一緒に畑作業をして以降、廊下で殿井を見かけた飛鳥は、「おー!」と笑って手を振った。殿井は相変わらず、険しい顔で突っ立っている。
殿井とすれ違うと、まだ距離も離れていないところで、棚田が飛鳥に大声でしゃべりかけた。
「あいつなんなの?お前最近声かけてるけどさ、ガン無視するのはなんなの?俺らとしゃべりたくないってこと?」
「えー?二人だとしゃべるけど」
飛鳥と棚田、春山は話しながら日差しの強く照りつける校庭へと向かった。
「殿って浮いてるって。5組でも」
美術部つながりで、5組に知り合いの多い春山が言った。
「あー全然意外でもなんでもないわ、それ」
棚田が大声で言いながら、階段を一段飛ばしで下りる。一方飛鳥は、殿井のことではなく、次の体育の授業がサッカーでよかったと考えていた。
野球は用具代がそれなりにかかるため、小学生の時は習わせてもらえなかった。しかしサッカーならまぁいいということで、靴とボールだけ買ってもらったのである。いつでもひたすらボールを蹴っていたので、サッカーならそれなりにできる。同様の理由から、水泳は苦手だったが陸上は得意だった。
「サッカーでよかった〜」
「この暑いのにまじしんどい」
春山が怠そうに言った。屋内プールは配管の不具合があり、点検中だ。
「……殿って、お前のあの農作業部に入ったんだろ」
春山の言葉にまた飛鳥の思考が引き戻された。
「生物部だよ」
「馬の世話できるとか勘違いしたんじゃねぇ?」
「いや肥料に役立ってんじゃん」
棚田が言って春山と腹を抱えて爆笑した。
一方、飛鳥から挨拶をされた相変わらず殿井は固まっていた。とっさのことに対応できず、無言無表情のまま、その爽やかすぎる笑顔を見送ることしかできなかった。そんな自分が歯がゆい。
たいてい飛鳥のまわりにはラグビー部に所属する棚田泰輝と、名前だけ美術部に属している春山高雅がいる。今までほかの生徒の名前を覚えようとしなかった殿井だったが、飛鳥から名前を聞き、覚えたのである。
そのほか違う人間もいたりはしたが、基本はこの二人とつるんでいるようだった。
気さくな鈴本飛鳥とは違い、棚田泰輝は明らかに「なんだてめぇは」と書いてある顔で殿井をじろじろと見て、春山高雅はまったく関心のなさそうな顔で、終始しらっとしていた。
こういう周囲の反応はいつものことであり、殿井には不思議なものではなかったが、鈴本飛鳥のようなタイプにはどう反応していいか、まったくわからなかった。
期末考査が終わり夏休み近くになった。飛鳥はバイトのシフトを入れまくろうと考え、いややはりそれはマズいのではないか、という堂々巡りを、生物準備室で繰り返していた。
徳田がバイオと作った「夏休みの水やり分担表」を見るに、全部の日に飛鳥が入っている。
さすがにもう少し畑作業を誰かに手伝ってもらえないかと思い、飛鳥は横に座る殿井をちらっと見た。
最近、殿井は朝必ず菜園に来て飛鳥と一緒に収穫作業をし、夕方も手入れに勤しんでいる。それなのに、収穫物はいらないらしい。植物とか動物の世話が大好きなのだろう。
いいやつだな、と飛鳥は好感を抱くようになった。自分も妹や弟の世話を昔からしてきたので、そういうタイプとは気が合いそうに思ったのである。
さらに言えば、人間ではなく言葉の通じない相手の世話なのだからもっとすごいよなぁと感心し、やはり収穫物目当ての自分とは育ちが違うのだとひとり納得していた。
その横で、飛鳥と作業をしたいだけの殿井は、やはり分担表を険しい顔で見つめ、口を開いた。
「……これ、ちょっと分担が偏りすぎている気がするんですが」
徳田が何言ってるんだという顔で殿井を見た。
「こいつが畑やるって言い出したんだから、鈴本がやるの一択だろ」
「……でも旅行とか予定があるんじゃ」
徳田が「はぁっ?」と馬鹿にしたような声を漏らした。
「なんだそれ金持ちの嫌み?鈴本が旅行行くわけねえだろ」
飛鳥は入部した際、動機を徳田に丹念に確認され、棚田の時と同じように有り体に話している。
しかも先輩の名前がトクダというのも何か縁起がいいと言い、「俺のトクは人徳の徳のほうだ」と徳田をキレさせた。
しかし殿井は飛鳥と一緒に作業しているという事実で頭も胸もいっぱいだったため、朝のわずかな時間に何か話しかけることなどできず、当然鈴本家の事情など知る由もなかった。
飛鳥は作業中に今後の栽培計画などを殿井に話していたが、それに相槌をうつだけで精一杯だったのである。
「うち、旅行なんて行かないよ」
飛鳥が笑って言い、思わず声のほうを見た殿井は恥ずかしくなり俯いた。
「そんな言うなら二人で調整しろよ」
徳田がまた冷ややかに言い放ち、そこにバイオがガラッとドアを開けて生物準備室に入ってきた。
「みんなさ!夏休み、山に行こう!青少年子どもの家に行く、初等部の子ども会引率だ!」
徳田はげっという顔を一瞬したが、すぐ笑顔になり「バイオ先生も行くんですよね」と確認した。
飛鳥はその費用は部費から出るのかを、バイオに確認しようとした。
殿井は何泊なのかをバイオに確認しようと思ったが、飛鳥が行くかどうかが最大の関心事だった。
「宿泊費はタダだけど諸費用の負担はあるよ」
バイオが三人を満面の笑みで見渡しながら言った。
その言葉にふんぎりのつかない飛鳥だったが、内心小学生の面倒を見たくない徳田が「部活動の一環だから来いよ」と一喝し、飛鳥は承諾した。
その横で完全に二人きりの旅行イメージを勝手に妄想していた殿井は、バイオに参加の意思を確認され、動揺を隠すために声を出さず、首をかすかに縦に振った。
「あのさ、殿井くん、悪いんだけど、夏休み中ちょっと水やり手伝ってくれない?」
生物準備室を出たところで、飛鳥は殿井に声をかけた。
「……俺、やるよ」
「いいの⁈ありがとう!」
笑いかけられ、殿井は俯いた。
「いつできそう?」
「……いや、あの、お盆以外は毎日行くよ、家近いから……」
それを聞いた飛鳥は、驚いた。
「悪いよー、俺がやりたくて畑やってるようなもんだしさ」
「……あのさ、えーとさ、す、鈴本くんの家ってさ、どのへん?」
殿井は、ずっと聞きたくて聞けなかったことを思い切って聞いた。
「うち?本郷町のあたりだよ」
地名を言われてもわからず、詳しい住所を飛鳥が言って、ようやく隣の市のだいぶ離れたあたりに住んでいることがわかった。さらに一歩踏み込み、連絡先を聞こうか迷っていたとき、棚田たちの飛鳥を呼ぶ声が後ろから聞こえた。
振り返って棚田たちに大きく手を振った飛鳥は「じゃまたな」と殿井に言って去っていった。
殿井は飛鳥の住所を胸に刻み込み、深呼吸した。
週に一回、空手道場に行く日以外は、夕方に家の周りを走るのが殿井の日課だった。
