人は変わるが、ここにも一人「社会」に対して不満を持つ者がいた。
ただ、不満があると言っても沢村とは訳が違う。割合に真面目な不満だ。
次は、沢村といずれ関わりあう事となる彼女の話しである。
彼女の名前は新川 由紀子(28歳)比較的に真面目な性格だ。
友達も多くて、クラブは中学生の頃からテニス部。両親はいたって普通だし、暮らしはよくある中流家庭。
よくある私立の短大を出て、いくつか資格は取りつつも特にやりたい事もない彼女。
とりあえず、会社員として事務職に就職した。
しかし、その会社の幹部役員の愛人だった女性に睨みを付けられてからは全ての歯車が狂った。
無理な仕事を押し付けられるようになり、会社では空気扱い。いわゆるシカト。
お昼もトイレも一人で…そんな毎日だった。
彼女が退社を考えるようになるまで、時間はそうかからなかった。
彼女は退職してすぐに再就職を目指したが、前職での事が頭をよぎり一時はパニック障害にまで陥る。
そのせいか、交際し結婚間近だった彼氏から別れを告げられた。
現在彼女は、派遣会社に登録し派遣社員として何とか日々生活をしていた。
「え…?契約解除……ですか?」
白桃色の携帯電話を持つ彼女の手からは、冷たい汗が一気ににじみ出ていた。
「えぇ、すみませんねぇ…。事業所の方から人材として適さないと報告がね…。」
電話の向こうから醜い笑いが入り混じったような声が漏れ、新川の憤りは喉を割いて今にも相手を切り刻みそうなほどに込み上げてきていた。
「おかしいじゃないですか!!一年半も働いてきたんですよ!?」
こっちが何を言っても派遣会社の応対係りはひょうひょうとすり抜け、結局は都合良く解雇されると言う横暴な現実が覆る事もなかった。
「どうしよう…。」
通話の途絶えた携帯電話を握り締めたまま、彼女は失意のせいか足を絡ませた。
躓いた瞬間に、世界が全て真っ白になって終わったような錯覚さえした。
「イタッ…何してんだろワタシ…。」
アスファルトに打ち付けた左膝からは少し血が滲み出て、履き慣れたストッキングにも穴が開いてしまっていた。路上にへたり込んでいても、行き交う人は誰も相手にしない。
「とにかく帰ろう。」
モノクロに漂う人波は無機質で冷たく、フラフラと家路をたどる彼女は自分がどんどん凍えていくような心地だった。
「もぅ…死ぬ…。」
彼女はそう言って足の踏み場もないほど散らかった自分の部屋になだれ込んだ。
「あぁぁぁぁーーーっ!」
万年床に近いシングルベッドに飛び込むと、彼女はウップンを晴らすかのように大声を放って、顔を枕にうずめた。
しばらく、彼女はベッドに体を埋めるように沈み込め、枕に涙を吸わせていた。そうでもしないと心の限界がきてしまうのだろう。
「………」
部屋には耳障りな秒針の音だけ残響し、これほどにないほど強く時がただ流れていることを強調している。
そうだ、どんな現実の渦中にあったとしても時間だけは確実に経っていく。収入が途絶えれば生活は成り立たない。
「仕事…探さなきゃ…。」
まず、彼女の脳裏を過ぎったのは栗田律子の存在だ。最近はめっきり連絡すら取らない学友だが、上手くいけばそれなりのコネクションを期待できる友人である。
「頼むリツコ…!このままじゃ、私…。」
話しも早々に新川が懇願すると、電話の向こう側でため息が漏れるのが聞こえた。
「うーん、そう言われてもさぁ…だって、あんた歳いくつよ?」
彼女は返す言葉もなかった。だが、ここで引き下がるわけには行かない。
「無茶苦茶なのはわかってるの!でも…。」
しばらく重ったるい沈黙が続き、時計の秒針だけがカチコチと音を立てていた。
「私も会社で幅の利く立場とかじゃないし、それなりにパイプはあるけど…。ユキっちにできる仕事は…、バイトでも良いんなら何とかできるけどさぁ…。」
さすが頼みの綱、後一押しすれば…。
「私何でもするからっ!!お願いっ!!」
こんなみっともない自分に溜息をつく暇もなく、私は何とか友達の紹介でアルバイト先を見つけることができた…。
だけど、私の気付かない内に社会はとんでもない方向に進んでいたのだ。
すぐそこまで迫っていたそれに、気付けたのは新しいバイトを始めて一週間ほど経った頃だった。
【2022年四月三日衆議院「23区・説明会特別便国民一斉送付」開始】
アルバイトでは収入が全く追いつかないのが目に見えていた私は、いくつか他にもかけもちをしていた。
派遣をしていた時も忙しいあまりに家にも帰らないことがあったけど、今も勤務時間が増えた割りに収入が下がったぐらいの変化しかない。
で、こんな私が国からのお知らせにすぐ気付けるわけがない。
「何これ?」
久しぶりに開けた郵便受けに、何やら納付書などでよく見かける封筒が入っていた。中を部屋で開けてみると、発送日にふと目がいって…日付は既に三週間前以上だった。
「税金かなぁ~…?嫌だなぁ~。そう言や、派遣辞めてから手続き何もしてなかったし…。」
脳裏に浮かぶ予想はどれも「出費」の一言。それでも見ないわけにもいかないし、何やらゴチャゴチャ書いてある書面を見出しから読んだ。
