次の日は雨だった。やや寒く感じる程度の思い切りのない雨の中、ローファーは水気を弾いて艶やかに進む。
もう授業中だろうか、学校には賑やかさはなく、けれど部屋ごとに光は灯っている。うちの学校は校庭に防雨効果のある送風装置があるのだが、今は使われていないようだ。
玄関で靴と靴下を脱ぎ、下駄箱の中に放り込み、備え付けの乾燥機能にスイッチを入れた。新しい靴下と上靴を履いてまずは食堂へ。自販機に自分の生徒手帳をかざして温かい飲み物を手に入れる。
両手を温めながら職員室で鍵をもらう。階段を静かに登って、ガチャンと開錠。
「おはようございます」
「おは、よう」
いるのはわかっていた。少し言葉に詰まったのは、アルが昨日と同じ場所にいたから。寸分違わず、と言えるほど見ていたわけではないが、扉を開けた瞬間に既視感があった。
「遅刻では」
「授業じゃないし、部活動は俺しか参加してないし、別にいいんだよ」
「そうでしたか」
現在時刻は9時25分。9時からの一限中に到着したかった俺としては理想的な時間だ。
荷物を定位置に置いて、キャンバスと鉛筆を用意する。絵を描く時の定位置、つまりは窓際であり、アルの正面に構える。さも当然とでも言うように微動だにしないアルを背中に、飲み物を脇に置いて鉛筆を持つ。
ただただ鉛筆の音が走る。初めは警戒していた声かけは拍子抜けするほどなく、いつしか集中して描き込んでいた。女性の輪郭、花の配置、表情などの雰囲気作成はおおよそ完成。
けれど、ここからが問題だ。詰まり気味だった息を吐いた。ここぞとばかりに、後ろで気配が動く。
「背景は描かないのですか?」
直面している問題を的確に指摘してくる。キャンバスの大枠が真っ白ならば当然気になる点なのかもしれない。
握りしめていた鉛筆を置いて、飲み物を開ける。すっかり冷えてしまっていて、せっかくの温もりが無駄になってしまったことを多少悲しむ。
「描けないんだよね」
一言そう言うも、アルからの返答はない。歯切れが悪く感じているのは俺だけか。
「苦手意識、っていうのでいいのかな。描いても納得いかない。落ち着かない」
「今まではどのように描いていたんですか?」
「あえて白紙、ってことにしたり。練習って意味では……この人の写真集をみて模写してたり」
カバンの中から取り出した、一冊の写真集。この時代ではなかなかない、実際に撮影された写真。
適当に開いて見せれば、アルは食い入るように見つめる。
「『マミ』さんっていう、世界で数人しかいない写真登山家なんだ」
昨今はAIだけでなく機械技術が目覚ましい進歩を遂げている。そのおかげで生活にゆとりができ、教育や医療など各分野も引っ張られるように進化し続けているのは、学生の身でありながら実感している。
けれど、廃れている分野があった。それが『芸術』だ。
AIによって絵画や小説、陶芸や園芸、写真や音楽などは直接の人の手を離れていってしまった。それは2000年代頃から問題視されていたものの、現在においては懸念されていたようになってしまったと社会科の授業で習った。
もちろん反発はあった。けれど、便利だったり、安全だったり、失敗がなかったり、見分けがつかなかったりすれば、反発は勢いを無くし、ほとんど消沈してしまったらしい。
そんな中でも活動している数少ない人が『マミ』だ。
「自ら山に登って、その景色を写真に収めてるんだ。今や家から一歩も出ずに地図アプリやドローンで撮れるものだけど、その行動力がすごいなって思う」
「わたくしもそうですが、今や生活には機械技術があってこそになっています。機械に頼ればいいものを、ご自分の、生身の手足でというのは、それだけの理由があるのでしょうか」
「そこまではわからないけれど、やり続けているには何かあるんだろうね」
『マミ』さんはまだ若い女性。活動を始めたのもこの数年らしい。
手持ち無沙汰に本屋を見ていた時に、たまたまこの写真集が目に入った。文字だらけの表紙の本の中、一つだけ、文字が一切なかった。その時の俺には写真かAIかなんて見分けがつかなかったけれど、その表紙には一際目が惹かれたんだ。
