頭が、割れるように痛い。
頭を押さえながら、私はゆっくりと目を開けた。見上げた先には、見知らぬ天井。金色の装飾に囲まれた
美術館のように豪華な天井画。
「え...?」
枕元に広がるシーツはシルク。手に触れる感触はさらさらとして、今まで感じたことのない上質なものだった。
身体を起こすと、視界に入るのは...フリルとレースのドレス。
しかも、それを着ているのは自分。
「なにこれ、どういう...」
慌てて立ち上がり、近くにあった鏡の前に駆け寄って自分の姿を見る。そこに映っていたのは、見知らぬ少女いや、確かに私だった。
でも、私じゃない。
ブロンドの巻き髪。深紅のドレス。薄く開かれた唇は、気品のある笑みを浮かべていた。
「え、待って...嘘でしょ...?」
次の瞬間、脳の奥を何かが駆け抜けた。
クラリス・ヴァレンティナ。
貴族ヴァレンティナ家の令嬢にして、婚約者はこの国の第一王子。
そして、運命に逆らい敗北する悪役令嬢
もちろん小説の中の話
「まさか...嘘...。私、クラリスになってる...?」
ぐらり、と視界が揺れた。膝が崩れそうになるのをベッドに手をついて堪える。
私は、昨日まで日本で働くただの社会人だった。
毎日残業、コンビニご飯、休日もメール対応。
そんな疲れ切った日々の中、癒やしだったのがあの小説。
恋も運命もただの脚本に過ぎなくて見飽きた筋書きでもまた見たくなるような物語。
その中で私は、 クラリス・ヴァレンティナという悪役令嬢が大好きだった。
どこまでも自分を貫き通して、最後は悲劇的な終焉を迎える、美しくて悲しいキャラクター。
決意した。
この人生、好きなように生きてやるって。
でも...。
「なんで、屋敷の外に出るのに許可がいるのよ...」
私は今、クラリスの執事とにらみ合っていた。
優雅な顔を保ってはいるが、その実、内心ではめちゃくちゃ苛立っている。
「お嬢様、身分あるご令嬢が一人で市街地など...いかがなものかと。」
クラリスの執事の言い分は正しい。
ここは貴族の階級がすべてを支配する世界。
しかも私は、ヴァレンティナ家の一人娘。外に出る=社交の場=政略の駒となるに違いない。
でも、私はそんなの求めてなんかない。
「いいから、ちょっとだけ外に出たいの。気分転換に」
「お供を...。」
「一人がいいのよ」
執事の表情が微妙にひきつる。クラリスにとってはいつものわがままに見えているのだろう。
それでいい。中身が入れ替わっているなんて、絶対誰にも知られてはならない。
「わかりました。短時間でお戻りくださいませ」
「ええ、もちろん」
にっこりと笑ってみせる。
令嬢スマイルもずいぶん短時間ではあるが慣れてきた。
屋敷を出て、クラリス...いや、私はようやく息をついた。
「ふーっ...空気うまっ...!屋敷ってこんなに息苦しかったの...?」
視線の先には、王都の朝市。活気のある通りに、パン屋の香ばしい匂い、農民たちの笑い声、魔道具を売る屋台。
そのどれもが、小説で読んだ背景の内容ではなく、本当に生きている景色だった。
「やっぱり、私はこういうところで暮らしたい」
物語の破滅ルートなんか、もう知らない。
婚約も、恋愛も、社交も、政略もいらない。
欲しいのは、静かに、穏やかに、自由に生きられる場所。
「郊外に、小さな屋敷でもあればなぁ...」
そのとき、ふと背後から声がした。
「おや、クラリス様。お一人ですか?」
振り向いた先に立っていたのは、黒髪に整った軍服。
それは物語の一番最初の攻略対象の一人。
「リヒト・アスガルド侯爵令息...」
そう。
彼はクラリスの破滅イベントの引き金を引く一人。
そしてこの出会いこそが、物語のルートでは決して起こらないはずのイレギュラー的存在。
この物語は、もう元の脚本通りじゃ進まない。
だって、クラリスになった私はクラリスの代わりに破滅の運命をぶっ壊して、自分の人生を生きるって決めたから。
「クラリス様、お一人で朝市とは...珍しいですね。」
整った顔立ち、黒曜石のように冷たい瞳。
物語の中でも、群を抜い一番の攻略対象。
リヒト・アスガルド侯爵令息
冷徹な若き魔法軍師であり、クラリスを見下し、蔑み、断罪する男。
「ええ、ちょっと気分転換に」
私の返事に、彼の眉がわずかに動いた。
その反応が、妙に引っかかる。
そうだ、リヒトは知っているはずだ。元のクラリスが、こんな態度を取らないことを。
「ふふ...本当に、偶然ね。まさか、こんな場所で会うなんて」
原作クラリスらしく、わざとらしい笑みを浮かべてみせた。
愛想笑い、社交辞令、飾った言葉。それこそが、彼女の処世術。
でも、私はそれを演じる側だ。
「お一人で出歩くとは、珍しいです。護衛もいないとは」
その言葉に、私は肩をすくめた。
「大げさね。こんな朝市で襲われるほど、私は恨まれていないわ。多分」
冗談のつもりで口にした言葉だった。
だが、リヒトの目が鋭く光る。
「多分、ですか」
「あら、気に障った?」
リヒトは一瞬だけ口をつぐむと、軽く笑った。
「いいえ。ただ少し、印象が変わったと思いまして」
「私の?」
「はい。昔のクラリス様なら、そういう軽口は叩かなかった気がします」
やば。やっぱり気づかれてる...?
