「ちょっと馬糞もらってきてくれる?」
突然そう言われ、鈴本飛鳥は二度ほど部活の顧問の言葉を聞き返した。
高校生活が始まったばかりの、風薫る五月の午後四時過ぎのことだった。
「馬糞ってなんですか?」
「えっ知らないの?馬のフンだよ」
「いや知ってますよ、それくらい!学校近くになんかあるんですか」
「え?北門近くのとこにさ、いるじゃない、馬。ひらめいたんだよ!ゴム手袋とマスクあるからさ、殿様の馬からちょっともらっちゃってさ、堆肥作ってみようよ!」
「殿様?殿様?……ってなんですか」
生物部顧問の日下部、通称バイオは、「えっ殿を知らないの」と逆に驚き、飛鳥はますます混乱した。
「鈴本は朝早く来てチャイムと同時に帰るから、知らないんスよ」
一学年先輩の徳田が、いつのまにか生物準備室の入口に立っていて、そのやりとりを見ていた。
「えぇー殿井くんを知らない生徒がいるの⁉︎」
バイオが銀縁メガネの奥の目を意味もなく輝かせた。
「殿井?誰ですかそれ。何組?」
「5組だよ、え?鈴本くん本当に知らないの?ほら、馬で学校来てる……」
「馬?……え、馬?」
飛鳥は思わず馬に乗った武将の姿を思い浮かべた。その飛鳥に向かって、徳田が冷たく言った。
「とにかく馬糞もらってこいよ鈴本」
黒縁メガネ越しに見える徳田の目は据わっていた。飛鳥は話が飲み込めないまま、ゴム手袋とマスクを手にして準備室を出た。
生物部は、飛鳥が入部するまで、部員は2年生の徳田一人だけという廃部寸前の状態だった。
徳田は過激派生物教師を自称する50代のバイオを信奉している。そのため、部の主な活動といえば、徳田がバイオのいる生物準備室でだらだらすることだった。
当初、飛鳥は部活に入るつもりはなかったが、菜園スペースの管理を生物部が行えると知り、入学早々に勇んで入部したのだ。
飛鳥は、学校見学の時から第二グラウンドに隣接した手つかずの荒れた菜園に目をつけていた。
そこで野菜を育て家に持ち帰り、食費を浮かせようという算段だったのである。
飛鳥は全収穫物を鈴本家に持ち帰る見返りに、徳田の言うことにはすべて従うという密約を入部時に交わした。それゆえ、基本的には徳田の言うことに逆らえない。
徳田はバイオがノリノリで農作業に加わるのが面白くないのか、生物準備室に飛鳥が来た時は毎回疎ましそうに追い払う。
とはいえ、夕方の水やりなどは手伝ってくれるから、ミニトマトがなったらひとつくらいはあげてもよいかもと、飛鳥は思っていた。
そして、今。
水色のポリバケツとシャベルを手にした飛鳥は、広い校舎の裏手、北口通用門近くにつながれた黒い馬と、その少し離れたところにある黒いかたまりを見て、固まっていた。
……なんで馬が学校にいるんだろう。やっぱり金持ちのいるところは次元が違うのかもしれない。
そんなことを考えながら、飛鳥は緊張の面持ちで馬の近くにあるかたまりにそろそろと寄った。
そのとき、馬が頭を振り、明らかに飛鳥を警戒するように後ろ足を上げ、空中に向けて蹴った。
「アスカ!」
飛鳥と馬が同時に振り返ると、今どき感溢れる髪型をした生徒が姿勢よく立っていた。
制服を着崩すことなく、ぴっちりと上までYシャツのボタンをとめ、ネクタイを遊びなく締めている。
馬の主、殿井景勝だった。
「あのー、殿井くん?だよね?」
飛鳥は不審がられないよう努めて平静を装った。殿井は不審そうに眉をひそめ、飛鳥を見た。
「えーと、生物部の者なんですが、その馬の落し物をですね、もらえないかなーと」
「アスカの?」
ここで初めて、馬の名前が自分と同じであることに気づき、飛鳥はマスクの中で苦笑いした。
そして簡単に事情を説明すると、さっさとシャベルで目的のものを回収し、近道をしようと北門から出て校舎の外の道路を通り、西門へと回った。
今日は母親が仕事から早く帰れるらしく、ダッシュで学校を出る必要がない。夕飯の支度をしなくてすむというのはなんと楽なことかと、飛鳥は馬糞の入ったポリバケツを手にスキップしたい気分だった。
殿井景勝は、しばらく動揺が抑えられなかった。この学校で初めて話しかけられたのだ。
彼はモデル並みのスタイルを臙脂色のジャージに包み、土のついた黒い長靴を履いてすらりと立っていた。
小さい顔を覆う白いマスクと、サラサラと溢れる茶色がかった前髪の間から、きれいな二重の目がのぞき、笑っていた。口元が隠れていたからはっきりとはわからなかったが、確かに笑っていたように思った。
そしてピンク色のゴム手袋をはめた手でシャベルを持ち、ムダのない動きでさっさと地面を片付けると、ポリバケツを手にして颯爽と去っていったのである。
その一連の動きを見ながら、殿井は何も話しかけることができなかった。そんなことができていたら、今までの人生はまた違ったものになっていただろうとも思った。
名前を聞くことはできなかったが、ジャージの色からすれば、同じ1年生だ。
そして確かに彼は生物部のものだ、と言っていた。
