【1話】
「おーい、睦月ー!」
呼ばれて、二ノ瀬睦月は軽く駆け足で校門を通り抜ける。
高校の校門から校舎へ続く道は両端に桜の木が植っている。今年の春は例年より気温が低かったので、入学式の今日、ちょうど満開だった。桜は風にそよぎ、祝福するかのように花びらを新入生の頭上に降らせている。
下足室のガラス戸に、クラス分けを書いた紙が貼り出してある。新入生たちがその紙の前で集まっている中、よく見知った顔があった。
「やった、睦月と同じクラスだ!」
小、中学校と同じだった朝美が睦月の隣にやってきて喜ぶ。真新しい紺のブレザーにストライプの入った赤のリボンがよく似合っている。
「朝美、髪染めたんだ」
「似合ってる? でもちょっと髪傷んじゃったから、毎日必死にトリートメントしてるよ。睦月はもともと茶髪に見えていいなあ」
睦月は生まれつき肌も髪も色が薄い。そして中性的な顔立ちと細い体つきもあって、睦月の友人は昔から女子が多い。
「そういえば、髪伸ばしてるの? 昔はずっとショートヘアっだったでしょ」
昔から朝美はショートボブで、動きやすいからと言っていつもズボンを穿いていた。だから睦月と並んでいると、よくどちらが男でどちらが女かわからないとからかわれたものだ。
「…ね、中学の子みんな集まってるよ、こっち!」
下足室の人だかりから少し離れたところで、中学から同じ高校に進学した顔ぶれが10人揃っていた。男女同数で、なんとなく輪になって誰が何組になったか、どの部活に入りたいかなんて話をする。
「ねえねえあの男子、めっちゃかっこよくない?」
睦月の向かいに立っていた女子が隣の女子に声をかける。
「ほんとだ、かっこいい」
「なんだか都会の子って感じがする」
「何組かなあ」
みんながその彼を見ようと目を向けたので、つられて睦月も振り返る。すらりと背が高いその男子は、ちょっと気だるそうに、まだ教科書の入っていないスクールバッグを肩に引っ掛けて歩いて行く。襟足だけ少し長く伸ばした髪の毛が、歩みに合わせて靡いている。
「……誠くん?」
その後ろ姿を見た睦月は、ふと小学生のときに転校して以来会っていない幼馴染みを思い出した。彼は小学5年生の春、東京に引っ越したのだ。
体育館で入学式が終わると、担任が教室に戻るまで束の間の休憩になった。教室前の廊下では、出身中学が同じであろう生徒たちが小さなグループを作り、沈黙していたぶんを取り返そうとするかのように会話に興じている。
睦月が教室に入ろうとしたとき、下足室前で噂になっていた男子生徒と廊下ですれ違った。
「誠くん!」
睦月の母もそう呼んでいたから、咄嗟に出てきたのは昔のままの呼び方だ。
振り返った彼は、やはり5年前に転校した信濃誠也だった。
すっかり印象が変わっていたが、間近で見ると記憶にある面影と一致する。
誠也は昔から左目の黒目の下、涙袋と頬の間にほくろがあった。そして奥二重でちょっと吊り目の、意志が強そうな目。
昔は同じ高さだった目線が、睦月が少し見上げるようになっていた。睦月は男子の平均身長の少し下で伸び悩んでしまったが、そんな睦月より誠也は頭ひとつ高くなっている。
「やっぱり誠くんだ! 久しぶりだね、いつ戻ってきたの?」
睦月は嬉しさで胸が弾むのを感じた。誠也に会うのは5年ぶりだ。
「先月」
誠也の声は声変わりして、記憶にあるよりずっと低くハスキーな声になっていた。少し視線を落とすと、ストライプのネクタイの結び目の上に、喉仏がくっきりと浮き出ている。その喉元を見て睦月はなぜだかどきりとした。
「何?」
「いや、声ずいぶん変わったんだなって」
「男なら声変わりするだろ。って、お前はあんまり変わってないな。声ですぐわかったわ」
「誠くん、何組?」
「3組」
「隣のクラスだね」
「そりゃ2組と3組だからな」
「あれ、ぼくクラス言ったっけ」
「……自分の名前探してて、たまたま見えたんだよ」
話していてふと、あれ、と睦月は思う。誠也が何だか素っ気ない気がした。昔は、母親同士仲が良かったのもあって、よく一緒にご飯を食べに行ったり公園に遊びに行ったりした。そのときの誠也は、いつも笑っていたのにーー。
「担任来たわ。じゃあな」
廊下で喋っていた生徒たちが各々の教室に戻っていく。睦月もじゃあね、と言ったものの、思ったよりも小さな声になった。誠也に聞こえたかどうかはわからない。
