【3話】
3時間目のグラウンドは、立っているだけでうっすら汗が浮かんでくるほど日差しが強かった。
5月中旬の今週から1年4クラスの男子全員が集まり、体育祭に向けて体育の時間は合同で練習することになった。
例年の酷暑の為、今年から体育祭は秋から6月初旬に開催されることになった。
ゴールデンウィークが終わったあたりから、学校内は体育祭ムードに変わっていた。
1年生の団体競技は女子がダンス、男子は組体操だ。合同体育の時間、男子がグラウンドを、女子が体育館を使って練習する。
この体育祭にはクラスの中での交流はもちろん、他クラスの生徒とも友好を深めるという目的もあり、人数が増えるにつれて隣のクラスの生徒も混じる。
組体操の技はひとり、2人組、3人組、と増えてゆき、10人でピラミッドをするとなると、睦月は誠也と同じグループでピラミッドをすることになった。
睦月の身長は平均より少し低く、痩せているので昔から組体操では誰かの上に乗るほうだ。誠也はしたから2段目、睦月はその上の段になった。誠也の背に足をかけて登り、左の手足は睦月の上につく。誠也の体温が伝わってきて、熱かった。
4時間目、クラス内ではどの個人種目に出るかのほかに、準備で何を担当するかを立候補して決めることになった。応援団、横断幕と立て看板、旗、応援用のポンポンなどを作る小道具係の中から、睦月は立て看板係を引き受けた。中学から同じだった女子に推薦されたのだった。立て看板はクラスごとの応援席の後ろに飾るので、運動場でひときわ目を引く。
体育祭の組み分けは縦割りで、1組は赤、2組は青、3組は黄、4組は緑だ。
横断幕のグループで何を描くか相談していると、男子の誰かが「強そうなドラゴンだろ!」と言い出してみんなが賛成したので、睦月は放課後、他の生徒たちと教室の机を下げた空きスペースでダンボール継ぎ接ぎし、その上に紙を貼り、下描きをする。正方形の紙の中に、青い龍と学年クラス、クラステーマの「諦めない」を描いてゆく。
他の生徒とドラゴンに色を塗ったところで下校時刻になった。片付けを終えて下足室を出たところで、誠也が待っていた。
「お疲れ。すごいの描いてたな」
「見てたの? 全然気づかなかった」
「こっちに背中向けて集中してたらそりゃ気づかないだろ」
ふと、睦月は誠也が下校時刻まで学校にいることに気づく。
「誠くん、今日はバイト休み?」
「そ、だからちゃんとポンポン制作に貢献しました」
睦月のクラスのポンポン制作はみんな女子だったのもあり、誠也が女子にまじってポンポンを作っているのを想像してしまい、くすっと笑った。
「あー、めちゃ暑いな。コンビニ寄ろうぜ」
そう言ってコンビニに入ると、誠也は制服の襟元を持ってシャツをはためかせる。
夏服は半袖のシャツにネクタイだが、誠也はネクタイをせず、一番上のボタンを開けていた。迷わずにアイスの置いてある冷凍庫の前に行くと、誠也はアイスを買った。
「ん、半分いる?」
コンビニを出て袋を開けると、誠也はふたつくっついたチューブを割って、ひとつを睦月に差し出す。
「ありがとう」
「これ、この前新商品ってっ書いてるの見て、食ってみたかったんだよな」
確かに見慣れないパッケージだ。チョコのような、カフェオレのような昔からある味のものなら、昔何度か誠也と食べたことがあった。
蓋を開けて、チューブを揉んで柔らかくしてからアイスを吸う。しゃりしゃりした小さな氷の粒が、とろりと甘いマスカット味のアイスに混じっていて、舌の上で溶ける。
「おいしいね」
「シャインマスカットってさ、俺たちの小さいころなかったよな」
「そうだね。今でもなかなか食べることないけど」
「睦月さ、こういう2個くっついたアイスってひとりで食べたことあるか?」
「うーん、ひとりでアイス食べるときは、選ばないかも」
「うちさ、母さんもにいちゃんも甘いもの嫌いだからさ、アイスが冷凍庫に入ってるってほとんどなかったんだよな。だからこれ食べたの睦月とが初めてだった。引っ越してからふっと思い出してひとりで買って食ったんだけどさ」
睦月はうん、と頷く。