「え~っと…、23区・説明会特別便…?五月十五日から始まる「23区」について、お住まいの近く公民館・学校などで説明会を行います。説明会では「区画カード」を配布致します。必ずご出席下さい。何かのご都合で説明会への参加が難しい方は四月二十九日までに下記の電話番号までお知らせ下さい…か。って、二十九日は既に過ぎちゃってるよ…。」
枠の中に「説明会会場」の日時・場所が明確に記載されていた。
説明会は五月一日…既に終わっているようだった。
「やべ…全然話しがわからないんだけど……。そうだ!こんな時は頼みのリツコに…!」
彼女は夕食のインスタントラーメンをお湯に入れ、さっそうと携帯電話を手に取った。
「全く…また訳のわからない法律のせいで…、ちょっとは労働者の事も考えて欲しいわ。」
ふとカーテンを開けてみるとやけに外は暗く、いつも光々しい灯りが鈴なりしている近くの府営団地でさえ真っ暗だった。
トゥルルル…トゥルルルル…
「…出ない。マジ…?」
いつまでも呼び出し音しか聞こえない。シカトするような子じゃないのは自分が一番よく知っているが、何か漠然とした不安が込み上げて来ていた。
「ちょっと…待って、確か五月一日って他のバイトが結構休みだった…。リツコの紹介で行った所も…短期の登録系も全部…。私はあの日、一日中寝ていたけど。しまったなぁ…郵便ポスト見ておくんだった…。ん…?そう言えば…。」
彼女は各バイト場で上司の言っていた事を思い出した。
確か「今度できる法律の関係でしばらくシフトは作れないから、五月十四日以降のシフトはとりあえず未定で。」と、そんな事を言っていたような気がする……。
「今日は何日だっったっけ…?えっ?もう十四日…?」
正確には後数時間で五月十五日だ。やけに暗い街にひとけのない歩道。シフトを作れないバイト先に、この「23区説明会」…何かがおかしい嫌な感じだ。
彼女はもう一度「23区・説明会特別便」をよく見てみた。
…めくれる…?納付通知書などによくある糊付けだ。
めくってみると、また他に何やら書いてある。
「うんとぉ…尚、この通知書は重要な送付物ですので必ず保管しておいて下さい。指定の日時に説明会へ参加されなかった方については五月十日にまで必ずご連絡下さい。」
更によく見ると、赤字で注意書きのようなものがある。
* 期日内に通知書の指示に応じない方・従わない方につきましては、いかなる諸事情があっても法律違反となる為、不服を申し立てる事ができません。あらかじめご了承下さい。
「どうなってるのよ…これ…?誰でも良いから聞いてみないと…!」
彼女は携帯電話に入っているアドレスを片っ端から当たった。ことごとく呼び出し音だけが空しく響く。携帯会社の留守番電話サービスにすらならない。
「外に出てみよう…、コンビニなら誰かいるよね…。」
仕事に明け暮れていたせいで世の中の流れは掴めていなかったのは確かだけど、どうにも様子がおかしい。外はまるでゴーストタウンそのものだ。
まだ、夜の十二時を過ぎたばかりだと言うのに…三車線の国道ですら車の影一つもない。
とは言え、行きつけのコンビニには数分で着くことができた。
「あっちの角を曲がった所に…あれっ…?」
他の店舗がシャッターを閉めているのと同じく、24時間営業のコンビニもしっかり店仕舞いがされていた。
「真っ暗…ありえない…マジでぇ!?」
通行人を探せど、野良犬が一匹ゴミ箱を漁っているぐらい。
あの目も眩むような繁華街の方でさえ、電気がほとんど点いていない。
無機質な電灯の光も次第に消えていく…。
月明かりだけが照らす歩道は、いつも普段見ているものとは別物のようだ。
急に立ち込めた闇は、私にとって「恐怖」そのものでしかない。
「だっ……誰かぁーーーーっっ!!」
大声を出して走り出しても一向に人が見つからない。
警察署に消防署…病院に駅…ダメだ…民家ですら人がいない…一体どうなってるの!?
「はぁっ…っ…はぁ…なんで!?なんで誰もいないのよ!!」
いつの間にか知らない路地に入っていたのか、右も左もわからない。
電気の点いていない家屋が両脇から倒れるように現れてくる。
月の光だけがぼんやりと浮かべる家は、これほどにまでないほど薄気味悪かった。
「ここどこ?……もぅ!っ……?あれ、灯りが点いた家………やった!人だ!」
これほどまで人が恋しいと思った事はない。何せ街ごと無人になってしまったような感じだったから、私は小走りで明かりの方へ向った。
小窓から細々と漏れる小さな灯火は、まるで木漏れ日のような温もりさえ滲んでいるように見える。
「すいません!誰か!」
飛び入るようにして家のようなところに入ったが、誰もいない。いや、居た形跡はあるようだ…。食卓の上には、氷の入ったコーヒーが飲みかけで置いてある。氷もまだ入れたばかりなのだろう、大きな粒が多い。
「…あのぉ~?どなたかいらっしゃいませんかぁ?…ん~、でも変な所。家のようで…事務所のような感じもするし…。ん?…共生党事務所?」
どこかで聞いたことがあったような名前だと思った。
確か、政治の話とかで…具体的に共生党がどう言うものかは全然知らないけど…。
何気なく食卓の方へ手を伸ばし、置いてある資料のような物に目をやった。難しい言葉が沢山…。あ、これ…「23区」って言葉が書いてある。
私はその資料を見ようと手を伸ばし、取ろうとしたが、資料の端に置いてあった空き缶がひっくり返って落ちていってしまった。
カコン!
