「お前さ、どっか行ったの?めっちゃ焼けてね?」
始業式の終わった体育館から出ると、棚田が後ろからガッと肩を組んで飛鳥に話しかけてきた。
「草取り焼け〜」
「お前休み中もずっと学校来てたのかよ!」
「いや、ケイん家でも草取りしてたからなー」
「ケイ?」
飛鳥が後ろを振り返り、大きく手を振った。棚田も振り返ると、暑い中、ネクタイをぴっちりと締めて姿勢よく歩く殿井景勝と目があった。
飛鳥は人の流れを避けるために端に寄り、殿井が歩いてくるのを待った。棚田は面白くなさそうな顔で飛鳥から離れ、後ろから来た春山と合流してさっさと歩いていった。
「ケイさー、今日準備室来れる?」
「……うん」
「文化祭の話しよ!」
殿井は眉間にシワを寄せた。文化祭というものに自分が関わることになるとは、想定していなかった。
飛鳥はそれだけ告げると、「じゃ後でな!」と殿井の肩を叩いた。
飛鳥は棚田と春山の後を走って追いかけ、後ろから棚田の背中をバシッと叩き、肩を組んで笑いながら歩いて行った。それを見て、殿井は棚田がうらやましいと素直に思った。
クラスの半数しか出席していない5組の教室で、机に頬杖をつきながら、殿井は窓の外をぼんやり眺めていた。毎日毎時間この調子で、話しかけてくる人間もおらず、話しかける相手もいなかった。
殿井にとって学校というのはそういう場所だった。
お盆を挟む二週間は、殿井家の毎年恒例の家族旅行期間だった。ふだんは仕事で忙しい両親が、そろって長めの休みをとる。
今年はイギリスに行ったが、殿井にとっては、飛鳥と行った青少年子どもの家の記憶が、この夏の思い出として刻まれていた。
付属幼稚園の卒業生で構成される子ども会の付き添いに駆り出された生物部は、総勢20名の小学生とともに関越道を貸切バスで北上した。
結局、バスの席にゆとりがあったので、飛鳥の労働と引き換えに、参加費無料で兄弟も連れてきてよいということになり、竜太と遊馬がついてきている。
徳田はバイオの横の席をしっかりキープし、通路を挟んで飛鳥の隣に竜太が座り、その後ろの席に殿井、その隣には遊馬が座った。さらにその後ろでは小学生が賑やかに話している。
しかし一番うるさいのは遊馬で、殿井にずっとしゃべりかけながら前の席の竜太の座席を蹴り、竜太と喧嘩になっては飛鳥に怒られるというのを三回ほど繰り返した。殿井は慣れない小学生との会話にぐったりとした。
昼は川遊びとバーベキュー、夕方は近くの温泉に行き、夜は花火をした。
二日目は山登りで、夜はカレーを作り、三日目に解散のスケジュールだった。
殿井はこのときがチャンスとばかり持参したデジタル一眼レフで飛鳥の写真を撮りまくったが、遊馬に覗きこまれてしまった。
殿井は焦ったが、遊馬は「飛鳥ばっかりじゃん!」と大声で言ったあと、機嫌が悪くなったため、殿井はカメラをしまい、遊馬とひたすら遊ぶハメになった。
飛鳥は兄弟の無料分に対する勤労奉仕に加え、徳田が押し付ける分までせっせとこなしたため、弟の世話にまで手が回らなかった。
殿井が弟二人の面倒を見てくれていることに感謝しながら、飛鳥はバーベキューの炭運び、食事や川遊びの際の小学生の監督、花火の準備と後片付けなどをテキパキとこなし、引率の教員一名と子ども会の父兄としてついてきた三名から可愛がられた。
そんな飛鳥を見ながらぼんやりとしていた殿井は、事あるごとに「見てねえでお前も手伝えよ!」と徳田に頭をどつかれた。
徳田は常にバイオのそばのポジションをキープしていたが、遊軍が多いと自分が小学生の面倒見要員として声がかかる危険があると睨んでいたのだ。
殿井は、自分のことを棚に上げて怒る徳田に怒りを感じたが、言うことには一理あると思い、飛鳥のまわりをうろつき手伝った。
殿井にフラットに接するという意味では、徳田も飛鳥と同じだったが、殿井はそれには気づかなかった。
殿井がぼんやりと回想しているうちに始業式後のホームルームが終わり、5組はそのまま解散となった。
1組から4組はこのあと普通に授業が始まる。殿井はのっそりと立ち上がり、飛鳥を待つために生物準備室へ向かった。
静かな準備室で、鍵のかかったスチールキャビネットを見ながら、旅行中目に焼き付けた飛鳥の様々な姿をゆっくり思い出す。
子どもたちと川の水で戯れる顔。手持ち花火の緑の火に照らされた顔。夜、隣で幸せそうに眠る顔。その全てが殿井の宝物だった。
……川で殿井は竜太および小学生にもみくちゃにされ、それを見た飛鳥が怒り、最終的に小学生たちと水の掛け合いに発展した。
花火では微動だにせず飛鳥ばかりを見ていたため、線香花火の火玉を驚異的に長持ちさせ、遊馬および小学生の尊敬を一身に集めた。