ただ山の山頂が連なって、雲を突き破った先で陽の光が差し込んでいる表紙。こんなにも壮大な景色を見下げるなんて、撮影者はどれだけ高いところまで登ったんだろうかと惹かれた。そして、世界にはこんなにも、言葉に表せないほどの場所があるのかと、閉じこもりがちな俺は衝撃を受けた。ドローンでもアプリでも見たことはあったのに、空気感というのか、言ってしまえば印刷技術なのかもしれない。微かな可能性で、それが現物の魔力だったとしたら、見事に魅入られてしまった。いつの間にか購入して、肌身離さず持ち歩いている。
「この人が見てきた景色を見て、描いてる。もちろん『これじゃない』感しかしなくて、よくないってわかってても中途半端に終わっちゃうんだけど。好きなものを描くのは好き。けど、思い通りにならなくて、嫌いになりそうで、少し怖い」
だからいつまでも背景が描けない。自然のものは描けても、やっぱり『どこか違う』とは感じている。けど、これでいいんだ。どうせ、これ以上先なんてないのだし。
アルは写真集を見続ける。俺への質問なんてなかったかのように。
そして同時に、俺の描いている絵にも関心が薄れたのか、俺が描き始めても写真集を捲る音がしていた。
雨の音と時計の音、鉛筆を擦る音と、時々捲る音。混ざって、混ざって、音楽になって。割り込んできた腹の虫の音で、俺は飲み物を買いに行く決断をした。朝に買った飲み物は冷えてしまったから。
「あー……被った……」
ちょうど昼休みに入ってしまったようで、中高あわせた他学年の生徒が購買部付近に溢れかえっている。といっても、俺の学年である中学二年生たちはいないので少ない方だ。
大人しく自販機の列の四番目に並ぶ。
「ねぇ見てー。今日寒いから爪だけでも温かくしようと思ってオレンジベースネイルにしたのー」
「え、待ってめっちゃかわいいじゃん。でも朝は水色フレンチじゃなかった?」
「ふっふっふ、よくぞ聞いてくました」
「?」
「私ついに先週末! 指先のサイボーグ化デビューしました!」
「え、まじで!? ついにやったの!?」
「やったよー! バイトと両親の説得頑張ったー! めっちゃいいよこれ。指先の冷えとはおさらばだし、荒れにくいし、体育とか気にしないでいいし、なにより秒でネイルのデザイン変えられるし!」
「全然気付かなかった。コスパ良ーーー」
「まじおすすめ」
「私はまだいいかなー。勇気出ないし」
「それはそう」
前の女子生徒の指先を覗き見ると、確かに本物と区別がつかない。
最近流行りのサイボーグ化。機械技術の進歩によってロボットが増えてきたと同時に、医療技術も伸びている。それは人工臓器や義肢装具といったものが特に顕著で、安価で安全に生身の人間へ導入されている。
目の前の女生徒のように、若い人でも頑張れば手が届く。社会人はもっと近く、透析患者も減ったという。白内障や緑内障で悩む人も減って、義肢の機能次第では車の運転事故も減って、Quality of lifeの向上につながっているという研究結果があるとニュースで見た。
技術の進歩はすごいものだ、と他人事、賞賛。
順番になったので、温かいお茶を購入。両手を温めながら、生徒とすれ違っても目を合わせないように美術室へこっそり帰宅。
「おかえりなさい」
無機質な声と瞳に迎え入れられる。俺の不在中に写真集は見終えたようで、アルの膝の上、かつ両手の下に鎮座している。
「よかったでしょ」
「はい。とても」
本当にそう思っているのか、いないのか。AIの学習機能に半信半疑になるが、好きなものを認めてもらえて嬉しくて、顔に出さないように気をつけながら上機嫌になった。
お弁当を黙々と食べて、お茶を飲んで昼寝して、満足したら再び描く。背景のことに触れたから少し頑張ろうかとあたりをつけてみた。けど、やっぱりしっくりこなくて、そんなものを残しておくのが気が引けて、結局のところは消してしまった。
「苦手なことは変わりないしね」
呟いた言葉は、誰にも拾われずに雨音に掻き消えた。
不完全燃焼だが、このままいてもきっと何も成さないだろう。そう直感し、俺は片付けを始めた。
「終わるのですか?」
真後ろに座っていたあるが、やはり感情にこもっていない声で尋ねてくる。
「うん。今日はもう、やめとこうかなって」
「どのような理由で?」
「……これと言ってはないかな。気分。あ、今日は行きたいところがあるんだ」
「行きたいところ」
