セカイ ノ ケッカン

 翌日。いつも通りに振る舞いながら家を出て、いつも通りのはずの通学路を歩いて学校に向かっている。薄い曇り空は今日の予定を示唆しているようにも思う。明るいか、暗いのか。晴れるのか……雨なのか。

 いつもより心臓が早く強い気がするのは気のせいではない。足取りは……軽い。速足だから心臓も比例しているだけではない。自覚している。楽しみなんだ。行きたいところに行けるのが。

 静かな玄関口で、靴箱にローファーを入れそこなう。手が震えていたせいだ。ゆっくり、確実に入れる。扉も静かに閉めて、段差ではしっかりと足を持ち上げる。変な歩き方になりながら職員室へ向かう。


「失礼します」
「おはよう水樹。そろそろ来ると思ったよ。ほれ、鍵」
「ありがとうございます。あの、先生」
「ん?」
「今日は外で作業しようと思って。鍵はどうしたらいいですか?」
「あー返却してくれ。貴重品だからな」
「……わかりました。失礼します」


 固い体でお辞儀して、職員室を出た。美術室までの階段を上ったら息が上がった。美術室の鍵を開ければ、いつも通りのアルがいつも通りにそこにいる。


「おはようございます」
「おはよ」


 扉を開けた瞬間に風が通り抜けた。いつも通りじゃないことに、美術室の窓が開いていた。そこはアルの真横で、風を受けた彼女の髪が横へ流れる。


「……っ」


 息を飲んだ。だからこそ口には出なかった。


 ―― やっぱり、綺麗だな。


 お世辞にもいい天気ではない。
 けど、くすんだ色だからこそ、彼女の人工的で非現実的な澄んだ色が際立っている。


 ―― 残したい。留めたい。何度でも見たい。眺めていたい。


「マスター」
「っ、はい」
「大丈夫ですか?」
「だい、じょうぶ。ちょっとぼーっとしただけ」


 頭も心も、視界もアルに占領されていた。
 火照った全身を誤魔化すように、俺は持ってきた荷物を漁る。


「これに着替えてくれる?」


 引っ張り出したのは、俺の私物のジャージ。
 アルはメイド服。学外でのLAH(ラー)はまだ少なく物珍しい。いかに人間に寄せて作られたとはいえ、ムラのない黄緑色の髪やメイド服では注目を浴びてしまう。人目を避けたほうがスムーズに事が進む。昨日の今日で素朴で一般的な服を準備するには俺の服を使うしかなかった。

 俺が美術室で学校のジャージに着替えて、アルは備品室で着替える。「終わりました」と声が聞こえ、自分の服に身を包んだ彼女が待ち構えていた。
 身長170と少し程度の俺より10cmは低いから、やはりというかぶかぶかだ。丁寧にファスナーを一番上まで上げているのは優等生っぽく規律を守る雰囲気がある。


「耳を巻き込みながら髪を一つにまとめて、帽子かぶれる?」


 言われればその通りにしてくれる。綺麗なロングの黄緑色の髪はポニーテールになった。色程度なら「まあそういう人もいるよね」程度に思ってくれるだろうことを期待する。キャップを被って顔や瞳を隠してもらい、できることはこれぐらいだろうか。
 マスクまでしてしまうと不審者っぽさがあるので却下。


「よし。準備は万端」


 微かに指先を震えさせながら、ようやく出発の準備が整った。荷物は軽量。身分証を含む財布とスマホ。山荷葉の群生地を考えて虫除けスプレーも。

 ……胸に手を当てなくてもわかる。ドキドキしている。本当に行ってしまっていいのだろうか。いや、いいかダメかでいったらダメなんだろうが、俺はきっと、どうしても行きたいんだ。行きたいから、道を照らしてくれたアルと準備している。巻き込んでしまって申し訳ない。でも一人で行くのは……怖いから。何かあった時、アルがいてくれれば、何とかなるんじゃないかと思ってしまったから。