小さいころから毎日のようにあった習い事も、高校生になってからは自分の続けたいものだけにすることを許された。自宅に教師が教えにやってくるのは楽だったが、バイオリンとピアノは興味がないのでさっさとやめ、プログラミングと中国語は親の勧めにより一応続けていた。
だが殿井は体を動かすほうが好きだった。そのほうが教師とほとんど会話しなくて済むからだ。空手は基本「はい」と言えばよかったので、楽だった。
そして夏休みに入り、殿井は日課のマラソンコースに学校を組み込むことにした。
飛鳥は夕方の水やりと収穫のため、決まって午後5時に学校を訪れる。
殿井は必ずその時刻に学校周辺を走るよう調整しつつ、飛鳥の姿を遠くに認めては、たまたま見かけただけだと自分に言い聞かせ、すぐ走り去った。
殿井は朝の水やりを担当していた。マラソンコースを走っているのであり、決して日に二度学校を訪れているわけではない。
しかし七月末に、思い立ってさらに距離を伸ばし、隣の市まで走ってみることにした。
そして夏休みの日課として、本郷町のあたり、飛鳥の家の近くを、早朝ジャージ姿で連日走るようになったのである。
殿井は日に二度マラソンをすることになったが、やることはほかにないのでちょうどよかった。
八月に入ってすぐの日、バイト先のコンビニの裏手から、駐車場の掃除をするために飛鳥は外に出た。そして、コンビニの接する車通りの多い道を、見慣れたジャージで走る姿に目を留めた。
「殿井くん!」
飛鳥は大声で手を振りながら呼びかけた。
殿井は振り返り、水色と白の制服に身を包んだ飛鳥を見て、腰が抜けるほど驚いた。コンビニの前は何度も通っていたが、飛鳥にはまったく気づかなかった。そもそもアルバイトは校則で禁止のはずである。
「え?す、鈴…本くん?……あれ?」
大量の汗をかきながら、手を後ろ手に回し挙動不審にいたる殿井に、飛鳥は笑って言った。
「同じ学校のやつがよく走ってんなーと思ってたんだけどさ、殿井くんだったんだね」
自分の知らないところで飛鳥に見られていたという事実に殿井は赤面し、額からまた汗が噴き出した。
「でも最近朝から暑いしさー、汗すごくない?顔赤いよ?大丈夫?ウチのコンビニで涼んでけよ。ついでになんか買って」
言葉を紡ぐことができず、殿井はただ黙って手で汗を拭った。その様子を見て、この暑い中ストイックに走り続けるってなんかの修行してるみたいだな、と飛鳥は思った。
確か殿井くんは名前も武将っぽいしな、と飛鳥は思い出し、何気なく「景勝かぁ」と呟いたところ、殿井がその場で固まった。
姿勢よく立ち、険しい顔に鋭い眼光が浮かぶその様子を見て、ますます武士っぽいなと思い、飛鳥は悪気なく笑った。
殿井は、生まれてこの方一度もコンビニに入ったことがなかった。何が売っているのかわからなかった殿井は、ここが鈴本くんが働いているところか、と興味深く明るい店内を見た。
そしてお茶が並ぶ冷蔵庫前でしばらく佇み、自分の名前を呼ぶさっきの声を、目を閉じて反芻した。
「……大丈夫?」
しばらく立ったままの殿井を見て、客が途切れた隙に飛鳥は声をかけた。びくっと体を震わせ、殿井がちらりと飛鳥を見る。
「……大丈夫」
それだけ告げるのが精一杯の殿井に、さらに飛鳥が追い打ちをかけた。
「あのさー、そこにずっと立ってるとちょっとほかのお客さんの邪魔だからさ、バックヤード行ってて待っててよ、店長も具合悪いならいいって」
完全に体調を誤解した飛鳥とコンビニ店長の好意により、バックヤードで休むことを許された殿井は、飛鳥のバイトが終わるのをまんじりと待つことになった。
「ごめん!待ったよね?具合大丈夫かよ?うち来る?」
バックヤードに駆け込むなり、立て続けに放たれた飛鳥の言葉で殿井は再び固まった。さらにコンビニの制服を脱いで着替える姿に耐えきれず、殿井は俯いたまま「大丈夫」と小さい声で繰り返し、すぐにその場を離れた。
店を出るとセミの鳴き声がすぐ近くから聞こえる。殿井は本当に具合が悪くなってきた。
これから鈴本くんの家にいく。これから鈴本くんの家にいく。これから鈴本くんの家にいく。
なんだかセミがそんなふうに鳴いている気がする。
「ほんと大丈夫かよ?」
少し後から店を出た飛鳥が顔を覗き込み、肩を叩いた。
「うち、弟とかうるさいし狭いけど、よかったら寄って休んでけよ」
殿井の顔が完全に青ざめた。
鈴本飛鳥の家は殿井にとって、今まで行ったどんな国よりもカルチャーショックを受けた場だった。
家族五人分の物が溢れる居間。低い座卓を囲み、殿井の隣に小1の弟・遊馬がぴったりと座る。そこに小5の竜太が麦茶を運んできた。
殿井はここに五人住んでいるという事実がしばらく理解できず、ほかにどこか場所を借りて荷物などを置いているのかと思った。しかしそれをおずおずと尋ねた声は鈴本家では小さすぎ、居間のすぐそばの台所に立つ飛鳥の耳に届かなかった。
そしてそれを聞いた竜太に「意味わかんねぇ」とひどく馬鹿にされた。そのやりとりにようやく気づいた飛鳥が大声で言った。
「殿井くん家はすごいお金持ちなんだよ!うちと違うの!」
その言葉に内心ショックを受けた殿井だったが、一方で、他の人間に同じことを言われても今までなんとも思わなかったことに気づいた。
ずっとそれを言われ続け、慣れてしまったのかもしれない。だが、普通に接してくれる飛鳥もそう思っていたことに、なにか疎外感を覚えた。
「殿井くん、馬飼ってるんだよ」
飛鳥が小1の遊馬に向かって大声で言った。
遊馬が殿井の袖を引っ張り、「オレのなまえね、ウマがはいってんの」と言った。思考を分断され、殿井は返答に困った。
「お前、下の名前は?」と竜太が偉そうに聞き、殿井が「景勝」と答えると、「かつかつ?」と遊馬が聞き返した。
飛鳥は弟の面倒を見てもらえるのは本当に楽だと思いながら、狭い台所で昼食用に大量の素麺を茹でていた。
山盛りの素麺が目の前に置かれると、殿井がその量に呆然としている間に箸がのびた。みるみる白い山が削られていく。
「殿井くん、はやく食べないとなくなるよ」
飛鳥がずずっと素麺をすすった。
「……大丈夫」
「カゲカツの家はいろいろあんでしょ?そうめんも豪華なんだろうなー」
竜太が言うと、遊馬が殿井の袖を引っぱって聞いた。
「ごうかなそうめんってどんなの?」
竜太が遊馬を小馬鹿にした顔で見た。
「色つきのいっぱいだろ」
「まじで!オレみどりがいっぱいのがいい」
遊馬が緑の素麺について聞き、白い素麺以外にイメージのできない殿井は「……茶そばのこと?」と小学一年生に返した。
「ウンコいろじゃないっつーの!そばじゃなくてそーめんだよ!」と怒る遊馬に困惑し、殿井が緑の素麺の存在について考えている間に山盛りの素麺はほぼなくなっていた。
「カゲカツはさー」
