥は、殿井が自分を心配してくれていたことにうれしくなった。もっと殿井と普通に話していたかった。
「もうテスト終わったしさ、日曜日、ケイの家行ってもいい?ダメ?」
「えっ?」
「また遊馬が見たいって、アスカ」
自分の名前を言ってるようでおかしくなり、飛鳥はひとり笑った。笑いながら殿井に寄りかかり、殿井はそのぬくもりに再びのめまいを感じた。
