3月になった。
まだまだ冬の厳しい寒さが続いていて、今年は都内でも雪が降って交通機関に乱れが出た。
その雪がまだ少し残っている今日。
俺は自分の席で昼食を食べながら、隣の席で同じように弁当を広げている早乙女と会話をしていた。
「それ、ちらし寿司? ちょっと豪華だな」
早乙女のでかい弁当箱と一緒に置かれたおにぎり3つは、普通の白米じゃなくて彩りきれいなちらし寿司だった。
「おー。昨日ひな祭りだっただろ。その残り」
「あぁ、妹がいるんだったな。もしかしてそのちらし寿司も早乙女の手作り?」
「おうよ」
早乙女は得意げな笑みを浮かべると、掴んだ1個を俺に差し出してきた。
「ん、やるよ。感想聞かせてくれ」
「え? いやでも……」
「ぜんぶ食うために握ったら3つも出来ちまったから、1個食ってくれると助かる」
「……ならいただくよ。ありがとう」
俺はちらし寿司を受け取った。
さっそくラップを剥がしていたら、女子の声が早乙女の名前を呼んで思わず手が止まる。
最近ずっと早乙女に絡んでくるあの女子だ。
「わ、ちらし寿司じゃん。いいな〜、あたしも食べてみたい!」
「やだわ。俺の昼飯の量が減るだろ」
「えー浅桜くんだけずるいずるい。あたしのメロンパンと交換じゃだめ? ねーお願い!」
「わーった、わーったよ。ほら」
「やった! ありがと〜」
早乙女がちらし寿司を差し出すと、女子が嬉しそうに受け取って代わりに菓子パンを渡す。
2人が交換し合っているのを横目に見て、俺は黙ったまま手元にあるちらし寿司を一口齧った。
いやだな、と思った。
そう思って、何で? と自身に問う。
俺、嫉妬してる?
まさか……
気付いて、そして、困惑した。
「美味いか?」
隣から聞こえたその声に、俺はハッとして早乙女の方を見た。
いつのまにか女子はいなくなっていて、早乙女がじっと俺の方を見ている。
「あ、あぁ。美味いよ」
「曇った顔して食ってるから口に合わないのかと思った」
言われて、申し訳なさから苦笑いする。
「まさか。……ちょっと、考え事してたんだよ」
「ふうん。なんか悩みでもあんのか?」
「いや、悩みは別に……」
俺は少し考えて、言う。
「前に言ってた小説が、もう少しで書き終わりそうなんだ。そのこと考えてた」
「おお、ついに完成か。それ、コンテストに応募すんだろ?」
「まぁ、たぶん……まだ推敲してないから、完成はしてないけどな」
「推敲? よくわかんねーけど、応募して誰かの目に触れる前に、俺に読ませてくれよ」
「え?」
「言っただろ。最初の読者になりてぇって」
にかっと笑った早乙女を見てドキッとした俺は慌てて顔を逸らすけど、動揺を隠しきれていないのが自分でもわかる。
「早く読みてぇな。なぁ、その推敲とかやってないデータでもいいから読ませてくれよ」
俺の様子に気づいていない早乙女は、呑気に笑って弁当を食べ始めている。
人の気も知らないで……と、うらめしい視線を送る。
「やだよ」
「じゃあ、どんなストーリーかだけでも教えてくれよ」
「むり」
「……ちらし寿司やったのに」
「それとこれとは別」
今度は早乙女がうらめしい視線を送ってきたけど、知らん顔で食べた。
中旬にもなると少し寒さが和らいで嬉しい。
就寝前に、自室の机に置いたノートパソコンで推敲作業をしていた俺は、ふと机の端に転がしていたカプセルに視線を向けて手を止めた。
頬杖をつき、なんとなくカプセルを手にして眺める。
始めたばかりの頃に比べたら、このカプセルが俺と早乙女の間を行き来することは少なくなった。
けど俺たちは、変わらずこの小さな空間に何か入れては贈り合っている。
これだけは、誰にも邪魔をされない。
そんな特別感を抱いている。
ふと脳裏に、早く読みてぇな、と言っていた早乙女の顔が浮かんだ。
「あらすじだけなら、別にいいか」
俺は少し考えて、シャーペンを手にして無地のメモ帳にあらすじを書き、その紙を四つ折りにしてカプセルに入れた。
「早乙女、はい」
翌日。
隣の席に早乙女が座ると同時に、カプセルを差し出した。
早乙女は「おー」と慣れたようにそれを受け取る。俺は読んでた文庫本から顔を上げずに空になった手を引っ込めた。
早乙女がさっそくカプセルを開けているのが分かる。瞬間、「えっ」と驚いたような声がした。
「こっ、これは!?」
「え?」
そんなにびっくり、というか緊張した声になるか?