「ルートを確認しよう」
「はい。山荷葉は真駒内(まこまない)駅か旭川駅、千歳駅に出る必要があります。どの駅に出てもバスに乗ることになり、一番近いのは真駒内駅からになります。目的地は盤渓山(ばんけいざん)となります」
「山か……」
「ハイキングコースがあるため、山登りに不慣れな方でも比較的安心かと思われます。その道沿いで探すことになります」


 脳裏に映る、素性の知らない人の姿。白い背景の中で、綺麗であり、逞しくもあり、清々しく猛々しいと感じたあの人。状況は違うにしろ、あの人が歩んだ道程と近いものに挑戦できる。ドキドキとワクワク。血が沸騰しそうなほどに高揚する。喉が渇いた。飲み物を買っていこう。


「真駒内に行こう」
「承知しました」


 荷物のわりに大きいカバンを肩にかけ、美術室を出て、鍵をかける。アルと二人、コソコソと廊下を進む。職員室で何食わぬ顔で鍵を返却し、下駄箱でスニーカーを履いた。まだ授業中である学校は比較的静かで、後ろめたさが少しばかりこみ上げる。

 後ろを振り向こうとすると、真横にいたアルと目が合った。すぐに反らしてしまったけど、お互いに何を言うでもなく、ただただ焦りそうになる足を進めることに注力した。


   ・♢・


 北海道、とある駅。5月の昼間の駅はそうそう人はおらず、どことなく安心感が漂う。

 アルの黒いキャップにジャージという、ここ数日間見ていた姿とは真逆の服装で、時々見失いそうになってしまう。変装としては正解だろう。

 電車の切符を二枚買う。電子での支払いでないのはいつぶりだろうか。一枚をアルに渡して、構内へ入る。電車が来るまでは時間があったので、電子マネーで飲み物を買った。


「アルは飲む?」


 聞けば静かに首を振った。だよね、という言葉は飲み込んで、冷えた水を体の中に流し込む。
 動き出してしまえば次第と心音は落ち着いてきた。身体の火照りも幾分和らいで、頭に登った血は少しずつ筋肉や臓器に振り分けられている。
 構内のベンチは俺とアルだけ。ぽつりぽつりといる電車待ちの人たちは、みんな俺たちに目をくれることはない。構えすぎたかもしれないと思うほどだ。

 ふとアルを見ると、意外にも辺りをきょろきょろと見まわしていた。


「どうしたの?」
「学校から見る景色との違いが新鮮です」


 ロボットでも「新鮮」という言葉が出るのだと驚いた。そう言えば、アルはいつも窓際にいる。成り行きではなく、もしかしたら好き好んでその場にいたのだろうか。


「いつも窓際にいるのは、景色を見ていたの?」
「はい。空の移り変わりが素敵で魅入ってしまいます」
「そっか。あんまり気にしてなかったなぁ」


 あの席を選んだのは、俺の方こそ成り行きだった。
 明るすぎず、暗すぎず。扉から遠いほうが急な来客に驚かない。端っこだと広すぎて落ち着かない。外の景色を見ると出かけたくなってしまう。興味を押し殺すのは、もうしたくない。


「マスターが学校に来る様子も見えます」
「え、見えるの?」
「はい。ギリギリですが」
「そうなんだ。知らなかった」
「正門から出たと思いきや、入ってきていましたね」


 どきり、とした。
 別に悪いことをしたわけじゃない。あの日のことを見られていたというより、あの日のこと(・・・・・・)を思い出して、少し辛くなる。


「親が迎えに来たんだよ」
「お優しいですね」
「……うん。優しい。優しすぎて苦しいよ」
「苦しい?」
「っ、あ、電車来たよ」


 ポロリと出てしまった何か。隠すようにして立ち上がって、汽笛を鳴らす電車に乗り込んだ。

 何も言わずについてきてくれるアルと二人掛けの席に並んで座る。真駒内駅まで一本。


「学校以外で電車に乗るの……いつぶりだろう」


 箱入り息子のような発言。本当に数年ぶり。学校に行くのも数駅。長距離移動は車だし。さっきのアルのことは棚に上げ、自分も電車内や外を忙しなく眺めていた。

 田舎の景色がゆっくり移り変わっていく。平たい屋根の家がどんどん増えてきて、たまに高い建物があって。次第に栄えていく町並みを見て行けば、再び気持ちが高揚してきた。
 電車の中の賑わいはほどほどに、目的地までのトラブルはなかった。呆気ないと思ってしまう。地元よりも栄えた真駒内駅に降り立つと、改札の多さやターミナルの広さに呆気にとられた。