「かつかつはさー」
「言いづらいからカゲって呼ぶ」
「はげー?」
「ハゲ!」
爆笑する竜太と遊馬に飛鳥が怒った。
「お前ら俺の友達に変なこと言うなよ!」
その瞬間、飛鳥の発言の衝撃に、殿井が箸を取り落とした。慌てて拾おうとかがんだ背中に遊馬が乗った。
「やめろ遊馬!」
「はげー」
「いい加減にしろ!」
飛鳥が怒鳴り、一瞬しんとなった座卓で、殿井の首に腕を巻きつけたまま遊馬が泣き出した。殿井はどうしたらいいのかわからず、ただただ固まっていた。
「ほんとゴメンな、うるさくてさー。そうめんもあんまり食べてないよな?うちすぐなくなるからさー」
アパートの階段を下りながら飛鳥があやまり、殿井は俯きながらその後に続いた。
「でも確かにカゲカツは言いづらいよなー。殿?もなんかなー。ずっとくん付けもなー」
この流れは、と殿井が唾を飲み顔を上げた。
「ケイって呼ぼう!」
飛鳥が笑顔で振り返り言った。その声が何重ものエコーとして殿井の中で響きわたり、思わず体がぐらりと傾いて階段の細い手すりに寄りかかった。
「まだ具合悪いんじゃね?」
飛鳥が心配そうに目を丸くする様を目の端で捉えつつ、殿井は塗装の所々剥げたペパーミントグリーンの手すりに視線をやった。
「あ、あのさ、あの」
飛鳥が不思議そうな顔で殿井を見て、黙った。
「あのさ、す、すずも…」
「飛鳥でいいよ!」
その瞬間、殿井は顔を飛鳥にばっと向け、大きく頷くと、その場から全速力で走り去った。
その晩、殿井は帰ってからベッドの中に至るまで、今日の会話を繰り返し再生していたが、素麺をごちそうになった礼を言わなかったことを25回目の再生中に気づいた。
鈴本飛鳥は毎日野菜を大事そうに持ち帰り、あの弟たちに食わせているのである。その鈴本家の貴重な食料を消費してしまったという事実に今まで思い至らなかったことを、殿井は痛切に恥じた。
同時に、飛鳥の家の事情を初めて目の当たりにして、徳田が「旅行に行くわけがない」と言う意味がようやくわかった。
大変そうなのは十分わかったが、それでも飛鳥は楽しそうに毎日を過ごしている。殿井はそんな飛鳥の姿をを憧れにくるみながら、眠りについた。
翌朝早く殿井は本郷町まで走り、コンビニの周辺をしばらくうろついた。そして意を決して中に入ると、「あっとうざいあしたー」と言いながら客に釣りを渡し終わった飛鳥と目が合った。
その独特のイントネーションと余韻を残す「ありがとうございました」に、殿井の肉体には何かこみ上げるものがあった。
なぜか恥ずかしくなり、殿井は咄嗟に店内奥のお茶のコーナーで麦茶を手に取ると、レジへ向かった。
「また走ってきたのかよ」
レジ打ちしながら飛鳥が小声で話しかけた。殿井は体にフィットするアウトドアブランドの小型リュックサックをおろすと、朝菜園で収穫した野菜を見せた。
飛鳥は目を丸くし、小声で「めっちゃサンキュー」と礼を言った。殿井はさっきの独特の言い回しが聞けなかったことに若干の残念さを感じた。
外で飛鳥のバイトが終わるのを待っていた殿井は、私服姿の飛鳥が出てきたのを見てまた激しい動悸を感じた。
飛鳥が眩しそうに外の光に目を細める。かきあげた茶色っぽい髪がサラサラと揺れていた。
古着と思しきこなれた灰色のTシャツに、白いハーフパンツ。紺のスリッポンを履いたそのラフな姿は、まるでファッション誌から抜け出たように殿井には見えた。
昨日は家に行くことで頭がいっぱいで、服まで見る余裕はなかったのである。
殿井は動悸を鎮めるため大きく深呼吸すると、飛鳥を待つ間に何度となく練習していた台詞を無表情でつぶやいた。
「ごめんちょっと待っててアスカ」
店内に戻り、レジに並ぶ殿井を外から見ながら、飛鳥はTシャツの胸元をつかんでずり上げ、鼻の汗を拭いた。
今着ているTシャツは元々黒かったが、洗濯するうちに色褪せて灰色になってきていた。色褪せすると、本体は傷んでいなくとも古く見える。
飛鳥はいろいろと考えた結果、白い服なら漂白剤を活用し、きれいな外観を保ったまま長年着れるのではないかと睨んで、数年ぶりに買ったハーフパンツは白を選んだのである。
さらに農作業用の軍手を買いに行ったホームセンターで偶然激安のスリッポンを見つけた。意外とデザインがよかったので履き潰すつもりで買い、愛用していた。
殿井が店内から出てきた時、飛鳥の目は釘付けになった。手に下げられたレジ袋から、明らかにアイスの箱が透けて見える。
殿井は箱をその場で開けると、オレンジとグレープを一本ずつ、飛鳥に向けて差し出した。
飛鳥はいくぶん震える手で、オレンジのアイスキャンデーに手を伸ばした。
「残りは遊馬くんたちにあげて」と殿井が言い、感謝と感動に打ち震える飛鳥は野菜とアイスの箱を受け取った。
「あのさ……アスカ」
アイスを渡した殿井がそう言ってしばらく黙った。
「鈴本くん」だと、毎回つっかえてしまい自己嫌悪に陥るが、「アスカ」であれば、呼び慣れているため、つっかえずに言えるはずだ。
そう思い、実際本人を目の前にして、名前をスムーズに言えたことに殿井は安堵していた。
「何?」
黙ったままの殿井にしびれを切らし、飛鳥がアイスキャンデーを舐めながら先を促した。早く帰らねば、この暑さでアイスが溶けてしまう。
殿井はその言葉に現実に引き戻され、地面をひたすら見ながら、昨日の夜以降繰り返し練習してきた台詞の第二弾を開陳した。
「……あのさ、もし、よかったらさ、俺の家で、草取りのバイトしない?」
えっと驚き目を丸くした飛鳥を、殿井は見た。
アイスキャンデーをしゃぶるその姿に再び何かこみ上げるものがあったが、それがなにかもう殿井にはわからなかった。
「バイト⁉︎」と言いながら、飛鳥が殿井の腕をがっしりとつかんだためであった。
殿井は凄まじい動揺を押し殺し、首を縦に振ると「じゃまた」と言うのが精一杯だった。
殿井は炎天下を走り続けた結果、家に帰ると気分が悪くなり、その日は夜まで寝込んだ。
次の日、野菜の袋に入っていた「アルバイトのご案内」のプリントを手に、飛鳥は学校近くをうろついていた。もちろん、このプリントは昨日の夜、殿井が家で作ったものだった。
「ご案内」の紙に掲載されていた略地図を頼りに、殿井の家まで来たはいいが、白いのっぺりとしたコンクリートの塀がぐるりと取り囲み、出入り口が見当たらない。
塀沿いにゆっくり自転車で走ると、ようやく大きな門と幅の広い木のドアを発見し、その横のインターホンを押した。
しばらくしてドアが開けられ、顔面蒼白の殿井が現れた。
飛鳥は持参した軍手をはめ、「どのへんやるの?」と聞いた。殿井は黙って玄関アプローチから右手に伸びる小道を歩き、奥へと進んでいく。建屋を回り込んで庭に飛鳥を案内した。その純日本庭園の広さを見て、飛鳥は絶句した。