俺は不思議に思いながら、文庫本から早乙女に目を向けた。
早乙女はカプセルの蓋を持ち上げたまま中身を凝視している。まるで何かの結果発表に自分の名前が載っているのを見た時の、信じられないといった顔つきだ。
「早乙女?」
「こ、これ、ラブレ、……」
「らぶ?」
怪訝に思いながら早乙女を見ていると、早乙女は一度開けたカプセルを元に戻した。そして目を閉じて、落ち着きを取り戻した様子でふぅと息を吐く。
「あとで読む」
「あ、そう」
どうしたんだろう、と俺は首を傾げた。
放課後。
担任に用があった俺は鞄を手に職員室に寄っていた。
用事を済ませたあと職員室を出て、そのまま生徒玄関へ向かって歩いていた時、ふと忘れ物をしたことに気づく。
明日の英語の小テストに必要な教科書だ。学校を出る前で良かったと思いながら急いで取りに戻った。
「よかったちゃんとお返し貰えて。あんたホワイトデーのこと忘れてるのかと思ってたよ」
教室を目の前にした時、中から女子の声がした。
思わず足を止めた俺は、中から聞こえてくる男女の話し声を聞く。
「いや、今朝渡そうとしたのにオメーが放課後に渡してくれって言ったんだろ。しかもみんな帰った後にってよ」
ちょっと呆れた早乙女の声だ。で、女子の声はやっぱりあの子……。
俺はそうっと静かに歩いて、開いたままのドアの横の壁に背中をつけた。そのまま少し中を覗くと、誰もいない教室で2人の男女が向かい合っている。
早乙女からホワイトデーのお返しを貰った女子が、その箱を嬉しそうに両手に持って微笑んでいた。
「てか手作りじゃないんだ、ちょっと残念」
「俺が菓子作れんの知ってんのか?」
「当たり前じゃん」
「よく見てんなー、俺のこと」
早乙女が笑うと、その女子は少し俯き、見てるよ、と真剣な声で呟く。
あ、やばい、と思った。
この流れはきっと――
「見てるよ。だって好きな人のこと、いろいろ知ってたいじゃん」
……あぁ、やっぱり。
俺はぐっと無意識に唇を噛んだ。
あの女子が、誰もいない放課後の教室に早乙女と2人きりになりたかった理由なんて、それしかないだろ。
「え……マジ?」
早乙女が馬鹿みたいな呆けた声を響かせた。
これ以上は駄目だ、聞いちゃいけない。
「あー、その……すげー嬉しい」
俺は急いでその場から離れる。
足音を立てないよう気をつけたのに、きゅっと上履きが鳴ってしまった。
あぁもうっ、知るか!
気にせず走って階段に向かう。背後から早乙女の何か言ってる声がしたけど無視して走る。
階段を駆け下りて、生徒玄関に向かう。
自分の靴箱の前で急いで上履きを脱ごうとして、うまく脱げなくて、片足立ちになってよろけてしまう。
くそっ、くそ……落ち着け俺……。
額を上履きの扉にごつんとぶつけて、目を閉じ、深く深呼吸をする。とその時。
「浅桜!」
早乙女の声がしてびくっと肩が跳ねた。
背後に早乙女が立つ気配がしたが、俺は平静を装い、振り返らずに靴箱の扉を開けて言う。
「告白の現場、見ちゃってごめん」
「あ、いや……それは別にいい。つかお前、」
「もちろんいい返事したんだよな」
気がつくとそう言っていた。自分で自分の発言に驚いてしまう。
は? と言った早乙女の声も驚いていた。俺の口は止まらない。
「あの子と早乙女、気が合ってていいと思う。お似合いだよ。おめでとう」
「おい……俺は、」
「彼女、置いて来てよかったのか? 一緒に帰ればいいのに。せっかく恋人同士になったんだから」
「浅桜、」
「じゃあ俺帰るから。またあした、」
「浅桜!」
バンっと、顔の横で衝撃音がした。
俺の顔を挟むようにして、早乙女が両手を靴箱に勢いよく突いた音だ。
驚いた俺は首を捻って背後を見た。早乙女は眉を歪めて、ちょっと泣きそうな顔をしていた。