だが、私は笑顔を崩さず、扇子を軽く開いて顔を隠す。
「成長したのよ、私も。女は変わるものだわ、リヒト様」
ひらり、とドレスの裾を翻しながら、歩き出す。
「それじゃあ、私はこれで。あなたも、お気をつけて」
彼の反応を気にする余裕はない。
今はそれより新しい生き方を始める準備が必要だ。
(それにしてもやっぱり、小説の知識だけじゃこの世界は動かせないか)
現実の彼らは今キャラではなく、ちゃんとした人間だ。
私の些細な違いにだって、こうして気づく。
だからこそ油断はできない。
けれど。
(それでも私は、もう破滅ルートなんて歩かない)
私は空を見上げた。朝の陽が差し込む王都の空。
その中に、小さく鳥が飛ぶのが見えた。
(郊外の小屋、探さなきゃな...)
そして、その背中を見送っていたリヒトは、しばらくその場から動かなかった。
「クラリス様とは、少し...いや、だいぶ違うな」
静かにつぶやくその声には、疑念と、ほんのわずかな興味が混ざっていた。
王都の朝市でリヒトと鉢合わせした、その日の夜。
「ねぇ聞いた?郊外の別宅、また誰も使ってないらしいわよ」
「昔はお嬢様のお母様が療養してたって話ね...ずいぶん前に閉めたんでしょう?」
「今は管理人も置いてないって。もったいないわよね~、あんなに綺麗だったのに」
その会話は、私の部屋の近く洗濯物を運ぶ途中の執事達の無防備な声だった。
私が扉を少しだけ開けて、本を読みながらうとうとしていた時にふと、耳に入ったのだ。
(なにそれ、めっちゃ使える情報じゃん...!)
すぐに馬車の手配を命じて、翌朝。
王都から馬車で一時間半。
貴族の別荘地として知られる、郊外の静かな森の中に、その屋敷はあった。
「うわ...思ったより、ちゃんとしてる...!」
私が見上げたのは、こじんまりとした二階建ての洋館。
装飾は豪華で、清潔で、風通しがよく、なにより自然に囲まれている。
「ここなら誰にも邪魔されずに暮らせるかも」
昔は母の療養用として建てられたが、母が亡くなってから使われなくなり、今もクラリス家が所有している...つまり、自分の物件だ。
「畑もあるし、裏にはハーブも生えてる...完璧じゃん!」
貴族であるクラリスという立場をうまく利用すれば、表の顔は社交界の令嬢、裏では一人暮らしの自由人だってできる。
誰もいない屋敷のリビングに腰を下ろし、冷たいハーブティーを作って一口。
「おいしい...これこれ、こういうのがしたかったんだ。」
誰にも見られず、気を使わず、時間を自分のためだけに使える贅沢。
けれど、同時に私はまだ知らなかった。
その頃、王都の片隅で、ある男が静かに違和感をかみしめていたことを。
場所は王都、アスガルド侯爵邸。
リヒト・アスガルドは、窓辺に立ちながら私との会話を思い返していた。
「昔のクラリス様なら、そういう軽口は叩かなかった気がします」
あの時、彼女は笑っていた。
まるで何も気にしていない、自由な目をして。
(あれが...クラリス・ヴァレンティナ...?)
リヒトの記憶にあるクラリスは、もっと刺々しく、傲慢で、見下すような態度だった。
使用人への態度も冷たく、王子の隣にいることだけが目的のようなまさに悪役令嬢そのもの。
「だが、あの朝市で出会った彼女はどうだ?」
無理に笑おうとする様子。
自分のことを少し距離を置いて見ているような目。
まるで、クラリス本人が、クラリスを演じているような...そんな違和感。
「...まさかな」
転生?入れ替わり?
そんな非現実的なことを疑うつもりはない。
だが
「演技、にしてはあまりにも自然すぎる...」
まるで、別人がクラリスの人生をやり直しているかのような。
心の奥底で、リヒトはそう確信しかけていた。
そして、彼の瞳は鋭く細められる。
「なら...観察させてもらおう。今のクラリス様が、本物かどうか」
興味という名の罠が、すでに一つ、静かに仕掛けられたのだった。
「はあぁぁ...幸せ...」
郊外の屋敷の裏庭に腰を下ろしながら、私は空を見上げた。
手には摘みたての茶葉で作ったのカモミールティー、足元にはふわふわの猫(どこから来たのかは知らない)。
「この世界に転生してから、いちばんマトモな時間かもしれない...」
朝は早起きして、畑の様子を見に行く。
ハーブの種を撒き、ちょっとだけ土を耕して。
昼には町に降りてパン屋で焼き立てを買って、帰ってきたら屋敷で読書とティータイム。
そう、これがしたかったのよ私!!
「王子の婚約者? 社交界? 破滅ルート? 知るかっての...!」
叫んでスッキリした私は、ふと思い立って街道沿いの小さな市場へ足を運ぶことにした。
郊外とはいえ、屋敷の近くには小さな集落がある。
市場と言っても野菜と薬草、日用品が並ぶ程度。でも、地元の人の活気が心地いい。
「これ、今朝採れたばかりなんですよ、お嬢さん」
「おや...貴族様かい? この辺で見ない顔だなあ」
そう、不審がられるのは想定内。
だって、貴族のご令嬢がひとりで市場をうろつくなんて、普通はあり得ない。
でも、私はニッコリ笑ってこう返した。
「少しだけ、現実逃避中なの。秘密にしてくれる?」
おばちゃんたちは笑っていた。
(なんだ、意外とこの世界の人たち、フレンドリーじゃん。)
(もしかしてこのまま静かに暮らせるかも?)