プリントにあったところによれば、長年庭をお願いしていた人が高齢で、かつ最近は腰を痛めてしまい、急ぎ草取りのための人を探しているということだった。
飛鳥はその一回五千円という金額に心惹かれ、すぐにやってきたのだが、殿井家の広大な庭を見てようやく、こいつの家は馬を飼えるほど極端に広かったのだという事実に思い至った。
「あのさ、馬は?」
「あぁ、裏にいる」
殿井はまた来た小道を引き返すと、玄関アプローチを通り過ぎて、芝生の広場とでもいうべきバックヤードに案内した。その奥に小さい厩舎が見える。
高校から入った飛鳥はまったく知らなかったが、殿井の家は高校から少し離れたところにある、洞院グループ付属の中学校・小学校と敷地を隣接する形で建っていた。
飛鳥は唾を飲み込み頷くと、再び日本庭園まで戻り、端から雑草を抜いていくことにした。殿井も手伝い、飛鳥が一方的に話しかけながら作業をした。
朝にも関わらず殿井の家には人の気配がない。飛鳥が尋ねると、父親は平日は千代田区内のマンションで過ごし、母親は昨日から出張だと答えた。
自分の家の敷地内では比較的飛鳥と普通に会話できることに気づき、殿井は内心胸をなでおろした。
昼近くなり、殿井はそろそろ切り上げるように飛鳥に声をかけ、堂々とした姿勢で家に上がっていかないかと飛鳥を誘った。草取り中、台詞をあれこれ考えていたのである。
飛鳥は一も二もなく頷き、殿井の後に続いた。気分は完全に「お宅拝見」のリポーターであり、あまりに違う世界に興味津々だった。
玄関に入ると、そこはすでに飛鳥の家の居間ほどの幅があった。正面には小1の遊馬が中に入れそうな大きさの茶色い壺が置かれ、葉のついた枝がいくつも生けられている。
殿井はスタスタと上がり、玄関左手を曲がって来客用洗面室を案内した。
そこで手を洗わせてもらいながら、洗面所と風呂は常に一セットだという認識だった飛鳥は、風呂の見えない洗面室に驚き、露天風呂なのだろうかと内心考えた。
リビングに案内されると、日本庭園を切り取るように大きい窓が正面に広がった。奥はダイニングになっていて、大きなテーブルがある。
その上に鮮やかなペーパーナプキンが二枚、広げられていた。殿井がそれを取ると下から昼食が現れた。
初めて家に友達を連れてきたということで、長年殿井家で家事を行なっている永田さんが、ちらし寿司を作ってくれたのである。
自分の分のペーパーナプキンを取って、飛鳥は驚愕した。
このちらし寿司を少し持って帰れないだろうか。
しかしさすがに同級生の家にまで来てそれはないだろうと思い、一方でもう殿井はうちに来て竜太たちにも出会っており、また家のレベルが極端に違うのでそれが許されるのではないかなどと一人逡巡していたところ、いつの間にか殿井の姿が消えていた。
向かい合って一緒に昼食を取るという事実に耐えられなくなった殿井が、「先に食べてて」と言い残し部屋から出ていったことに、飛鳥は気づかなかったのである。
腹がぐーぐーと鳴る中で、飛鳥はおとなしく椅子に座り殿井が戻ってくるのを待っていた。しばらくして、着替えてさっぱりした様子の殿井がリビングにやってきた。飛鳥はそれを見てうらやましくなった。殿井はシャワーを浴びていた。
てっきり先に食べているものだと思っていた殿井は、自分だけさっぱりしてきた事実に申し訳なさを感じた。
「あ、あの、アスカ、嫌じゃなかったら、その、えーと、シャ……シャ……お湯使う?」
どもりながらも、なんとか飛鳥にシャワーを浴びるか聞いた。「アスカ」と「シャワー」という単語を続けて発することができず、急遽当たり障りのない「お湯」という単語に切り替えることに成功した。
飛鳥は一も二もなく即答した。「悪いな」としきりに言う飛鳥を、風呂までコチコチになりながら案内した。
飛鳥は、草取りをしたらさっさと帰るつもりだった。まさかシャワーを借りられるとは思わず、こんなことなら着替えを持ってくればよかったと思った。
いくら帰りにまた汗をかくとはいえ、Tシャツは汗でびっしょりで着たくはない。
少々ずうずうしいかもしれないが、まぁ相手が棚田か春山でも同じ頼みをするなと考え、ハーフパンツに上半身裸のままリビングに戻り、殿井にTシャツを貸してくれないかと頼んだ。
先にちらし寿司を食べていた殿井は、濡れた髪に首からタオルをかけたその姿に思わずむせた。
ファッション誌にある下着の広告モデルのような、スタイリッシュな体つきだ。また動悸がとまらなくなった。
殿井は茶でなんとか酢飯を流し込むと、飛鳥を自室に案内した。
飛鳥は殿井がほとんど私服を持っていないことに驚いた。しかし飛鳥も特に服にこだわるタイプではなかったので、殿井が下着がわりに持っていた白いTシャツを借りると、サンキューと礼を言った。
学校指定ジャージの枚数の多さがうらやましい。洗い替えがあるっていいなぁなどと物思いにふけっていると、殿井が茶封筒を飛鳥に渡そうとした。飛鳥はそれを見て、手を胸の前で振り、いらないと断った。
さすがにシャワーとごはんまでいただいて、その上お金まで同級生からもらうことはできないと思ったのである。
殿井は眉間にシワを寄せ、しばし思案した。自分では意識したことがなかったが、昨日の飛鳥の家からすれば、自分のやっていることは、もしや施しにあたるのではないか。この段階にきてようやくそのことに気づいた。
そういうつもりはないのに、そう取られるのもまた困る。二人で困っていると、飛鳥がおずおずと言った。
「ほら、俺、ケイに水やり代わってもらったしさ、別にその分ってことでいいよ」
「いやでも……」
「草取り全部終わってないしさ。……っつーかさ、明日さ、竜太と遊馬も連れてきてもいい?やらせるからさ。あ、ちゃんとメシ持って来るから。遊馬がケイの馬見たいってうるさくてさ」
「……え?あ、いいよ、別に……あの、よかったら、えっと、ご飯もうちで食べ……」
「いいの⁉︎」
目を泳がせながら語る殿井の申し出に、飛鳥は食い気味に返答した。殿井は顔を引きつらせて何度か頷くと、飛鳥と極めて近い位置で話していたことに気づき、赤面した。
赤くなったり白くなったり青くなったりと、顔色の変わりやすい殿井を見て体調を再び心配した飛鳥は、じっと顔を覗きこんだ。
首を傾げる飛鳥の顔を見た殿井は、そのときはっきりと「好きだ」の三文字がまったく何の前触れもなく心に浮かび、ひとり困惑した。
そして部屋をキョロキョロと見回す飛鳥の姿を見ながら、友達と一緒にいるというのは、ジェットコースターに乗ってる気分だな、と何か大きなことを学んだような気分になっていた。殿井には今まで友達はおらず、好きな相手もいなかった。
