母さんが倒れた。貧血もちで身体が弱く、無理をすると倒れる。俺の高校入学を機にパートを始め、張り切ってたくさんシフトを入れたのが原因らしい。つかれがたまって動けなくなってしまった。こういうことはよくある。ウチは父さんが単身赴任で、月に一度しか帰ってこれない。だから、母さんを守るのは俺の役目だと幼いころから自覚があった。家事をするのも、母さんの看病をするのも、俺にとっては当たり前で苦じゃなかった。なのに母さんはいつも『ごめんね』と申し訳なさそうに謝る。謝られると、こっちも申し訳ない気持ちになる。

 母さんが頼れるような男にならなきゃ……俺の正義感が強すぎる所以はこれかもしれない。

 ピーンポーン。間延びしたインターホンの音に、ゆっくりとソファから立ちモニターを確認する。そこには、少し緊張した面持ちでそわそわして立っている音無が映っていた。

 「え、なんで?」

 どうして音無が訪ねてきたのかわからないけど、とりあえず玄関の鍵を開けた。

 「どした?」
 「あ、瀬川くん。久しぶりだね。ずっと休んでるから、様子見にきた」
 「あぁ、身体は元気だから、心配すんな」
 「うん、元気そうでよかった。これ、先生に頼まれてたやつ」

 音無がカバンから大きな封筒を取り出して俺に差しだした。

 「なに?」
 「大事な書類だって。提出期限が来週だから、今日中に渡したかったみたい」
 「そっか。わざわざ悪かったな」
 「ううん、少しでも顔見れてよかったよ。じゃあーー」

 手を振り、音無が帰ろうと踵を返したその時ーー

 「ちーくん? お友達?」

 母さんが様子をみに顔を出した。

 「母さん、なんで起きてんだよ。まだ熱あるんだから寝てろって」
 「大丈夫よ。もう微熱だし、ずっと寝てたら腰が痛くなるのよね~もう歳かしら~」

 「あ、こんにちは。瀬川くんと同じクラスの音無です」

 母さんの姿を目にした途端、背筋を伸ばして深々とお辞儀をする音無。育ちのよさがでている。

 「あら~まぁ~イケメンじゃない!」

 急ににこにこと上機嫌になり、遠慮する音無を無理やり家に上がらせようとする母さん。やめろと言っても、聞く耳をもたない。音無に謝って少しだけ上がってもらうことにした。リビングに音無を通したが、母さんが音無をずっとみつめているので、俺の部屋へ移動した。

 「ふふふ、ごゆっくり~」

 母さんがお茶とお菓子を持ってきてくれたが、そのままじっと俺の部屋に居座ろうとするので、無理やり部屋から追い出した。

 「ふぅ~……ごめん」
 「かわいらしいお母さんだね、ちーくん?」
 「やめろ」
 「わぁ~ここがちーくんの部屋かぁ~。エッチな本とかないの?」
 「だから、その呼び方やめろ。エッチな本はない」
 「そっか~ちーくんは動画派なんだね~。ちなみに俺はーー」
 
 熱い紅茶が注がれたティーカップを手に持ち、音無の目の前に持っていく。

 「まだその呼び方続けるんなら、この熱い紅茶をお前の顔面に注いでやるからな」
 「……それはちょっとご遠慮していただきたいです。火傷しちゃうので」
 「さっさと紅茶飲んで帰れ」
 「え~せっかく来たんだからもう少しおしゃべりしようよ~。卒アルとかないの?」
 「卒アル? そんなもん見てどうすんだよ」
 「昔の瀬川くんがみたい!」
 
 両手を組み目をウルウルさせて懇願するようにみつめてくるので、しかたなく物置と化しているクローゼットの中を探した。十分後にようやくみつかり、小学生の時のものと中学生の時のものを音無にわたしてやったらわくわくしながら卒アルを開く。

 「わぁ~~!! かわいい! 目がくりくりしてる! 写真撮っていい?」
 「いいけど」
 「大丈夫。俺だけの宝物にするから」

 うれしそうに写真を撮りながら、小学生時代のことを聞いてくる音無。負けず嫌いで運動が好きだったとか、母さんの手伝いをしようとして失敗したとか、漢字の書き取りが苦手だったとか。他愛ないエピソードを興味津々に聞いている。

 「こっちは中学時代だね。おもかげある~丸刈りだ~かわいい~!」
 「野球部だったからな」
 「うん、知ってる。実は電車の中でみたことあるんだ」
 「え? ガチで?」
 「妊婦さんに席を譲らないおじさんにガチギレしてた丸刈りの男の子」
 「うわぁ……うん。それ、俺だわ。覚えてる」
 「この子はなんでこんなに他人のために怒ってるんだろうって不思議だった。中学の時は、他人に興味がなくて自己主張も苦手だったから、そんな俺とは正反対の瀬川くんのことが理解できなかった。でも、何度か瀬川くんを電車でみかける度に、目が離せなくなった。友達と楽しそうに話していたり、疲れて寝てしまってたり、老人に席を譲ったり。いつも生き生きしている瀬川くんをみてたら俺も少し元気になって、会えるのが楽しみになった。俺も瀬川くんみたいになりたいって、初めて他人に興味をもったんだ」
 「……みられてたのかよ、はずっ。ってか、憧れられるような立派な人間じゃないんですけど」
 「そんなことないよ。瀬川くんは俺の想像以上の、魅力的な人だよ」
 「……そんな褒めてもなんもでねぇぞ」
 「ふふっ、顔真っ赤じゃん。かわいい」
 「うるせー」