うん、と返しながら、キャンバスなり椅子なり消しカスなりをあるべきところへ放り込む。窓の外を見れば、まだ雨が降っているようだが傘はいらなそうだ。傘という荷物ができてしまったことは面倒だが、歩くことを考えたら幾分マシだろう。
荷物を肩にかけ、扉に向かう。なんの気無しに振り向くと、真後ろにいた。アルが。
絵を描いている時よりも近いのは、二人とも立っているからだろう。
「え、な、なに?」
「行かれるのですよね?」
「え?」
「……山荷葉では、ないのですか?」
首を傾げながら、おおよそ160cmほどの身長の耳長族が見つめてくる。長い髪がさらりと流れ、色素の薄い瞳に俺のシルエットが写っている。まるでカメラのレンズのような奥行きのある瞳に囚われそうになる。
「ち、ちがう」
「では、どちらに?」
「『マミ』さんの個展だよ。近くでやってるんだ」
「そうでしたか」
「てか、アルは学校を出ちゃダメでしょ。備品なんだから」
酷な言い様かもしれないが、事実だ。アルはどうしてこんなにも、どこかへ行きたがるのか。俺に山荷葉を見せたがるのか。AIの学習機能はよくわからない。
気にかけたものの、アルの表情は変わらなかった。残念そうでも、怒ってそうでもない。ただ、何も言わずに立ち竦んでいた。
「……じゃあね。また明日」
返事はなかった。昨日のように目線を切って、扉を開けて、閉めた。
職員室で先生に報告して、すっかり乾いたローファーを履いて足早に学校の敷地外へ。
傘を忘れたことに気づいたのは、個展会場を目の前にしてからだ。
雨はほぼ小ぶりだし、帰りも大丈夫かな。
気を取り直して少しの雨を払い、建物の入り口で風を受けて水気を飛ばす。受付で学生代金を支払うと、巻物状のパンフレットと片耳のイヤホンを渡された。パンフレットを引き延ばすと、暗い画面に浮き上がってくる室内案内。イヤホンをして、ゆったりとした異国の音楽が流れる、少し暗い室内へ入った。
実際の光景を収めた写真がライトアップされ、数えられる程しかいない来場者のシルエットは存在感を殺されている。
足音が鳴らないように配慮されたカーペットの上を、わかっていながらもそれなりに注意しながら進む。
まず初めに、この個展の表紙になった小川の写真。タイトルは『世界の狭間』。地上から空へ向かって奥行きを見せる構図で撮影され、爽やかな空と透き通った川の青が境目を不明瞭にし、繋がっているように見せている。
隣の写真は逆の構図だった。山頂から地上を撮影したようだ。細い川が地上を這って方々へ伸びている。時間帯は明け方のようだ。朝日が川を照らしてまるで金色に輝かせる。タイトルは『世界の血液』。
イヤホンから、この写真は『マミ』さんがどこで、どんな道程を経て、どんなことを考えながら撮ったのかという解説が流れてくる。
この光景を見るまでの苦労の道を想像しながら、自分が歩いていたらと想像する。諦めそうになることもあるだろう。歩きやすい道ばかりじゃない。そんなものはそもそもないかもしれない。ではなぜそこまでして頑張るのか。
『機械にも人の手でも再現できないそれが、そこにある』
『私が自ら行かなければいけない』
『踏みしめてきた苦労の果てにしか得られないものが、この世には存在する』
『努力に資格は必要ない』
絵を見るたびに締め付けられる感動と、流れる言葉に感銘を。生まれ住んでいる北海道という広大な環境ですら満足に知りえない俺は、どれほどちっぽけで世間知らずなのだろうか。
目頭が少しばかり熱くなって、瞬きを繰り返しながら最後の絵の前に辿り着く。
それは今まで見ていた風景写真とは違った。
白い太陽と白光した空。その手前の山頂で座り、太陽に向かってコップを掲げている人。おそらくはこれは『マミ』さん。解説にはないものの、そう直感する。
タイトルは『Hello,world again』。
太陽、世界と乾杯するなんて、本当に贅沢だなと思う。熱くなった目頭はどこへやら、知らぬ間に口角が上がっていた。
目に焼き付けて、出口に向かう。スタンドに立てかけられたパネルがあった。写真や絵ではなく、ただ文字がつづられている。人の字だ。手書きだ。
「『マミ』さん」
思わず声が出て、口を押える。周囲に人はおらず、安心して手を下ろした。目で文字を追うと、それは『マミ』さんからの直筆メッセージ。