そんな部があることを初めて知った殿井は、明日、生物の教師に聞いてみようと思った。
翌日の昼休み。
「あのさー、学校に馬で来てるやついるって知ってた?」
何気なく聞いた飛鳥に、同じクラスの棚田と春山が呆気にとられた顔をした。
「え?お前なに言ってんの?もう五月終わるよ?」
「殿でしょ、乗ってんの見たときマジびびったわ」
やはり有名人だったのか、と飛鳥は眉間にシワを寄せた。よく聞けば、殿井景勝はゴールデンウィーク明けに転校してきた生徒らしい。
「馬で道路歩いていいの?」
「いいらしいよ。自転車とかと同じ扱いなんだって」
「全然違うだろ!学校的にいいのかよそれ」
昨日見たかなり大きい馬を思い出しながら、飛鳥は春山に言った。
しかも糞するんだもんな、と飛鳥は宙をにらんだ。
「お前ホントなんも知らないんだなー」
棚田がさも「痛い人」と言わんばかりの顔つきで飛鳥を見た。
「理事長の孫でしょ」
春山がさらっと言った。
「理事長?なんの?」
「ウチの学校のだよ!」
棚田が、コーヒー牛乳の紙パックをイラつきとともに机に叩きつけた。春山が問題集から目をあげずに飛鳥に言った。
「最初、凱風学院に行ったとかいう噂だけど。合わなくてすぐウチ来たんだって。凱風行けんだったら俺らのクラスかそれより上くらいじゃん?でも試験しないで推薦枠で来たから、とりあえず5組なんだって」
1年次は、入学時の成績順に1組から4組までに振り分けられる。5組は体育や芸術など特別な推薦枠で来た生徒のクラスだった。特待生の飛鳥は1組だ。
この学校の特待生となれば、入学金から授業料、修学旅行費まで、学校にかかる費用はすべてタダとなり、公立よりも金はかからない。
凱風学院は本当は飛鳥が行きたかった高偏差値の私立の男子校だった。しかし家の事情をどう鑑みても、私立に学費を払って通うことなど無理だ。
この選択に、飛鳥は後悔していない。学校は飛鳥の一日の中でホッと休める時間で、楽しかった。
「ほら、かーちゃんがお前にやれって」
「うわめっちゃありがとうほんとありがとうございます」
馬鹿でかい唐揚げが、いくつか飛鳥の弁当箱の蓋の上に置かれる。飛鳥は箸を両手で挟みながら手を合わせ、棚田を拝んだ。
飛鳥は食べ物をもらうと、基本的にいい人だと思ってしまうクセがある。物をもらうのは、狭い家がより狭くなる可能性を秘めているため、場合によりけりなのだが、とにかく食べ物はなんでもうれしい。
飛鳥の弁当は、たいてい前日の夕飯と同じものだった。
しかし、中学2年の妹、小学5年と1年の弟が大量に作った夕飯をすべて食べ尽くしてもなお足りない場合、弁当用に取り分けた分まで供出するので、その翌日はおかずのほとんどない弁当となる。
入学早々、その弁当を見た棚田が大笑いした。
父亡き後の鈴本家では、母親が夜遅くまで働いている。以前は母親がすべて家事もしていたが、三年前に過労で倒れて以降、飛鳥が夕飯作りを含む家事全般を担っている。もちろん妹や弟たちも一緒に手伝うが、何しろ人数が多いので料理も洗濯も大変だ。
その一日のスケジュールを含め、家庭事情を有り体に話したところ、棚田が黙って唐揚げをくれたのである。そこからの友情である。
しかもその唐揚げがあまりに美味く、大絶賛したところ、棚田の母が「鈴本くんにもあげなさいよ」と多めに持たせてくれるようになった。
一方、いつも醒めたような態度の春山も、さりげなく買ったお菓子を飛鳥にわけてくれる。
感謝してもしきれないと、飛鳥は恵まれた友人環境に手を合わせたい思いだった。
「先生たちも、陰で殿様って呼んでるっぽい」
春山が机に頬杖をつきながら、しらっとした顔で言った。棚田がそれを聞いて爆笑した。
「さすがに理事長の孫は呼び捨てできないんだ」
殿井だから殿様か、と飛鳥はバイオの言葉を思い出した。弁当をさっさと食べ終えた棚田が、春山に話しかけた。
「5組ってたいして授業やらないんでしょ」
「でも2年になったらこっちのクラスに入んじゃない?」
「やっぱそっか、つーか頭超いいんじゃん?」
「しかも見た目だけならイケメン」
「うわムカつく要素しかねえ」
棚田と春山が話す様を見ながら、堆肥を作るにはあとどれぐらいの馬糞が必要なのだろうかと飛鳥は唐揚げを咀嚼しながら考えた。
授業が終わり、殿井が生物準備室にいると、ドアがガラッと開けられた。目の前に座っていたバイオが、意気揚々とした顔で、入ってきた生徒を見た。
「徳田くん、また部員が増えたぞ!」
げっという顔で徳田が殿井を見た。
「鈴本くんにも知らせないと!馬糞回収の手間が、減るかもしれない!」
バイオがずり下がってきた銀縁メガネをあげながら言った。
「……鈴本くん?」
殿井の言葉に、バイオは再びぐるっと顔を向けると、「一年生にもう一人部員がいるんだ」と説明した。
殿井は心の中で、鈴本くん、と何度も復唱した。
「いやー殿井くんが入ったら、来年度から部費が多めにつくかも!」