「ひろ……」


 同じ北海道でもやはり雰囲気は大きく違う。きっとなにも特別なことはない。けれどやっぱり、実際の目で見て、空気の違いを感じるのは刺激的だ。


「マスター」


 静かな声だが、肩が震える。それだけ心が離れかけていた。アルはいつもの如く冷静な顔で、こちらですと道案内をしてくれる。こっそり飛び跳ねていた心臓を押さえながら、ぴょこぴょこと跳ねる髪を追う。

 次に乗るのはバス。電車よりも本数がないが、幸いあと10分程度で発車するものがあった。一つだけ開いていた二人席に座る。


「バスの匂い苦手……」
「休まれますか?」
「うん」
「到着したらお声掛けします」


 せっかく窓際に座ったが、バスの景色は楽しめそうにない。残っていた水を飲んで、眼を閉じた。まだ発進する時間ではないものの、対策は早くても良いだろう。

 目を閉じた。暗い世界で浮かぶのは、これから見に行く山荷葉ではなく、腕を上げている女性の姿。寝る寸前まで俺は誰かのことを考えている。自分のこと、親のこと、絵のことは全くと言っていいほど浮かばなかった。

 彼女は今、どうしているだろうか。治療に専念して頑張っているのだろうか。彼女が出来なくなった裏で、俺は一世一代と言っていいほどのチャレンジをしている。緊張と鼓動がずっと体を支配している。

 ……意外と心地良いものですね。


  ・♢・


「マスター」
「んんっ!?」


 肩が揺れて、鼓膜が震える。至近距離にあったアルの顔で一瞬にして目を覚ました。


「次で降ります」
「あ、ああ、うん、わかった」


 ドキドキした……。

 バス内の空気で深呼吸しながら、減速していくのを感じとる。アナウンスされてアルが立ち上がり、続いて俺も椅子を立つ。俺たち以外にも降りる人たちが先導してお金を払っていき、最後に俺が降りた。

 ああ、ここが……ここも、北海道内の景色なのか。


「全然違うや」


 すごいな。
 初めて、見たことのない景色の中にいる。

 目の前に広がる山。遠めに見ることはあるが、目と鼻の先に見るのは初めてだ。
 ああ、こんなに大きいのかと。小学生の様にはしゃぐことはできないけれど、心は小学生にも負けないぐらい、踊りだしそうなほどに舞い上がっている。

 ぽつぽつと白い雲がある、おおよそ青い空。ネットや写真では何度も見たはずの景色だけど、今初めて見たかのような感動だ。


「本当に、違うんだ」


『機械にも人の手でも再現できないそれが、そこにある』
『私が自ら行かなければいけない』
『踏みしめてきた苦労の果てにしか得られないものが、この世には存在する』
『努力に資格は必要ない』


 そんな言葉たちとともに飾られた写真。本当に、本当にその通りだ。写真だとしても、実際に見るのとでは大きく違う。感じ取れる情報量が段違いだ。その時その時で雰囲気も空気も変わる。同じものはない。


「自分で行かなきゃ、ダメなんだ」


 バスを降りて、そのまま立ち尽くす。垂らされた手は拳を握り、汗を握っている。上を向いた顎は空気を容易に肺まで通す。澄んだ空気は体を冷やす。耳に届く葉っぱの重なり、鳥の声、人の会話。すべて自然に発生している。これも、同じタイミングでは二度と聞けないものだ。