担任のやクラスメイトの自己紹介やプリントの配布などでショートホームルームが終わると下校になった。睦月は3組をちらっと覗く。教壇でまだ教師がしゃべっていて、終わりそうな雰囲気はない。
睦月は誠也を待ってみることにした。とはいえ、教室の前は下足室に向かう生徒でごったがえしていたので、靴を履き替えてから下足室の外で待つ。
青い空を見上げながら、まるでドラマに出てくるヒロイン役の女の子みたいだな、と思う。そしてそういう女の子は、もれなく恋をしていて、片想いの相手を待っていたりするものだが、睦月が待っているのはつれない幼馴染みだ。
「誠くん」
襟足に靡く髪を見つけて、睦月は声をかける。
「よお、どしたん」
「一緒に帰れないかなって」
「別方向だぞ。俺、電車だし」
「途中まででいいよ」
それきり会話が途切れてしまって、睦月は話題をなにも準備していなかったことを後悔した。昔はこんなふうに気まずくなることなんてなかった。落ちている缶はおもちゃになったし、変な形の石が落ちていただけで一緒に眺めて笑うことができた。話題、なんてあえて話す内容を考えたことなどなかったのだ。
「睦月さ、彼女いるの?」
沈黙に耐えかねたのか、誠也が口を開く。
「え、いないよ。誠くんは?」
「今はいない。やりたいことあるんだ」
「へえ、何?」
睦月を見て、なぜか誠也は顔をふいと逸らした。
「俺、こっち行くから。じゃあな」
やっぱり、高校生の誠也はそっけない。
誠也と別れた睦月はひとりで家に向かって歩く。遠くを見ると、工場の煙突からもくもくと煙が上がっている。睦月たちが住んでいるのは工業都市だ。昼間は大きな工場や煙突が海側に立ち並ぶ景色が見え、夜になるとそれらの姿は闇に潜み、代わりに赤や青、白など色とりどりのライトが夜空に光る星のように浮かび上がる。そんな景色を眺めながら睦月は育った。
「みてみてせいくん! えんとつからね、くもがでてるよ!」
「ほんとうだ! くもって、ああやってつくるのかぁ」
「すごいねえ」
幼稚園のころだったか、小学生になっていたかーーすべり台の上に登って、誠也とそんな会話を交わしたことを睦月はふと思い出す。
あれから10年近く経っているのだから、まったく前のままの関係とはいかないことはわかっている。連絡先も知らないままーーもしかしたら母は誠也の母のメールアドレスくらいは知っていたかもしれないがーー誠也とは別れてそれきりだった。もう会うこともないのだと思っていた。だからこそ、睦月は誠也に再び会うことができて嬉しかったのだ。
ーーもう少し、会えたことを喜んでくれると思ったのに。
ーー誠くんは、あまり嬉しくなかったのかな……。
とぼとぼと誠也のことを考えて歩いているうちに自宅に着いた。睦月の家は一軒家で、もう転勤はないだろうと睦月が生まれてすぐに両親が買った。だが、父は昇進とともに関西の支店に異動になり、けっきょく睦月が中学に上がった年から単身赴任をしている。
母は仕事に出ているので、睦月は誰もいないリビングを通り、階段を上がって自分の部屋に入った。スクールバッグを床に投げ置き、ベッドに突っ伏す。
授業もない半日の学校だったのに、感情がジェットコースターみたいに上がったり下がったりして、どっと疲れていた。
バタン、とドアの閉まる音がして目を覚ますと、階下から「ただいまー」と母の声がした。母のパートが終わるのは5時だ。睦月は昼も食べずに夕方まで眠ってしまったことに気づく。
睦月の母は、百貨店で化粧品を売る美容部員だ。産後はしばらく離れていたが、睦月が小学生になると同じ職場に復帰して働きはじめた。
「睦月ー、なんか暗いじゃん。どうかしたの?」
母は仕事向けにちょっと厚塗りした化粧を化粧台の前で丁寧に落とし、保湿パックをしながら紅茶をいれている。
「どうもしないよ。ポットにお湯残ってる? ラーメン食べよっかな」
「ほとんどないから足して。なに、昼ごはん食べてないの?」
「寝ちゃってた」
「そうだ、クッキー買ってきた。食べない? 睦月好きでしょ、ここの焼き菓子」
母は見慣れた洋菓子メーカーの袋から、クッキーの詰め合わせを机に出して睦月に見せる。
喋るのが好きな母はその性格もあって、百貨店のあちこちに友人がいる。母に連れられて百貨店に買い物に行くと、惣菜、スイーツ、婦人服売り場と各所にいる友人に挨拶をしに行って長話になるので、小さいころの睦月は百貨店が少し苦手だった。