『ご来場いただき、また、最後までご覧いただき、誠にありがとうございます。直接お礼を伝えられないのが残念でなりません。
写真たちはいかがでしたでしょうか。
世界にある光景は、ネット社会では当たり前のように見れてしまいます。わざわざ危険を冒す必要なんてないほどに、リアルで、鮮明に表現してくれています。
けれど、それは『本物』ではないんです。『創造物』です。それが悪いと言っているのではありません。ただ、知ってほしいんです。世界はこんなにも素晴らしい。一歩足を踏み出せば、同じ場所でも毎日違っているんです。
目を向けてください。貴方の目に映るのは、昨日までの景色ではありません。その一瞬を見逃さないでください。それに気付けるのは、とても素晴らしいことです。
さて、わざわざこちらに来てくださった方だけにお伝えしたいことがあります。
私、マミは登山活動を一時休止させていただきます。公表していませんでしたが、私は『血忘症』という病を抱えており、一時療養することにしました。症状が落ち着きましたら、またこうしてご挨拶ができるよう、そして私の見たことのない世界を写真として残していけるよう、再び頑張ってきます。
また会う日まで。おやすみ、世界。
マミ』
「病気……」
口を抑えることができなかった。
病気は不思議なことではない。俺の知らない、聞いたことのない病気なんて、世の中沢山あるだろう。『マミ』さんの『血忘症』だって、どんなものか知らない。
半分放心状態になりながら、パンフレットとイヤホンを返却した。家に帰るまで頭の中は『休止』と『血忘症』でいっぱいで、帰ったら怒られた。止みかけだった雨は再び強く降り、俺は土砂降りの中を帰ってきたらしい。
制服から滴る雨は、玄関で足元に水溜りを作る。母親が持ってきたタオルで拭きながら脱衣所へ直行し、半強制的に風呂へ入れられる。温もりに包まれて、ようやく最後のメッセージ以外のことも考えられるようになった。
「最後の写真は、別れの挨拶だったのかな」
・♢・
怒られながら夕飯を食べ、変な疲れを感じながら部屋に帰宅した。いつもの如くベッドにダイブして、今日はスマホを片手に仰向けになった。
画面の検索窓に入れるのは『血忘症』。いくつかのページタイトルを眺め、医療系に特化したサイトを開く。
『記憶障害の一種であり血液疾患とされています。罹患数が少なく、世界でも数例しか報告がありません。
症状はまだらな記憶の喪失。認知症の様に最近のことが覚えられないというわけではなく、水頭症の様に昔のことを思い出せないわけでもありません。ぽっかりと穴が開いたように、短期間の記憶が喪失してしまうのが特徴です。
脳科学を研究する一石医師によりますと、脳の記憶を司る海馬には異常が認められないことが確認されました。調査と研究により、血液の異常によって記憶が喪失されていくものとされています。
明確な治療法はなく、予防としては『泣かない』ことがあげられています。それは、涙とは濾過した血液であり、涙が流れることをきっかけに記憶が喪失されるからです。同様に尿も血液の一部ではありますが、排尿をきっかけにして記憶の喪失は確認されていません』
記憶をなくす病気。そして無謀ではないかという予防。世の中に泣いたことがない人はいるのだろうか。いたとしたらその人には無縁の病気だな。
『マミ』さんは療養すると言っていたが、つまりは泣かない訓練でもするのだろうか。あんなに感動的な作品を作る人が。高い高い山を乗り超える人が、泣かない、感情を押さえてしまうのか。
別にこの病気で死ぬわけではない。けれど、精神論。感情を押し殺して生きるというのは、それこそ想像できない。
「ロボットみたいじゃないか」
世の中にあふれてきたロボット。LAHは泣かないだろう。故障はあれど病気知らずだ。けれど、どれだけ機械技術や医療技術が発展したとして、この病気は治す手立てが今のところは見つかっていないようだ。アルにもどうしようもないだろう。
メッセージが衝撃的過ぎて、写真たちの印象が薄れてしまった。スマホを胸元において、眼を閉じた。入り口から入っていって、順に見てきた写真を思い出す。目頭が熱くなった記憶が蘇って、また熱くなった。袖で乱暴に拭った。泣きたくなかった。
