初恋はガトーより甘く



【2話】

 翌日、睦月は重い体を引きずるようにして登校した。
 誠也に言われたことをーー睦月のこと好きって言ったらどうする? という言葉が、そのときの誠也の表情もいっしょに脳内で再生されるーー何回も考えてしまって、ほとんど眠れなかった。
 なんとか午前中の授業を眠気と戦いながらこらえ、ようやく昼休みだ。睦月は昼を食べずに寝ようかと思ったが、廊下がやけに騒がしくて眠れない。
「はあー……」
「どしたの、睦月」
 机に突っ伏していると朝美がツンツンと肩を叩いてきた。
「うっわ、すごいくま。失恋の次は恋わずらいかあ?」
「だから、失恋してないって。まず恋をしてないからね」
 当たり前のように朝美は睦月の前の席に座る。
「それ、昨日買ったアイシャドウ?」
「わかる? 肌に合う色すすめてもらったんだ。やっぱりプチプラとは違うねー」
「朝美によく似合ってる」
「睦月はそういうのよく気づいてくれるよね、男子の割に」
「割にって。だって昨日買いに行くって言ってたでしょ」
 朝美の相談はアイシャドウの色から恋愛に変わって行ったらしい。その詳細を母から若いわねえなんて嬉々としながら聞かされたわけだ。
「朝美はさあ、ずっと仲良くしてた友達に好きだって告白されたらどうする?」
「それって男、女?」
「お、女の子」
「同性かあ。私同性を好きになったことがないから何とも言えないけど、その子のこと好きだと思ったらつきあってみるかな。だって、それだけ好きって思える相手なんてそうそう出会うことないでしょ」
 そうなのだ、誠也ほど一緒にいて楽しいと思う相手はいなかった。小学校で転校してしまったから、やりとりをする手段がなくて途切れてしまっていたが、せっかくこうしてまた出会うことができたのだから、誠也とは仲良くしたい。
 ーーでも、その仲良くって、恋人として? それとも友達として?
「じゃあ、朝美がその子を本当に好きかどうかって、どうやって確かめる?」
 睦月と朝美は手を止めて頭を悩ませる。
「うーん、難しいな。異性だったら好きか嫌いかって割とはっきりすると思うんだよね。あたし睦月なら絶対オッケーだけどなあ」
「睦月」
 睦月を見つけた誠也が2組の教室に入ってくる。教室内では、きゃーっと女子たちの黄色い声があがった。教室の廊下側の窓から他クラス、他学年の女子たちがのぞいている。誠也の人気は右肩上がりだった。
「ちょっと睦月借りていい?」
「どうぞー」
 誠也に腕を取られて連れて行かれる。その途中、誠也は廊下で騒いでいた女子たちを、ひと睨みして黙らせてしまった。
 やってきたのは中庭だ。空いていたベンチに隣りあって腰を下ろす。
 コの字型の校舎と渡り廊下でぐるりと囲まれた中庭は、芝生が生えていて、その中央には風によって向きの変わる風見鶏のような現代アート風のオブジェが置かれてる。もう昼を食べ終えた男子生徒は、その芝生の上でキャッチボールをしたり、寝転んで漫画を読んだりしている。
 女子が少ないのはそろそろ紫外線が気になるからだろう。あたたかい春の陽気だが、日差しに当たっていると暑く感じる。
 誠也は片手にビニール袋を提げていて、その中にはいくつかのパンやペットボトルのコーヒーが透けて見えている。
「睦月、昼は?」
「買ってない。昼休み寝ようと思ってたから」
「連れ出して悪かったな。コーヒーいるか?」
「ううん、ブラック飲めないから」
「じゃ、こっち」
 と言って、誠也は睦月にビニール袋の中に入っていたパンを差し出した。メロンパンだ。校内の購買ではパン屋のパンが販売されていて、タイミングが良ければ焼きたてを買える。
 まだ温かさの残っているメロンパンは、クッキー生地がサクサクしていて、中のパン生地もふんわりしている。
「つきあう?」
「え?」
「……藤岡と」
 朝美のことだ。どうやら誠也はさっきの会話を聞いていたらしい。
 昨日の今日だ、てっきり誠也とつきあうのかと訊かれたのかと思ってびっくりした。心臓がドキドキと脈打っている。
「ううん、朝美は友達だし、好きな人がいるって言ってたから」
「睦月さ、それが自分だったらって考えたことある?」
「ない……けど、朝美とはなんでも相談できる友達でいたいな」
「はあー、よかったわ。安心したらすげえ喉乾いた」
 誠也はベンチの背に右手をかけていて、それが何だか肩を抱かれているみたいな格好だ。誠也の喉がごくごくという音と共に上下してコーヒーを飲む。顎の骨、首の浮き上がった筋、ペットボトルを持つ手も、いつの間にか大きくて骨ばった男の手になっている。
 今までに知らなかったところを見つけては、いちいちドキドキしてしまう。男が男を見てドキドキするのは変だろうか、と思っても、誠也の容姿がが整っているのは、教室の前の女子たちの人数が物語っている。
「昨日さ、俺が睦月のこと好きって言ったらどうするって言っただろ」
「う、うん。ごめんね昨日、帰っちゃって」
「なあなあにされたけど、あれ、睦月が恋愛対象として好きって意味だから。男どうしだし、迷惑がられるかなって思ってどう出たらいいかわからんかったけど、睦月が嫌じゃないなら考えてほしい」
 誠也の真剣な視線に睦月は顔を逸らす。
「……自分でもまだちょっと、はっきりわからないんだ。だから、ちゃんと返事ができるまで待ってほしい」
「いつまでも待ってやるよ。その間、俺はずっと睦月にいい返事がもらえるように努力するだけだし」
「誠くんさ……なんで、ぼくなの」
 誠也が口を開きかけたちょうどそのとき、5時間目の予鈴が鳴った。誠也はそれをいいことに「教室もどるかー」と言って立ち上がる。
「次古文か、眠いな」
 睦月も立ち上がり、パンの入っていた袋を畳んでポケットに入れようとしたが、誠也が「ゴミはゴミ袋に」と言ってビニール袋を開いてみせる。
「誠くん、部活決めた?」
「部活はやらない」と誠也はキッパリと言う。
「どうして?」
「やりたいこと、他にある」
「それが何か聞いてもいい?」
「バイトしてんの。無理言ってこっちの高校通うことにしたから、家に金入れないといけないし。それにバイト、楽しいし」
「何のバイト?」
「睦月、俺に質問してばっか。睦月は何部に入るんだよ」
「もう美術部に入ったよ」
「今も絵を描くの好きなんだな」
「覚えてるの?」
 と訊くと、もちろん、と返ってくる。
「蝋石でさ、睦月、道路にでっかい猫かきまくってたじゃん。しかもそれが結構上手だったから、歩いてる人が目を留めてた」
「誠くんはそのとき、丸ばっかり書いてたよね」
「蝋石で描くものって言ったら、けんけんぱの丸だろ」
「懐かしいね。もう忘れちゃったかと思った」
「忘れねえよ。睦月と遊んでる時は、いつも楽しかった」
 誠也の記憶に、自分と過ごしたことが楽しい記憶として残っていたことがわかって、睦月は嬉しくなった。そして、今なら話せるかと思って、睦月はさりげなく母が会いたがっていると言った。
「じゃあ今度行く。睦月、スマホ持ってんの? LINE教えて」
 教室前でLINEのアドレスを交換を終えたところで、古文の教師が廊下の角を曲がってやってくるのが見えた。
「やっべ、先生来た。じゃあな」
 誠也が笑って手を振る。犬歯を見せてニカっと、昔と同じように。