温泉では、自宅でのシャワーの時と同様、なるべく遊馬を見て飛鳥を見ないように自主規制し、なんとかやり過ごした。
夜は飛鳥との間に遊馬が寝ていたが、殿井の記憶では消されていた。飛鳥は毎日疲れきっていたため、寝る時間が何よりの幸せだった。
姿勢よく木の椅子に座り、目を閉じて飛鳥の姿を反芻するうち、二時間が知らぬ間に経過していたことに殿井は気づかなかった。
突然ガラッという音と「お待たせ!」という声が聞こえ、殿井は目を開けた。目の前に飛鳥がいて、ニコニコ笑っていた。
「なんかケイさー、座禅してるみたいだな!」
殿井の耳にその言葉は入ったものの、自分をじっと見つめる棚田と、小指で耳をほじる面倒くさそうな顔の春山の姿に困惑した。
「殿井ってさー、ケイって呼ばれてんだー」
棚田が殿井に向かって言った。一度も話したことのないほかのクラスの人間が自分の名前を知っていることに殿井は驚いた。
しかし棚田の目には、殿井が眉間にシワを寄せ自分をにらんだようにしか見えず、内心カチンときた。そんな二人の心情にはまったく気がつかず、飛鳥が明るく殿井に言った。
「あのさ、文化祭、タナと春やんにも手伝ってもらおうと思って」
「え?えーと……徳田さんは……」
「先輩はね、当日バイオの手伝いがあるから無理なんだって。バイオ、文化祭の記録担当らしいよ。カメラ得意だからなー」
殿井は、自分勝手な徳田に再びの怒りを禁じ得なかった。
「じ、事前準備くらいは……」
「それもバイオが文化祭特大号発行するから、その手伝いで無理だって。お前らでやれって」
バイオは、趣味で「バイオ」という環境破壊に関する啓発の機関紙を不定期で発行し、校内で配布していた。
殿井は内心飛鳥と二人でやってもいいと思っていたが、飛鳥は構わず三人に自分の計画を話しはじめた。
「じゃーん!文化祭は、ポップコーンを売りまーす!」
畑で育てたポップコーンを、様々なフレーバーで売るのだという。その話を聞きながら、殿井は畑にあったマズそうなトウモロコシがポップコーン用の品種だったことを初めて知った。
ポップコーンの存在そのものは普通名詞の一つとして知ってはいたが、フレーバーポップコーンはおろか塩味のポップコーン自体を食べたことがない。
殿井にとっておやつといえば、殿井家の胃袋を支える永田さんお手製の焼き菓子か水菓子が中心だった。ポップコーンは永田さんの中でスナック菓子に分類されていたため、殿井のおやつに登場することがなかったのだ。
ちなみに殿井家にはテレビもなく、学校はずっと家の近くだったために、殿井は携帯電話も持ったことがなかった。
パソコンはプログラミング学習用に買い与えられてはいたが、中学生のころはWiFiのパスワードは伏せられており、インターネットに接続はできなかった。
こうした環境により、周囲との齟齬は年齢があがるとともにあちこちで生じた。
いちいち驚かれたり何かを確認するのに疲れてしまい、結果しゃべるのが面倒くさくなって今に至っている。
「作る人でしょ、商品渡す人、会計する人、あとは呼び込み兼交代要員でちょうど四人」
飛鳥がみんなの前で指折り数え、うなずいた。
「……1組のほうはいいの?」
殿井の最もな指摘に、春山が初めて殿井に視線を向けた。
「うちのクラス、女子がアイスクリーム屋やるって盛り上がっててさ。俺ら設営要員になってるけど朝だけだから当日はヒマなんだわ」
なんかおそろいのTシャツ着なきゃいけねぇんだろ、と春山が棚田に水を向け、棚田が飛鳥に「どうすんの?買うの?お前」と聞いた。
「買わなきゃいけないだろうけど、ポップコーンの売り上げ分で補填するしかないかなぁ」
飛鳥が腕組みをして言い、殿井は自分のクラスである5組が何をやるのか知らないことに、はっと気づいた。
場合によっては当日忙しく、飛鳥を手伝うことができないかもしれない。そんな心を見透かすかのごとく飛鳥が尋ねた。
「5組は何するの?」
「……知らない」
「え?カフェだろ?さっき廊下で聞いたけど」
春山が意外な顔で殿井に言った。
「てか殿井もコスプレするんだろ」
「コスプレ?」
殿井は完全に自分の世界に入っていたので全く気がつかなかったが、先ほどのホームルームで、文化祭の出し物と分担がその場にいた人間で手早く決められていた。
さらに文化祭実行委員の意向により、欠席していた人間と意思表示をしなかった人間、つまり殿井は給仕担当に割り当てられた。
そして武将のコスプレをした殿井が、給仕のほかに宣伝要員として馬で練り歩くという話が捏造され、瞬時にほかのクラスに伝えられた。その話を春山から聞かされ殿井は絶句した。
「ちゃんと聞いてねえからダメなんじゃん」
棚田が冷ややかな声で言い、コスプレ楽しみ〜と心にもない言葉を春山が放った。
「えーじゃあケイは当日無理か……」