気を紛らわしたくて、ベッドから飛び起きて問題集を開いた。
もう授業中だろうか、学校には賑やかさはなく、けれど部屋ごとに光は灯っている。うちの学校は校庭に防雨効果のある送風装置があるのだが、今は使われていないようだ。
玄関で靴と靴下を脱ぎ、下駄箱の中に放り込み、備え付けの乾燥機能にスイッチを入れた。新しい靴下と上靴を履いてまずは食堂へ。自販機に自分の生徒手帳をかざして温かい飲み物を手に入れる。
両手を温めながら職員室で鍵をもらう。階段を静かに登って、ガチャンと開錠。
「おはようございます」
「おは、よう」
いるのはわかっていた。少し言葉に詰まったのは、アルが昨日と同じ場所にいたから。寸分違わず、と言えるほど見ていたわけではないが、扉を開けた瞬間に既視感があった。
「遅刻では」
「授業じゃないし、部活動は俺しか参加してないし、別にいいんだよ」
「そうでしたか」
現在時刻は9時25分。9時からの一限中に到着したかった俺としては理想的な時間だ。
荷物を定位置に置いて、キャンバスと鉛筆を用意する。絵を描く時の定位置、つまりは窓際であり、アルの正面に構える。さも当然とでも言うように微動だにしないアルを背中に、飲み物を脇に置いて鉛筆を持つ。
ただただ鉛筆の音が走る。初めは警戒していた声かけは拍子抜けするほどなく、いつしか集中して描き込んでいた。女性の輪郭、花の配置、表情などの雰囲気作成はおおよそ完成。
けれど、ここからが問題だ。詰まり気味だった息を吐いた。ここぞとばかりに、後ろで気配が動く。
「背景は描かないのですか?」
直面している問題を的確に指摘してくる。キャンバスの大枠が真っ白ならば当然気になる点なのかもしれない。
握りしめていた鉛筆を置いて、飲み物を開ける。すっかり冷えてしまっていて、せっかくの温もりが無駄になってしまったことを多少悲しむ。
「描けないんだよね」
一言そう言うも、アルからの返答はない。歯切れが悪く感じているのは俺だけか。
「苦手意識、っていうのでいいのかな。描いても納得いかない。落ち着かない」
「今まではどのように描いていたんですか?」
「あえて白紙、ってことにしたり。練習って意味では……この人の写真集をみて模写してたり」
カバンの中から取り出した、一冊の写真集。この時代ではなかなかない、実際に撮影された写真。
適当に開いて見せれば、アルは食い入るように見つめる。
「『マミ』さんっていう、世界で数人しかいない写真登山家なんだ」
昨今はAIだけでなく機械技術が目覚ましい進歩を遂げている。そのおかげで生活にゆとりができ、教育や医療など各分野も引っ張られるように進化し続けているのは、学生の身でありながら実感している。
けれど、廃れている分野があった。それが『芸術』だ。
AIによって絵画や小説、陶芸や園芸、写真や音楽などは直接の人の手を離れていってしまった。それは2000年代頃から問題視されていたものの、現在においては懸念されていたようになってしまったと社会科の授業で習った。
もちろん反発はあった。けれど、便利だったり、安全だったり、失敗がなかったり、見分けがつかなかったりすれば、反発は勢いを無くし、ほとんど消沈してしまったらしい。
そんな中でも活動している数少ない人が『マミ』だ。
「自ら山に登って、その景色を写真に収めてるんだ。今や家から一歩も出ずに地図アプリやドローンで撮れるものだけど、その行動力がすごいなって思う」
「わたくしもそうですが、今や生活には機械技術があってこそになっています。機械に頼ればいいものを、ご自分の、生身の手足でというのは、それだけの理由があるのでしょうか」
「そこまではわからないけれど、やり続けているには何かあるんだろうね」
『マミ』さんはまだ若い女性。活動を始めたのもこの数年らしい。
手持ち無沙汰に本屋を見ていた時に、たまたまこの写真集が目に入った。文字だらけの表紙の本の中、一つだけ、文字が一切なかった。その時の俺には写真かAIかなんて見分けがつかなかったけれど、その表紙には一際目が惹かれたんだ。
