2月。
寒さの厳しい日々が続く中、最近、というかずっと気になっていることがある。
授業中、隣から早乙女の視線を何度も感じるのだ。そのタイミングで、ちらりと隣の席を見るとばっちり目が合う。まさか目が合うとは思っていなかったのか、早乙女は驚いた顔をしたあと焦ったように前を向く。短くなって余計に見えるようになった耳が、ほんのりと赤い。
「わ、早乙女がなんかカワイーのつけてる〜」
休み時間。
早乙女の席に、クラスのちょっと派手目な女子グループにいる女子生徒が寄ってきた。彼女が指さすペンケースに、早乙女は気だるそうな視線を送る。
「可愛いってこれか? お守りだぞ。女子って何でもかんでもカワイイって言うよな」
「だって丸っこくてカワイイじゃん。どこの神社?」
「伊勢神宮」
「わあ、いいな〜。伊勢神宮のお守りってめっちゃ効果ありそうじゃん」
女子はきゃっきゃ騒ぎながら、「あたし伊勢神宮行ったことないんだよね〜」とそこから話を広げようとしている様子だ。
横の席に座っている俺は、空気になるため黙って静かに次の授業の準備をしながら、聞こえてくる会話を耳にする。
「てかさ、早乙女ってもしかしてかわいい物好きでしょ?」
ちょっと明るめの長い髪を、彼女は指先で弄りながら言った。その顔にはニヨニヨと揶揄うような笑みが浮かんでいる。
「はあ? なんで」
「鍵にネコちゃんのキーホルダーつけてるじゃん。あとスマホにはワンちゃん」
……たぶんそれ、どっちも俺があげたやつ。
「うげ。……よく見てんな」
「あんたみたいなでかいヤンキーがそういうかわいい物つけてるの見ると、なんかほっこりすんだよね〜」
「おばさんか」
「ひっどい!」
2人の掛け合いを聞いていると、不快感に似たもやもやした気持ちになって、息苦しさを覚えた。
2月13日。夜のことだった。
この日は大学生の姉が夕方から実家に帰って来ていて、夕飯後のキッチンでなにやら作業を始めた。
風呂上がりの俺は頭をタオルで拭きながら、なんだか甘い香りがするリビングに向かう。
キッチンを覗くと、姉が鼻歌を歌いながら楽し気に何か作っている。
「姉貴、なにやってるの」
「え、見りゃわかるでしょ。バレンタインのチョコ作ってんのよ」
振り返った姉はボウルにチョコを溶かしている最中だった。
ふうん、と興味ないまま呟きながら近くのテーブルの上を見た。
ほとんど100均で揃えたんだろう材料が広げられている。板チョコはミルクとホワイトとストロベリー。チョコペンも3種類ある。小粒のハートや星のカラフルなチョコスプレーに、ラッピング用のリボンやシール。
「アパートのキッチンは狭いからさぁ、お母さんに許可もらってキッチン借りてんの」
「ふうん。何作るの」
「平成女児チョコってやつ。簡単なのに映えるんだよね。めっちゃカラフルにして友達に渡すの」
俺は姉の後ろから手元を覗き込む。チョコの量が多い気がするけど、友達に配るなら何十個も作るんだろう。
「ちょっとあんた邪魔。でかいんだから後ろに立たないでよ」
「俺は日本人男性の平均身長だよ。姉貴が小さすぎるんだろ」
姉は150センチぎりしかない。けれど姉は特に気にせず、その小さい見た目にあったゆるふわ系女子を外では演じている。家族の前では真逆の性格だ。
バレンタインか。……チョコ。チョコって、早乙女好きかな。
「……いやいやいや、なんでそこで早乙女が出てくるんだ」
「なに裕也。あんたもチョコ渡したい子がいるの?」
慌てて思考のモヤモヤを手で払っていると、姉がチョコを溶かす手を止めないまま訊いてきた。
「いや、バレンタインだし。男から渡すのは違うだろ」
「関係ないってそんなの。今の時代なんでもアリなんだから」
「えぇ……」
「材料費ちょっと出してくれるなら、チョコ分けてあげてもいいわよ」
俺はちょっと悩んだ。バレンタインにいきなり男からチョコ渡されるって嫌じゃないか?