希望が胸に広がりかけた、ちょうどその時だった。
「クラリス様」
背筋が、凍った。
その声を聞いた瞬間、私はゆっくりと振り返る。
「...リヒト様?」
そこには、軍服姿のリヒト・アスガルド侯爵令息が立っていた。
市場の雑踏の中では明らかに浮いている。周囲の村人たちもざわつき始めた。
「こんなところでお会いするとは、奇遇ですね」
(嘘でしょ。いや、嘘じゃないのは分かってるけど、嘘でしょ!?)
心の中で叫びながらも、表情は優雅な令嬢を崩さない。そもそも崩せない。
「また偶然ね。最近、偶然が多いこと」
「本当に。まるで、導かれているようです」
軽く笑う彼の目は、笑っていない。
完全に“探り”を入れに来ている。しかも、バレないように絶妙な距離感で。
(この人...気づいてる? それとも...試してる?)
「こちらで何を? 別荘でしょうか」
「ええ、少し気分転換を兼ねて」
「なるほど...貴族も、気分転換は必要ですからね」
ひとつひとつの言葉に、何かを探るような棘がある。
でも、私は笑う。
「そうでしょう? せっかくなら、心と身体に優しい場所で癒されたいの」
そう言って、私は彼に背を向ける。
「では、また。リヒト様」
その背後で、彼が何を考えているかなんて、分からない。
けれどたしかなことがひとつある。
(やっぱり、そう簡単には逃げきれないか....)
カモミールの香りが風に乗って広がる午後。
村から戻った私は、朝、裏庭で新しく作ったハーブ畑の手入れをしていた。
麦わら帽子(村の帽子屋さんの手作り)を深くかぶり、スコップを握る。
ドレスじゃ動きにくいから、今日はシンプルな麻のワンピース。
貴族の顔なんて、ここでは必要ない。
「よし、今日はバジルの苗を植えて....ん....?」
ガシャン、と何かが落ちた音がした。
玄関側だ
「ん? 配達かな...?」
のんびりと玄関まで出て、扉を開けた瞬間。
「こんにちは、クラリス様」
時が止まった。
「...えっ」
「いや、驚かれるのも無理はありません。まさか本当にいらっしゃるとは思っていませんでしたから」
微笑むリヒト・アスガルド。
軍服ではなく、珍しく私服だ。柔らかな色のシャツに、乗馬用のブーツ。
そして手には、まさかの紙袋?
「これ、近くのパン屋で買ったものです。よろしければご一緒にどうかと」
なにそのピクニック感覚のノリ!?
こっちはバジルまみれで泥だらけなんだけど!!!
「...なぜここに?」
思わず、問い詰め口調になる。だって予告もなにもなしに来ているのだから!
「偶然、こちらの方面に所用がありまして...。ついでに、気になっていた別荘を見てみようかと」
ぜったいウソ。
この屋敷、偶然通りかかるような場所じゃないのよ!?
完全に「わざと来ました」って顔してるじゃないの...!
「ご迷惑でしたか?」
やばい、ここで焦ったらバレる。
「...いえ、意外でしたけれど。ようこそ、いらっしゃいましたわ」
なんとか笑顔を作って、扉を開ける。
家の中は、村で揃えた家具や手作りのインテリアで、それなりに整えてある。
ただし、貴族の令嬢が住んでる雰囲気ではない。
「素敵な空間ですね。まるで、別人の生活を見ているようです」
リヒトの言葉に、背筋がぞわっとする。
「褒め言葉として、受け取っておくわ」
テーブルに紅茶を出して(茶葉もカップも村の雑貨屋のもの)、パンを取り分けながら、私は頭をフル回転させていた。
(どうする...?これ、たぶん監視だよね...?)
彼は、表情は柔らかいけど、目が笑ってない。
鋭く、冷たく、静かに見ている。
「...クラリス様」
「なにかしら?」
「最近のあなたは、まるで別人のように感じます」
紅茶のカップが、手の中で揺れた。
「それは.....私が変わったという意味?」
「そうかもしれません。ですが、それ以上の何かを感じています。
リヒトの声は静かだけれど、断定的だった。
これは気のせいじゃない。勘違いでもない。
彼は、確信に近づいてきている。
「...ふふっ」
笑うしかなかった。というか、笑うしかできなかった。
「人は、変わるものよ。あなたにも、きっと分かるわ。変わりたいって、思ったことがあるでしょう?」
「...ええ、そうですね」
その瞬間、彼の表情に、かすかな影が落ちた。
リヒト・アスガルド。
この男は、きっと何かを背負っている。
だからこそ、誰よりも冷静で、誰よりも人に興味を持たない。
だけど今、彼は。
「あなたを見ていると...たまに、心が揺れるんです」
それは、リヒトの本音だった。
この世界で、本当に誰かと心を通わせることができるかもしれないと、初めて思った。
「ふふ、揺れるのも悪くないわよ?」
「そう...ですね。悪く、ないかもしれませんね」
二人の間に、しばしの静寂が流れた。
そして私は心の中で、こう呟いた。
(でも、私は正体を知られたら終わりなの...)
甘く、危険な午後のティータイム。
それはまるで、仮面舞踏会のようだった。
リヒトが帰ってから深夜0時を回った頃だろうか。
封筒入れに一枚の封筒が入れられていた。
その封筒は、やけに重たく見えた。
「王宮から...?」
王家の紋章が刻まれた厚紙の封筒。
精巧な封蝋。金縁。間違いない、王宮からの手紙だ。
「...ああ、ついに来た...。」
私は静かに息を吐いた。
原作でこのタイミングに来るイベント、知ってる。
春の社交晩餐会
クラリス・ヴァレンティナが、原作ヒロインとついに顔を合わせる日。
(このイベントで、クラリスは王子に婚約破棄を宣言され、断罪されるのよね)
スローライフを満喫してる場合じゃなかった。
現実は、小説のシナリオ通りに進もうとしている。
行かなければ、貴族としての義務違反が課せられることになる。
でも...