ただ山の山頂が連なって、雲を突き破った先で陽の光が差し込んでいる表紙。こんなにも壮大な景色を見下げるなんて、撮影者はどれだけ高いところまで登ったんだろうかと惹かれた。そして、世界にはこんなにも、言葉に表せないほどの場所があるのかと、閉じこもりがちな俺は衝撃を受けた。ドローンでもアプリでも見たことはあったのに、空気感というのか、言ってしまえば印刷技術なのかもしれない。微かな可能性で、それが現物の魔力だったとしたら、見事に魅入られてしまった。いつの間にか購入して、肌身離さず持ち歩いている。
「この人が見てきた景色を見て、描いてる。もちろん『これじゃない』感しかしなくて、よくないってわかってても中途半端に終わっちゃうんだけど。好きなものを描くのは好き。けど、思い通りにならなくて、嫌いになりそうで、少し怖い」
だからいつまでも背景が描けない。自然のものは描けても、やっぱり『どこか違う』とは感じている。けど、これでいいんだ。どうせ、これ以上先なんてないのだし。
アルは写真集を見続ける。俺への質問なんてなかったかのように。
そして同時に、俺の描いている絵にも関心が薄れたのか、俺が描き始めても写真集を捲る音がしていた。
雨の音と時計の音、鉛筆を擦る音と、時々捲る音。混ざって、混ざって、音楽になって。割り込んできた腹の虫の音で、俺は飲み物を買いに行く決断をした。朝に買った飲み物は冷えてしまったから。
「あー……被った……」
ちょうど昼休みに入ってしまったようで、中高あわせた他学年の生徒が購買部付近に溢れかえっている。といっても、俺の学年である中学二年生たちはいないので少ない方だ。
大人しく自販機の列の四番目に並ぶ。
「ねぇ見てー。今日寒いから爪だけでも温かくしようと思ってオレンジベースネイルにしたのー」
「え、待ってめっちゃかわいいじゃん。でも朝は水色フレンチじゃなかった?」
「ふっふっふ、よくぞ聞いてくました」
「?」
「私ついに先週末! 指先のサイボーグ化デビューしました!」
「え、まじで!? ついにやったの!?」
「やったよー! バイトと両親の説得頑張ったー! めっちゃいいよこれ。指先の冷えとはおさらばだし、荒れにくいし、体育とか気にしないでいいし、なにより秒でネイルのデザイン変えられるし!」
「全然気付かなかった。コスパ良ーーー」
「まじおすすめ」
「私はまだいいかなー。勇気出ないし」
「それはそう」
前の女子生徒の指先を覗き見ると、確かに本物と区別がつかない。
最近流行りのサイボーグ化。機械技術の進歩によってロボットが増えてきたと同時に、医療技術も伸びている。それは人工臓器や義肢装具といったものが特に顕著で、安価で安全に生身の人間へ導入されている。
目の前の女生徒のように、若い人でも頑張れば手が届く。社会人はもっと近く、透析患者も減ったという。白内障や緑内障で悩む人も減って、義肢の機能次第では車の運転事故も減って、Quality of lifeの向上につながっているという研究結果があるとニュースで見た。
技術の進歩はすごいものだ、と他人事、賞賛。
順番になったので、温かいお茶を購入。両手を温めながら、生徒とすれ違っても目を合わせないように美術室へこっそり帰宅。
「おかえりなさい」
無機質な声と瞳に迎え入れられる。俺の不在中に写真集は見終えたようで、アルの膝の上、かつ両手の下に鎮座している。
「よかったでしょ」
「はい。とても」
本当にそう思っているのか、いないのか。AIの学習機能に半信半疑になるが、好きなものを認めてもらえて嬉しくて、顔に出さないように気をつけながら上機嫌になった。
お弁当を黙々と食べて、お茶を飲んで昼寝して、満足したら再び描く。背景のことに触れたから少し頑張ろうかとあたりをつけてみた。けど、やっぱりしっくりこなくて、そんなものを残しておくのが気が引けて、結局のところは消してしまった。
「苦手なことは変わりないしね」
呟いた言葉は、誰にも拾われずに雨音に掻き消えた。
不完全燃焼だが、このままいてもきっと何も成さないだろう。そう直感し、俺は片付けを始めた。
「終わるのですか?」
真後ろに座っていたあるが、やはり感情にこもっていない声で尋ねてくる。
「うん。今日はもう、やめとこうかなって」
「どのような理由で?」
「……これと言ってはないかな。気分。あ、今日は行きたいところがあるんだ」
「行きたいところ」