 睦月のクラスの5時間目は現代国語だった。
 睦月は先ほど誠也が見せた笑顔を、授業中に何度となく脳内で思い返した。その度にポカポカと温かい気持ちでいっぱいになる。国語教師の声は、右耳から左耳に流れていった。
 授業が終わってスマートフォンを見ると、LINEの通知が1件あった。誠也からだ。白いもふもふした犬が勢いよく手を振っている動く画像で、「またね」と文字が書いてあった。授業が始まる前に送ってくれていたようだ。
 6時間目もぼんやりとしたまま授業を受けた睦月は、放課後、美術室に向かった。
 美術部員は3年が4人、2年と1年がひとりずつで、まだ誰も来ていない。睦月は隣の準備室で美術展の図録を読んでいた美術教師から、美術室の鍵を受け取って教室を開ける。
 絵の具との匂いがふっと香り、太陽の光がグラウンド側の窓から差し込んでいた。おーい、おーいと運動部のかけ声が聞こえ、隣の音楽室からは吹奏楽部の練習する管楽器の音が混じりあって聞こえている。
「二ノ瀬くん、風景画を描くと言っていたね」
 睦月が油絵の具の準備をしていると、美術教師がやってきた。睦月は中学でも美術部だったので、油絵の具の使い方は知っている。イーゼルにキャンバスを立てかけると、教師が口を開いた。
「まず木炭で薄く下書きをして、それから油絵の具で下塗りをする。好きな色でいいんだけど、風景画だと無難なのは薄茶かグレーかな」
 睦月がキャンバスを前にして描きたいと思ったのは風景だ。工場や煙突が並び立ち、夜の闇の中、ライトが星のようにキラキラと光る工業都市の夜景。誠也と公園で遊んでいる時には見ることのなかった夜の色。
 週末に睦月はその公園に行って、すべり台の上から写真を撮ってきていた。写真を見ながら木炭で煙突や工場の輪郭を描く。

 ーー誠くんのことは好き、と思う。

 でもそれが昔のままの友達としての好きなのか、恋愛対象としての好きなのか、睦月にはまだはっきりとわからなかった。

 ーー友達としての好きと、恋人としての好き、その違いはどこにあるんだろう。

 その境界はとても曖昧だ。
 睦月は難しい顔をしながら、白と黒の油絵の具をパレットで混ぜ、グレーをキャンバスに塗ってゆく。