徳田は邪魔者と言わんばかりに殿井を睨みつけた。その視線をふと感じ、殿井は黙って部屋を出た。
鈴本飛鳥の朝は早い。近所のコンビニで早朝5時から7時まで、平日は毎日バイトをしている。バイトが終われば、バックヤードでパンを瞬時に食べ、そこから30分自転車を漕ぎ続けて学校に行く。本来、ジャージでの登校は禁止されているが、朝早いのをいいことに、飛鳥はジャージで登校していた。
学校に着くとすぐに菜園に向かい、水やりを行う。そののちに生物準備室でジャージから制服に着替え、教室へと向かう。もうこの時点で一仕事終えた気になっている。
梅雨時に入り、朝の水やりに急ぐ必要がなくなったのは楽だったが、雨量の多い日の自転車通学は辛い。雨の日はジャージでの登校が認められてはいたが、実際にする生徒は少ない。しかし名より実をとる性格の飛鳥は、カッパにジャージで変わらず登校していた。
一方、家から徒歩15分の距離に住む殿井は、制服で馬に乗り登校していた。
あの日話しかけてきたのが1組の鈴本飛鳥という生徒であることまではわかったものの、このひと月、放課後に顔を合わせたことはない。
意を決してバイオにその理由を知っているか尋ねたところ、飛鳥は朝早く水やりに来て放課後はすさまじい勢いで帰っていくという話を聞き、少し落胆した。
自分にフラットに接してくれた同年代の人間は初めてだったから、もう少し話をしてみたかった。
しかし1組と5組では、授業も違えば教室の位置も遠い。殿井は昼に利用するカフェテリアでその姿を探してみたが、それらしい人影は見えなかった。
ごくまれに廊下ですれ違うことがあったが、たいてい友人二、三名と一緒に何か笑いながら話をしている。声をかけることは到底できなかった。
たまに一人で歩いているときを見かけた時は、近くに行ってなにか話しかけてみようかとも思ったが、向こうは自分のことなんて覚えていないんじゃないか、突然話しかけられたら迷惑なんじゃないかという逡巡がぐるぐると渦巻き、結局行動にはうつせないままに終わった。
殿井は、学校内で誰かと話すことはほとんどなかった。教師とも必要最低限の会話しかしなかった。そのため、自身が学校の有名人であるという自覚もなかった。
七月に入り、梅雨の合間に朝から晴れる日が増えてきた。
殿井は、できるだけ朝早く学校に行くようにして菜園に向かったが、そこに鈴本飛鳥の姿はなかった。
前日が雨であれば、わざわざ水やりする必要はないことに、飛鳥に会いたい一心の殿井は思い至らなかったのである。
それを繰り返していたある日、通学途中の道からホースで水をまく臙脂のジャージが遠くに見え、殿井の動悸が止まらなくなった。とりあえずアスカをつながないと、と思い、急いで北門に行った。
神経質なアスカはようやく学校に慣れてきたところで、違う場所につなぐのは難しい。しかし殿井が北門から学校内を抜けて西側の菜園スペースに回った時には、飛鳥は既に水やりを終えて校舎へ戻る途中だった。
飛鳥と入れ違いに菜園へやってきた殿井は、初めて馬の不自由さを感じ、次の日から徒歩で学校に来るようになった。
「最近さー、殿が馬で学校来てないらしいよ」
棚田の話に、「へー」と飛鳥は答えた。
棚田たちに「臭え!」などとからかわれながらも、昼休み終わりに馬糞を回収しに行き、ある程度の量を確保したので、馬に興味はなくなっていたのである。
しかし棚田は殿井に興味津々の様子だった。というより、1組の人間がみな殿井への関心を増していた。
五月末に中間考査が終わり、学年の成績上位者20名が掲示されたが、ほとんどが1組の生徒の中、3位に5組が一人だけ入っていたのだ。それが殿井景勝だった。ちなみに2位は春山、9位が飛鳥、15位が棚田だ。
だが飛鳥は、人のことに関心を向けている余裕はなかった。勉強できる時間は、うるさい弟たちが寝静まってからだ。毎日が精一杯のため、寝落ちすることも多い。
しかも最近念願の夏野菜がなりはじめ、その収穫に日々忙しく、終わったテストの成績順などどうでもよかった。
ミニトマトは買うと高いのに、面白いようにとれるなぁなどと、実りの喜びをひとり噛み締めていた。
梅雨明けしたばかりで、朝から蒸し暑い日。
飛鳥が菜園に行くと、支柱を組んだキュウリの緑の葉の隙間から、制服を着た人影が立っているのが見える。
まさか泥棒ではと血相を変え、細い土剥けの道を走っていくと、まさにキュウリの畝の間に立ち、手を伸ばす姿を捉えた。
「おい!」
人影が飛鳥の呼びかけにびくっと体を震わせ、こちらを向いた。
「……あれ?殿井くん?」
飛鳥は拍子抜けした。大富豪などと噂に聞く殿井が、野菜泥棒などするはずがないと思ったのである。
殿井は1ヶ月と17日ぶりに飛鳥と会話ができたことに動揺と嬉しさがこみ上げた。そして飛鳥が自分の顔と名前を覚えていたことに、赤面するほどの恥ずかしさと喜びを感じた。
「あ、あの、今度、いやこの前、あ、五月に、入ったんだ」
しどろもどろになりながら下を向いて、殿井がボソボソとしゃべった。