うん、と返しながら、キャンバスなり椅子なり消しカスなりをあるべきところへ放り込む。窓の外を見れば、まだ雨が降っているようだが傘はいらなそうだ。傘という荷物ができてしまったことは面倒だが、歩くことを考えたら幾分マシだろう。
荷物を肩にかけ、扉に向かう。なんの気無しに振り向くと、真後ろにいた。アルが。
絵を描いている時よりも近いのは、二人とも立っているからだろう。
「え、な、なに?」
「行かれるのですよね?」
「え?」
「……山荷葉では、ないのですか?」
首を傾げながら、おおよそ160cmほどの身長の耳長族が見つめてくる。長い髪がさらりと流れ、色素の薄い瞳に俺のシルエットが写っている。まるでカメラのレンズのような奥行きのある瞳に囚われそうになる。
「ち、ちがう」
「では、どちらに?」
「『マミ』さんの個展だよ。近くでやってるんだ」
「そうでしたか」
「てか、アルは学校を出ちゃダメでしょ。備品なんだから」
酷な言い様かもしれないが、事実だ。アルはどうしてこんなにも、どこかへ行きたがるのか。俺に山荷葉を見せたがるのか。AIの学習機能はよくわからない。
気にかけたものの、アルの表情は変わらなかった。残念そうでも、怒ってそうでもない。ただ、何も言わずに立ち竦んでいた。
「……じゃあね。また明日」
返事はなかった。昨日のように目線を切って、扉を開けて、閉めた。
職員室で先生に報告して、すっかり乾いたローファーを履いて足早に学校の敷地外へ。
傘を忘れたことに気づいたのは、個展会場を目の前にしてからだ。
雨はほぼ小ぶりだし、帰りも大丈夫かな。
気を取り直して少しの雨を払い、建物の入り口で風を受けて水気を飛ばす。受付で学生代金を支払うと、巻物状のパンフレットと片耳のイヤホンを渡された。パンフレットを引き延ばすと、暗い画面に浮き上がってくる室内案内。イヤホンをして、ゆったりとした異国の音楽が流れる、少し暗い室内へ入った。
実際の光景を収めた写真がライトアップされ、数えられる程しかいない来場者のシルエットは存在感を殺されている。
足音が鳴らないように配慮されたカーペットの上を、わかっていながらもそれなりに注意しながら進む。
まず初めに、この個展の表紙になった小川の写真。タイトルは『世界の狭間』。地上から空へ向かって奥行きを見せる構図で撮影され、爽やかな空と透き通った川の青が境目を不明瞭にし、繋がっているように見せている。
隣の写真は逆の構図だった。山頂から地上を撮影したようだ。細い川が地上を這って方々へ伸びている。時間帯は明け方のようだ。朝日が川を照らしてまるで金色に輝かせる。タイトルは『世界の血液』。
イヤホンから、この写真は『マミ』さんがどこで、どんな道程を経て、どんなことを考えながら撮ったのかという解説が流れてくる。
この光景を見るまでの苦労の道を想像しながら、自分が歩いていたらと想像する。諦めそうになることもあるだろう。歩きやすい道ばかりじゃない。そんなものはそもそもないかもしれない。ではなぜそこまでして頑張るのか。
『機械にも人の手でも再現できないそれが、そこにある』
『私が自ら行かなければいけない』
『踏みしめてきた苦労の果てにしか得られないものが、この世には存在する』
『努力に資格は必要ない』
絵を見るたびに締め付けられる感動と、流れる言葉に感銘を。生まれ住んでいる北海道という広大な環境ですら満足に知りえない俺は、どれほどちっぽけで世間知らずなのだろうか。
目頭が少しばかり熱くなって、瞬きを繰り返しながら最後の絵の前に辿り着く。
それは今まで見ていた風景写真とは違った。
白い太陽と白光した空。その手前の山頂で座り、太陽に向かってコップを掲げている人。おそらくはこれは『マミ』さん。解説にはないものの、そう直感する。
タイトルは『Hello,world again』。
太陽、世界と乾杯するなんて、本当に贅沢だなと思う。熱くなった目頭はどこへやら、知らぬ間に口角が上がっていた。
目に焼き付けて、出口に向かう。スタンドに立てかけられたパネルがあった。写真や絵ではなく、ただ文字がつづられている。人の字だ。手書きだ。
「『マミ』さん」
思わず声が出て、口を押える。周囲に人はおらず、安心して手を下ろした。目で文字を追うと、それは『マミ』さんからの直筆メッセージ。