「誰だ!」
「きゃっ!!?」
図太い男の声が背中を貫いた。奥の部屋に続く廊下辺りからだ。廊下の方をすぐに見たのに姿はない。
声のした方を向いて身構えていると、また声だけが響いた。
「政府の犬どもか!?」
廊下に続く扉がゆっくりと開き、中年の頑固そうな男が私をきつく睨んだ。
「あの…あたし…!!」
男は気を許す気配もなく、こちらの挙動を伺っている。よく目を凝らしてみると、男は右手の内に何かを持っているようだ。
「…………どうやら政府機関の人間ではなさそうだな。」
うろたえるばかりの私を見て、男は警戒心を解いた様子だった。この人に聞こう、何か知っているに違いない…。
「その…あの、街に誰もいなくて…一体どうなってるんですか?」
男は何も答えずにリビングへと入ってきた。
「先にそこにある雑巾で床をふいてくれ。話はその後だ。」
まるで昔の姑か何かを髣髴とさせる言いよう。
私はしぶしぶながら、床に落ちた空き缶を拾って、雑巾でさっと拭いた。
「それで良い。何事も順序と言うものが肝要なのでね。そこに座りたまえ。」
中年の男は神経質そうな顔をようやく僅かに緩め、食卓にある木製のイスに腰掛けるよう言い、向かい側に男もドッシリと座った。
「あの…その…。」
私は何から話そうか迷った。街には誰もいないし、店も全部閉まっている。
それに街灯まで消えて…まるで本当のゴーストタウン。
質問の切り出し方をすっかり見失うほど、私は頭の中がゴチャゴチャだった。
口ごもっている私をちらっと見て、男は名刺を差し出してきた。
「まずは私から名乗ろうか。私の名前は筑波 繁だ。そこに書いてある通り、共生党の民奉員をしている。この事務所の統括だ。」
何だかわからないが、私はとりあえず会釈をした。
「あ…えっと、私は新川由紀子と申します…。」
職業はアルバイト…なんて格好悪っ…。相手が「事務所の統括」だなんて言うから余計に言えない。とりあえず、名前だけで止めておこう。
「私は23区法案に反対でね、ここに今は潜伏しているんだ。…しかし、ここはもう出ようと考えている。見つかるのは時間の問題だしな。今日はXデーだ。ここは放棄しなければならないだろう。」
話が全く見えてこないので、私は聞きたい事をまずまとめようと黙って考えていた。
けども、この一方的な出会いは一方的にしか話が進まないようだ。
「そろそろ時間だ。」
男は私に外へ出るよう伝えると、部屋の電気を消して家の裏路地へと導いた。
「来るぞ。」
「えっ?来るって?」
何が何か全く意味がわからない。目を上瞼に向けてクルクル回し、私はただ混乱しているだけだった。
裏路地の狭い道を縫うように黒塗りのタクシーが闇の中からボゥっと出てきた。
「私の仲間だ。これで逃げるぞ。」
「逃げる?」
質問に答えもせず、筑波さんは私の背中を右手で強引に押し、タクシーの後部座席へ追いやった。
「あんたは?」
乗車するなり運転手の男はそう言った。あんたは?と聞かれても、こっちはこっちであんた誰だよって言いたいんだけど…?
「その子は民間人だ。多分区画整理で漏れてしまったんだろうと思ってな。」
遅れて助手席に筑波が座った。真っ暗な街路地をヘッドライトだけが照らし、動いてもいないのに車内は揺れるているような、不思議な浮遊感が漂っている。
「計画通りで良いんだな?」
運転手の男はこけ気味の頬を細めて、タバコを咥えながらそう言った。筑波は「あぁ。」と頷き、シートベルトをしっかりと締めた。
「えーと…新川さんだったね?」
筑波は後部座席に目線をちらっと送って尋ねてきた。
私が「はい」と答えると、なにやら資料のようなものを体をねじって渡してきた。
「それは23区法案についてと、私らの計画についてだ。車の中ではゆっくり読めないと思うが、目を通しておいて欲しい。ひとまず、そこに書いてもあるんだが、これから私らは区画外へ向う。そこで同士らと合流する予定になっている。」
当然何の話かわからない私は「はぁ…」と、要領の得ない答え方しかできなかった。それでも、この男達は全くもってお構いなし。話を一方的に進める。
「道中は少し危険な事もあるかもしらんが、合流場所に着くまで我慢してくれ。」
よくわかりもしないのに「はい」とは言いたくないけど、この状況では「いいえ」なんて言える訳がないし、ひとまずどこへ向うかだけは聞いておこうと私は思った。
「あの、合流地点ってどこですか…?」
「富士の樹海だ。」
「えっ!!?」
そんな恐ろしい話は聞いたことがないと私が思う暇などなかった。
キィーーーーーーーッ!