「1個食べてるともう1個手に持ったままだろ。だからふたつめ食べる時には溶けかけてるしさ、同じのふたつだと飽きるし。これってふたりで食うから美味いんだなって、その時悟ったわ」
誠也は律儀にアイスの入っていた袋にチューブのゴミを睦月のぶんも入れて帰った。誠也は睦月との過去を鮮明に覚えてくれている。そう思うと、アイスのおかげで体が冷えたのに、頬だけが熱かった。
5月の下旬にさしかかると、体育祭を間近に控え、組体操の練習は大詰めだった。1年男子生徒全員が5時間目、グラウンドに集まり、曲に合わせて初めから通しで練習する。ひとりからふたり、ふたりから3人と、人数が増えるほど技の難易度は増していく。
10人でピラミッドをしていたその時、一番下の段の男の子がバランスを崩した。睦月があっと思う間にピラミッドが崩れる。幸い、うまく下の段の子の上を転がるように落ちたので頭を打つことはなかったが、ずきっと手首に痛みが走った。着地の際に地面に強く右手をついたのだ。
「睦月! 大丈夫か」
睦月に誠也が駆け寄り、バランスを崩した下の段の男子がその後ろで心配そうに睦月を見ている。
「ごめん、俺がバランス崩したから」
「大丈夫、こっちこそ上に乗っちゃってごめんね」
「おーい、大丈夫かー?」
組体操の指揮をとっていた体育教師が駆け寄ってくる。
「誰か怪我したか? 二ノ瀬か?」
「ちょっと手首捻っただけなので、たぶん大丈夫です」
「二ノ瀬と、他に怪我した子がいたら保健室に行ってこい。二ノ瀬、ひとりで行けるな? よし、他の男子は続けるぞー」
睦月が保健室に向かうと、誠也がその横を着いてきた。
「誠くんも怪我したの?」
「いーや、付き添い」
といって、誠也が笑う。
保健室はちょうど保健教師が席を外していた。
「座ってな」
誠也はきょろきょろと保健室内を見渡し、冷蔵庫を見つけると、保冷剤を持ってきてくれる。
「右手動かせそうか?」
「大丈夫、と思うけど。帰ったら一応病院行っておこうかな」
「それがいい。利き手だしな」
そのときちょうど保健教諭が戻ってきた。
「あら、どこか怪我したの?」
「右手首です。組体操のピラミッドで、上から落ちちゃって」
保険医は睦月の両手を取って、手首の腫れ具合を見比べる。
「ちょっと腫れてるから冷やして正解。動かせているから骨には異常ないと思うけれど、一応整形外科に行っておいたほうがいいわね。あなたは?」
誠也は「付き添いでーす」と言って、咎められる前に入保健室を出て行った。
睦月は湿布を貼ってもらい、その上からテーピングしてもらう。
『どうだった?』
休み時間、近所の整形外科を調べようと思ったらLINEの通知が来た。誠也だ。
『一応病院行っておいたほうがいいって』
『授業終わったらそのまま行く?』
『うん』
ちょうど6時間目が始まったのでスマートフォンをポケットにしまう。テーピングのためにノートが取りづらく、苦戦しているうちに授業が終わった。睦月は美術室に行って病院に行くので部活を休むと伝え、帰ることにする。
靴を履き替えると下足室の外で誠也が立っていた。
「あれ、どうしたの」
「LINE見てないのか」
「あ、ごめん見てないや」
反射的に右手をポケットに入れようとして痛みを感じ、手を引っ込める。
「荷物持ってやるよ」と言って誠也は睦月のカバンを持った。
「重たいよ」
「だからだろ。雨降ってるし」
確かに、体育の時間から徐々に雲行きが怪しくなり、授業が終わったころには雨が降りはじめていた。
右手首の痛みが増してじくじくと痛んでいたので、誠也の申し出は有り難かった。
「傘貸して」
誠也が睦月の傘を開いて、左手で受け取りやすいように渡してくれる。
「どこの病院?」
「えっと、駅前の整形外科だけど、今日はバイトあるんじゃないの」
「あるけど、シフト入ってるの5時からだから大丈夫。そこまで送る」
雨がポツポツと傘を打つ。
ときどき追い抜いていく車が水たまりを通るたびに水を撥ねるので、ふたりはいつもより距離をつめて道の端を歩く。
「ねえ、なんのバイトしてるのか教えて」
「やだね」
「なんで。言えないようなヤバいやつ?」
「ちがうし」
「飲食系」
「……そう」
「ホール? キッチン?」
「ホールじゃない。キッチン、に近い」