「マスター」
「ん?」
「こちらを」


 アルが背後から寄ってきて、何かを差し出してくる。受け取った掌からは綺麗な音が聞こえる。


「鈴……あ、熊避け」
「はい」
「もう暖かいもんね」
「わたくしから動物にしかわからない電磁波を放出しているので安全かと思いますが、念の為にお持ちください」
「わかった。ありがとう」


 登山の格好をしていない俺たちだが、目的地は初心者にも優しいようで、動きやすい軽装の人もちらほら見える。カメラをかけている人もいる。山の中を通るので野生の動物もおり、それこそ数少ない写真家たちは集まってくる。

 動物もそうだが、植物も豊富だ。そもそも標高が高くひんやりと澄んだ空気をしており、街中では見られない植物も多い。

 俺たち以外の来訪者たちも、きっと動植物が目当ての人たちだろう。申し訳ないが、動物たちは見られないかもしれない。


「行こう」


 スニーカーが土を踏む感覚。学校のコンクリートでも、砂利でもない。自然の、湿った土。庭とも違う、言いようのない差異。語彙力が足りないのがもどかしく、同時に「来てよかった」と思う。来ないとわからない感動があったんだから。


「なんか、可笑しくなる」
「どうしたのですか?」
「いや、そういえば、同級生たちは沖縄に行ってるのに、俺は北海道を満喫してて、なんだかなぁって」
「……そうですか」


 語彙力が足りないことで、アルには理解しがたかっただろう。

 みんなは北海道を出ることで楽しんでいる。できることなら俺も行きたかった。もちろん本音だ。強がってお土産を沢山買ってきて貰おうとしたが、それはそれで悲しくなったと思う。

 だけど、修学旅行に行けなかったからこそ、今はこうして、アルとちょっとした冒険を楽しんでいる。いや、全く『ちょっと』してない。大冒険だ。みんなはすでに経験しているかもしれないけれど、俺もみんなと同じように、知らない場所に出かけている。(小)旅行だ。
 スマホが気になったけど、意図的に見なかった。


 ―― 大丈夫、大丈夫。


 言い聞かせながら、目的地・磐溪市民の森の入口を前にした。マップがあり道、案内板、紅葉や見晴らしのいい場所、トイレなどわかりやすく書かれている。その中で、花の群生地は入り口から一番奥。一周するルートで折り返し地点だそうだ。


「ぐるっと回っていく感じなんだね」
「起伏が少なく歩きやすいとなっていますが、ご注意ください。お疲れになりましたらわたくしが」
「……何してくれる気?」
「抱き抱えます」
「結構です!」


 AIらしくない冗談はAI学習のおかげなのか。顔に集まった熱を覚ますように空気を切り、案内板を過ぎて散策路に入る。平日の昼間。人は少ないし、いてものんびりとした雰囲気で立ち止まって景色を見ている人もちらほらいる。途中でカメラやスマホを構えたり、双眼鏡でどこか遠くを見て指差していたり、今ではもうレトロな行動を物珍しく見る。

 メガネのレンズ横を回しているから、あれは双眼鏡を兼ね備えた奴だ。鳥に擬態したレンタルの小型ドローンで奥地を観察している人もいる。

 数少ない自然の楽しみ方は豊富で、内心、俺もやりたいと思った。


 ―― 次に来ることがあれば……。


 それは、ありえることを願った未来。けれど、明るく期待に満ち溢れたとは言い難い。期待などできない。今日が終われば、俺はそれこそ最期の希望として叶えられるかどうかだ。

 だからこそ、今を、今の情景をしっかりと目に焼き付けなければ。
 作られた山の中の道の端に寄って、立ち止まる。

 街中では見られない、視界を埋め尽くす緑。背が高く、差し込む光が遠い。チカチカと光は風と共に揺れて、プラネタリウムにいるみたいに思った。5月で日の光は暖かく高く感じていたのに、マイナスイオンのおかげなのか屋外の風はひんやりと冷たい。交通量の影響も少なくて済んだ空気が肺を満たす。人の話し声よりも多い、草の音色と鳥の声。鳥を探すのは一苦労だ。双眼鏡の必要性を身をもって感じている。