いきなり車は急発進し、私の体は一気に重力で締め付けられた。やっぱり、「いいえ」って言えばよかった…。
「どうした!!?」
筑波が慌てて運転手にそう言ったが、運転手の表情には鬼気迫るものがあり、既に額から汗がじわじわと滲み出していた。
「後ろだ!あいつら人数がそろうのを待ち伏せていやがった!」
黒塗りのタクシーは灯りのない暗闇の路地を切り込むように疾走し出した。
ただでさえ狭い路地で、闇の中ではもはや角も壁も明確に区別などできもしない。
それでも車は右左折を敢行する。車体が削れようが、ライトが割れようがお構いなしだった。
「キャァァーーーーッ!」
あまりの怖さで私は曲がる度に声を上げずにいられなかった。
それでも車は何かから逃げるように走った。
ギャリギャリ!ガンッガンッ!キュルルルッル
「しっかり捕まってろ女!」
道端のゴミ箱や電柱にぶつかりながら車は路地を抜け、三車線の国道に踊り出た。
それと同時に運転手は一気にアクセルを踏む。
タコメーターは時速120kmを超え、都会の超高層ビルも一瞬でかき飛ばしていった。
由紀子は恐怖でどうにかなりそうになりながらも、恐る恐る後ろを振り返った。
後方からは数台の黒い車が追いかけてきていた。
もう、車体がはっきり見えるほどのところまで迫っている。何故追いかけられているのか、それすら彼女にはわからない。この状況でなぜパトカーでなく黒塗りの怪しい車なのかだと言う疑問すら小さく思えた。
お互いスピードを落とす気配など一切なく、無人の国道を車線など無視しながら、月明かりだけを頼って走り抜ける。
これは「鬼ごっこ」のような雰囲気ではない。生きるか死ぬか、まさにその瀬戸際。その緊張感と緊迫感で息もできない。
「追いつかれてるぞ!」
精神的に強そうな筑波の顔もさすがに焦りが見えていた。由紀子はもはや他人の心配などできる余裕もなく今にも泡を吹き出しそうだった。
「左に曲がるぞ!!」
運転手はありったけの声で叫んだ。車は反対車線側に飛び出し、更に加速しながら大きな交差点へと思いっきり差し込んだ。
キュィイィーーーーーーーッ!
それを追っていた車も更に加速する。
月下の交差点にタイヤの急旋回する音が叫びのように響き渡る。
幾つもの黒い鉄の塊が白煙を上げながら方向転換していく。
キィィーーーーーーーーーッ! キュルキュルキュル!
目も追いつけないような速さで景色は飛び、体は激しい遠心力であさっての方向に何度も圧迫される。由紀子は後悔した上で、死を覚悟していた。それほどの恐怖だった。
「おいっ!あれは何なんだ!?」
運転手は声を荒げて前方を指した。
暗天の中、三車線の公道を何かが占拠しているのが薄っすら月明かりでわかる。…とても大きな車のようだが…。
「曲がれっ!引き返せ!」
既に冷静さを失っている筑波は無茶苦茶な事を指示していた。
どう考えても曲がれそうにないし、前方の巨大な物体は目前にまで迫っていたのだ。
「君達は包囲されている。車を今すぐ停車しなさい。指示に従わない場合は発砲する。」
巨大な街宣車のような車のてっぺんに男が見え、パトカーのよく使っているスピーカーで私達にそう呼びかけた。
「どうするんだよ!!予定が…めちゃくちゃだっ!!」
行くも地獄、戻るも地獄。それでも、筑波はストップするような指示を出さなかった。
「突っ込め!それしかない!」
車は最高速まで加速した。
目の前にあるように思えた物体はかなり大きく、どんどんと近づけば近づくほどにその図体を増すばかりだった。
「照明点灯!」
さっきの男が号令を発した。刹那にして目も眩むような光が辺り一辺を包んだ。
「うわっ!見えねぇっ!!」
咄嗟に運転手はブレーキを踏み込んでしまった。何しろ、前も後ろも真っ白な光で覆われてしまっていて、方向すらわからない。光の蒸発現象である。
「狙撃体勢準備!打てっ!」
カシャ!パンパン!
僅かに光度が落ちた一瞬を縫って、銃弾が私達を襲った。
だが、命中したのはどうやら車のタイヤのようだった。ガクンと車体は傾き、私達は逃げる術を失ったのだ。
「確保しろ。」
野球スタンドを照らしているあの大型の照明機材が幾つも並んでいるのが目に映る。あの巨大な車はそれを搭載して私達を囲んでいたのだ。一体これは何なのか、私にとっては、もはや夢なのか現実なのか区別すらできない。
「やられた…。」
筑波は助手席にうずまり込み、ガックりと肩を落とした。運転手の男もうなだれるようにハンドルに顔をうずめて突っ伏していた。車内にはエンディングロールでも流れているような終幕の雰囲気ですっかり満たされていた。私だけ、全然違う気分だけど。
外には私達の車を囲む大勢の人間が居た。同じ人間なのか?私はそんな疑問さえ抱かずにいられなかった。
なぜなら、私らを包囲しているヤツらはまるで軍隊のような特殊兵装で身を固め、シールドで防御しながら銃口をこちらに向けているのだ。一人ではない、数百人・数千人が同じ格好で車内の様子を伺っているのだ。
「私…何かしたっけ…?ハハッ…」
とうとう私も訳のわからない一線を越え、外の光景を鼻で笑っていた。ここまでやる意味がわからないし、私がなぜこんな目にあっているのか、そもそも…いいや、もぅ。
考えたって仕方ないよ。とりあえず捕まって、刑務所か何かに送られて私の一生は終わるんだろうし、どっちかって言うと私は被害者なんだから。