『ご来場いただき、また、最後までご覧いただき、誠にありがとうございます。直接お礼を伝えられないのが残念でなりません。
写真たちはいかがでしたでしょうか。
世界にある光景は、ネット社会では当たり前のように見れてしまいます。わざわざ危険を冒す必要なんてないほどに、リアルで、鮮明に表現してくれています。
けれど、それは『本物』ではないんです。『創造物』です。それが悪いと言っているのではありません。ただ、知ってほしいんです。世界はこんなにも素晴らしい。一歩足を踏み出せば、同じ場所でも毎日違っているんです。
目を向けてください。貴方の目に映るのは、昨日までの景色ではありません。その一瞬を見逃さないでください。それに気付けるのは、とても素晴らしいことです。
さて、わざわざこちらに来てくださった方だけにお伝えしたいことがあります。
私、マミは登山活動を一時休止させていただきます。公表していませんでしたが、私は『血忘症』という病を抱えており、一時療養することにしました。症状が落ち着きましたら、またこうしてご挨拶ができるよう、そして私の見たことのない世界を写真として残していけるよう、再び頑張ってきます。
また会う日まで。おやすみ、世界。
マミ』
「病気……」
口を抑えることができなかった。
病気は不思議なことではない。俺の知らない、聞いたことのない病気なんて、世の中沢山あるだろう。『マミ』さんの『血忘症』だって、どんなものか知らない。
半分放心状態になりながら、パンフレットとイヤホンを返却した。家に帰るまで頭の中は『休止』と『血忘症』でいっぱいで、帰ったら怒られた。止みかけだった雨は再び強く降り、俺は土砂降りの中を帰ってきたらしい。
制服から滴る雨は、玄関で足元に水溜りを作る。母親が持ってきたタオルで拭きながら脱衣所へ直行し、半強制的に風呂へ入れられる。温もりに包まれて、ようやく最後のメッセージ以外のことも考えられるようになった。
「最後の写真は、別れの挨拶だったのかな」
・♢・
怒られながら夕飯を食べ、変な疲れを感じながら部屋に帰宅した。いつもの如くベッドにダイブして、今日はスマホを片手に仰向けになった。
画面の検索窓に入れるのは『血忘症』。いくつかのページタイトルを眺め、医療系に特化したサイトを開く。
『記憶障害の一種であり血液疾患とされています。罹患数が少なく、世界でも数例しか報告がありません。
症状はまだらな記憶の喪失。認知症の様に最近のことが覚えられないというわけではなく、水頭症の様に昔のことを思い出せないわけでもありません。ぽっかりと穴が開いたように、短期間の記憶が喪失してしまうのが特徴です。
脳科学を研究する一石医師によりますと、脳の記憶を司る海馬には異常が認められないことが確認されました。調査と研究により、血液の異常によって記憶が喪失されていくものとされています。
明確な治療法はなく、予防としては『泣かない』ことがあげられています。それは、涙とは濾過した血液であり、涙が流れることをきっかけに記憶が喪失されるからです。同様に尿も血液の一部ではありますが、排尿をきっかけにして記憶の喪失は確認されていません』
記憶をなくす病気。そして無謀ではないかという予防。世の中に泣いたことがない人はいるのだろうか。いたとしたらその人には無縁の病気だな。
『マミ』さんは療養すると言っていたが、つまりは泣かない訓練でもするのだろうか。あんなに感動的な作品を作る人が。高い高い山を乗り超える人が、泣かない、感情を押さえてしまうのか。
別にこの病気で死ぬわけではない。けれど、精神論。感情を押し殺して生きるというのは、それこそ想像できない。
「ロボットみたいじゃないか」
世の中にあふれてきたロボット。LAHは泣かないだろう。故障はあれど病気知らずだ。けれど、どれだけ機械技術や医療技術が発展したとして、この病気は治す手立てが今のところは見つかっていないようだ。アルにもどうしようもないだろう。
メッセージが衝撃的過ぎて、写真たちの印象が薄れてしまった。スマホを胸元において、眼を閉じた。入り口から入っていって、順に見てきた写真を思い出す。目頭が熱くなった記憶が蘇って、また熱くなった。袖で乱暴に拭った。泣きたくなかった。
気を紛らわしたくて、ベッドから飛び起きて問題集を開いた。