でも、そういう日には、母は友人の働いている店舗でお惣菜を買ったりスイーツを買ったりする。その中でも睦月が好きなのは洋菓子屋のマドレーヌだった。
小さなマドレーヌはしっとり甘くて、バターの香りがした。小学生に上がる前だったろうか、睦月はある日ふと、これからいっしょに遊ぶ誠也に持っていってあげたら喜んでくれるかもしれないと思いついた。誠也と一緒に食べたいから持って行っていいかと訊くと、母はいくつか持たせてくれた。
その記憶の中のマドレーヌと目の前のクッキーのパッケージには、同じ洋菓子屋のロゴが印刷されている。お皿の上に、苺が3つ、三角形に配置されたロゴだ。
「あのさ、誠くんのとこ、こっちに戻ってきたの?」
母が紅茶をついだカップを睦月にくれた。カップ麺ができあがるのを待つ間、クッキーを齧りながら睦月は母に訊ねる。まっ黒のクッキーは、生地にかなりココアパウダーが練り込まれている。おまけに、ごろごろと入っているチョコレートはかなりビターだ。おいしいのだがかなり甘さ控えめで、甘党の睦月はどちらかというと紅茶よりも牛乳が飲みたくなった。
「澪ちゃんからそんなこと聞いてないけど。何、どうしたの急に」
澪ちゃん、とは誠也の母のことだ。全然連絡してないなあ、と母がつぶやく。
睦月の母と誠也の母は、児童館で出会ったそうだ。ともに引っ越してきたばかりだったという共通点もあり、すぐに打ち解けて互いの家を行き来するような仲になった。
「誠くん、同じ高校だった。ぼくが2組で、誠くんは3組」
「そういば、誠くんのお兄さん、真也くんだっけ? こっちで就職するからそのまま残るって引っ越すときに言ってた気がする。そのお兄さんと一緒に暮らしてるのかもね。けっこう歳離れてたでしょ、いくつだっけ」
「11歳差だよ」
「睦月が15で、確か誠くん春生まれだったよね。高1で16歳になるから、真也くんは27、8歳? いやー想像つかないわ。誠くんどう? 変わってたんじゃない」
「すごく背が高くなってかっこよくなってたよ。びっくりした」
「へえ、見てみたいわ。今度顔見せにおいでって言っておいてよ」
「言う機会があったらね」
「何それ、隣のクラスだったらいくらでもあるでしょうに」
「誠くんは、何だかあんまり会いたくなかったみたいだから」
母はじっと睦月の顔を見る。
「久しぶりでどんな顔したらいいかわからなかっただけじゃない? 誠くん、昔からちょっと恥ずかしがりなとこあるから」
「そうだっけ」
「そうよ。うちに遊びにきたときはいつも澪ちゃんの足にくっついてたわよ。あんたが遊んでるの見て、しばらくしたらようやく離れて睦月と遊びだすの」
「それ、いくつの時の話?」
「あんたたちがまだヨチヨチ歩いてたころよ」
小学生に上がれば誠也に誘われて外で遊ぶことが多くなったから、母がよく覚えているのがそんな昔でも無理はなかった。
休み時間に手探りの会話をして、相手との共通点を見出して笑ってはしだいに親しくなってゆく。そんな感じで入学から1週間がすぎた。
昼休み、教室内には仲がいい生徒どうしのグループの輪がぼんやりと形成されていた。一緒に購買にパンを買いに行ったり、食堂に行くグループ。机を寄せて持ってきた弁当を食べるグループ。睦月は高校で初めて同じクラスになった男子の何人かと会話する程度の仲にはなったが、自分から一緒に昼ごはんを食べようと誘えないでいる。そっけなかった誠也のこともあり、自分から声をかけていいのか迷っていた。
入学式以降、隣のクラスの誠也とはたびたび廊下ですれ違っている。でも、目が合っても会話にならず終わってしまう。
「睦月ー、あのさあ」
明るくよく通る声は朝美だ。睦月が顔を上げると、睦月の目を覗き込んでくる。
「え、どしたの、失恋?」
「してないよ」
朝美は空いていた睦月の前の席の椅子に座って、「一緒に食べよ」と言い、購買で買ってきた惣菜パンを齧りはじめる。
絵を描くのが好きで、中性的な顔立ちだったからか、昔から女の子と遊ぶことのほうが多かった。
朝美もそのひとりだ。男の子で仲がいいといえるのは誠也だったのだ。外で遊ぶよりも絵を描いたり本を読んだりする方が楽しかった睦月を、誠也はいつも外に連れ出してくれた。
「昔仲良しだった子にそっけなくされてちょっと落ち込んでた」