「いややるよ!」
飛鳥の言葉に思わず勢い込んで言った殿井に、棚田が「どうやんだよ」とツッコミを入れた。
「担当の時間は無理だけど、それ以外の時間はポップコーン屋にいる」
「お前コスプレのままポップコーン売り歩けよ!」
棚田が我が意を得たりとばかりに、殿井を指差しながら言った。
「いや、俺はアスカとポップコーンを作る!」
思わず殿井が力強く宣言した。
「作るやつは一人でいいんだよ!お前、人の話聞いてねえのかよ!」
「……えっと、俺は会計するからさ、ケイ呼び込みしてよ」
飛鳥がニコニコして言い、殿井を含む全員が、最も殿井に向かなさそうな役割を振ったなと思った。
飛鳥は話がまとまったと思い満足そうにうなずき、また何かの用事があるのか、急いだ様子で準備室を出ていった。
準備室を出た殿井に、棚田が話しかけた。
「殿井ってさー、飛鳥と仲いいの?」
そのねっとりと感じの悪い言い方に殿井は振り返り、棚田を本当に睨みつけた。
「いや棚田くんたちのが仲いいだろ」
「飛鳥に庭の草取りさせてたんだろ」
「……一緒にやってた」
「でも最初はバイトって話だったんだろ、飛鳥が言ってたけど」
二人の様子を、春山が冷めた目で黙って見ていた。
「お前さぁ、飛鳥の家のこと知ってて、からかってんのかよ?何なの?普通タメにカネ渡すかよ。ありえねー」
「からかう?」
「飛鳥、結局カネもらわないでお前ん家の手伝いしたんだろ、体よく使ってんじゃねぇよ」
「……だってコンビニでアルバイトしてるのがバレたらまずいだろ。だからうちでやればいいのかと思ったんだよ」
棚田がその言葉に驚いた。春山は驚いたふうでもなく、やっぱなーとつぶやいた。
「あいつバイトしてんの?まじで?……じゃあ殿井がバイトOKに校則変えろよ!」
「そんなんできるかよ」
「だってお前ん家の学校なんだろ」
小学校のときから繰り返し似たようなことを言われてきた殿井は、今までこの手の話を一切無視してきた。しかし飛鳥に関することで絡まれ、イラつきが頂点に達した。
「……うるっせえな!俺の家と学校法人は別モンなんだよ!校則変えたきゃ自分で署名でも集めろ!」
下から舐めるように視線を上げ、啖呵を切る殿井の剣幕に、棚田は一瞬怯んだ。
「だいたいアスカが困ってんのにそっちはなんかしてんのかよ!俺は毎日畑やってるんだよ!」
「そりゃお前は部員だからだろ!」
「手伝うために入ったんだよ!」
その言葉に春山は横で目を丸くしたが、二人はなおも言い争いを続けた。
「俺はな、生物部員じゃなくてダチとして店手伝うんだよ!だいたいクラスTシャツのカネで悩んでんだぞ!お前にはわかんねぇだろ!」
その言葉に殿井はむっつり黙りこんだ。棚田はなおも続けた。
「お前は5組でコスプレしてコーラでも売ってろ!」
「……わかった。和服でポップコーンでもコーラでも売りゃいいんだろ!」
殿井がキレ気味に言った。コスプレが何かもコーラの味もポップコーンの作り方もわからなかったが、飛鳥のためなら何でもやったるわという気分になる。殿井は踵を返して姿勢よく大股で歩いていった。
文化祭の当日、殿井は豪華な馬装束を施したアスカに乗り、殿井家の紋の入った羽織袴姿で登校した。父親の服を借りたのである。
さらに祖父のコレクションである日本刀を持ち出し、脇に大小差して歩いていたため、銃刀法違反ではとバイオが慌てふためいた。
その妙に堂々とした殿井の姿は、教職員も含め全校に一瞬で知れ渡った。
「……今気づいたけど、なんか変だったのって、ブレザーで馬に乗ってたからだったんだよ!」
ポップコーンを買う客が一瞬途切れたとき、バイオから借りたエプロン姿の飛鳥が殿井に言った。殿井は、今まで飛鳥から変だと思われていたという事実にいささかショックを受けた。
「でもケイ、カッコいいな!女子すごいもんな」
その言葉に殿井がかすかに赤面した。
殿井が呼び込みのためにポップコーン屋の前に立っていると、ポップコーンを買うのではなく、殿井と写真を撮るための列が出来てしまうため、結局殿井は店の中から客に商品を渡す係になった。
殿井は、手慣れた様子で金銭の授受をする飛鳥をチラチラと盗み見ていた。Yシャツにネクタイ、肥料の商品名がデカデカと書かれた販促品のエプロンを身につけた姿に、さっきから胸の高鳴りが抑えられない。
その隣で春山はポップコーンを作りながら、棚田の時とは全く違う態度を見せる殿井を冷静に観察していた。
「なんならヅラかぶってくれば完璧だったのにー。ちょんまげのさ」
呼び込み担当の棚田が言ってゲラゲラ笑った。飛鳥も笑いながら、カウンターの内側に置いていたコーラを一口飲んだ。