うなだれる私を連れ、得体の知れない連中は何も話す事なく。無機質な動きでモノでも扱うように私を護送車の中に放り込んだ。
これが、全ての序章に過ぎない事を私はまだ知らない…。
ただ、不満があると言っても沢村とは訳が違う。割合に真面目な不満だ。
次は、沢村といずれ関わりあう事となる彼女の話しである。
彼女の名前は新川 由紀子(28歳)比較的に真面目な性格だ。
友達も多くて、クラブは中学生の頃からテニス部。両親はいたって普通だし、暮らしはよくある中流家庭。
よくある私立の短大を出て、いくつか資格は取りつつも特にやりたい事もない彼女。
とりあえず、会社員として事務職に就職した。
しかし、その会社の幹部役員の愛人だった女性に睨みを付けられてからは全ての歯車が狂った。
無理な仕事を押し付けられるようになり、会社では空気扱い。いわゆるシカト。
お昼もトイレも一人で…そんな毎日だった。
彼女が退社を考えるようになるまで、時間はそうかからなかった。
彼女は退職してすぐに再就職を目指したが、前職での事が頭をよぎり一時はパニック障害にまで陥る。
そのせいか、交際し結婚間近だった彼氏から別れを告げられた。
現在彼女は、派遣会社に登録し派遣社員として何とか日々生活をしていた。
「え…?契約解除……ですか?」
白桃色の携帯電話を持つ彼女の手からは、冷たい汗が一気ににじみ出ていた。
「えぇ、すみませんねぇ…。事業所の方から人材として適さないと報告がね…。」
電話の向こうから醜い笑いが入り混じったような声が漏れ、新川の憤りは喉を割いて今にも相手を切り刻みそうなほどに込み上げてきていた。
「おかしいじゃないですか!!一年半も働いてきたんですよ!?」
こっちが何を言っても派遣会社の応対係りはひょうひょうとすり抜け、結局は都合良く解雇されると言う横暴な現実が覆る事もなかった。
「どうしよう…。」
通話の途絶えた携帯電話を握り締めたまま、彼女は失意のせいか足を絡ませた。
躓いた瞬間に、世界が全て真っ白になって終わったような錯覚さえした。
「イタッ…何してんだろワタシ…。」
アスファルトに打ち付けた左膝からは少し血が滲み出て、履き慣れたストッキングにも穴が開いてしまっていた。路上にへたり込んでいても、行き交う人は誰も相手にしない。
「とにかく帰ろう。」
モノクロに漂う人波は無機質で冷たく、フラフラと家路をたどる彼女は自分がどんどん凍えていくような心地だった。
「もぅ…死ぬ…。」
彼女はそう言って足の踏み場もないほど散らかった自分の部屋になだれ込んだ。
「あぁぁぁぁーーーっ!」
万年床に近いシングルベッドに飛び込むと、彼女はウップンを晴らすかのように大声を放って、顔を枕にうずめた。
しばらく、彼女はベッドに体を埋めるように沈み込め、枕に涙を吸わせていた。そうでもしないと心の限界がきてしまうのだろう。
「………」
部屋には耳障りな秒針の音だけ残響し、これほどにないほど強く時がただ流れていることを強調している。
そうだ、どんな現実の渦中にあったとしても時間だけは確実に経っていく。収入が途絶えれば生活は成り立たない。
「仕事…探さなきゃ…。」
まず、彼女の脳裏を過ぎったのは栗田律子の存在だ。最近はめっきり連絡すら取らない学友だが、上手くいけばそれなりのコネクションを期待できる友人である。
「頼むリツコ…!このままじゃ、私…。」
話しも早々に新川が懇願すると、電話の向こう側でため息が漏れるのが聞こえた。
「うーん、そう言われてもさぁ…だって、あんた歳いくつよ?」
彼女は返す言葉もなかった。だが、ここで引き下がるわけには行かない。
「無茶苦茶なのはわかってるの!でも…。」
しばらく重ったるい沈黙が続き、時計の秒針だけがカチコチと音を立てていた。
「私も会社で幅の利く立場とかじゃないし、それなりにパイプはあるけど…。ユキっちにできる仕事は…、バイトでも良いんなら何とかできるけどさぁ…。」
さすが頼みの綱、後一押しすれば…。
「私何でもするからっ!!お願いっ!!」
こんなみっともない自分に溜息をつく暇もなく、私は何とか友達の紹介でアルバイト先を見つけることができた…。
だけど、私の気付かない内に社会はとんでもない方向に進んでいたのだ。
すぐそこまで迫っていたそれに、気付けたのは新しいバイトを始めて一週間ほど経った頃だった。
【2022年四月三日衆議院「23区・説明会特別便国民一斉送付」開始】
アルバイトでは収入が全く追いつかないのが目に見えていた私は、いくつか他にもかけもちをしていた。
派遣をしていた時も忙しいあまりに家にも帰らないことがあったけど、今も勤務時間が増えた割りに収入が下がったぐらいの変化しかない。
で、こんな私が国からのお知らせにすぐ気付けるわけがない。
「何これ?」
久しぶりに開けた郵便受けに、何やら納付書などでよく見かける封筒が入っていた。中を部屋で開けてみると、発送日にふと目がいって…日付は既に三週間前以上だった。
「税金かなぁ~…?嫌だなぁ~。そう言や、派遣辞めてから手続き何もしてなかったし…。」
脳裏に浮かぶ予想はどれも「出費」の一言。それでも見ないわけにもいかないし、何やらゴチャゴチャ書いてある書面を見出しから読んだ。