「出る。今の私は、もう昔のクラリスじゃないから」
逃げてばかりじゃ、結局、何も変えられない。
私はこの人生を謳歌するって決めた。なら、自分の破滅すら、上書きしてやる。
深夜1時。
私は手紙を書いていた。宛先は、王都に残る唯一の味方
「リヒト様へ」
彼なら、何かを察して動いてくれるかもしれない。
彼だけが、私の変化に本気で向き合おうとしていたから。
けれど。
手紙を書き終える直前、屋敷の玄関にノックの音が響いた。
「クラリス様、お届け物です」
執事が持ってきたのは白くて清らかな香りを放っている小さな百合の花。
「...これは?」
手紙も、名札も、何もない。
けれど、私はその香りに、覚えがあった。
(この香り...まさか...!)
それは原作ヒロイン、エリーナ・セレフィーナがよく身につけていた香水の香り。
断罪イベントの幕開け。
目に見えない、冷たい糸が、静かに私を包み始めていた。
「このドレス...本当に着るの?」
鏡の前で、私は少しだけ引きつった顔をしていた。
目の前に広がるのは、真紅のドレス。
クラリス・ヴァレンティナが悪役令嬢として社交界を彩っていた頃によく着ていた、華やかで攻撃的なデザイン。
(いやいやいや、これは転生前の私が一番着たくなかったやつじゃん!!)
「もっと、こう...落ち着いたやつ、ないの?」
でも、執事は困った顔で首を振る。
「クラリス様の持ち物は、いつもこういった華美なものばかりでしょう...。」
前のクラリスが好んでいたスタイル。
それは、虚勢と見栄の象徴だった。
(やっぱり、私っていろんな意味で生まれ変わらないとダメなんだな...)
でも。
(いいわ、やってやろうじゃない...)
ただのスローライフじゃ終われない。
私の人生は、もう誰かが書いたシナリオなんかじゃない。
「赤で行くわ。華やかに、堂々と」
執事たちが息を呑む中、私は堂々と命じた。
「その代わり、髪型とアクセサリーは抑えめに。引き算の美学ってやつよ」
今の私ではなく、悪役令嬢だったクラリスとして。
そう覚悟を決めた私は、深紅のドレスの裾を両手で持ち上げ、玄関の階段をゆっくりと降りる。
屋敷の前には、王都から送られた黒い馬車。家紋が金で刺繍されたカーテンが、否応なしに意識させてくる。
「行ってまいります。」
短くそう執事に告げ、私は馬車に乗り込んだ。
王宮、春の社交晩餐会。
それは、貴族階級のすべてが集まる一夜。社交という名の駆け引きと策略、そして...断罪の舞台。
馬車の中で、私は深く息を吸い込んだ。
(クラリス・ヴァレンティナとしての最期を迎える日...)
それが原作通りなら、そうなるはずだった。
だけど、私は違う。
ここから先は、私が描く物語。
王宮へと近づくにつれ、夜空に浮かぶ大きな宮殿が見えてきた。灯りに彩られたその姿は、まるで絵画のように美しくてそして、
冷たかった。
到着すると、すぐに王宮の執事がドアを開ける。
その瞬間、ざわっ...という空気の揺れを感じた。
赤のドレスに身を包んだ私の姿に、貴族たちの視線が一斉に向く。
当然だ。
「破滅目前」と噂されている悪役令嬢が、堂々と現れたのだから。
でも私は、笑った。
それが令嬢クラリスの「仮面」だとしても、今の私はそれを堂々と使いこなす覚悟がある。
「ごきげんよう、皆様」
そう一礼した瞬間、場にいた空気がわずかにざらついたのを感じた。
そのざらつきを無視して、私は進む。
そして彼と目が合った。
壇上に立つ、王太子レオンハルト。
原作で、クラリスに断罪を宣言する男。
その隣には、ヒロイン・エリーナ。
(ああ、来たわね。原作の中心)
だけど、私は負けるつもりはない。
この世界で、自分の人生を生きるって決めたから。
「クラリス・ヴァレンティナ様」
声が響いた。
レオンハルト王太子が、壇上からこちらを見下ろしている。
「お呼び立てして申し訳ありません。本日は、あなたに伝えなければならないことがあります」
静まり返る会場。エリーナが、不安そうに王子の袖を握る。
(ここが原作で私が断罪されるシーン)
でも、私は前へ出た。
背筋を伸ばし、堂々とした歩きで、王子の前まで進み出る。
会場がざわめく。
「クラリス様、あなたの婚約について...」
その時だった。
「少々、お待ちを」
王子の言葉を遮ったのは、会場の端から聞こえた静かな声。
全員の視線が、一斉にそちらを向く。
ゆっくりと歩み出たのは、黒の正装をまとった青年。
「リヒト・アスガルド侯爵令息...?」
エリーナが驚きの声を漏らす。
「この場で、断罪を行う前に。ひとつ、王太子殿下にお伺いしたいことがあります」
リヒトの声は冷静で、しかし一言一言が鋭く、空気を切り裂いた。
「その判断は、あなた自身の意志ですか? それとも物語に踊らされた誰かの感情ですか?」
会場が凍りつく。
レオンハルト王太子は、目を細め、リヒトを見据えた。
私は思った。
この瞬間、たしかに物語は変わり始めている。
私はクラリス。
けれど、もう原作のクラリスではない。
この人生の主役は、私だ。
だから。
この夜を、終わりに変えるのではなく始まりにして悪役令嬢になった私はこの人生を死ぬまで謳歌しようと思う。