誠也は正直にいうことに決めたのだろう、
「焼き菓子作ってんだよ、洋菓子屋の裏で」
「へえー、見てみたいな、誠くんの働いてるとこ」
「見えるとこにいないから見せらんねえわ」
そんな話をしてるうちに整形外科に着いた。初診の問診表を書いて、待合室で待つ。
たまたま待っている人が少なかったので、ほどなく睦月の番が来た。
睦月は手首の靭帯を損傷していると言われ、湿布の上からきつめに包帯を巻いてガッチリと手首を固定された。
「2週間で治るって」
待合室で待っていた誠也に診察内容を告げると、そうか、と言って誠也が考えるそぶりをする。
「治るまで帰り、荷物持ってやるよ」
6月に入り、梅雨入りが宣言された。とはいえ昔のようなしとしと降り続く雨はどこへやら、日差しの強い日が続いている。
整形外科で言ったとおり、誠也は授業が終わると毎日靴箱で待ってくれていた。
睦月は手が治るまで部活を休ませてもらうことにし、授業が終わるとバイトに行く誠也と同じ時間に帰ろうと思っていた。
でも、誠也はバイトの時間を遅くにずらしてくれたので、体育祭の準備でできることを手伝ってから、誠也と待ち合わせて帰る。
「お疲れ、遅かったな」
「立て看板の細かい修正して、ようやく完成したよ」
「力作じゃん」
ふたりは帰り道を歩きだす。
「誠くんは昔からいつも待っていてくれるね」
小学1年生だったか、学校が終わってから遊ぶ約束をして、睦月が家に帰ると雨が降ってきた。
傘をさして行こうとすると母に止められた。「向こうもこの雨だから来てないわよ」と母に止められ、睦月は公園に行かなかった。
次の日、誠也が学校を休んだ。睦月は思い当たることがあったので、プリントを届けに誠也の家に行った。
「あら、睦月くんありがとうね」
「誠くんは風邪?」
「そうなの、昨日遊びに行って、ずぶ濡れになって帰ってきたのよ」
誠也はずっと、公園で睦月を待ってくれていたのだ。
「おばさん、それ僕のせいかもしれない。昨日、誠くんと遊ぶ約束をしたから」
「ううん、雨降ったら普通帰るわよ。誠也って頑固なところあるから。一途と言ったほうがいいのかしらね。誠也は睦月くんといると楽しそうにしてるから、また遊んでやってね」
そんなことを思い出して、ふと睦月は誠也を見た。精悍な横顔がまっすぐ前を見つめている。
「やべ、降ってきたな」
誠也が空を仰ぐ。睦月の顔にも雨粒が当たった。雨粒は瞬く間に増え、ザーっという音を立てて降りはじめる。
「睦月、そこのコンビニまで走るぞ!」
ふたりは走り、登下校の道のちょうど中ごろにあるコンビニの軒先で雨宿りした。
だが、なかなか雨はやみそうにない。
「バイトの時間、間に合う?」
「うーん、次の電車逃したくねえな。傘買っていくか」
誠也はそういうとコンビニで傘を買って出てきた。
「1本?」
「さすがにカバン2つと傘2本は持てねえわ」
誠也は荷物を睦月がいるほうの右手に持ち替え、左手で傘を持った。荷物と睦月が濡れないように傘を傾けてくれる。
「もーちょいこっち、濡れるだろ」
誠也の右手が睦月の左手を握って、ぐっと引き寄せる。
そして誠也の手は、そのまま睦月の左手首を掴んだままだった。誠也の手は熱くて、睦月は息をするのも忘れてしまいそうなほど緊張した。
はなしてと言えばはなしてくれただろうが、睦月は切り出さなかった。言おうとも思わなかったのだ。
心臓がどくどく鳴っているのが掴まれた手から伝わってしまいそうな気がした。ふたりとも無言のまま、人気のない驟雨の中、1本の傘を頼りに歩く。
しばらく歩くと睦月の家が見えてきた。コンビニから家まで睦月の足で10分もかからないが、永遠に歩いていたような気さえした。
「送ってくれてありがとう」
「いーえ」
ポンと頭に手を置かれ、「じゃ」と家の前から誠也が去っていく。その後ろ姿の左肩がぐっしょり濡れて、ブレザーの色が濃くなっているのが睦月の目に入った。すると急に胸が締め付けられて、「誠くん!」と睦月は呼び止めた。誠也が振り返る。
「ありがとう! 風邪ひかないでね!」
ヒラヒラと手を振って、誠也は雨の向こうに消えた。