「え~っと…、23区・説明会特別便…?五月十五日から始まる「23区」について、お住まいの近く公民館・学校などで説明会を行います。説明会では「区画カード」を配布致します。必ずご出席下さい。何かのご都合で説明会への参加が難しい方は四月二十九日までに下記の電話番号までお知らせ下さい…か。って、二十九日は既に過ぎちゃってるよ…。」
枠の中に「説明会会場」の日時・場所が明確に記載されていた。
説明会は五月一日…既に終わっているようだった。
「やべ…全然話しがわからないんだけど……。そうだ!こんな時は頼みのリツコに…!」
彼女は夕食のインスタントラーメンをお湯に入れ、さっそうと携帯電話を手に取った。
「全く…また訳のわからない法律のせいで…、ちょっとは労働者の事も考えて欲しいわ。」
ふとカーテンを開けてみるとやけに外は暗く、いつも光々しい灯りが鈴なりしている近くの府営団地でさえ真っ暗だった。
トゥルルル…トゥルルルル…
「…出ない。マジ…?」
いつまでも呼び出し音しか聞こえない。シカトするような子じゃないのは自分が一番よく知っているが、何か漠然とした不安が込み上げて来ていた。
「ちょっと…待って、確か五月一日って他のバイトが結構休みだった…。リツコの紹介で行った所も…短期の登録系も全部…。私はあの日、一日中寝ていたけど。しまったなぁ…郵便ポスト見ておくんだった…。ん…?そう言えば…。」
彼女は各バイト場で上司の言っていた事を思い出した。
確か「今度できる法律の関係でしばらくシフトは作れないから、五月十四日以降のシフトはとりあえず未定で。」と、そんな事を言っていたような気がする……。
「今日は何日だっったっけ…?えっ?もう十四日…?」
正確には後数時間で五月十五日だ。やけに暗い街にひとけのない歩道。シフトを作れないバイト先に、この「23区説明会」…何かがおかしい嫌な感じだ。
彼女はもう一度「23区・説明会特別便」をよく見てみた。
…めくれる…?納付通知書などによくある糊付けだ。
めくってみると、また他に何やら書いてある。
「うんとぉ…尚、この通知書は重要な送付物ですので必ず保管しておいて下さい。指定の日時に説明会へ参加されなかった方については五月十日にまで必ずご連絡下さい。」
更によく見ると、赤字で注意書きのようなものがある。
* 期日内に通知書の指示に応じない方・従わない方につきましては、いかなる諸事情があっても法律違反となる為、不服を申し立てる事ができません。あらかじめご了承下さい。
「どうなってるのよ…これ…?誰でも良いから聞いてみないと…!」
彼女は携帯電話に入っているアドレスを片っ端から当たった。ことごとく呼び出し音だけが空しく響く。携帯会社の留守番電話サービスにすらならない。
「外に出てみよう…、コンビニなら誰かいるよね…。」
仕事に明け暮れていたせいで世の中の流れは掴めていなかったのは確かだけど、どうにも様子がおかしい。外はまるでゴーストタウンそのものだ。
まだ、夜の十二時を過ぎたばかりだと言うのに…三車線の国道ですら車の影一つもない。
とは言え、行きつけのコンビニには数分で着くことができた。
「あっちの角を曲がった所に…あれっ…?」
他の店舗がシャッターを閉めているのと同じく、24時間営業のコンビニもしっかり店仕舞いがされていた。
「真っ暗…ありえない…マジでぇ!?」
通行人を探せど、野良犬が一匹ゴミ箱を漁っているぐらい。
あの目も眩むような繁華街の方でさえ、電気がほとんど点いていない。
無機質な電灯の光も次第に消えていく…。
月明かりだけが照らす歩道は、いつも普段見ているものとは別物のようだ。
急に立ち込めた闇は、私にとって「恐怖」そのものでしかない。
「だっ……誰かぁーーーーっっ!!」
大声を出して走り出しても一向に人が見つからない。
警察署に消防署…病院に駅…ダメだ…民家ですら人がいない…一体どうなってるの!?
「はぁっ…っ…はぁ…なんで!?なんで誰もいないのよ!!」
いつの間にか知らない路地に入っていたのか、右も左もわからない。
電気の点いていない家屋が両脇から倒れるように現れてくる。
月の光だけがぼんやりと浮かべる家は、これほどにまでないほど薄気味悪かった。
「ここどこ?……もぅ!っ……?あれ、灯りが点いた家………やった!人だ!」
これほどまで人が恋しいと思った事はない。何せ街ごと無人になってしまったような感じだったから、私は小走りで明かりの方へ向った。
小窓から細々と漏れる小さな灯火は、まるで木漏れ日のような温もりさえ滲んでいるように見える。
「すいません!誰か!」
飛び入るようにして家のようなところに入ったが、誰もいない。いや、居た形跡はあるようだ…。食卓の上には、氷の入ったコーヒーが飲みかけで置いてある。氷もまだ入れたばかりなのだろう、大きな粒が多い。
「…あのぉ~?どなたかいらっしゃいませんかぁ?…ん~、でも変な所。家のようで…事務所のような感じもするし…。ん?…共生党事務所?」
どこかで聞いたことがあったような名前だと思った。
確か、政治の話とかで…具体的に共生党がどう言うものかは全然知らないけど…。
何気なく食卓の方へ手を伸ばし、置いてある資料のような物に目をやった。難しい言葉が沢山…。あ、これ…「23区」って言葉が書いてある。
私はその資料を見ようと手を伸ばし、取ろうとしたが、資料の端に置いてあった空き缶がひっくり返って落ちていってしまった。
カコン!