頭を押さえながら、私はゆっくりと目を開けた。見上げた先には、見知らぬ天井。金色の装飾に囲まれた
美術館のように豪華な天井画。
「え...?」
枕元に広がるシーツはシルク。手に触れる感触はさらさらとして、今まで感じたことのない上質なものだった。
身体を起こすと、視界に入るのは...フリルとレースのドレス。
しかも、それを着ているのは自分。
「なにこれ、どういう...」
慌てて立ち上がり、近くにあった鏡の前に駆け寄って自分の姿を見る。そこに映っていたのは、見知らぬ少女いや、確かに私だった。
でも、私じゃない。
ブロンドの巻き髪。深紅のドレス。薄く開かれた唇は、気品のある笑みを浮かべていた。
「え、待って...嘘でしょ...?」
次の瞬間、脳の奥を何かが駆け抜けた。
クラリス・ヴァレンティナ。
貴族ヴァレンティナ家の令嬢にして、婚約者はこの国の第一王子。
そして、運命に逆らい敗北する悪役令嬢
もちろん小説の中の話
「まさか...嘘...。私、クラリスになってる...?」
ぐらり、と視界が揺れた。膝が崩れそうになるのをベッドに手をついて堪える。
私は、昨日まで日本で働くただの社会人だった。
毎日残業、コンビニご飯、休日もメール対応。
そんな疲れ切った日々の中、癒やしだったのがあの小説。
恋も運命もただの脚本に過ぎなくて見飽きた筋書きでもまた見たくなるような物語。
その中で私は、 クラリス・ヴァレンティナという悪役令嬢が大好きだった。
どこまでも自分を貫き通して、最後は悲劇的な終焉を迎える、美しくて悲しいキャラクター。
決意した。
この人生、好きなように生きてやるって。
でも...。
「なんで、屋敷の外に出るのに許可がいるのよ...」
私は今、クラリスの執事とにらみ合っていた。
優雅な顔を保ってはいるが、その実、内心ではめちゃくちゃ苛立っている。
「お嬢様、身分あるご令嬢が一人で市街地など...いかがなものかと。」
クラリスの執事の言い分は正しい。
ここは貴族の階級がすべてを支配する世界。
しかも私は、ヴァレンティナ家の一人娘。外に出る=社交の場=政略の駒となるに違いない。
でも、私はそんなの求めてなんかない。
「いいから、ちょっとだけ外に出たいの。気分転換に」
「お供を...。」
「一人がいいのよ」
執事の表情が微妙にひきつる。クラリスにとってはいつものわがままに見えているのだろう。
それでいい。中身が入れ替わっているなんて、絶対誰にも知られてはならない。
「わかりました。短時間でお戻りくださいませ」
「ええ、もちろん」
にっこりと笑ってみせる。
令嬢スマイルもずいぶん短時間ではあるが慣れてきた。
屋敷を出て、クラリス...いや、私はようやく息をついた。
「ふーっ...空気うまっ...!屋敷ってこんなに息苦しかったの...?」
視線の先には、王都の朝市。活気のある通りに、パン屋の香ばしい匂い、農民たちの笑い声、魔道具を売る屋台。
そのどれもが、小説で読んだ背景の内容ではなく、本当に生きている景色だった。
「やっぱり、私はこういうところで暮らしたい」
物語の破滅ルートなんか、もう知らない。
婚約も、恋愛も、社交も、政略もいらない。
欲しいのは、静かに、穏やかに、自由に生きられる場所。
「郊外に、小さな屋敷でもあればなぁ...」
そのとき、ふと背後から声がした。
「おや、クラリス様。お一人ですか?」
振り向いた先に立っていたのは、黒髪に整った軍服。
それは物語の一番最初の攻略対象の一人。
「リヒト・アスガルド侯爵令息...」
そう。
彼はクラリスの破滅イベントの引き金を引く一人。
そしてこの出会いこそが、物語のルートでは決して起こらないはずのイレギュラー的存在。
この物語は、もう元の脚本通りじゃ進まない。
だって、クラリスになった私はクラリスの代わりに破滅の運命をぶっ壊して、自分の人生を生きるって決めたから。
「クラリス様、お一人で朝市とは...珍しいですね。」
整った顔立ち、黒曜石のように冷たい瞳。
物語の中でも、群を抜い一番の攻略対象。
リヒト・アスガルド侯爵令息
冷徹な若き魔法軍師であり、クラリスを見下し、蔑み、断罪する男。
「ええ、ちょっと気分転換に」
私の返事に、彼の眉がわずかに動いた。
その反応が、妙に引っかかる。
そうだ、リヒトは知っているはずだ。元のクラリスが、こんな態度を取らないことを。
「ふふ...本当に、偶然ね。まさか、こんな場所で会うなんて」
原作クラリスらしく、わざとらしい笑みを浮かべてみせた。
愛想笑い、社交辞令、飾った言葉。それこそが、彼女の処世術。
でも、私はそれを演じる側だ。
「お一人で出歩くとは、珍しいです。護衛もいないとは」
その言葉に、私は肩をすくめた。
「大げさね。こんな朝市で襲われるほど、私は恨まれていないわ。多分」
冗談のつもりで口にした言葉だった。
だが、リヒトの目が鋭く光る。
「多分、ですか」
「あら、気に障った?」
リヒトは一瞬だけ口をつぐむと、軽く笑った。
「いいえ。ただ少し、印象が変わったと思いまして」
「私の?」
「はい。昔のクラリス様なら、そういう軽口は叩かなかった気がします」
やば。やっぱり気づかれてる...?