そのとき飛鳥の腹からぐーっという音がなり、飛鳥が「腹減った!」と言って照れ笑いした。
殿井とすれ違うと、まだ距離も離れていないところで、棚田が飛鳥に大声でしゃべりかけた。
「あいつなんなの?お前最近声かけてるけどさ、ガン無視するのはなんなの?俺らとしゃべりたくないってこと?」
「えー?二人だとしゃべるけど」
飛鳥と棚田、春山は話しながら日差しの強く照りつける校庭へと向かった。
「殿って浮いてるって。5組でも」
美術部つながりで、5組に知り合いの多い春山が言った。
「あー全然意外でもなんでもないわ、それ」
棚田が大声で言いながら、階段を一段飛ばしで下りる。一方飛鳥は、殿井のことではなく、次の体育の授業がサッカーでよかったと考えていた。
野球は用具代がそれなりにかかるため、小学生の時は習わせてもらえなかった。しかしサッカーならまぁいいということで、靴とボールだけ買ってもらったのである。いつでもひたすらボールを蹴っていたので、サッカーならそれなりにできる。同様の理由から、水泳は苦手だったが陸上は得意だった。
「サッカーでよかった〜」
「この暑いのにまじしんどい」
春山が怠そうに言った。屋内プールは配管の不具合があり、点検中だ。
「……殿って、お前のあの農作業部に入ったんだろ」
春山の言葉にまた飛鳥の思考が引き戻された。
「生物部だよ」
「馬の世話できるとか勘違いしたんじゃねぇ?」
「いや肥料に役立ってんじゃん」
棚田が言って春山と腹を抱えて爆笑した。
一方、飛鳥から挨拶をされた相変わらず殿井は固まっていた。とっさのことに対応できず、無言無表情のまま、その爽やかすぎる笑顔を見送ることしかできなかった。そんな自分が歯がゆい。
たいてい飛鳥のまわりにはラグビー部に所属する棚田泰輝と、名前だけ美術部に属している春山高雅がいる。今までほかの生徒の名前を覚えようとしなかった殿井だったが、飛鳥から名前を聞き、覚えたのである。
そのほか違う人間もいたりはしたが、基本はこの二人とつるんでいるようだった。
気さくな鈴本飛鳥とは違い、棚田泰輝は明らかに「なんだてめぇは」と書いてある顔で殿井をじろじろと見て、春山高雅はまったく関心のなさそうな顔で、終始しらっとしていた。
こういう周囲の反応はいつものことであり、殿井には不思議なものではなかったが、鈴本飛鳥のようなタイプにはどう反応していいか、まったくわからなかった。
期末考査が終わり夏休み近くになった。飛鳥はバイトのシフトを入れまくろうと考え、いややはりそれはマズいのではないか、という堂々巡りを、生物準備室で繰り返していた。
徳田がバイオと作った「夏休みの水やり分担表」を見るに、全部の日に飛鳥が入っている。
さすがにもう少し畑作業を誰かに手伝ってもらえないかと思い、飛鳥は横に座る殿井をちらっと見た。
最近、殿井は朝必ず菜園に来て飛鳥と一緒に収穫作業をし、夕方も手入れに勤しんでいる。それなのに、収穫物はいらないらしい。植物とか動物の世話が大好きなのだろう。
いいやつだな、と飛鳥は好感を抱くようになった。自分も妹や弟の世話を昔からしてきたので、そういうタイプとは気が合いそうに思ったのである。
さらに言えば、人間ではなく言葉の通じない相手の世話なのだからもっとすごいよなぁと感心し、やはり収穫物目当ての自分とは育ちが違うのだとひとり納得していた。
その横で、飛鳥と作業をしたいだけの殿井は、やはり分担表を険しい顔で見つめ、口を開いた。
「……これ、ちょっと分担が偏りすぎている気がするんですが」
徳田が何言ってるんだという顔で殿井を見た。
「こいつが畑やるって言い出したんだから、鈴本がやるの一択だろ」
「……でも旅行とか予定があるんじゃ」
徳田が「はぁっ?」と馬鹿にしたような声を漏らした。
「なんだそれ金持ちの嫌み?鈴本が旅行行くわけねえだろ」
飛鳥は入部した際、動機を徳田に丹念に確認され、棚田の時と同じように有り体に話している。
しかも先輩の名前がトクダというのも何か縁起がいいと言い、「俺のトクは人徳の徳のほうだ」と徳田をキレさせた。
しかし殿井は飛鳥と一緒に作業しているという事実で頭も胸もいっぱいだったため、朝のわずかな時間に何か話しかけることなどできず、当然鈴本家の事情など知る由もなかった。
飛鳥は作業中に今後の栽培計画などを殿井に話していたが、それに相槌をうつだけで精一杯だったのである。
「うち、旅行なんて行かないよ」
飛鳥が笑って言い、思わず声のほうを見た殿井は恥ずかしくなり俯いた。
「そんな言うなら二人で調整しろよ」
徳田がまた冷ややかに言い放ち、そこにバイオがガラッとドアを開けて生物準備室に入ってきた。
「みんなさ!夏休み、山に行こう!青少年子どもの家に行く、初等部の子ども会引率だ!」
徳田はげっという顔を一瞬したが、すぐ笑顔になり「バイオ先生も行くんですよね」と確認した。
飛鳥はその費用は部費から出るのかを、バイオに確認しようとした。
殿井は何泊なのかをバイオに確認しようと思ったが、飛鳥が行くかどうかが最大の関心事だった。
「宿泊費はタダだけど諸費用の負担はあるよ」
バイオが三人を満面の笑みで見渡しながら言った。
その言葉にふんぎりのつかない飛鳥だったが、内心小学生の面倒を見たくない徳田が「部活動の一環だから来いよ」と一喝し、飛鳥は承諾した。
その横で完全に二人きりの旅行イメージを勝手に妄想していた殿井は、バイオに参加の意思を確認され、動揺を隠すために声を出さず、首をかすかに縦に振った。
「あのさ、殿井くん、悪いんだけど、夏休み中ちょっと水やり手伝ってくれない?」
生物準備室を出たところで、飛鳥は殿井に声をかけた。
「……俺、やるよ」
「いいの⁈ありがとう!」
笑いかけられ、殿井は俯いた。
「いつできそう?」
「……いや、あの、お盆以外は毎日行くよ、家近いから……」
それを聞いた飛鳥は、驚いた。
「悪いよー、俺がやりたくて畑やってるようなもんだしさ」
「……あのさ、えーとさ、す、鈴本くんの家ってさ、どのへん?」
殿井は、ずっと聞きたくて聞けなかったことを思い切って聞いた。
「うち?本郷町のあたりだよ」
地名を言われてもわからず、詳しい住所を飛鳥が言って、ようやく隣の市のだいぶ離れたあたりに住んでいることがわかった。さらに一歩踏み込み、連絡先を聞こうか迷っていたとき、棚田たちの飛鳥を呼ぶ声が後ろから聞こえた。
振り返って棚田たちに大きく手を振った飛鳥は「じゃまたな」と殿井に言って去っていった。
殿井は飛鳥の住所を胸に刻み込み、深呼吸した。
週に一回、空手道場に行く日以外は、夕方に家の周りを走るのが殿井の日課だった。