「おかえりー、すごい雨だったわね。迎えに行こうかってLINEしたんだけど。あれ、傘持ってたの? 玄関に置いてあったじゃない」
「持ってなかった、けど」
送ってもらったと言うのが気恥ずかしくて、「コンビニで傘買った」と答えた。確かに、コンビニで傘は買った。睦月ではなく誠也が、だが。
睦月は制服から部屋着に着替えると、さっさと宿題を終わらせてしまおうと勉強机の前に座る。
テーピングで固定された右手には慣れてきて、力を入れないようにしながらも、いつもの8割くらいの綺麗さで字を書けるようにはなってきた。
慣れないのは左手だ。睦月は右手で誠也が掴んでいたあたりを触ってみる。右手と同じ温度だが、掴まれた手首そこに熱が残っているみたいに感じられた。誰かの手が触れたことを、こんなふうに意識してしまうことなんて、今までなかったのにーー。
けっきょく、勉強はほとんど手につかなかった。
体育祭が終わった。睦月は前日にテーピングをはずすことができ、無事に組体操に参加することができた。立て看板の評価点数は2位だったが、競技、応援、制作の点数の合計は、縦割りの2組が優勝だった。
翌日はめずらしく梅雨らしい、しとしとした雨が朝から降り続いていた。授業中の教室には、湿気と体育祭の燃え尽きた後の気だるさと、期末考査の前の緊張した雰囲気が混じりあって、重く垂れ込めている。
4時間目の中ごろ、ポケットのスマートフォンが震えた。教壇に立つ化学の教師はまだしばらく板書を続けそうだったので、睦月は机の下でこっそりとポケットからスマートフォンを出した。
『今日も昼一緒に食べようぜ』
誠也からだった。誠也は白いもふもふ犬スタンプを気に入っているようで、『おねがいします」とお辞儀する犬のスタンプを送ってきた。
右手首をテーピングしている間、箸が持ちにくかったので睦月は購買でパンを買っていた。6月にもなるとさすがに中庭は暑くなってきたので、誠也が食堂で昼食を注文し、その向かいで一緒に食堂で食べることになった。
そして、手首のテーピングが取れても、一緒に食堂で食べることは当たり前のこととして残っている。
『いいよ』
と睦月はすぐに返信した。教師が振り返ったので、どきっとして慌ててスマートフォンをしまう。
授業中にメッセージを送ったのも、そこまでして送りたいと思思える相手ができたのも、初めてだ。
その日の放課後、睦月は半月ぶりに美術室に顔を出した。
「あ、二ノ瀬くん。右手治ったの?」
2年の小川という先輩が話しかけてきた。口数の少ない先輩だが、同性の睦月とは話しやすいのか、入部してからも色いろいろと気にかけてくれている。
「はい、ようやくテーピング取れました」
小川は3年生の女子たちから少し離れたところで、油絵を塗っている。
「あれ、先輩の絵、だいぶ印象変わりましたね」
睦月は小川の後ろに立ってキャンバスを見る。睦月が休む前に目にしていたのは、黒を背景に机に果物や花瓶の置かれた静物画だった。しかし、今は背景が薄い青に変わっている。
「この前までは黒がいいと思ってたんだけど、なんかそういう気分じゃなくなったんだよね。油絵はさ、そうやって気分で塗り直せるし、重ねるほど深みが出るからいいよな」
確かに、背景の薄い青はその下から黒や濃紺が透けるところもあって、一言で薄い青と言いきれない複雑な色をしていた。
睦月も久しぶりにイーゼルにキャンバスを立てかける。
グレーの下塗りが完全に乾いていたので、遠景の空から塗りはじめる。
夜景にするつもりだったが、ふと空を赤く塗りたい気分になった。
燃えるように赤い夕焼けと、空の端からひっそりと始まる夜の気配の混じりあう空。すべり台の上で、もうそろそろ家に帰らないといけない名残惜しさとともに誠也と何度となく見上げたその空をふと、描きたくなった。
赤、白、黄、紺、といろんな色をパレットに出して、混ぜあわせながら、睦月は一心にキャンバスに塗った。
筆を動かしながら、思い出すのは誠也とのことばかりだった。一緒に歩く帰り道。さしかけてくれた傘。ふたつをふたりで分けあったアイス。ひとりの人との思い出がこんなふうに何度も思い浮かび、温かい気持ちになる。
そしてそれは、とても心地よく感じられた。