「え、だれ?」
「……誠くん」
「あー、信濃、なんか変わったよね。転校して戻ってきてからさ」
「昔は可愛かったんだよ、笑うと犬歯が見えてさ」
「なに、睦月って、信濃のこと好きだったの?」
「え……そんなことない。そうだ、なんか用事あったんじゃないの」
「そうそう、皐月さんいつ百貨店で働いてる?」
睦月は母の勤務シフトを思い出す。
「平日なら5時まで働いてる。土日はシフトによるけど、毎週どっちかには入ってるかな」
「じゃ、今日行っていいかな。いいアイシャドウ欲しいから相談させてもらおうっと」
「朝美は好きな人でもできたの?」
睦月が問うと、朝美はふふ、と意味深な笑みを浮かべる。
訊かなくても答えは明らかだった。好きな人のために髪を染めたり化粧をしたりして、一生懸命自分磨く朝美がちょっと羨ましく思える。
誠也に再開してから、睦月はずっと誠也のことが気になっている。誠也ほど一緒にいて楽しい友達はいなかったのだ。戻れるのなら誠也と以前のような仲に戻りたい。でも、犬歯を見せてニカっと笑ってくれた幼いころの誠也が、今の誠也とどうしても重ならない。
離れていた5年の間に、睦月には睦月の、誠也には誠也の時間が流れた。誠也があまり旧交を温める気にならないのなら、離れているほうがいいのかもしれない。
昼休みが終わり、5限目の古文の授業が始まった。グラウンドに並んでいるのは1年生だから、1組と2組だ。さっそく体育祭でする組体操の練習を始めている。
校舎側に立つ教師から、男子生徒たちは後ろに向かって背の順に並んでいる。誠也はーー後ろから2番目にいた。
グラウンドをぼんやり見ていたらふと、誠也と目があった気がした。こんなに
距離が離れているのだから、たまたまこちらに顔が向いただけだろう。そう思っていたら、誠也は教師が手元のプリントを見ている合間に、ピースサインをした。
ーーぼくに?
睦月が手を振るか迷っていると、誠也が後ろの男子に小突かれ、笑いあっているところを教師に注意された。教師がまたプリントに目
を落とすと、誠也が身振り手振りで何かを伝えようとしている。
ーー下足室? 帰りに待ってたらいいってことかな。
確信が持てないまま、その日の授業が終わると、睦月は下足室に向かった。3組の担任は話が長いのか、それとも2組の担任が淡々としているのか、今日も睦月のクラスの方が先にショートホームルームを終えている。
靴を履き替え、下足室を出た扉のところで人混みを避け、睦月は誠也を待った。
程なくして、誠也が男子生徒と一緒に下足室を出てくる。
「睦月」
「あっ、体育の時言ってた幼馴染み? 仲いいなあ」
明らかにからかいを含んだ声に、誠也は「うるさいわ」と答え、早く行けと追い払うようにその男子生徒に手を振った。
「帰ろうぜ。途中まで」
そう言うなり誠也はすたすたと歩き出すので、睦月も横に並んで歩く。
誠也から一緒に帰ろうと言ってきたのだ、何か言いたいことがあるのではないかと睦月は期待したが、誠也は無言だった。話すことがないのなら、どうして一緒に帰ろうなど言ってくれたのだろう、と睦月が考えていたところ、
「なあ睦月」
誠也が足を止めたので、睦月は誠也を振り返る。
切れ長の誠也の目がじっと、睦月を見ていた。
「俺が睦月のこと好きだって言ったらどうする?」
「え?」
早口に言われ、睦月は思わず目をしばたかせる。
「やっぱ引くよな」
「引いてないよ。びっくりしただけ」
「それを引くって言うんだろ」
「違うよ。好きだなんて言ってもらえると思ってなかったからびっくりしたんだよ。昔みたいに仲良くするの、迷惑なのかなって思ってたから……」
「久しぶりだし、どういう顔していいかわかんなかったんだよ」
視線を逸らして首を掻く誠也の、耳が赤くなっている。
「なあ、さっきの、脈アリって思っていいってことだよな?」
誠也に間近でじっと見つめられて、睦月は頬がじわじわと熱くなるのを感じる。
睦月は、誠也のことを好きだと思っていたが、それはあくまで親友としてだ。誠也を恋人としてで好きになるということは、、いつか手を繋いだりその先もーー。
考えていると恥ずかしくなって、睦月はぶんぶんと頭を振る。
「あっ、睦月!」
そしてさらに考えた結果、睦月は思わず走って逃げてしまった。睦月の頬も、誠也に負けず劣らず赤くなっていた。