午後、5組の仕事をフリーにしてもらい、殿井は生物部の出店にやってきた。コーラの缶はクラスから殿井が持ってきて、カウンターの内側、自分と飛鳥の間に何気なく置いていたものだった。
自分の飲みかけを飛鳥が飲んだことに気づいた殿井は、冷や汗がどっと出た。
「何気ないフリをして飲んでしまえ」という悪魔の囁きが殿井の頭の中でリフレインした。「いやダメだろそんなこと」という善良なる声が次いで響く。しかしすぐに「単に喉が渇いているだけだ」という声がした。殿井は懊悩し、思わず深いため息を漏らした。
その時、棚田がカウンター内にぱっと手を伸ばし、コーラを掴んでぐびぐびと飲み干した。
「呼び込みは喉渇くわー」
あっという間の出来事に殿井は呆然となり、後悔と安堵と怒りがないまぜとなったまま、棚田を凝視した。
春山は、なおも殿井の様子を横で観察しながら、売り物のポップコーンを食べていた。
「春やん、食べすぎたら怒るかんね」
飛鳥が春山に釘を刺した。
そして「トイレに行くから」と棚田にカウンターに入るよう言って、席を外した。
「コーラ、またもらってきてくんねぇ?」
「あれ元々俺の分なんだけど」
「あーわりいわりい」
「自分で買ってこいよ」
「殿井って意外とケチだなー」
棚田としゃべり続ける殿井に、春山が話しかけた。
「なんで生物部入ったの?」
「……おもしろそうだったから」
「飛鳥と話したのって、部活入ってから?」
「いや」
棚田が横から口を挟んだ。
「ってか飛鳥、俺らにもバイトしてるの隠してんだよ。やっぱお前、校則変えるべきだろ!」
「だから俺がどうこうできる話じゃないって」
「じいさんとかに頼めばいいんじゃないの?だって自分は馬で来てんのにさ。ワガママ通ってんじゃん」
「馬で来たら悪いのか。校則では禁止されてない」
「お前頭おかしいだろ」
今まで面と向かって言われたことはなかったので、殿井は新鮮な驚きを感じた。
「棚田くんは、俺にすごい突っかかってくるな」
「思うこと言ってるだけだよ」
トイレから足早に戻ってきた飛鳥は、棚田と殿井のやりとりを見て目を丸くした。いつも自分の前ではほとんどしゃべらない殿井が、ガンガンしゃべっている。
クラスでも浮いているという殿井が、みんなと仲よくなってよかったなぁと飛鳥は思った。
トイレに行く間も、飛鳥はいろいろな女子生徒から殿井の写真を撮ってくるか、店の外に出せと言われていた。やっぱり、みんな殿井のことが気になっていたのだ。
飛鳥は殿井に声をかけ、呼び込みをするよう頼んだ。
カウンターの中に入った飛鳥は、また人だかりのできる殿井の姿をニコニコと見つめていた。
夕方、棚田と春山は1組の片付けを手伝いにクラスへ戻った。飛鳥は満面の笑みで売り上げを集計し終わり、店の後片付けをする殿井に話しかけた。
「春やんから聞いたんだけどさ、ケイって、俺を手伝うために生物部入ったの?俺のこと、知ってたの?」
ポップコーンってずっと食べてしまうな、と思いながら、わずかに残った売り物を消費していた殿井は、その言葉でポップコーンの破片が少し気道方面に行きかけ、激しくむせた。
「ちょ、大丈夫?これ」
飛鳥は自分の飲みかけのペットボトルを差し出し、殿井はそれを咄嗟にもらって飲んだ。
「それ全部飲んでいいよー」
飛鳥の言葉を聞きながら緑茶を飲み終わった瞬間、殿井はさっきのコーラで叶えられなかった夢が叶ったことに気づいた。
そして険しい顔で宙をにらみながら、空のペットボトルの口をそっと唇に押し当てた。
飛鳥が片付けの手を止め、「あ、そうだ」と顔を上げた。
「ケイ、今日モテモテだったな!あのさ、俺も写真撮っていい?」
「……え?」
いいからいいから、と飛鳥は言い、殿井の腕を掴んでポップコーン屋の看板の板が立てかけてある前に行った。そして近くにいた人間に撮影を依頼した。
飛鳥は自分より少し背の高い殿井の肩に手を回し、レンズにむかってピースした。
殿井は飛鳥と初めて密着し、気を失わんばかりだった。直立不動のまま固い表情を崩さない殿井を見て、飛鳥が言った。
「タナとか春やんとはいっぱいしゃべってんのにさー、なんで俺にはあんましゃべってくれないの?」
「……え?」
不満そうに口を尖らせる飛鳥の顔を見て、また殿井の心には唐突に「かわいい」の四文字が浮かんできたが、その意味することが自身でもわからず、殿井はただただ困惑した。
「俺が最初にケイと仲よくなったのにさ!」
そういえば、と殿井は思った。今日は結構な数の人間としゃべったような気がする。それに棚田や春山とは、普通に話ができていた。自分から話しかけることはなかったが、同級生と会話をしようと思えばできる事実に、殿井は改めて気がついた。
「写真送りたいんだけど、ケイってメアドないの?携帯も持ってないよね?」
飛鳥の言葉を聞き、殿井は人生で初めて携帯電話が欲しいと強く思った。