「何に入ったの?」
飛鳥が間髪入れずに聞き返した。その早い返しに、より一層殿井は言葉が上滑りし、話せなくなった。
「あ、えーと、あの、生物……」
「あ、なんか部員増えたって!」
飛鳥は思わず殿井を指差した。
授業以外、飛鳥は顧問のバイオの話をほとんど聞いていない。しかも殿井が入った直後、バイオがもったいをつけて、クイズ形式で新入部員が誰か当てにこさせた。そんな時間はねぇよと苛立った飛鳥が話を途中で遮り、強制的に会話を終わらせたのだった。
「なんだ殿井くんなんだ、新入部員」
そう言うと飛鳥はスーパーの袋をガサッと広げ、畝の間を歩いてミニトマトの収穫にかかった。
その様子を殿井は呆然と見ていた。自分に、こんなふうに気さくに、いやなんでもないように話してくれる人間は、初めてだった。
「あの……ミニトマトって」
殿井はおずおずと話しかけた。こっちから話しかけられるなんて、と殿井は自分自身にも驚いた。
「これにいれて」
もう一つのスーパーの袋を見せてから、飛鳥はしまったと内心思った。徳田とは収穫物分配の取り決めをしているが、殿井が欲しいといえば、この収穫のいくらかは同じ部員として渡さなくてはいけないのではないか。
これはまずいことになったぞと飛鳥が考えていると、殿井はミニトマトをつまみ食いすることなく、せっせととってくれている。
家は金持ちらしいし、とりあえず自分から欲しいというまでは黙っていようと飛鳥は心に決め、しばらく無言で作業をした。
「……っ!」
ナスをもごうとしていた殿井が手を引っ込めた。その様子に気づいた飛鳥は声をかけた。
「大丈夫?ナスのトゲ結構痛いよ、軍手したほうがいいって」
殿井が右手をじっと見ている。殿井は右利きなんだろうと思い、飛鳥は自分がはめていた右手のゴム引きの軍手を外して渡した。
殿井は自分の親指を見ていたが、飛鳥が近くに来るとバッと顔を上げた。
飛鳥はそこで初めてまじまじと殿井の顔を見た。最初に会話した日は馬糞回収で頭がいっぱいになっていて、殿井自身のことに関心を払う余裕はなかったのである。
変わったやつだなあとはずっと思っていたが、改めて見ればきりっとした印象の整った顔立ちだった。
鼻筋が通り、目はくっきりした二重だが丸すぎず、ちょうどいい感じだ。徒歩で通学し普通にしていれば、女の子にモテるだろう。きっとおしゃれなところで髪切ってるんだろうとうらやましくなった。
しかし今は眉間にシワが寄って、眉が逆ハの字にあがっている。なにか目元が潤んでいるようにも見えたので、そんなにトゲが痛かったかと、飛鳥は横にしゃがみこんで殿井の手を取り確認した。
ここで農作業に対するネガティヴイメージが高まり、早々に辞められては困る。せっかくの人手なのだから、やはり確保しておきたい。しかも、意地汚く野菜が欲しいと言う可能性も少なそうな人材だ。
飛鳥は弟たちにするように怪我の具合を見たつもりだったが、一人っ子の殿井は心臓が止まるほど驚いた。ただでさえ、ずっと話してみたかった人間がそばにいて緊張していたのに、さらに近づいて手をとってきたのだ。殿井は若干パニックになった。
サラサラの髪を至近距離に感じながら、自分の手を見る飛鳥の顔を間近で見つめ、そのまっすぐな睫毛にじっと焦点を合わせていた。
そのとき「大丈夫だよ」と鈴本飛鳥が突然顔をあげて笑った。
気をつけていたのに飛鳥を直視してしまい、殿井は全身が固まった。向こうが怪訝な顔になったので、思わず手を振り払い、顔をそむけた。
飛鳥はその様子に、余計なことをしたかとバツが悪くなり、殿井から離れて収穫作業に戻った。
殿井は飛鳥が貸してくれた軍手を右手にはめ、自己嫌悪に苛まれながら作業に戻った。
二人での作業は早く、ナス、キュウリ、ミニトマトなど夏野菜の代表ともいえる野菜を収穫した。さらにフェンス沿いに勝手に絡ませていたハヤトウリを手早くもぎ取り、飛鳥は殿井に声をかけた。
これらは生物準備室にある小さい冷蔵庫で保管し、夕方持って帰るのである。殿井にそれを説明しながら一緒に校舎に行った。
農作業の時はジャージがいいよと言う飛鳥の顔を、殿井はやはり見られず、しかし横に並んで歩けば顔を見なくてもすむことに気づいた。そうすれば挙動不審に陥ることもなく、殿井は少しほっとした。
飛鳥は朝早く来ているバイオに声をかけながら準備室に入り、冷蔵庫を開けて野菜類を入れ終わると、その場で制服にさっさと着替え始めた。雨の日以外、朝は基本的に制服でいなければいけない。
その様子に再び殿井は動揺を隠しきれず、「先に戻る」と捨て台詞のように早口で一方的に告げ、生物準備室を走って出ていった。
走りながら殿井は、鈴本飛鳥が自分にとって憧れの存在であり、その憧れの人からあれこれ話しかけてもらえたことに対する喜びが、今、無駄に走るという行為の動力源であることを冷静に分析した。
そして、飛鳥が軍手を貸してくれたことに礼も言わなかったことに気がつき、ひとり反省した。