初めて見る、そんな顔……。
「お前、なんでムキになってんだよ」
「っ、はあ? 別になってな、」
「告白。断ったから」
それを聞いて、思わずほうっとした息が漏れた。
安堵に似た感情がもろに顔に出てしまったのか、俺の顔を見て早乙女が一瞬目を見開いてから、にや〜と笑う。
まずい、バレた。
かっと顔が熱くなる。
左右を早乙女の両手で塞がれて逃げられない。
身を屈めた早乙女が急に、額が付きそうな距離まで顔を近づけてくる。
どっ、どっ、どっ、どっ
心臓が激しく脈を打つ。
じりじりと焼くみたいな視線の圧がたえられなくて、目を泳がせる。
「嫉妬、したのか?」
「……っ」
「だったら、うれしい」
やめろ。
そんな嬉しそうに、顔で、声で、そんな言葉……
この気持ちは何なんだろう。
これが“恋”というやつなんだろうか。
俺は今まで、誰かを好きになったことがない。
恋愛の仕方なんてわからない。
“恋”とは、気になることから始まるんだろうか。
早乙女が気になる。
目が合うとドキッとする。
近くに来られると心臓がぎゅっとする。
嫉妬まできたら、いよいよこれは“恋”なんじゃないだろうか。
恋……これが?
いや、え、待って。
同じ“男”なのに?
「あ……」
“男”相手に、恋?
「浅桜?」
さぁ、と血の気が引くような感覚。
顔の熱が引いたのに、背中にはじわりと嫌な汗をかいている。
「浅桜、どうした?」
嘘だろ、ありえない。
そうだ、きっと勘違いだ。
俺は違う。
俺は、ふつうの、
普通の、男子高校生で――
「急に顔色が悪いぞ、熱でもあるんじゃねぇか」
心配そうな顔をした早乙女の手のひらが、俺の額に触れようとしてきた。
ばしっ
「さっ、触るな!」
「……!」
俺に思いっきり払われた手を宙に浮かせたまま、早乙女は目を見開いている。
「わ、悪りぃ……」
早乙女のショックを受けた声。
俺は何も言えないまま、急いで靴を履き替えて学校を出た。
早乙女は俺を呼び止めることも、後を追ってくることもなかった。
帰宅するまでの記憶はぜんぜんなかった。
身についた日常の流れで、お風呂に入って、着替えて、夕飯を食べて、歯を磨いて、ベッドに入る。
そのまま目をぎゅっと閉じると、早乙女の悲しそうな顔が脳裏に浮かんだ。
この出来事のあと、俺は早乙女を避けるようになった。
挨拶は交わしても、それだけ。
他には何も話さない。
休み時間も、昼休みも、一緒に過ごさなくなった。
早乙女は俺に何も言ってこないし、近づいてもこない。
2日、3日、4日――
どんどん日にちが過ぎて、春休みが近づいてくる。
苦しい。
ずっと苦しい。
息の仕方を忘れてしまったように、ずっと苦しいんだ……。
俺はまたあの夢を見た。
暗闇にある1台の白いカプセルトイ。
『運命』の一言だけが書かれたそれ。
当たり前のようにハンドルを回す。
出てきたカプセルは、青色。
〈おめでとうございます。それがあなたの『運命のカプセル』です〉
機械的な女性の声が響く。
取り出し口に手を入れる。
〈そのカプセルの中に入っているのは、あなたのいつか結ばれる運命の人の名前です〉
片手に持つ青色のカプセルをじっと見つめる。
……ちがう。
ちがう、これじゃない。
赤色じゃなきゃ駄目なんだ。
赤色じゃなきゃ。
だって、
だって、赤色のカプセルは――
〈あなたが拒否をしたのですよ。赤色のカプセルに入っていた運命の人を〉
ピピピッ、ピピピッ、ピピピピピピ――
「……っ!」
ハッと目を覚ました俺は、がばっと上半身を起こした。
頬が濡れている。
泣くのなんていつぶりだろう。
腕で乱暴に涙をぬぐいながら、ハハ、と自嘲気味に笑う。
「最低だ、俺……」
脳裏に浮かぶのは、切な気に目を伏せて笑う早乙女の姿だった。