「誰だ!」
「きゃっ!!?」
図太い男の声が背中を貫いた。奥の部屋に続く廊下辺りからだ。廊下の方をすぐに見たのに姿はない。
声のした方を向いて身構えていると、また声だけが響いた。
「政府の犬どもか!?」
廊下に続く扉がゆっくりと開き、中年の頑固そうな男が私をきつく睨んだ。
「あの…あたし…!!」
男は気を許す気配もなく、こちらの挙動を伺っている。よく目を凝らしてみると、男は右手の内に何かを持っているようだ。
「…………どうやら政府機関の人間ではなさそうだな。」
うろたえるばかりの私を見て、男は警戒心を解いた様子だった。この人に聞こう、何か知っているに違いない…。
「その…あの、街に誰もいなくて…一体どうなってるんですか?」
男は何も答えずにリビングへと入ってきた。
「先にそこにある雑巾で床をふいてくれ。話はその後だ。」
まるで昔の姑か何かを髣髴とさせる言いよう。
私はしぶしぶながら、床に落ちた空き缶を拾って、雑巾でさっと拭いた。
「それで良い。何事も順序と言うものが肝要なのでね。そこに座りたまえ。」
中年の男は神経質そうな顔をようやく僅かに緩め、食卓にある木製のイスに腰掛けるよう言い、向かい側に男もドッシリと座った。
「あの…その…。」
私は何から話そうか迷った。街には誰もいないし、店も全部閉まっている。
それに街灯まで消えて…まるで本当のゴーストタウン。
質問の切り出し方をすっかり見失うほど、私は頭の中がゴチャゴチャだった。
口ごもっている私をちらっと見て、男は名刺を差し出してきた。
「まずは私から名乗ろうか。私の名前は筑波 繁だ。そこに書いてある通り、共生党の民奉員をしている。この事務所の統括だ。」
何だかわからないが、私はとりあえず会釈をした。
「あ…えっと、私は新川由紀子と申します…。」
職業はアルバイト…なんて格好悪っ…。相手が「事務所の統括」だなんて言うから余計に言えない。とりあえず、名前だけで止めておこう。
「私は23区法案に反対でね、ここに今は潜伏しているんだ。…しかし、ここはもう出ようと考えている。見つかるのは時間の問題だしな。今日はXデーだ。ここは放棄しなければならないだろう。」
話が全く見えてこないので、私は聞きたい事をまずまとめようと黙って考えていた。
けども、この一方的な出会いは一方的にしか話が進まないようだ。
「そろそろ時間だ。」
男は私に外へ出るよう伝えると、部屋の電気を消して家の裏路地へと導いた。
「来るぞ。」
「えっ?来るって?」
何が何か全く意味がわからない。目を上瞼に向けてクルクル回し、私はただ混乱しているだけだった。
裏路地の狭い道を縫うように黒塗りのタクシーが闇の中からボゥっと出てきた。
「私の仲間だ。これで逃げるぞ。」
「逃げる?」
質問に答えもせず、筑波さんは私の背中を右手で強引に押し、タクシーの後部座席へ追いやった。
「あんたは?」
乗車するなり運転手の男はそう言った。あんたは?と聞かれても、こっちはこっちであんた誰だよって言いたいんだけど…?
「その子は民間人だ。多分区画整理で漏れてしまったんだろうと思ってな。」
遅れて助手席に筑波が座った。真っ暗な街路地をヘッドライトだけが照らし、動いてもいないのに車内は揺れるているような、不思議な浮遊感が漂っている。
「計画通りで良いんだな?」
運転手の男はこけ気味の頬を細めて、タバコを咥えながらそう言った。筑波は「あぁ。」と頷き、シートベルトをしっかりと締めた。
「えーと…新川さんだったね?」
筑波は後部座席に目線をちらっと送って尋ねてきた。
私が「はい」と答えると、なにやら資料のようなものを体をねじって渡してきた。
「それは23区法案についてと、私らの計画についてだ。車の中ではゆっくり読めないと思うが、目を通しておいて欲しい。ひとまず、そこに書いてもあるんだが、これから私らは区画外へ向う。そこで同士らと合流する予定になっている。」
当然何の話かわからない私は「はぁ…」と、要領の得ない答え方しかできなかった。それでも、この男達は全くもってお構いなし。話を一方的に進める。
「道中は少し危険な事もあるかもしらんが、合流場所に着くまで我慢してくれ。」
よくわかりもしないのに「はい」とは言いたくないけど、この状況では「いいえ」なんて言える訳がないし、ひとまずどこへ向うかだけは聞いておこうと私は思った。
「あの、合流地点ってどこですか…?」
「富士の樹海だ。」
「えっ!!?」
そんな恐ろしい話は聞いたことがないと私が思う暇などなかった。
キィーーーーーーーッ!