だが、私は笑顔を崩さず、扇子を軽く開いて顔を隠す。
「成長したのよ、私も。女は変わるものだわ、リヒト様」
ひらり、とドレスの裾を翻しながら、歩き出す。
「それじゃあ、私はこれで。あなたも、お気をつけて」
彼の反応を気にする余裕はない。
今はそれより新しい生き方を始める準備が必要だ。
(それにしてもやっぱり、小説の知識だけじゃこの世界は動かせないか)
現実の彼らは今キャラではなく、ちゃんとした人間だ。
私の些細な違いにだって、こうして気づく。
だからこそ油断はできない。
けれど。
(それでも私は、もう破滅ルートなんて歩かない)
私は空を見上げた。朝の陽が差し込む王都の空。
その中に、小さく鳥が飛ぶのが見えた。
(郊外の小屋、探さなきゃな...)
そして、その背中を見送っていたリヒトは、しばらくその場から動かなかった。
「クラリス様とは、少し...いや、だいぶ違うな」
静かにつぶやくその声には、疑念と、ほんのわずかな興味が混ざっていた。
王都の朝市でリヒトと鉢合わせした、その日の夜。
「ねぇ聞いた?郊外の別宅、また誰も使ってないらしいわよ」
「昔はお嬢様のお母様が療養してたって話ね...ずいぶん前に閉めたんでしょう?」
「今は管理人も置いてないって。もったいないわよね~、あんなに綺麗だったのに」
その会話は、私の部屋の近く洗濯物を運ぶ途中の執事達の無防備な声だった。
私が扉を少しだけ開けて、本を読みながらうとうとしていた時にふと、耳に入ったのだ。
(なにそれ、めっちゃ使える情報じゃん...!)
すぐに馬車の手配を命じて、翌朝。
王都から馬車で一時間半。
貴族の別荘地として知られる、郊外の静かな森の中に、その屋敷はあった。
「うわ...思ったより、ちゃんとしてる...!」
私が見上げたのは、こじんまりとした二階建ての洋館。
装飾は豪華で、清潔で、風通しがよく、なにより自然に囲まれている。
「ここなら誰にも邪魔されずに暮らせるかも」
昔は母の療養用として建てられたが、母が亡くなってから使われなくなり、今もクラリス家が所有している...つまり、自分の物件だ。
「畑もあるし、裏にはハーブも生えてる...完璧じゃん!」
貴族であるクラリスという立場をうまく利用すれば、表の顔は社交界の令嬢、裏では一人暮らしの自由人だってできる。
誰もいない屋敷のリビングに腰を下ろし、冷たいハーブティーを作って一口。
「おいしい...これこれ、こういうのがしたかったんだ。」
誰にも見られず、気を使わず、時間を自分のためだけに使える贅沢。
けれど、同時に私はまだ知らなかった。
その頃、王都の片隅で、ある男が静かに違和感をかみしめていたことを。
場所は王都、アスガルド侯爵邸。
リヒト・アスガルドは、窓辺に立ちながら私との会話を思い返していた。
「昔のクラリス様なら、そういう軽口は叩かなかった気がします」
あの時、彼女は笑っていた。
まるで何も気にしていない、自由な目をして。
(あれが...クラリス・ヴァレンティナ...?)
リヒトの記憶にあるクラリスは、もっと刺々しく、傲慢で、見下すような態度だった。
使用人への態度も冷たく、王子の隣にいることだけが目的のようなまさに悪役令嬢そのもの。
「だが、あの朝市で出会った彼女はどうだ?」
無理に笑おうとする様子。
自分のことを少し距離を置いて見ているような目。
まるで、クラリス本人が、クラリスを演じているような...そんな違和感。
「...まさかな」
転生?入れ替わり?
そんな非現実的なことを疑うつもりはない。
だが
「演技、にしてはあまりにも自然すぎる...」
まるで、別人がクラリスの人生をやり直しているかのような。
心の奥底で、リヒトはそう確信しかけていた。
そして、彼の瞳は鋭く細められる。
「なら...観察させてもらおう。今のクラリス様が、本物かどうか」
興味という名の罠が、すでに一つ、静かに仕掛けられたのだった。
「はあぁぁ...幸せ...」
郊外の屋敷の裏庭に腰を下ろしながら、私は空を見上げた。
手には摘みたての茶葉で作ったのカモミールティー、足元にはふわふわの猫(どこから来たのかは知らない)。
「この世界に転生してから、いちばんマトモな時間かもしれない...」
朝は早起きして、畑の様子を見に行く。
ハーブの種を撒き、ちょっとだけ土を耕して。
昼には町に降りてパン屋で焼き立てを買って、帰ってきたら屋敷で読書とティータイム。
そう、これがしたかったのよ私!!
「王子の婚約者? 社交界? 破滅ルート? 知るかっての...!」
叫んでスッキリした私は、ふと思い立って街道沿いの小さな市場へ足を運ぶことにした。
郊外とはいえ、屋敷の近くには小さな集落がある。
市場と言っても野菜と薬草、日用品が並ぶ程度。でも、地元の人の活気が心地いい。
「これ、今朝採れたばかりなんですよ、お嬢さん」
「おや...貴族様かい? この辺で見ない顔だなあ」
そう、不審がられるのは想定内。
だって、貴族のご令嬢がひとりで市場をうろつくなんて、普通はあり得ない。
でも、私はニッコリ笑ってこう返した。
「少しだけ、現実逃避中なの。秘密にしてくれる?」
おばちゃんたちは笑っていた。
(なんだ、意外とこの世界の人たち、フレンドリーじゃん。)
(もしかしてこのまま静かに暮らせるかも?)