突然そう言われ、鈴本飛鳥は二度ほど部活の顧問の言葉を聞き返した。
高校生活が始まったばかりの、風薫る五月の午後四時過ぎのことだった。
「馬糞ってなんですか?」
「えっ知らないの?馬のフンだよ」
「いや知ってますよ、それくらい!学校近くになんかあるんですか」
「え?北門近くのとこにさ、いるじゃない、馬。ひらめいたんだよ!ゴム手袋とマスクあるからさ、殿様の馬からちょっともらっちゃってさ、堆肥作ってみようよ!」
「殿様?殿様?……ってなんですか」
生物部顧問の日下部、通称バイオは、「えっ殿を知らないの」と逆に驚き、飛鳥はますます混乱した。
「鈴本は朝早く来てチャイムと同時に帰るから、知らないんスよ」
一学年先輩の徳田が、いつのまにか生物準備室の入口に立っていて、そのやりとりを見ていた。
「えぇー殿井くんを知らない生徒がいるの⁉︎」
バイオが銀縁メガネの奥の目を意味もなく輝かせた。
「殿井?誰ですかそれ。何組?」
「5組だよ、え?鈴本くん本当に知らないの?ほら、馬で学校来てる……」
「馬?……え、馬?」
飛鳥は思わず馬に乗った武将の姿を思い浮かべた。その飛鳥に向かって、徳田が冷たく言った。
「とにかく馬糞もらってこいよ鈴本」
黒縁メガネ越しに見える徳田の目は据わっていた。飛鳥は話が飲み込めないまま、ゴム手袋とマスクを手にして準備室を出た。
生物部は、飛鳥が入部するまで、部員は2年生の徳田一人だけという廃部寸前の状態だった。
徳田は過激派生物教師を自称する50代のバイオを信奉している。そのため、部の主な活動といえば、徳田がバイオのいる生物準備室でだらだらすることだった。
当初、飛鳥は部活に入るつもりはなかったが、菜園スペースの管理を生物部が行えると知り、入学早々に勇んで入部したのだ。
飛鳥は、学校見学の時から第二グラウンドに隣接した手つかずの荒れた菜園に目をつけていた。
そこで野菜を育て家に持ち帰り、食費を浮かせようという算段だったのである。
飛鳥は全収穫物を鈴本家に持ち帰る見返りに、徳田の言うことにはすべて従うという密約を入部時に交わした。それゆえ、基本的には徳田の言うことに逆らえない。
徳田はバイオがノリノリで農作業に加わるのが面白くないのか、生物準備室に飛鳥が来た時は毎回疎ましそうに追い払う。
とはいえ、夕方の水やりなどは手伝ってくれるから、ミニトマトがなったらひとつくらいはあげてもよいかもと、飛鳥は思っていた。
そして、今。
水色のポリバケツとシャベルを手にした飛鳥は、広い校舎の裏手、北口通用門近くにつながれた黒い馬と、その少し離れたところにある黒いかたまりを見て、固まっていた。
……なんで馬が学校にいるんだろう。やっぱり金持ちのいるところは次元が違うのかもしれない。
そんなことを考えながら、飛鳥は緊張の面持ちで馬の近くにあるかたまりにそろそろと寄った。
そのとき、馬が頭を振り、明らかに飛鳥を警戒するように後ろ足を上げ、空中に向けて蹴った。
「アスカ!」
飛鳥と馬が同時に振り返ると、今どき感溢れる髪型をした生徒が姿勢よく立っていた。
制服を着崩すことなく、ぴっちりと上までYシャツのボタンをとめ、ネクタイを遊びなく締めている。
馬の主、殿井景勝だった。
「あのー、殿井くん?だよね?」
飛鳥は不審がられないよう努めて平静を装った。殿井は不審そうに眉をひそめ、飛鳥を見た。
「えーと、生物部の者なんですが、その馬の落し物をですね、もらえないかなーと」
「アスカの?」
ここで初めて、馬の名前が自分と同じであることに気づき、飛鳥はマスクの中で苦笑いした。
そして簡単に事情を説明すると、さっさとシャベルで目的のものを回収し、近道をしようと北門から出て校舎の外の道路を通り、西門へと回った。
今日は母親が仕事から早く帰れるらしく、ダッシュで学校を出る必要がない。夕飯の支度をしなくてすむというのはなんと楽なことかと、飛鳥は馬糞の入ったポリバケツを手にスキップしたい気分だった。
殿井景勝は、しばらく動揺が抑えられなかった。この学校で初めて話しかけられたのだ。
彼はモデル並みのスタイルを臙脂色のジャージに包み、土のついた黒い長靴を履いてすらりと立っていた。
小さい顔を覆う白いマスクと、サラサラと溢れる茶色がかった前髪の間から、きれいな二重の目がのぞき、笑っていた。口元が隠れていたからはっきりとはわからなかったが、確かに笑っていたように思った。
そしてピンク色のゴム手袋をはめた手でシャベルを持ち、ムダのない動きでさっさと地面を片付けると、ポリバケツを手にして颯爽と去っていったのである。
その一連の動きを見ながら、殿井は何も話しかけることができなかった。そんなことができていたら、今までの人生はまた違ったものになっていただろうとも思った。
名前を聞くことはできなかったが、ジャージの色からすれば、同じ1年生だ。
そして確かに彼は生物部のものだ、と言っていた。