小さいころから毎日のようにあった習い事も、高校生になってからは自分の続けたいものだけにすることを許された。自宅に教師が教えにやってくるのは楽だったが、バイオリンとピアノは興味がないのでさっさとやめ、プログラミングと中国語は親の勧めにより一応続けていた。
だが殿井は体を動かすほうが好きだった。そのほうが教師とほとんど会話しなくて済むからだ。空手は基本「はい」と言えばよかったので、楽だった。
そして夏休みに入り、殿井は日課のマラソンコースに学校を組み込むことにした。
飛鳥は夕方の水やりと収穫のため、決まって午後5時に学校を訪れる。
殿井は必ずその時刻に学校周辺を走るよう調整しつつ、飛鳥の姿を遠くに認めては、たまたま見かけただけだと自分に言い聞かせ、すぐ走り去った。
殿井は朝の水やりを担当していた。マラソンコースを走っているのであり、決して日に二度学校を訪れているわけではない。
しかし七月末に、思い立ってさらに距離を伸ばし、隣の市まで走ってみることにした。
そして夏休みの日課として、本郷町のあたり、飛鳥の家の近くを、早朝ジャージ姿で連日走るようになったのである。
殿井は日に二度マラソンをすることになったが、やることはほかにないのでちょうどよかった。
八月に入ってすぐの日、バイト先のコンビニの裏手から、駐車場の掃除をするために飛鳥は外に出た。そして、コンビニの接する車通りの多い道を、見慣れたジャージで走る姿に目を留めた。
「殿井くん!」
飛鳥は大声で手を振りながら呼びかけた。
殿井は振り返り、水色と白の制服に身を包んだ飛鳥を見て、腰が抜けるほど驚いた。コンビニの前は何度も通っていたが、飛鳥にはまったく気づかなかった。そもそもアルバイトは校則で禁止のはずである。
「え?す、鈴…本くん?……あれ?」
大量の汗をかきながら、手を後ろ手に回し挙動不審にいたる殿井に、飛鳥は笑って言った。
「同じ学校のやつがよく走ってんなーと思ってたんだけどさ、殿井くんだったんだね」
自分の知らないところで飛鳥に見られていたという事実に殿井は赤面し、額からまた汗が噴き出した。
「でも最近朝から暑いしさー、汗すごくない?顔赤いよ?大丈夫?ウチのコンビニで涼んでけよ。ついでになんか買って」
言葉を紡ぐことができず、殿井はただ黙って手で汗を拭った。その様子を見て、この暑い中ストイックに走り続けるってなんかの修行してるみたいだな、と飛鳥は思った。
確か殿井くんは名前も武将っぽいしな、と飛鳥は思い出し、何気なく「景勝かぁ」と呟いたところ、殿井がその場で固まった。
姿勢よく立ち、険しい顔に鋭い眼光が浮かぶその様子を見て、ますます武士っぽいなと思い、飛鳥は悪気なく笑った。
殿井は、生まれてこの方一度もコンビニに入ったことがなかった。何が売っているのかわからなかった殿井は、ここが鈴本くんが働いているところか、と興味深く明るい店内を見た。
そしてお茶が並ぶ冷蔵庫前でしばらく佇み、自分の名前を呼ぶさっきの声を、目を閉じて反芻した。
「……大丈夫?」
しばらく立ったままの殿井を見て、客が途切れた隙に飛鳥は声をかけた。びくっと体を震わせ、殿井がちらりと飛鳥を見る。
「……大丈夫」
それだけ告げるのが精一杯の殿井に、さらに飛鳥が追い打ちをかけた。
「あのさー、そこにずっと立ってるとちょっとほかのお客さんの邪魔だからさ、バックヤード行ってて待っててよ、店長も具合悪いならいいって」
完全に体調を誤解した飛鳥とコンビニ店長の好意により、バックヤードで休むことを許された殿井は、飛鳥のバイトが終わるのをまんじりと待つことになった。
「ごめん!待ったよね?具合大丈夫かよ?うち来る?」
バックヤードに駆け込むなり、立て続けに放たれた飛鳥の言葉で殿井は再び固まった。さらにコンビニの制服を脱いで着替える姿に耐えきれず、殿井は俯いたまま「大丈夫」と小さい声で繰り返し、すぐにその場を離れた。
店を出るとセミの鳴き声がすぐ近くから聞こえる。殿井は本当に具合が悪くなってきた。
これから鈴本くんの家にいく。これから鈴本くんの家にいく。これから鈴本くんの家にいく。
なんだかセミがそんなふうに鳴いている気がする。
「ほんと大丈夫かよ?」
少し後から店を出た飛鳥が顔を覗き込み、肩を叩いた。
「うち、弟とかうるさいし狭いけど、よかったら寄って休んでけよ」
殿井の顔が完全に青ざめた。
鈴本飛鳥の家は殿井にとって、今まで行ったどんな国よりもカルチャーショックを受けた場だった。
家族五人分の物が溢れる居間。低い座卓を囲み、殿井の隣に小1の弟・遊馬がぴったりと座る。そこに小5の竜太が麦茶を運んできた。
殿井はここに五人住んでいるという事実がしばらく理解できず、ほかにどこか場所を借りて荷物などを置いているのかと思った。しかしそれをおずおずと尋ねた声は鈴本家では小さすぎ、居間のすぐそばの台所に立つ飛鳥の耳に届かなかった。
そしてそれを聞いた竜太に「意味わかんねぇ」とひどく馬鹿にされた。そのやりとりにようやく気づいた飛鳥が大声で言った。
「殿井くん家はすごいお金持ちなんだよ!うちと違うの!」
その言葉に内心ショックを受けた殿井だったが、一方で、他の人間に同じことを言われても今までなんとも思わなかったことに気づいた。
ずっとそれを言われ続け、慣れてしまったのかもしれない。だが、普通に接してくれる飛鳥もそう思っていたことに、なにか疎外感を覚えた。
「殿井くん、馬飼ってるんだよ」
飛鳥が小1の遊馬に向かって大声で言った。
遊馬が殿井の袖を引っ張り、「オレのなまえね、ウマがはいってんの」と言った。思考を分断され、殿井は返答に困った。
「お前、下の名前は?」と竜太が偉そうに聞き、殿井が「景勝」と答えると、「かつかつ?」と遊馬が聞き返した。
飛鳥は弟の面倒を見てもらえるのは本当に楽だと思いながら、狭い台所で昼食用に大量の素麺を茹でていた。
山盛りの素麺が目の前に置かれると、殿井がその量に呆然としている間に箸がのびた。みるみる白い山が削られていく。
「殿井くん、はやく食べないとなくなるよ」
飛鳥がずずっと素麺をすすった。
「……大丈夫」
「カゲカツの家はいろいろあんでしょ?そうめんも豪華なんだろうなー」
竜太が言うと、遊馬が殿井の袖を引っぱって聞いた。
「ごうかなそうめんってどんなの?」
竜太が遊馬を小馬鹿にした顔で見た。
「色つきのいっぱいだろ」
「まじで!オレみどりがいっぱいのがいい」
遊馬が緑の素麺について聞き、白い素麺以外にイメージのできない殿井は「……茶そばのこと?」と小学一年生に返した。
「ウンコいろじゃないっつーの!そばじゃなくてそーめんだよ!」と怒る遊馬に困惑し、殿井が緑の素麺の存在について考えている間に山盛りの素麺はほぼなくなっていた。
「カゲカツはさー」
「かつかつはさー」
「言いづらいからカゲって呼ぶ」