希望が胸に広がりかけた、ちょうどその時だった。
「クラリス様」
背筋が、凍った。
その声を聞いた瞬間、私はゆっくりと振り返る。
「...リヒト様?」
そこには、軍服姿のリヒト・アスガルド侯爵令息が立っていた。
市場の雑踏の中では明らかに浮いている。周囲の村人たちもざわつき始めた。
「こんなところでお会いするとは、奇遇ですね」
(嘘でしょ。いや、嘘じゃないのは分かってるけど、嘘でしょ!?)
心の中で叫びながらも、表情は優雅な令嬢を崩さない。そもそも崩せない。
「また偶然ね。最近、偶然が多いこと」
「本当に。まるで、導かれているようです」
軽く笑う彼の目は、笑っていない。
完全に“探り”を入れに来ている。しかも、バレないように絶妙な距離感で。
(この人...気づいてる? それとも...試してる?)
「こちらで何を? 別荘でしょうか」
「ええ、少し気分転換を兼ねて」
「なるほど...貴族も、気分転換は必要ですからね」
ひとつひとつの言葉に、何かを探るような棘がある。
でも、私は笑う。
「そうでしょう? せっかくなら、心と身体に優しい場所で癒されたいの」
そう言って、私は彼に背を向ける。
「では、また。リヒト様」
その背後で、彼が何を考えているかなんて、分からない。
けれどたしかなことがひとつある。
(やっぱり、そう簡単には逃げきれないか....)
カモミールの香りが風に乗って広がる午後。
村から戻った私は、朝、裏庭で新しく作ったハーブ畑の手入れをしていた。
麦わら帽子(村の帽子屋さんの手作り)を深くかぶり、スコップを握る。
ドレスじゃ動きにくいから、今日はシンプルな麻のワンピース。
貴族の顔なんて、ここでは必要ない。
「よし、今日はバジルの苗を植えて....ん....?」
ガシャン、と何かが落ちた音がした。
玄関側だ
「ん? 配達かな...?」
のんびりと玄関まで出て、扉を開けた瞬間。
「こんにちは、クラリス様」
時が止まった。
「...えっ」
「いや、驚かれるのも無理はありません。まさか本当にいらっしゃるとは思っていませんでしたから」
微笑むリヒト・アスガルド。
軍服ではなく、珍しく私服だ。柔らかな色のシャツに、乗馬用のブーツ。
そして手には、まさかの紙袋?
「これ、近くのパン屋で買ったものです。よろしければご一緒にどうかと」
なにそのピクニック感覚のノリ!?
こっちはバジルまみれで泥だらけなんだけど!!!
「...なぜここに?」
思わず、問い詰め口調になる。だって予告もなにもなしに来ているのだから!
「偶然、こちらの方面に所用がありまして...。ついでに、気になっていた別荘を見てみようかと」
ぜったいウソ。
この屋敷、偶然通りかかるような場所じゃないのよ!?
完全に「わざと来ました」って顔してるじゃないの...!
「ご迷惑でしたか?」
やばい、ここで焦ったらバレる。
「...いえ、意外でしたけれど。ようこそ、いらっしゃいましたわ」
なんとか笑顔を作って、扉を開ける。
家の中は、村で揃えた家具や手作りのインテリアで、それなりに整えてある。
ただし、貴族の令嬢が住んでる雰囲気ではない。
「素敵な空間ですね。まるで、別人の生活を見ているようです」
リヒトの言葉に、背筋がぞわっとする。
「褒め言葉として、受け取っておくわ」
テーブルに紅茶を出して(茶葉もカップも村の雑貨屋のもの)、パンを取り分けながら、私は頭をフル回転させていた。
(どうする...?これ、たぶん監視だよね...?)
彼は、表情は柔らかいけど、目が笑ってない。
鋭く、冷たく、静かに見ている。
「...クラリス様」
「なにかしら?」
「最近のあなたは、まるで別人のように感じます」
紅茶のカップが、手の中で揺れた。
「それは.....私が変わったという意味?」
「そうかもしれません。ですが、それ以上の何かを感じています。
リヒトの声は静かだけれど、断定的だった。
これは気のせいじゃない。勘違いでもない。
彼は、確信に近づいてきている。
「...ふふっ」
笑うしかなかった。というか、笑うしかできなかった。
「人は、変わるものよ。あなたにも、きっと分かるわ。変わりたいって、思ったことがあるでしょう?」
「...ええ、そうですね」
その瞬間、彼の表情に、かすかな影が落ちた。
リヒト・アスガルド。
この男は、きっと何かを背負っている。
だからこそ、誰よりも冷静で、誰よりも人に興味を持たない。
だけど今、彼は。
「あなたを見ていると...たまに、心が揺れるんです」
それは、リヒトの本音だった。
この世界で、本当に誰かと心を通わせることができるかもしれないと、初めて思った。
「ふふ、揺れるのも悪くないわよ?」
「そう...ですね。悪く、ないかもしれませんね」
二人の間に、しばしの静寂が流れた。
そして私は心の中で、こう呟いた。
(でも、私は正体を知られたら終わりなの...)
甘く、危険な午後のティータイム。
それはまるで、仮面舞踏会のようだった。
リヒトが帰ってから深夜0時を回った頃だろうか。
封筒入れに一枚の封筒が入れられていた。
その封筒は、やけに重たく見えた。
「王宮から...?」
王家の紋章が刻まれた厚紙の封筒。
精巧な封蝋。金縁。間違いない、王宮からの手紙だ。
「...ああ、ついに来た...。」
私は静かに息を吐いた。
原作でこのタイミングに来るイベント、知ってる。
春の社交晩餐会
クラリス・ヴァレンティナが、原作ヒロインとついに顔を合わせる日。
(このイベントで、クラリスは王子に婚約破棄を宣言され、断罪されるのよね)
スローライフを満喫してる場合じゃなかった。
現実は、小説のシナリオ通りに進もうとしている。
行かなければ、貴族としての義務違反が課せられることになる。
でも...