そんな部があることを初めて知った殿井は、明日、生物の教師に聞いてみようと思った。
翌日の昼休み。
「あのさー、学校に馬で来てるやついるって知ってた?」
何気なく聞いた飛鳥に、同じクラスの棚田と春山が呆気にとられた顔をした。
「え?お前なに言ってんの?もう五月終わるよ?」
「殿でしょ、乗ってんの見たときマジびびったわ」
やはり有名人だったのか、と飛鳥は眉間にシワを寄せた。よく聞けば、殿井景勝はゴールデンウィーク明けに転校してきた生徒らしい。
「馬で道路歩いていいの?」
「いいらしいよ。自転車とかと同じ扱いなんだって」
「全然違うだろ!学校的にいいのかよそれ」
昨日見たかなり大きい馬を思い出しながら、飛鳥は春山に言った。
しかも糞するんだもんな、と飛鳥は宙をにらんだ。
「お前ホントなんも知らないんだなー」
棚田がさも「痛い人」と言わんばかりの顔つきで飛鳥を見た。
「理事長の孫でしょ」
春山がさらっと言った。
「理事長?なんの?」
「ウチの学校のだよ!」
棚田が、コーヒー牛乳の紙パックをイラつきとともに机に叩きつけた。春山が問題集から目をあげずに飛鳥に言った。
「最初、凱風学院に行ったとかいう噂だけど。合わなくてすぐウチ来たんだって。凱風行けんだったら俺らのクラスかそれより上くらいじゃん?でも試験しないで推薦枠で来たから、とりあえず5組なんだって」
1年次は、入学時の成績順に1組から4組までに振り分けられる。5組は体育や芸術など特別な推薦枠で来た生徒のクラスだった。特待生の飛鳥は1組だ。
この学校の特待生となれば、入学金から授業料、修学旅行費まで、学校にかかる費用はすべてタダとなり、公立よりも金はかからない。
凱風学院は本当は飛鳥が行きたかった高偏差値の私立の男子校だった。しかし家の事情をどう鑑みても、私立に学費を払って通うことなど無理だ。
この選択に、飛鳥は後悔していない。学校は飛鳥の一日の中でホッと休める時間で、楽しかった。
「ほら、かーちゃんがお前にやれって」
「うわめっちゃありがとうほんとありがとうございます」
馬鹿でかい唐揚げが、いくつか飛鳥の弁当箱の蓋の上に置かれる。飛鳥は箸を両手で挟みながら手を合わせ、棚田を拝んだ。
飛鳥は食べ物をもらうと、基本的にいい人だと思ってしまうクセがある。物をもらうのは、狭い家がより狭くなる可能性を秘めているため、場合によりけりなのだが、とにかく食べ物はなんでもうれしい。
飛鳥の弁当は、たいてい前日の夕飯と同じものだった。
しかし、中学2年の妹、小学5年と1年の弟が大量に作った夕飯をすべて食べ尽くしてもなお足りない場合、弁当用に取り分けた分まで供出するので、その翌日はおかずのほとんどない弁当となる。
入学早々、その弁当を見た棚田が大笑いした。
父亡き後の鈴本家では、母親が夜遅くまで働いている。以前は母親がすべて家事もしていたが、三年前に過労で倒れて以降、飛鳥が夕飯作りを含む家事全般を担っている。もちろん妹や弟たちも一緒に手伝うが、何しろ人数が多いので料理も洗濯も大変だ。
その一日のスケジュールを含め、家庭事情を有り体に話したところ、棚田が黙って唐揚げをくれたのである。そこからの友情である。
しかもその唐揚げがあまりに美味く、大絶賛したところ、棚田の母が「鈴本くんにもあげなさいよ」と多めに持たせてくれるようになった。
一方、いつも醒めたような態度の春山も、さりげなく買ったお菓子を飛鳥にわけてくれる。
感謝してもしきれないと、飛鳥は恵まれた友人環境に手を合わせたい思いだった。
「先生たちも、陰で殿様って呼んでるっぽい」
春山が机に頬杖をつきながら、しらっとした顔で言った。棚田がそれを聞いて爆笑した。
「さすがに理事長の孫は呼び捨てできないんだ」
殿井だから殿様か、と飛鳥はバイオの言葉を思い出した。弁当をさっさと食べ終えた棚田が、春山に話しかけた。
「5組ってたいして授業やらないんでしょ」
「でも2年になったらこっちのクラスに入んじゃない?」
「やっぱそっか、つーか頭超いいんじゃん?」
「しかも見た目だけならイケメン」
「うわムカつく要素しかねえ」
棚田と春山が話す様を見ながら、堆肥を作るにはあとどれぐらいの馬糞が必要なのだろうかと飛鳥は唐揚げを咀嚼しながら考えた。
授業が終わり、殿井が生物準備室にいると、ドアがガラッと開けられた。目の前に座っていたバイオが、意気揚々とした顔で、入ってきた生徒を見た。
「徳田くん、また部員が増えたぞ!」
げっという顔で徳田が殿井を見た。
「鈴本くんにも知らせないと!馬糞回収の手間が、減るかもしれない!」
バイオがずり下がってきた銀縁メガネをあげながら言った。
「……鈴本くん?」
殿井の言葉に、バイオは再びぐるっと顔を向けると、「一年生にもう一人部員がいるんだ」と説明した。
殿井は心の中で、鈴本くん、と何度も復唱した。
「いやー殿井くんが入ったら、来年度から部費が多めにつくかも!」
徳田は邪魔者と言わんばかりに殿井を睨みつけた。その視線をふと感じ、殿井は黙って部屋を出た。