始業式の終わった体育館から出ると、棚田が後ろからガッと肩を組んで飛鳥に話しかけてきた。
「草取り焼け〜」
「お前休み中もずっと学校来てたのかよ!」
「いや、ケイん家でも草取りしてたからなー」
「ケイ?」
飛鳥が後ろを振り返り、大きく手を振った。棚田も振り返ると、暑い中、ネクタイをぴっちりと締めて姿勢よく歩く殿井景勝と目があった。
飛鳥は人の流れを避けるために端に寄り、殿井が歩いてくるのを待った。棚田は面白くなさそうな顔で飛鳥から離れ、後ろから来た春山と合流してさっさと歩いていった。
「ケイさー、今日準備室来れる?」
「……うん」
「文化祭の話しよ!」
殿井は眉間にシワを寄せた。文化祭というものに自分が関わることになるとは、想定していなかった。
飛鳥はそれだけ告げると、「じゃ後でな!」と殿井の肩を叩いた。
飛鳥は棚田と春山の後を走って追いかけ、後ろから棚田の背中をバシッと叩き、肩を組んで笑いながら歩いて行った。それを見て、殿井は棚田がうらやましいと素直に思った。
クラスの半数しか出席していない5組の教室で、机に頬杖をつきながら、殿井は窓の外をぼんやり眺めていた。毎日毎時間この調子で、話しかけてくる人間もおらず、話しかける相手もいなかった。
殿井にとって学校というのはそういう場所だった。
お盆を挟む二週間は、殿井家の毎年恒例の家族旅行期間だった。ふだんは仕事で忙しい両親が、そろって長めの休みをとる。
今年はイギリスに行ったが、殿井にとっては、飛鳥と行った青少年子どもの家の記憶が、この夏の思い出として刻まれていた。
付属幼稚園の卒業生で構成される子ども会の付き添いに駆り出された生物部は、総勢20名の小学生とともに関越道を貸切バスで北上した。
結局、バスの席にゆとりがあったので、飛鳥の労働と引き換えに、参加費無料で兄弟も連れてきてよいということになり、竜太と遊馬がついてきている。
徳田はバイオの横の席をしっかりキープし、通路を挟んで飛鳥の隣に竜太が座り、その後ろの席に殿井、その隣には遊馬が座った。さらにその後ろでは小学生が賑やかに話している。
しかし一番うるさいのは遊馬で、殿井にずっとしゃべりかけながら前の席の竜太の座席を蹴り、竜太と喧嘩になっては飛鳥に怒られるというのを三回ほど繰り返した。殿井は慣れない小学生との会話にぐったりとした。
昼は川遊びとバーベキュー、夕方は近くの温泉に行き、夜は花火をした。
二日目は山登りで、夜はカレーを作り、三日目に解散のスケジュールだった。
殿井はこのときがチャンスとばかり持参したデジタル一眼レフで飛鳥の写真を撮りまくったが、遊馬に覗きこまれてしまった。
殿井は焦ったが、遊馬は「飛鳥ばっかりじゃん!」と大声で言ったあと、機嫌が悪くなったため、殿井はカメラをしまい、遊馬とひたすら遊ぶハメになった。
飛鳥は兄弟の無料分に対する勤労奉仕に加え、徳田が押し付ける分までせっせとこなしたため、弟の世話にまで手が回らなかった。
殿井が弟二人の面倒を見てくれていることに感謝しながら、飛鳥はバーベキューの炭運び、食事や川遊びの際の小学生の監督、花火の準備と後片付けなどをテキパキとこなし、引率の教員一名と子ども会の父兄としてついてきた三名から可愛がられた。
そんな飛鳥を見ながらぼんやりとしていた殿井は、事あるごとに「見てねえでお前も手伝えよ!」と徳田に頭をどつかれた。
徳田は常にバイオのそばのポジションをキープしていたが、遊軍が多いと自分が小学生の面倒見要員として声がかかる危険があると睨んでいたのだ。
殿井は、自分のことを棚に上げて怒る徳田に怒りを感じたが、言うことには一理あると思い、飛鳥のまわりをうろつき手伝った。
殿井にフラットに接するという意味では、徳田も飛鳥と同じだったが、殿井はそれには気づかなかった。
殿井がぼんやりと回想しているうちに始業式後のホームルームが終わり、5組はそのまま解散となった。
1組から4組はこのあと普通に授業が始まる。殿井はのっそりと立ち上がり、飛鳥を待つために生物準備室へ向かった。
静かな準備室で、鍵のかかったスチールキャビネットを見ながら、旅行中目に焼き付けた飛鳥の様々な姿をゆっくり思い出す。
子どもたちと川の水で戯れる顔。手持ち花火の緑の火に照らされた顔。夜、隣で幸せそうに眠る顔。その全てが殿井の宝物だった。
……川で殿井は竜太および小学生にもみくちゃにされ、それを見た飛鳥が怒り、最終的に小学生たちと水の掛け合いに発展した。
花火では微動だにせず飛鳥ばかりを見ていたため、線香花火の火玉を驚異的に長持ちさせ、遊馬および小学生の尊敬を一身に集めた。
温泉では、自宅でのシャワーの時と同様、なるべく遊馬を見て飛鳥を見ないように自主規制し、なんとかやり過ごした。