「出る。今の私は、もう昔のクラリスじゃないから」
逃げてばかりじゃ、結局、何も変えられない。
私はこの人生を謳歌するって決めた。なら、自分の破滅すら、上書きしてやる。
深夜1時。
私は手紙を書いていた。宛先は、王都に残る唯一の味方
「リヒト様へ」
彼なら、何かを察して動いてくれるかもしれない。
彼だけが、私の変化に本気で向き合おうとしていたから。
けれど。
手紙を書き終える直前、屋敷の玄関にノックの音が響いた。
「クラリス様、お届け物です」
執事が持ってきたのは白くて清らかな香りを放っている小さな百合の花。
「...これは?」
手紙も、名札も、何もない。
けれど、私はその香りに、覚えがあった。
(この香り...まさか...!)
それは原作ヒロイン、エリーナ・セレフィーナがよく身につけていた香水の香り。
断罪イベントの幕開け。
目に見えない、冷たい糸が、静かに私を包み始めていた。
「このドレス...本当に着るの?」
鏡の前で、私は少しだけ引きつった顔をしていた。
目の前に広がるのは、真紅のドレス。
クラリス・ヴァレンティナが悪役令嬢として社交界を彩っていた頃によく着ていた、華やかで攻撃的なデザイン。
(いやいやいや、これは転生前の私が一番着たくなかったやつじゃん!!)
「もっと、こう...落ち着いたやつ、ないの?」
でも、執事は困った顔で首を振る。
「クラリス様の持ち物は、いつもこういった華美なものばかりでしょう...。」
前のクラリスが好んでいたスタイル。
それは、虚勢と見栄の象徴だった。
(やっぱり、私っていろんな意味で生まれ変わらないとダメなんだな...)
でも。
(いいわ、やってやろうじゃない...)
ただのスローライフじゃ終われない。
私の人生は、もう誰かが書いたシナリオなんかじゃない。
「赤で行くわ。華やかに、堂々と」
執事たちが息を呑む中、私は堂々と命じた。
「その代わり、髪型とアクセサリーは抑えめに。引き算の美学ってやつよ」
今の私ではなく、悪役令嬢だったクラリスとして。
そう覚悟を決めた私は、深紅のドレスの裾を両手で持ち上げ、玄関の階段をゆっくりと降りる。
屋敷の前には、王都から送られた黒い馬車。家紋が金で刺繍されたカーテンが、否応なしに意識させてくる。
「行ってまいります。」
短くそう執事に告げ、私は馬車に乗り込んだ。
王宮、春の社交晩餐会。
それは、貴族階級のすべてが集まる一夜。社交という名の駆け引きと策略、そして...断罪の舞台。
馬車の中で、私は深く息を吸い込んだ。
(クラリス・ヴァレンティナとしての最期を迎える日...)
それが原作通りなら、そうなるはずだった。
だけど、私は違う。
ここから先は、私が描く物語。
王宮へと近づくにつれ、夜空に浮かぶ大きな宮殿が見えてきた。灯りに彩られたその姿は、まるで絵画のように美しくてそして、
冷たかった。
到着すると、すぐに王宮の執事がドアを開ける。
その瞬間、ざわっ...という空気の揺れを感じた。
赤のドレスに身を包んだ私の姿に、貴族たちの視線が一斉に向く。
当然だ。
「破滅目前」と噂されている悪役令嬢が、堂々と現れたのだから。
でも私は、笑った。
それが令嬢クラリスの「仮面」だとしても、今の私はそれを堂々と使いこなす覚悟がある。
「ごきげんよう、皆様」
そう一礼した瞬間、場にいた空気がわずかにざらついたのを感じた。
そのざらつきを無視して、私は進む。
そして彼と目が合った。
壇上に立つ、王太子レオンハルト。
原作で、クラリスに断罪を宣言する男。
その隣には、ヒロイン・エリーナ。
(ああ、来たわね。原作の中心)
だけど、私は負けるつもりはない。
この世界で、自分の人生を生きるって決めたから。
「クラリス・ヴァレンティナ様」
声が響いた。
レオンハルト王太子が、壇上からこちらを見下ろしている。
「お呼び立てして申し訳ありません。本日は、あなたに伝えなければならないことがあります」
静まり返る会場。エリーナが、不安そうに王子の袖を握る。
(ここが原作で私が断罪されるシーン)
でも、私は前へ出た。
背筋を伸ばし、堂々とした歩きで、王子の前まで進み出る。
会場がざわめく。
「クラリス様、あなたの婚約について...」
その時だった。
「少々、お待ちを」
王子の言葉を遮ったのは、会場の端から聞こえた静かな声。
全員の視線が、一斉にそちらを向く。
ゆっくりと歩み出たのは、黒の正装をまとった青年。
「リヒト・アスガルド侯爵令息...?」
エリーナが驚きの声を漏らす。
「この場で、断罪を行う前に。ひとつ、王太子殿下にお伺いしたいことがあります」
リヒトの声は冷静で、しかし一言一言が鋭く、空気を切り裂いた。
「その判断は、あなた自身の意志ですか? それとも物語に踊らされた誰かの感情ですか?」
会場が凍りつく。
レオンハルト王太子は、目を細め、リヒトを見据えた。
私は思った。
この瞬間、たしかに物語は変わり始めている。
私はクラリス。
けれど、もう原作のクラリスではない。
この人生の主役は、私だ。
だから。
この夜を、終わりに変えるのではなく始まりにして悪役令嬢になった私はこの人生を死ぬまで謳歌しようと思う。