でも、「姉貴のチョコの余り物をもらってノリで作ってみた」とか言えばどうだろう。「俺は姉貴の味見役させられたからもうチョコは食べたくないんだ。だから早乙女が食べてくれると助かる。妹にあげてもいいからさ」
……って言えば、なんとかなる気がする。
「いくら? 1人分だけでいいんだけど」
「じゃあラッピング代も入れて100円かな」
それから姉と一緒になって平成女児チョコを作った。
姉が100均で買ってきた小さなアルミカップはハート型ばかりで、渡すハードルがかなり上がってしまった。
デコレーションのセンスはないから、チョコスプレーを散りばめるだけにする。固まったミルクとホワイトとストロベリーの3粒を、透明な袋に入れて赤いチェック柄のカラータイで留めた。
部屋に戻った俺は完成したそれを見つめて、いまさらのように恥ずかしくなる。
……いや、これ、ちゃんと渡せるのか?
2月14日。
この学校はバレンタインを特に禁止にはしていない。
そのため学校につくと周りにいる女子たちから「チョコ持って来た?」「はい友チョコ」「ハッピーバレンタイン」という楽しそうな声と、紙袋に入れたチョコを渡し合う姿があちこちで見れる。
予鈴とともに教室に入った俺は、まだ早乙女が登校していないのをさらっと確認する。
鞄を机に置いて椅子に座った俺は、頭の中でシュミレーションを開始した。
……もう少ししたら早乙女が教室に入ってくる。(遅刻しなければ)次いで担任が入って来るまで3分もない。
早乙女が席についたと同時にチョコの袋をささっと早乙女の机の中に入れる。
早乙女が「え、なに?」って机の中を確認したら「姉貴のチョコの余り物をもらってノリで作ってみたんだ。俺は姉貴の味見役させられたからもう食べたくないし、早乙女が食べてくれると助かる。妹にあげてもいいからさ」って言う。
早乙女が何か言い出す前に、担任が教室に入ってくるだろう。これでこの件に関しては一旦終わり。後々なにか早乙女から言われても素知らぬ顔で流せばいい。
渡せればそれでいいんだ。こういうことは長引かせるのが1番良くない。朝の短い時間でやることやってスッキリしよう。
もうすぐチャイムが鳴るため教室にクラスメイトが集まってくる。女子のほとんどはまだ席につかず、担任が来るまでチョコの渡し合いや早くも中身を食べている子までいた。
俺はそわそわして早乙女を待つ。その時、教室のドアが開いて早乙女が大きなあくびをしながら入ってきた。
よし、2分前。予定通りだ。
「はよ」
早乙女が席につきながら俺に向かって挨拶してくる。俺もいつも通り「おはよう」と返し、鞄の中に手を突っ込んでタイミングをはかった。
よし、いまだ。
「早乙、」
「早乙女おっはよ〜! はいこれバレンタインの友チョコ!」
前に早乙女に話しかけていた派手目な女子が笑顔で早乙女の席に近づいて来ると、長方形のピンクの箱に猫の顔がプリントされたチョコを差し出した。
「え、俺に?」
早乙女はきょとんとして箱を見つめる。
「そうだってば。コンビニで買った安いやつだけどね。あんたカワイイの好きだからネコちゃんにしてみた」
「おー、さんきゅ。安いっつってもコンビニ菓子より高いだろ」
「まぁそうだけど。だからお返し楽しみにしてるね〜」
よろしく、と女子はニコッと笑って自分の席に戻って行った。その女子の真横の席の女子が「ちゃんと渡せて良かったじゃん」とにやにやして言うと「まぁね」とその女子は照れたように笑っていた。
……あぁ、そういうことか。
俺は気づいた。あの女子は早乙女のことが好きなんだろうなと。
ずき、と胸の奥が痛くなる。
俺は鞄に突っ込んでいた手を、何も掴まずに引っ込めた。担任が教室に入って来て周りが慌ただしく席につき始める。
「浅桜」
静かに名前を呼ばれてどきりとした。
隣を見ると、早乙女がいつもと変わらない態度で俺に言う。
「さっきなんか俺の名前呼ばなかったか?」