「はげー?」
「ハゲ!」
爆笑する竜太と遊馬に飛鳥が怒った。
「お前ら俺の友達に変なこと言うなよ!」
その瞬間、飛鳥の発言の衝撃に、殿井が箸を取り落とした。慌てて拾おうとかがんだ背中に遊馬が乗った。
「やめろ遊馬!」
「はげー」
「いい加減にしろ!」
飛鳥が怒鳴り、一瞬しんとなった座卓で、殿井の首に腕を巻きつけたまま遊馬が泣き出した。殿井はどうしたらいいのかわからず、ただただ固まっていた。
「ほんとゴメンな、うるさくてさー。そうめんもあんまり食べてないよな?うちすぐなくなるからさー」
アパートの階段を下りながら飛鳥があやまり、殿井は俯きながらその後に続いた。
「でも確かにカゲカツは言いづらいよなー。殿?もなんかなー。ずっとくん付けもなー」
この流れは、と殿井が唾を飲み顔を上げた。
「ケイって呼ぼう!」
飛鳥が笑顔で振り返り言った。その声が何重ものエコーとして殿井の中で響きわたり、思わず体がぐらりと傾いて階段の細い手すりに寄りかかった。
「まだ具合悪いんじゃね?」
飛鳥が心配そうに目を丸くする様を目の端で捉えつつ、殿井は塗装の所々剥げたペパーミントグリーンの手すりに視線をやった。
「あ、あのさ、あの」
飛鳥が不思議そうな顔で殿井を見て、黙った。
「あのさ、す、すずも…」
「飛鳥でいいよ!」
その瞬間、殿井は顔を飛鳥にばっと向け、大きく頷くと、その場から全速力で走り去った。
その晩、殿井は帰ってからベッドの中に至るまで、今日の会話を繰り返し再生していたが、素麺をごちそうになった礼を言わなかったことを25回目の再生中に気づいた。
鈴本飛鳥は毎日野菜を大事そうに持ち帰り、あの弟たちに食わせているのである。その鈴本家の貴重な食料を消費してしまったという事実に今まで思い至らなかったことを、殿井は痛切に恥じた。
同時に、飛鳥の家の事情を初めて目の当たりにして、徳田が「旅行に行くわけがない」と言う意味がようやくわかった。
大変そうなのは十分わかったが、それでも飛鳥は楽しそうに毎日を過ごしている。殿井はそんな飛鳥の姿をを憧れにくるみながら、眠りについた。
翌朝早く殿井は本郷町まで走り、コンビニの周辺をしばらくうろついた。そして意を決して中に入ると、「あっとうざいあしたー」と言いながら客に釣りを渡し終わった飛鳥と目が合った。
その独特のイントネーションと余韻を残す「ありがとうございました」に、殿井の肉体には何かこみ上げるものがあった。
なぜか恥ずかしくなり、殿井は咄嗟に店内奥のお茶のコーナーで麦茶を手に取ると、レジへ向かった。
「また走ってきたのかよ」
レジ打ちしながら飛鳥が小声で話しかけた。殿井は体にフィットするアウトドアブランドの小型リュックサックをおろすと、朝菜園で収穫した野菜を見せた。
飛鳥は目を丸くし、小声で「めっちゃサンキュー」と礼を言った。殿井はさっきの独特の言い回しが聞けなかったことに若干の残念さを感じた。
外で飛鳥のバイトが終わるのを待っていた殿井は、私服姿の飛鳥が出てきたのを見てまた激しい動悸を感じた。
飛鳥が眩しそうに外の光に目を細める。かきあげた茶色っぽい髪がサラサラと揺れていた。
古着と思しきこなれた灰色のTシャツに、白いハーフパンツ。紺のスリッポンを履いたそのラフな姿は、まるでファッション誌から抜け出たように殿井には見えた。
昨日は家に行くことで頭がいっぱいで、服まで見る余裕はなかったのである。
殿井は動悸を鎮めるため大きく深呼吸すると、飛鳥を待つ間に何度となく練習していた台詞を無表情でつぶやいた。
「ごめんちょっと待っててアスカ」
店内に戻り、レジに並ぶ殿井を外から見ながら、飛鳥はTシャツの胸元をつかんでずり上げ、鼻の汗を拭いた。
今着ているTシャツは元々黒かったが、洗濯するうちに色褪せて灰色になってきていた。色褪せすると、本体は傷んでいなくとも古く見える。
飛鳥はいろいろと考えた結果、白い服なら漂白剤を活用し、きれいな外観を保ったまま長年着れるのではないかと睨んで、数年ぶりに買ったハーフパンツは白を選んだのである。
さらに農作業用の軍手を買いに行ったホームセンターで偶然激安のスリッポンを見つけた。意外とデザインがよかったので履き潰すつもりで買い、愛用していた。
殿井が店内から出てきた時、飛鳥の目は釘付けになった。手に下げられたレジ袋から、明らかにアイスの箱が透けて見える。
殿井は箱をその場で開けると、オレンジとグレープを一本ずつ、飛鳥に向けて差し出した。
飛鳥はいくぶん震える手で、オレンジのアイスキャンデーに手を伸ばした。
「残りは遊馬くんたちにあげて」と殿井が言い、感謝と感動に打ち震える飛鳥は野菜とアイスの箱を受け取った。
「あのさ……アスカ」
アイスを渡した殿井がそう言ってしばらく黙った。
「鈴本くん」だと、毎回つっかえてしまい自己嫌悪に陥るが、「アスカ」であれば、呼び慣れているため、つっかえずに言えるはずだ。
そう思い、実際本人を目の前にして、名前をスムーズに言えたことに殿井は安堵していた。
「何?」
黙ったままの殿井にしびれを切らし、飛鳥がアイスキャンデーを舐めながら先を促した。早く帰らねば、この暑さでアイスが溶けてしまう。
殿井はその言葉に現実に引き戻され、地面をひたすら見ながら、昨日の夜以降繰り返し練習してきた台詞の第二弾を開陳した。
「……あのさ、もし、よかったらさ、俺の家で、草取りのバイトしない?」
えっと驚き目を丸くした飛鳥を、殿井は見た。
アイスキャンデーをしゃぶるその姿に再び何かこみ上げるものがあったが、それがなにかもう殿井にはわからなかった。
「バイト⁉︎」と言いながら、飛鳥が殿井の腕をがっしりとつかんだためであった。
殿井は凄まじい動揺を押し殺し、首を縦に振ると「じゃまた」と言うのが精一杯だった。
殿井は炎天下を走り続けた結果、家に帰ると気分が悪くなり、その日は夜まで寝込んだ。
次の日、野菜の袋に入っていた「アルバイトのご案内」のプリントを手に、飛鳥は学校近くをうろついていた。もちろん、このプリントは昨日の夜、殿井が家で作ったものだった。
「ご案内」の紙に掲載されていた略地図を頼りに、殿井の家まで来たはいいが、白いのっぺりとしたコンクリートの塀がぐるりと取り囲み、出入り口が見当たらない。
塀沿いにゆっくり自転車で走ると、ようやく大きな門と幅の広い木のドアを発見し、その横のインターホンを押した。
しばらくしてドアが開けられ、顔面蒼白の殿井が現れた。
飛鳥は持参した軍手をはめ、「どのへんやるの?」と聞いた。殿井は黙って玄関アプローチから右手に伸びる小道を歩き、奥へと進んでいく。建屋を回り込んで庭に飛鳥を案内した。その純日本庭園の広さを見て、飛鳥は絶句した。