夜は飛鳥との間に遊馬が寝ていたが、殿井の記憶では消されていた。飛鳥は毎日疲れきっていたため、寝る時間が何よりの幸せだった。
姿勢よく木の椅子に座り、目を閉じて飛鳥の姿を反芻するうち、二時間が知らぬ間に経過していたことに殿井は気づかなかった。
突然ガラッという音と「お待たせ!」という声が聞こえ、殿井は目を開けた。目の前に飛鳥がいて、ニコニコ笑っていた。
「なんかケイさー、座禅してるみたいだな!」
殿井の耳にその言葉は入ったものの、自分をじっと見つめる棚田と、小指で耳をほじる面倒くさそうな顔の春山の姿に困惑した。
「殿井ってさー、ケイって呼ばれてんだー」
棚田が殿井に向かって言った。一度も話したことのないほかのクラスの人間が自分の名前を知っていることに殿井は驚いた。
しかし棚田の目には、殿井が眉間にシワを寄せ自分をにらんだようにしか見えず、内心カチンときた。そんな二人の心情にはまったく気がつかず、飛鳥が明るく殿井に言った。
「あのさ、文化祭、タナと春やんにも手伝ってもらおうと思って」
「え?えーと……徳田さんは……」
「先輩はね、当日バイオの手伝いがあるから無理なんだって。バイオ、文化祭の記録担当らしいよ。カメラ得意だからなー」
殿井は、自分勝手な徳田に再びの怒りを禁じ得なかった。
「じ、事前準備くらいは……」
「それもバイオが文化祭特大号発行するから、その手伝いで無理だって。お前らでやれって」
バイオは、趣味で「バイオ」という環境破壊に関する啓発の機関紙を不定期で発行し、校内で配布していた。
殿井は内心飛鳥と二人でやってもいいと思っていたが、飛鳥は構わず三人に自分の計画を話しはじめた。
「じゃーん!文化祭は、ポップコーンを売りまーす!」
畑で育てたポップコーンを、様々なフレーバーで売るのだという。その話を聞きながら、殿井は畑にあったマズそうなトウモロコシがポップコーン用の品種だったことを初めて知った。
ポップコーンの存在そのものは普通名詞の一つとして知ってはいたが、フレーバーポップコーンはおろか塩味のポップコーン自体を食べたことがない。
殿井にとっておやつといえば、殿井家の胃袋を支える永田さんお手製の焼き菓子か水菓子が中心だった。ポップコーンは永田さんの中でスナック菓子に分類されていたため、殿井のおやつに登場することがなかったのだ。
ちなみに殿井家にはテレビもなく、学校はずっと家の近くだったために、殿井は携帯電話も持ったことがなかった。
パソコンはプログラミング学習用に買い与えられてはいたが、中学生のころはWiFiのパスワードは伏せられており、インターネットに接続はできなかった。
こうした環境により、周囲との齟齬は年齢があがるとともにあちこちで生じた。
いちいち驚かれたり何かを確認するのに疲れてしまい、結果しゃべるのが面倒くさくなって今に至っている。
「作る人でしょ、商品渡す人、会計する人、あとは呼び込み兼交代要員でちょうど四人」
飛鳥がみんなの前で指折り数え、うなずいた。
「……1組のほうはいいの?」
殿井の最もな指摘に、春山が初めて殿井に視線を向けた。
「うちのクラス、女子がアイスクリーム屋やるって盛り上がっててさ。俺ら設営要員になってるけど朝だけだから当日はヒマなんだわ」
なんかおそろいのTシャツ着なきゃいけねぇんだろ、と春山が棚田に水を向け、棚田が飛鳥に「どうすんの?買うの?お前」と聞いた。
「買わなきゃいけないだろうけど、ポップコーンの売り上げ分で補填するしかないかなぁ」
飛鳥が腕組みをして言い、殿井は自分のクラスである5組が何をやるのか知らないことに、はっと気づいた。
場合によっては当日忙しく、飛鳥を手伝うことができないかもしれない。そんな心を見透かすかのごとく飛鳥が尋ねた。
「5組は何するの?」
「……知らない」
「え?カフェだろ?さっき廊下で聞いたけど」
春山が意外な顔で殿井に言った。
「てか殿井もコスプレするんだろ」
「コスプレ?」
殿井は完全に自分の世界に入っていたので全く気がつかなかったが、先ほどのホームルームで、文化祭の出し物と分担がその場にいた人間で手早く決められていた。
さらに文化祭実行委員の意向により、欠席していた人間と意思表示をしなかった人間、つまり殿井は給仕担当に割り当てられた。
そして武将のコスプレをした殿井が、給仕のほかに宣伝要員として馬で練り歩くという話が捏造され、瞬時にほかのクラスに伝えられた。その話を春山から聞かされ殿井は絶句した。
「ちゃんと聞いてねえからダメなんじゃん」
棚田が冷ややかな声で言い、コスプレ楽しみ〜と心にもない言葉を春山が放った。
「えーじゃあケイは当日無理か……」
「いややるよ!」