「っ、いや、呼んでないよ」
少し喉の奥で息が詰まったが、にっこり笑って答えた。
早乙女は俺の異変に気づかなかったようで「ふうん」と呟いて前を向く。
ほっとした俺は、机の横にかけている鞄の中身に落胆の目を向けた。
……あーぁ、これはもう渡せないな。
その後はいつも通りの時間が過ぎた。
休み時間も移動が多くてバタバタしたし、昼休みは早乙女と他数人のクラスメイトと学食で食べた。早乙女が女子からチョコを貰っているところを見ていた奴らが「ずりぃぞお前」「あれ本命なんじゃねーの」と揶揄うのを、早乙女は適当にあしらいながら、何故か向かいの席に座っていた俺の顔をちらちら見てきた。意味がわからない。
2人きりになる時間が全くないまま、あっという間に放課後になる。
チョコを渡すならあとはもう一緒に帰る時間しか無いけど、俺はとっくに諦めていたのでそのまま鞄に荷物を詰めて、さっさと席を立とうとする。
「浅桜、悪りぃ。俺今日親から夕飯の材料頼まれててスーパー寄らなきゃいけねぇんだ。だから先行くわ」
早乙女が俺より先に席を立ってそう言った。
別に謝らなくていいのに、と思いながら早乙女を見上げてニコリと笑う。
「あぁ、わかった。じゃあまた明日な」
「おう、またな。それから――」
早乙女は俺の机の前に来ると、去り際にあのカプセルを机の上に転がした。
「――ハッピーバレンタイン」
早乙女は囁き声で言ってニッと笑った。
ぽかんとしている俺を置いて、早乙女はさっさと教室から出て行く。
ハッとした俺は慌ててカプセルの蓋を開けた。
ラップに包まれた1個のチョコレートマフィンが入っていた。
……きっと、早乙女の手作りだ。
じわりと、胸に熱い何かが込み上げてきた。
それが俺の心を突き動かす。
「あぁもうっ」
気づいたら、鞄から取り出したチョコの袋を持って廊下に出ていた。鞄は教室に置いて来たまま、早乙女を追いかける。
1階に続く階段を下りる途中で手すりから身を乗り出して下を覗いてみた。
ちょうど早乙女が階段を下りていて、短くなった頭のつむじが見える。
「早乙女!」
俺の声が上から降ってきたことに驚いた様子で早乙女が顔を上げた。
「落とすなよ、受け取れ!」
俺はチョコの袋を早乙女の顔辺りを狙って落とした。難なくキャッチした早乙女が透明な袋に入っているハート型のチョコを見つめる。
そしてぱっと顔を上げた彼は満面の笑顔で言った。
「ホワイトデーのお返し期待してたから、マジ嬉しい!」
その日の夜、俺は不思議な夢を見た。
真っ暗な空間に1人で立っている。
ここはどこだときょろきょろしていたら、ちょっと離れた場所に1台の白いカプセルトイが置かれていた。
不思議に思いながら近づいてみる。
中にはカラフルなカプセルがたくさん入っていた。
なんの商品か分かる台紙には小銭の額も書かれていない。白背景に黒文字でただ一言、『運命』と縦文字が並んでいた。
なんだこれ……。
よくわからないまま、俺はハンドルを掴んでぐるりと回す。
ガチャガチャ、 コロン
出てきたカプセルは赤い色。
その時、どこからか機械的な女性の声が響いた。
〈おめでとうございます。それがあなたの『運命のカプセル』です〉
え、え? と俺は慌てながら辺りをきょろきょろ見渡した。
誰もいない空間に、再び女性の声が響く。
〈そのカプセルの中に入っているのは、あなたのいつか結ばれる運命の人の名前です〉
ぴたっと動きを止めた俺は、とりあえず冷静になって、取り出し口にある赤いカプセルを見た。
運命の人の、名前……。
緊張からか心臓がどくどく鳴り響く。
手を伸ばして、取り出し口からカプセルを取り出した。
蓋に手をかける。
ごくり、と喉を鳴らす。
ピピピッ、ピピピッ、ピピピピピピ――
「……!」
ハッと目を覚ました俺は、頭の横で鳴るスマホのアラームにげんなりした。
「ただの夢だとしても、気になりすぎるだろ……」