プリントにあったところによれば、長年庭をお願いしていた人が高齢で、かつ最近は腰を痛めてしまい、急ぎ草取りのための人を探しているということだった。
飛鳥はその一回五千円という金額に心惹かれ、すぐにやってきたのだが、殿井家の広大な庭を見てようやく、こいつの家は馬を飼えるほど極端に広かったのだという事実に思い至った。
「あのさ、馬は?」
「あぁ、裏にいる」
殿井はまた来た小道を引き返すと、玄関アプローチを通り過ぎて、芝生の広場とでもいうべきバックヤードに案内した。その奥に小さい厩舎が見える。
高校から入った飛鳥はまったく知らなかったが、殿井の家は高校から少し離れたところにある、洞院グループ付属の中学校・小学校と敷地を隣接する形で建っていた。
飛鳥は唾を飲み込み頷くと、再び日本庭園まで戻り、端から雑草を抜いていくことにした。殿井も手伝い、飛鳥が一方的に話しかけながら作業をした。
朝にも関わらず殿井の家には人の気配がない。飛鳥が尋ねると、父親は平日は千代田区内のマンションで過ごし、母親は昨日から出張だと答えた。
自分の家の敷地内では比較的飛鳥と普通に会話できることに気づき、殿井は内心胸をなでおろした。
昼近くなり、殿井はそろそろ切り上げるように飛鳥に声をかけ、堂々とした姿勢で家に上がっていかないかと飛鳥を誘った。草取り中、台詞をあれこれ考えていたのである。
飛鳥は一も二もなく頷き、殿井の後に続いた。気分は完全に「お宅拝見」のリポーターであり、あまりに違う世界に興味津々だった。
玄関に入ると、そこはすでに飛鳥の家の居間ほどの幅があった。正面には小1の遊馬が中に入れそうな大きさの茶色い壺が置かれ、葉のついた枝がいくつも生けられている。
殿井はスタスタと上がり、玄関左手を曲がって来客用洗面室を案内した。
そこで手を洗わせてもらいながら、洗面所と風呂は常に一セットだという認識だった飛鳥は、風呂の見えない洗面室に驚き、露天風呂なのだろうかと内心考えた。
リビングに案内されると、日本庭園を切り取るように大きい窓が正面に広がった。奥はダイニングになっていて、大きなテーブルがある。
その上に鮮やかなペーパーナプキンが二枚、広げられていた。殿井がそれを取ると下から昼食が現れた。
初めて家に友達を連れてきたということで、長年殿井家で家事を行なっている永田さんが、ちらし寿司を作ってくれたのである。
自分の分のペーパーナプキンを取って、飛鳥は驚愕した。
このちらし寿司を少し持って帰れないだろうか。
しかしさすがに同級生の家にまで来てそれはないだろうと思い、一方でもう殿井はうちに来て竜太たちにも出会っており、また家のレベルが極端に違うのでそれが許されるのではないかなどと一人逡巡していたところ、いつの間にか殿井の姿が消えていた。
向かい合って一緒に昼食を取るという事実に耐えられなくなった殿井が、「先に食べてて」と言い残し部屋から出ていったことに、飛鳥は気づかなかったのである。
腹がぐーぐーと鳴る中で、飛鳥はおとなしく椅子に座り殿井が戻ってくるのを待っていた。しばらくして、着替えてさっぱりした様子の殿井がリビングにやってきた。飛鳥はそれを見てうらやましくなった。殿井はシャワーを浴びていた。
てっきり先に食べているものだと思っていた殿井は、自分だけさっぱりしてきた事実に申し訳なさを感じた。
「あ、あの、アスカ、嫌じゃなかったら、その、えーと、シャ……シャ……お湯使う?」
どもりながらも、なんとか飛鳥にシャワーを浴びるか聞いた。「アスカ」と「シャワー」という単語を続けて発することができず、急遽当たり障りのない「お湯」という単語に切り替えることに成功した。
飛鳥は一も二もなく即答した。「悪いな」としきりに言う飛鳥を、風呂までコチコチになりながら案内した。
飛鳥は、草取りをしたらさっさと帰るつもりだった。まさかシャワーを借りられるとは思わず、こんなことなら着替えを持ってくればよかったと思った。
いくら帰りにまた汗をかくとはいえ、Tシャツは汗でびっしょりで着たくはない。
少々ずうずうしいかもしれないが、まぁ相手が棚田か春山でも同じ頼みをするなと考え、ハーフパンツに上半身裸のままリビングに戻り、殿井にTシャツを貸してくれないかと頼んだ。
先にちらし寿司を食べていた殿井は、濡れた髪に首からタオルをかけたその姿に思わずむせた。
ファッション誌にある下着の広告モデルのような、スタイリッシュな体つきだ。また動悸がとまらなくなった。
殿井は茶でなんとか酢飯を流し込むと、飛鳥を自室に案内した。
飛鳥は殿井がほとんど私服を持っていないことに驚いた。しかし飛鳥も特に服にこだわるタイプではなかったので、殿井が下着がわりに持っていた白いTシャツを借りると、サンキューと礼を言った。
学校指定ジャージの枚数の多さがうらやましい。洗い替えがあるっていいなぁなどと物思いにふけっていると、殿井が茶封筒を飛鳥に渡そうとした。飛鳥はそれを見て、手を胸の前で振り、いらないと断った。
さすがにシャワーとごはんまでいただいて、その上お金まで同級生からもらうことはできないと思ったのである。
殿井は眉間にシワを寄せ、しばし思案した。自分では意識したことがなかったが、昨日の飛鳥の家からすれば、自分のやっていることは、もしや施しにあたるのではないか。この段階にきてようやくそのことに気づいた。
そういうつもりはないのに、そう取られるのもまた困る。二人で困っていると、飛鳥がおずおずと言った。
「ほら、俺、ケイに水やり代わってもらったしさ、別にその分ってことでいいよ」
「いやでも……」
「草取り全部終わってないしさ。……っつーかさ、明日さ、竜太と遊馬も連れてきてもいい?やらせるからさ。あ、ちゃんとメシ持って来るから。遊馬がケイの馬見たいってうるさくてさ」
「……え?あ、いいよ、別に……あの、よかったら、えっと、ご飯もうちで食べ……」
「いいの⁉︎」
目を泳がせながら語る殿井の申し出に、飛鳥は食い気味に返答した。殿井は顔を引きつらせて何度か頷くと、飛鳥と極めて近い位置で話していたことに気づき、赤面した。
赤くなったり白くなったり青くなったりと、顔色の変わりやすい殿井を見て体調を再び心配した飛鳥は、じっと顔を覗きこんだ。
首を傾げる飛鳥の顔を見た殿井は、そのときはっきりと「好きだ」の三文字がまったく何の前触れもなく心に浮かび、ひとり困惑した。
そして部屋をキョロキョロと見回す飛鳥の姿を見ながら、友達と一緒にいるというのは、ジェットコースターに乗ってる気分だな、と何か大きなことを学んだような気分になっていた。殿井には今まで友達はおらず、好きな相手もいなかった。
そのとき飛鳥の腹からぐーっという音がなり、飛鳥が「腹減った!」と言って照れ笑いした。