飛鳥の言葉に思わず勢い込んで言った殿井に、棚田が「どうやんだよ」とツッコミを入れた。
「担当の時間は無理だけど、それ以外の時間はポップコーン屋にいる」
「お前コスプレのままポップコーン売り歩けよ!」
棚田が我が意を得たりとばかりに、殿井を指差しながら言った。
「いや、俺はアスカとポップコーンを作る!」
思わず殿井が力強く宣言した。
「作るやつは一人でいいんだよ!お前、人の話聞いてねえのかよ!」
「……えっと、俺は会計するからさ、ケイ呼び込みしてよ」
飛鳥がニコニコして言い、殿井を含む全員が、最も殿井に向かなさそうな役割を振ったなと思った。
飛鳥は話がまとまったと思い満足そうにうなずき、また何かの用事があるのか、急いだ様子で準備室を出ていった。
準備室を出た殿井に、棚田が話しかけた。
「殿井ってさー、飛鳥と仲いいの?」
そのねっとりと感じの悪い言い方に殿井は振り返り、棚田を本当に睨みつけた。
「いや棚田くんたちのが仲いいだろ」
「飛鳥に庭の草取りさせてたんだろ」
「……一緒にやってた」
「でも最初はバイトって話だったんだろ、飛鳥が言ってたけど」
二人の様子を、春山が冷めた目で黙って見ていた。
「お前さぁ、飛鳥の家のこと知ってて、からかってんのかよ?何なの?普通タメにカネ渡すかよ。ありえねー」
「からかう?」
「飛鳥、結局カネもらわないでお前ん家の手伝いしたんだろ、体よく使ってんじゃねぇよ」
「……だってコンビニでアルバイトしてるのがバレたらまずいだろ。だからうちでやればいいのかと思ったんだよ」
棚田がその言葉に驚いた。春山は驚いたふうでもなく、やっぱなーとつぶやいた。
「あいつバイトしてんの?まじで?……じゃあ殿井がバイトOKに校則変えろよ!」
「そんなんできるかよ」
「だってお前ん家の学校なんだろ」
小学校のときから繰り返し似たようなことを言われてきた殿井は、今までこの手の話を一切無視してきた。しかし飛鳥に関することで絡まれ、イラつきが頂点に達した。
「……うるっせえな!俺の家と学校法人は別モンなんだよ!校則変えたきゃ自分で署名でも集めろ!」
下から舐めるように視線を上げ、啖呵を切る殿井の剣幕に、棚田は一瞬怯んだ。
「だいたいアスカが困ってんのにそっちはなんかしてんのかよ!俺は毎日畑やってるんだよ!」
「そりゃお前は部員だからだろ!」
「手伝うために入ったんだよ!」
その言葉に春山は横で目を丸くしたが、二人はなおも言い争いを続けた。
「俺はな、生物部員じゃなくてダチとして店手伝うんだよ!だいたいクラスTシャツのカネで悩んでんだぞ!お前にはわかんねぇだろ!」
その言葉に殿井はむっつり黙りこんだ。棚田はなおも続けた。
「お前は5組でコスプレしてコーラでも売ってろ!」
「……わかった。和服でポップコーンでもコーラでも売りゃいいんだろ!」
殿井がキレ気味に言った。コスプレが何かもコーラの味もポップコーンの作り方もわからなかったが、飛鳥のためなら何でもやったるわという気分になる。殿井は踵を返して姿勢よく大股で歩いていった。
文化祭の当日、殿井は豪華な馬装束を施したアスカに乗り、殿井家の紋の入った羽織袴姿で登校した。父親の服を借りたのである。
さらに祖父のコレクションである日本刀を持ち出し、脇に大小差して歩いていたため、銃刀法違反ではとバイオが慌てふためいた。
その妙に堂々とした殿井の姿は、教職員も含め全校に一瞬で知れ渡った。
「……今気づいたけど、なんか変だったのって、ブレザーで馬に乗ってたからだったんだよ!」
ポップコーンを買う客が一瞬途切れたとき、バイオから借りたエプロン姿の飛鳥が殿井に言った。殿井は、今まで飛鳥から変だと思われていたという事実にいささかショックを受けた。
「でもケイ、カッコいいな!女子すごいもんな」
その言葉に殿井がかすかに赤面した。
殿井が呼び込みのためにポップコーン屋の前に立っていると、ポップコーンを買うのではなく、殿井と写真を撮るための列が出来てしまうため、結局殿井は店の中から客に商品を渡す係になった。
殿井は、手慣れた様子で金銭の授受をする飛鳥をチラチラと盗み見ていた。Yシャツにネクタイ、肥料の商品名がデカデカと書かれた販促品のエプロンを身につけた姿に、さっきから胸の高鳴りが抑えられない。
その隣で春山はポップコーンを作りながら、棚田の時とは全く違う態度を見せる殿井を冷静に観察していた。
「なんならヅラかぶってくれば完璧だったのにー。ちょんまげのさ」
呼び込み担当の棚田が言ってゲラゲラ笑った。飛鳥も笑いながら、カウンターの内側に置いていたコーラを一口飲んだ。
午後、5組の仕事をフリーにしてもらい、殿井は生物部の出店にやってきた。コーラの缶はクラスから殿井が持ってきて、カウンターの内側、自分と飛鳥の間に何気なく置いていたものだった。