 ―― ああ、悔しいな。


 目いっぱい空気を吸った。これは俺の体の一部になって廻る。自分へのお土産……というのは少し気持ち悪いけれど、今この時にしか手に入らない貴重なものを、なんとか持ち帰りたいと思った。


「マスター」


 いつものごとく、後ろ(というかほぼ真横)で黙って待ってくれていたアルが、歩き出そうとした俺を呼び止めた。


「お写真、撮りましょうか?」
「写真……」


 スマホを見るのには抵抗があった。
 学校にバレているんじゃないか。親に連絡が行っているんじゃないか。時間が想像よりも進んでいるんじゃないか。そんな不安が頭をよぎって、見ないようにしていた。
 確かに写真に残せばこの時にしか手に入らないものを手に入れられる。


「……お願いできる?」
「はい」
「正面は恥ずかしいから、後姿を撮って」
「承知しました」


 聴覚で、数歩下がったのを確認する。
 視覚は緑の茂った空を映す。
 嗅覚は草の露と花の香り。
 触覚は風の走りを。
 味覚に触れるものはないけれど、微かに違う空気がある。

 全身で満喫して、肩を叩かれる。アルがスマホを差し出してきたが、その画面は暗かった。


「ありがとう」


 アルはぺこり、と軽く頭を下げた。俺も、アルも、写真の出来を確認せず、足を進めた。決して早歩きなどせず、通学路よりも重い足取りで。けれど足自体は軽く、駆けだしたくなる。視線が移ろう。頬に当たる日が眩しい。

 ……本来の目的であるそれは、見当たらない。


「そろそろ目的地だけど……」


 透明になる山荷葉。小さく、1週間しか咲かない、限られた花。
 アルと手分けして道中を探し、それに似た葉っぱを見つけた。しゃがんで、手を伸ばして葉を引き寄せる。傷つけないように、引きちぎらないように、伸びきってしまわないように。


「アル、これどう?」
「……確認しました。山荷葉です」
「これが……」


 足元に生えたそれは、緑一色だった。まだ花の蕾すらも付いておらず、花しか知らなければ見つけることはできなかっただろう。


「まだだったね」
「そうですね。ですが、確かにここにはありました」
「うん。ここに来れば、いつかは咲いているところが見られるね」


 口から滑ってしまった言葉が、胸の奥に落石を落とした。
 一世一代の勝負とも言えた、俺の現状。果たして次はあるのか。社会人になればあるいは、自由を得られるだろうか。それまでの数年、俺は無事でいられるだろうか。


「帰ろう」


 スマホのポケットは静かなままだった。半周ですれ違う人たちは、楽しそうに、けれど静かに話し、発見を教え合っている。対して俺たちはただただ歩いていた。目的は達成したはずなのに、どうしても、俺たちの上だけは曇天だった。

 バスに揺られ、電車が去った。
 見慣れた鉄筋、跳ね返してくるコンクリート、周囲に気を遣わない騒音。今までの環境との違いに酔って気持ちが悪い。
 だが、学校に帰らなければ。身支度もしなければ。先生にも会って、学校にいたという形を作らなければ。

 学校までの坂がいつもよりも高く見える。足が本当に重い。上がらなくて、何度か躓いた。転びそうになって、アルに支えられた。支えようとしてくれたが、耐えてきた。


「マスター」


 アルが呼んだ。わかっていたが、首すらも動かす余裕はなかった。学校の玄関に入って、ああ、着いた、と安心した。その瞬間に目の前が暗くなって、地震でも起きたように体は崩れ落ちた。