鈴本飛鳥の朝は早い。近所のコンビニで早朝5時から7時まで、平日は毎日バイトをしている。バイトが終われば、バックヤードでパンを瞬時に食べ、そこから30分自転車を漕ぎ続けて学校に行く。本来、ジャージでの登校は禁止されているが、朝早いのをいいことに、飛鳥はジャージで登校していた。
学校に着くとすぐに菜園に向かい、水やりを行う。そののちに生物準備室でジャージから制服に着替え、教室へと向かう。もうこの時点で一仕事終えた気になっている。
梅雨時に入り、朝の水やりに急ぐ必要がなくなったのは楽だったが、雨量の多い日の自転車通学は辛い。雨の日はジャージでの登校が認められてはいたが、実際にする生徒は少ない。しかし名より実をとる性格の飛鳥は、カッパにジャージで変わらず登校していた。
一方、家から徒歩15分の距離に住む殿井は、制服で馬に乗り登校していた。
あの日話しかけてきたのが1組の鈴本飛鳥という生徒であることまではわかったものの、このひと月、放課後に顔を合わせたことはない。
意を決してバイオにその理由を知っているか尋ねたところ、飛鳥は朝早く水やりに来て放課後はすさまじい勢いで帰っていくという話を聞き、少し落胆した。
自分にフラットに接してくれた同年代の人間は初めてだったから、もう少し話をしてみたかった。
しかし1組と5組では、授業も違えば教室の位置も遠い。殿井は昼に利用するカフェテリアでその姿を探してみたが、それらしい人影は見えなかった。
ごくまれに廊下ですれ違うことがあったが、たいてい友人二、三名と一緒に何か笑いながら話をしている。声をかけることは到底できなかった。
たまに一人で歩いているときを見かけた時は、近くに行ってなにか話しかけてみようかとも思ったが、向こうは自分のことなんて覚えていないんじゃないか、突然話しかけられたら迷惑なんじゃないかという逡巡がぐるぐると渦巻き、結局行動にはうつせないままに終わった。
殿井は、学校内で誰かと話すことはほとんどなかった。教師とも必要最低限の会話しかしなかった。そのため、自身が学校の有名人であるという自覚もなかった。
七月に入り、梅雨の合間に朝から晴れる日が増えてきた。
殿井は、できるだけ朝早く学校に行くようにして菜園に向かったが、そこに鈴本飛鳥の姿はなかった。
前日が雨であれば、わざわざ水やりする必要はないことに、飛鳥に会いたい一心の殿井は思い至らなかったのである。
それを繰り返していたある日、通学途中の道からホースで水をまく臙脂のジャージが遠くに見え、殿井の動悸が止まらなくなった。とりあえずアスカをつながないと、と思い、急いで北門に行った。
神経質なアスカはようやく学校に慣れてきたところで、違う場所につなぐのは難しい。しかし殿井が北門から学校内を抜けて西側の菜園スペースに回った時には、飛鳥は既に水やりを終えて校舎へ戻る途中だった。
飛鳥と入れ違いに菜園へやってきた殿井は、初めて馬の不自由さを感じ、次の日から徒歩で学校に来るようになった。
「最近さー、殿が馬で学校来てないらしいよ」
棚田の話に、「へー」と飛鳥は答えた。
棚田たちに「臭え!」などとからかわれながらも、昼休み終わりに馬糞を回収しに行き、ある程度の量を確保したので、馬に興味はなくなっていたのである。
しかし棚田は殿井に興味津々の様子だった。というより、1組の人間がみな殿井への関心を増していた。
五月末に中間考査が終わり、学年の成績上位者20名が掲示されたが、ほとんどが1組の生徒の中、3位に5組が一人だけ入っていたのだ。それが殿井景勝だった。ちなみに2位は春山、9位が飛鳥、15位が棚田だ。
だが飛鳥は、人のことに関心を向けている余裕はなかった。勉強できる時間は、うるさい弟たちが寝静まってからだ。毎日が精一杯のため、寝落ちすることも多い。
しかも最近念願の夏野菜がなりはじめ、その収穫に日々忙しく、終わったテストの成績順などどうでもよかった。
ミニトマトは買うと高いのに、面白いようにとれるなぁなどと、実りの喜びをひとり噛み締めていた。
梅雨明けしたばかりで、朝から蒸し暑い日。
飛鳥が菜園に行くと、支柱を組んだキュウリの緑の葉の隙間から、制服を着た人影が立っているのが見える。
まさか泥棒ではと血相を変え、細い土剥けの道を走っていくと、まさにキュウリの畝の間に立ち、手を伸ばす姿を捉えた。
「おい!」
人影が飛鳥の呼びかけにびくっと体を震わせ、こちらを向いた。
「……あれ?殿井くん?」
飛鳥は拍子抜けした。大富豪などと噂に聞く殿井が、野菜泥棒などするはずがないと思ったのである。
殿井は1ヶ月と17日ぶりに飛鳥と会話ができたことに動揺と嬉しさがこみ上げた。そして飛鳥が自分の顔と名前を覚えていたことに、赤面するほどの恥ずかしさと喜びを感じた。
「あ、あの、今度、いやこの前、あ、五月に、入ったんだ」
しどろもどろになりながら下を向いて、殿井がボソボソとしゃべった。