自分の飲みかけを飛鳥が飲んだことに気づいた殿井は、冷や汗がどっと出た。
「何気ないフリをして飲んでしまえ」という悪魔の囁きが殿井の頭の中でリフレインした。「いやダメだろそんなこと」という善良なる声が次いで響く。しかしすぐに「単に喉が渇いているだけだ」という声がした。殿井は懊悩し、思わず深いため息を漏らした。
その時、棚田がカウンター内にぱっと手を伸ばし、コーラを掴んでぐびぐびと飲み干した。
「呼び込みは喉渇くわー」
あっという間の出来事に殿井は呆然となり、後悔と安堵と怒りがないまぜとなったまま、棚田を凝視した。
春山は、なおも殿井の様子を横で観察しながら、売り物のポップコーンを食べていた。
「春やん、食べすぎたら怒るかんね」
飛鳥が春山に釘を刺した。
そして「トイレに行くから」と棚田にカウンターに入るよう言って、席を外した。
「コーラ、またもらってきてくんねぇ?」
「あれ元々俺の分なんだけど」
「あーわりいわりい」
「自分で買ってこいよ」
「殿井って意外とケチだなー」
棚田としゃべり続ける殿井に、春山が話しかけた。
「なんで生物部入ったの?」
「……おもしろそうだったから」
「飛鳥と話したのって、部活入ってから?」
「いや」
棚田が横から口を挟んだ。
「ってか飛鳥、俺らにもバイトしてるの隠してんだよ。やっぱお前、校則変えるべきだろ!」
「だから俺がどうこうできる話じゃないって」
「じいさんとかに頼めばいいんじゃないの?だって自分は馬で来てんのにさ。ワガママ通ってんじゃん」
「馬で来たら悪いのか。校則では禁止されてない」
「お前頭おかしいだろ」
今まで面と向かって言われたことはなかったので、殿井は新鮮な驚きを感じた。
「棚田くんは、俺にすごい突っかかってくるな」
「思うこと言ってるだけだよ」
トイレから足早に戻ってきた飛鳥は、棚田と殿井のやりとりを見て目を丸くした。いつも自分の前ではほとんどしゃべらない殿井が、ガンガンしゃべっている。
クラスでも浮いているという殿井が、みんなと仲よくなってよかったなぁと飛鳥は思った。
トイレに行く間も、飛鳥はいろいろな女子生徒から殿井の写真を撮ってくるか、店の外に出せと言われていた。やっぱり、みんな殿井のことが気になっていたのだ。
飛鳥は殿井に声をかけ、呼び込みをするよう頼んだ。
カウンターの中に入った飛鳥は、また人だかりのできる殿井の姿をニコニコと見つめていた。
夕方、棚田と春山は1組の片付けを手伝いにクラスへ戻った。飛鳥は満面の笑みで売り上げを集計し終わり、店の後片付けをする殿井に話しかけた。
「春やんから聞いたんだけどさ、ケイって、俺を手伝うために生物部入ったの?俺のこと、知ってたの?」
ポップコーンってずっと食べてしまうな、と思いながら、わずかに残った売り物を消費していた殿井は、その言葉でポップコーンの破片が少し気道方面に行きかけ、激しくむせた。
「ちょ、大丈夫?これ」
飛鳥は自分の飲みかけのペットボトルを差し出し、殿井はそれを咄嗟にもらって飲んだ。
「それ全部飲んでいいよー」
飛鳥の言葉を聞きながら緑茶を飲み終わった瞬間、殿井はさっきのコーラで叶えられなかった夢が叶ったことに気づいた。
そして険しい顔で宙をにらみながら、空のペットボトルの口をそっと唇に押し当てた。
飛鳥が片付けの手を止め、「あ、そうだ」と顔を上げた。
「ケイ、今日モテモテだったな!あのさ、俺も写真撮っていい?」
「……え?」
いいからいいから、と飛鳥は言い、殿井の腕を掴んでポップコーン屋の看板の板が立てかけてある前に行った。そして近くにいた人間に撮影を依頼した。
飛鳥は自分より少し背の高い殿井の肩に手を回し、レンズにむかってピースした。
殿井は飛鳥と初めて密着し、気を失わんばかりだった。直立不動のまま固い表情を崩さない殿井を見て、飛鳥が言った。
「タナとか春やんとはいっぱいしゃべってんのにさー、なんで俺にはあんましゃべってくれないの?」
「……え?」
不満そうに口を尖らせる飛鳥の顔を見て、また殿井の心には唐突に「かわいい」の四文字が浮かんできたが、その意味することが自身でもわからず、殿井はただただ困惑した。
「俺が最初にケイと仲よくなったのにさ!」
そういえば、と殿井は思った。今日は結構な数の人間としゃべったような気がする。それに棚田や春山とは、普通に話ができていた。自分から話しかけることはなかったが、同級生と会話をしようと思えばできる事実に、殿井は改めて気がついた。
「写真送りたいんだけど、ケイってメアドないの?携帯も持ってないよね?」
飛鳥の言葉を聞き、殿井は人生で初めて携帯電話が欲しいと強く思った。