いきなり車は急発進し、私の体は一気に重力で締め付けられた。やっぱり、「いいえ」って言えばよかった…。
「どうした!!?」
筑波が慌てて運転手にそう言ったが、運転手の表情には鬼気迫るものがあり、既に額から汗がじわじわと滲み出していた。
「後ろだ!あいつら人数がそろうのを待ち伏せていやがった!」
黒塗りのタクシーは灯りのない暗闇の路地を切り込むように疾走し出した。
ただでさえ狭い路地で、闇の中ではもはや角も壁も明確に区別などできもしない。
それでも車は右左折を敢行する。車体が削れようが、ライトが割れようがお構いなしだった。
「キャァァーーーーッ!」
あまりの怖さで私は曲がる度に声を上げずにいられなかった。
それでも車は何かから逃げるように走った。
ギャリギャリ!ガンッガンッ!キュルルルッル
「しっかり捕まってろ女!」
道端のゴミ箱や電柱にぶつかりながら車は路地を抜け、三車線の国道に踊り出た。
それと同時に運転手は一気にアクセルを踏む。
タコメーターは時速120kmを超え、都会の超高層ビルも一瞬でかき飛ばしていった。
由紀子は恐怖でどうにかなりそうになりながらも、恐る恐る後ろを振り返った。
後方からは数台の黒い車が追いかけてきていた。
もう、車体がはっきり見えるほどのところまで迫っている。何故追いかけられているのか、それすら彼女にはわからない。この状況でなぜパトカーでなく黒塗りの怪しい車なのかだと言う疑問すら小さく思えた。
お互いスピードを落とす気配など一切なく、無人の国道を車線など無視しながら、月明かりだけを頼って走り抜ける。
これは「鬼ごっこ」のような雰囲気ではない。生きるか死ぬか、まさにその瀬戸際。その緊張感と緊迫感で息もできない。
「追いつかれてるぞ!」
精神的に強そうな筑波の顔もさすがに焦りが見えていた。由紀子はもはや他人の心配などできる余裕もなく今にも泡を吹き出しそうだった。
「左に曲がるぞ!!」
運転手はありったけの声で叫んだ。車は反対車線側に飛び出し、更に加速しながら大きな交差点へと思いっきり差し込んだ。
キュィイィーーーーーーーッ!
それを追っていた車も更に加速する。
月下の交差点にタイヤの急旋回する音が叫びのように響き渡る。
幾つもの黒い鉄の塊が白煙を上げながら方向転換していく。
キィィーーーーーーーーーッ! キュルキュルキュル!
目も追いつけないような速さで景色は飛び、体は激しい遠心力であさっての方向に何度も圧迫される。由紀子は後悔した上で、死を覚悟していた。それほどの恐怖だった。
「おいっ!あれは何なんだ!?」
運転手は声を荒げて前方を指した。
暗天の中、三車線の公道を何かが占拠しているのが薄っすら月明かりでわかる。…とても大きな車のようだが…。
「曲がれっ!引き返せ!」
既に冷静さを失っている筑波は無茶苦茶な事を指示していた。
どう考えても曲がれそうにないし、前方の巨大な物体は目前にまで迫っていたのだ。
「君達は包囲されている。車を今すぐ停車しなさい。指示に従わない場合は発砲する。」
巨大な街宣車のような車のてっぺんに男が見え、パトカーのよく使っているスピーカーで私達にそう呼びかけた。
「どうするんだよ!!予定が…めちゃくちゃだっ!!」
行くも地獄、戻るも地獄。それでも、筑波はストップするような指示を出さなかった。
「突っ込め!それしかない!」
車は最高速まで加速した。
目の前にあるように思えた物体はかなり大きく、どんどんと近づけば近づくほどにその図体を増すばかりだった。
「照明点灯!」
さっきの男が号令を発した。刹那にして目も眩むような光が辺り一辺を包んだ。
「うわっ!見えねぇっ!!」
咄嗟に運転手はブレーキを踏み込んでしまった。何しろ、前も後ろも真っ白な光で覆われてしまっていて、方向すらわからない。光の蒸発現象である。
「狙撃体勢準備!打てっ!」
カシャ!パンパン!
僅かに光度が落ちた一瞬を縫って、銃弾が私達を襲った。
だが、命中したのはどうやら車のタイヤのようだった。ガクンと車体は傾き、私達は逃げる術を失ったのだ。
「確保しろ。」
野球スタンドを照らしているあの大型の照明機材が幾つも並んでいるのが目に映る。あの巨大な車はそれを搭載して私達を囲んでいたのだ。一体これは何なのか、私にとっては、もはや夢なのか現実なのか区別すらできない。
「やられた…。」
筑波は助手席にうずまり込み、ガックりと肩を落とした。運転手の男もうなだれるようにハンドルに顔をうずめて突っ伏していた。車内にはエンディングロールでも流れているような終幕の雰囲気ですっかり満たされていた。私だけ、全然違う気分だけど。
外には私達の車を囲む大勢の人間が居た。同じ人間なのか?私はそんな疑問さえ抱かずにいられなかった。
なぜなら、私らを包囲しているヤツらはまるで軍隊のような特殊兵装で身を固め、シールドで防御しながら銃口をこちらに向けているのだ。一人ではない、数百人・数千人が同じ格好で車内の様子を伺っているのだ。
「私…何かしたっけ…?ハハッ…」
とうとう私も訳のわからない一線を越え、外の光景を鼻で笑っていた。ここまでやる意味がわからないし、私がなぜこんな目にあっているのか、そもそも…いいや、もぅ。
考えたって仕方ないよ。とりあえず捕まって、刑務所か何かに送られて私の一生は終わるんだろうし、どっちかって言うと私は被害者なんだから。
うなだれる私を連れ、得体の知れない連中は何も話す事なく。無機質な動きでモノでも扱うように私を護送車の中に放り込んだ。
これが、全ての序章に過ぎない事を私はまだ知らない…。