「何に入ったの?」
飛鳥が間髪入れずに聞き返した。その早い返しに、より一層殿井は言葉が上滑りし、話せなくなった。
「あ、えーと、あの、生物……」
「あ、なんか部員増えたって!」
飛鳥は思わず殿井を指差した。
授業以外、飛鳥は顧問のバイオの話をほとんど聞いていない。しかも殿井が入った直後、バイオがもったいをつけて、クイズ形式で新入部員が誰か当てにこさせた。そんな時間はねぇよと苛立った飛鳥が話を途中で遮り、強制的に会話を終わらせたのだった。
「なんだ殿井くんなんだ、新入部員」
そう言うと飛鳥はスーパーの袋をガサッと広げ、畝の間を歩いてミニトマトの収穫にかかった。
その様子を殿井は呆然と見ていた。自分に、こんなふうに気さくに、いやなんでもないように話してくれる人間は、初めてだった。
「あの……ミニトマトって」
殿井はおずおずと話しかけた。こっちから話しかけられるなんて、と殿井は自分自身にも驚いた。
「これにいれて」
もう一つのスーパーの袋を見せてから、飛鳥はしまったと内心思った。徳田とは収穫物分配の取り決めをしているが、殿井が欲しいといえば、この収穫のいくらかは同じ部員として渡さなくてはいけないのではないか。
これはまずいことになったぞと飛鳥が考えていると、殿井はミニトマトをつまみ食いすることなく、せっせととってくれている。
家は金持ちらしいし、とりあえず自分から欲しいというまでは黙っていようと飛鳥は心に決め、しばらく無言で作業をした。
「……っ!」
ナスをもごうとしていた殿井が手を引っ込めた。その様子に気づいた飛鳥は声をかけた。
「大丈夫?ナスのトゲ結構痛いよ、軍手したほうがいいって」
殿井が右手をじっと見ている。殿井は右利きなんだろうと思い、飛鳥は自分がはめていた右手のゴム引きの軍手を外して渡した。
殿井は自分の親指を見ていたが、飛鳥が近くに来るとバッと顔を上げた。
飛鳥はそこで初めてまじまじと殿井の顔を見た。最初に会話した日は馬糞回収で頭がいっぱいになっていて、殿井自身のことに関心を払う余裕はなかったのである。
変わったやつだなあとはずっと思っていたが、改めて見ればきりっとした印象の整った顔立ちだった。
鼻筋が通り、目はくっきりした二重だが丸すぎず、ちょうどいい感じだ。徒歩で通学し普通にしていれば、女の子にモテるだろう。きっとおしゃれなところで髪切ってるんだろうとうらやましくなった。
しかし今は眉間にシワが寄って、眉が逆ハの字にあがっている。なにか目元が潤んでいるようにも見えたので、そんなにトゲが痛かったかと、飛鳥は横にしゃがみこんで殿井の手を取り確認した。
ここで農作業に対するネガティヴイメージが高まり、早々に辞められては困る。せっかくの人手なのだから、やはり確保しておきたい。しかも、意地汚く野菜が欲しいと言う可能性も少なそうな人材だ。
飛鳥は弟たちにするように怪我の具合を見たつもりだったが、一人っ子の殿井は心臓が止まるほど驚いた。ただでさえ、ずっと話してみたかった人間がそばにいて緊張していたのに、さらに近づいて手をとってきたのだ。殿井は若干パニックになった。
サラサラの髪を至近距離に感じながら、自分の手を見る飛鳥の顔を間近で見つめ、そのまっすぐな睫毛にじっと焦点を合わせていた。
そのとき「大丈夫だよ」と鈴本飛鳥が突然顔をあげて笑った。
気をつけていたのに飛鳥を直視してしまい、殿井は全身が固まった。向こうが怪訝な顔になったので、思わず手を振り払い、顔をそむけた。
飛鳥はその様子に、余計なことをしたかとバツが悪くなり、殿井から離れて収穫作業に戻った。
殿井は飛鳥が貸してくれた軍手を右手にはめ、自己嫌悪に苛まれながら作業に戻った。
二人での作業は早く、ナス、キュウリ、ミニトマトなど夏野菜の代表ともいえる野菜を収穫した。さらにフェンス沿いに勝手に絡ませていたハヤトウリを手早くもぎ取り、飛鳥は殿井に声をかけた。
これらは生物準備室にある小さい冷蔵庫で保管し、夕方持って帰るのである。殿井にそれを説明しながら一緒に校舎に行った。
農作業の時はジャージがいいよと言う飛鳥の顔を、殿井はやはり見られず、しかし横に並んで歩けば顔を見なくてもすむことに気づいた。そうすれば挙動不審に陥ることもなく、殿井は少しほっとした。
飛鳥は朝早く来ているバイオに声をかけながら準備室に入り、冷蔵庫を開けて野菜類を入れ終わると、その場で制服にさっさと着替え始めた。雨の日以外、朝は基本的に制服でいなければいけない。
その様子に再び殿井は動揺を隠しきれず、「先に戻る」と捨て台詞のように早口で一方的に告げ、生物準備室を走って出ていった。
走りながら殿井は、鈴本飛鳥が自分にとって憧れの存在であり、その憧れの人からあれこれ話しかけてもらえたことに対する喜びが、今、無駄に走るという行為の動力源であることを冷静に分析した。
そして、飛鳥が軍手を貸してくれたことに礼も言わなかったことに気がつき、ひとり反省した。