 耳に届いたのは、アルのいつも通りの声色に重なるサイレンだった。





  ・♢・





「転校させます!」


 鼓膜の衝撃は意識を引きずり戻した。
 重だるい意識と体。視界に映る白い壁とクリーム色の布。しばらく見つめ、天井とカーテンだと理解した。

 真横から飛び出てきた顔も、驚くこともできない程度に理解が遅れている。それが先生だとわかるまでも時間がかかった。


「水樹、目が覚めたか?」
「先生……病院?」
「ああ、そうだ。貧血と過労だそうだ」


 いつもより霞む視界の中、先生の表情は弱っているように見えた。
「ちょっと待ってろ」と言って、カーテンの裏へ回る。駆けて来る足音がすぐにカーテンを乱暴に開けた。


「バカ!!」


 母はそう言って俺を抱きしめる。覆い被さるから重く、息苦しい。抵抗できる力もなければ、ここまでさせた理由はわかっていて、申し訳なさから甘んじて受け入れるしかない。
 蛇のように締め付け、同時に猿のように髪を撫でる。耳元では鼻を啜る音がして、かかる体重が不規則に揺らぐ。


「ごめん、母さん」


 そう言うしかなかった。
 これを恐れていた。けれど、それを選んだのは自分だ。別を選んで、引き返したり、少しでも不安を減らすことはできた。しなかったのも自分だ。欲張ってしまったんだ。
 せっかく踏み出した足を。一人では動かせなかった、自分の世界。アルと二人でならと思ってしまった。自分の欲求を抑えられなかった。


「気分はどうかな」


 もう一人の、いや、もう一種類の先生だ。俺が運び込まれたのはかかりつけの病院だろう。ということは、この人は主治医である湯田先生。


「貧血だったから輸血したんですよ。今日は様子を見るために入院しましょう」
「そんな、大袈裟――」
「念のためです」


 被せるようにして有無を言わせない語気。湯田先生の見つめる先には、今でも俺を抱きしめている母がいる。そう言われてしまえば、そうするしかない。
 力の入らない体は後押しをしているようで、諦めもついた。
 重しとなっていた母も体を持ち上げ、俺を赤い目で見降ろす。人目も憚らずに泣いたせいだが、そうしたのは俺だ。今も昔も、俺は母さんの赤い目をよく見る。その目は苦手なんだ。


「明日また来るからね」


 楔にも思わせる言葉とともに、母は湯田先生に誘われるがまま病室を出て行った。
 残された学校側の先生、高橋先生はカーテンの陰で息を吐いた。普段見せる優し気な表情が覗いてきて、扉の方を指差す。


「先生たちは別室で少し話してくる。また明日来ることになるだろうが」
「あの」
「ん?」
「アルは?」


 高橋先生の顔が強張るのがわかった。素直な先生だから、困っている様子も隠せていない。顔は俺から背けられた。俺から見て奥の方にある手で頭を掻いて、力なく唸る。首をガックシと落として息を吐き切ってから、気まずそうな表情で口を開いた。


「警察だ」
「なん……え、なんで?」
「今回の件は、大事にはならなかったものの通報段階まではいってる。『誘拐事件』として立件されるところだったんだ」
「ゆうかい……」


 頭でわかっていても心が追い付いていかない。
 なんでそうなったんだ。
 だって。俺が。行きたくて。
 アルはついてきてくれただけで。
 相談しなかったのも。
 連絡しなかったのも俺で。
 アルは。
 アルは。
 ただ、ついてきてくれただけで。
 隣にいてくれただけで。
 ただ。
 ただ。
 アルだけが。
「行こう」って言ってくれた――


「水樹」
「っ」


 壊れた汽車のように止まらなくなった思考に、隕石が落ちてきたかのような衝撃を受けた。
 いつの間にか高橋先生が肩を掴んでいて揺すっていたようだ。背中と額が嫌に涼しいのは、噴き出てきた汗のせいだ。


「大丈夫だ。アルの電源は切られているが、明日には戻ってくる。壊されないよ。無事だ」
「無事……?」
「ああ、大丈夫だ。明日その姿を確認してくれ」
「……はい」
「よし。じゃあ先生は行くな。ゆっくり休めよ」


 ゆっくりとした足音の先で、静かに扉が閉められた。

 俺しかいないようなこの部屋では何も音がしない。暇潰しも気晴らしも、寝返りを打つしかない。目の前のことから逃げるように横を向いた。何も置かれていないテーブル。後ろからは、耳をすませば遠くから人の声がする。美術室のようだと少しだけ思った。


「……気持ち悪い……」