 コンコンとノックの音が聞こえ、お茶のおかわりを持って母さんが部屋に入ってきた。

 「だから、寝てなきゃだめだろ」
 「ふふっ、楽しそうな声が聞こえたから母さんも混ざりたいなぁって思って」
 「どうぞどうぞ、混ざってください」
 「いや、混ざってくださいじゃねぇから」

 突然ゴホンと咳払いして姿勢を正す母さん。

 「えっと、音無くん。いつも息子と仲良くしてくれてありがとう。これからもどうか、よろしくお願いします」
 「こちらこそ、よろしくお願いします」

 母親と友達が三つ指をついて頭を下げている。俺はこの状況をどういう心境で見守ればいいんだろう。
 しばらくして二人同時に頭を上げて、ふふふと微笑み合っている。この二人、似た者同士かもしれない。

 
 「かわいらしいお母さんだね」
 「ふわふわおっとりしてるけど、意外と芯が通っててしっかりしてるんだよな。そういうとこ、おまえに似てるかも」
 「え、そっか~似てるんだ。うれしいかも」
 「うれしいのかよ」
 「瀬川くんが大好きなお母さんに似てるってことは、俺のことも大好きってことでしょ?」
 「……っ、いや、なんでそうなるんだよ」
 「なに、その間は」
 「なんでもねぇよ」
 
 コンビニに行くという理由をつけて、家に帰る音無と並んで歩く。いつも俺が通っている道を一緒に歩くなんて、そわそわして落ち着かない。

 「お母さんにはどういう風にみえたかな? 俺たちの関係」
 「そりゃあ、まぁ、普通に友達だろ」
 「そうだよね~普通に考えたら友達だよね」
 「……俺はそう思ってないから」
 「え?」
 「あの時、オリエンテーション合宿の時は、おまえのこと友達だって言ったけど、今は違う」
 「えっと、それはつまりーー」
 「じゃあな!」

 コンビニに着いたので逃げるように中に入った。背後で「そこ詳しく聞きたいんだけど」と音無の声が聞こえたが無視した。コンビニのドア越しに手を振る音無。シッシッと追い払うように手を振ると、余計に大きく手を振ってきたのでふき出してしまった。レジにいる店員に冷ややかな目でみられたので、店の奥に逃げた。
 
 気持ちを伝えたいのにすんでのところで踏みとどまってしまう。今の関係性が壊れてしまうかもと思うと、怖くて前に進めない。一歩ずつ前に進んでいると思っても、急に三歩後退したり、ジャンプして一気に五歩進んだり。恋ってめんどくさいし楽じゃない。でも最近は、振り回されるのも嫌じゃないって思える。音無のことを好きになって幸せだと感じられるから。



 母さんの看病で欠席し、三日ぶりに学校に行くと、三日分の課題がたまっていた。休み時間を返上し課題プリントに取り組んだが終わらず、放課後に残ってやる羽目になった。真中は一目散に帰っていて、音無と下野が一緒に残ると言ってくれたけどさすがに悪いので先に帰ってもらった。

「瀬川くんっ!」
 
 なんとかプリントをおわらせて帰り支度をしていると慌てた様子で下野が教室に入ってきた。

 「え、どうしたんだよ。そんな慌てて」
 「大変なんだ! 音無くんが、音無くんがーー」
 
 必死に走ってきたのだろう。息も絶え絶えに、俺になにかを伝えようとしている。

 「音無がどうした?」

 下野の背中を撫でながら尋ねると

 「っ、連れてかれた! 前、僕に絡んできた他校の金髪ピアスが高架下で待ち伏せしてて、音無くんを連れて行った。それで、僕に、瀬川って奴を連れて来いって。駅の北側の廃工場にいるからって」
 「なんだよそれ……」

 なんでそんなことになったのか全く見当がつかないけれど、音無が危ないことに巻き込まれたのは間違いない。俺を指名してるってことは、俺になにか恨みでもあるのだろうか。ぎりっと奥歯を噛みしめる。怒りでどうにかなりそうなのを、ぐっと拳を握りしめて耐えた。

 「わかった。下野は警察に連絡してくれ。俺は音無を助けに行く」
 「もし誰かにこのことを言ったら、音無くんをぶっ殺すって……どうしよう、警察に連絡した方がいいんだけど、そしたら音無くんが……」
 「クソが……俺が様子をみて連絡するから、下野はここで待機しててくれ」
 「一人で行くの? 危ないよ!」
 「大丈夫。こっそり様子を見るだけだ。正面から乗り込んだりしないから」
 「……うん、気を付けて。絶対に無茶はしないで」
 「おう」

 慌てて教室をでて二段飛ばしで階段を駆け下りる。靴を履き替える時間も惜しくて、上靴のまま学校を出た。学校が位置してるのは駅の南側で、商店街や市役所なども南側にある。北側は田んぼや畑、たまに民家がぽつんとあるくらいで、南側に比べれば寂しい場所だ。廃工場がいくつか点在しているけど、不気味で誰も近寄らない。

 「廃工場って、どこのだよ!?」

 とにかく、手当たり次第に廃工場を調べた。一件目は何も置かれていないただのだだっ広い倉庫。そこには人っ子一人いなかった。二件目は古いミシンがたくさん置かれている縫製工場だった。ぐるっと一回りして中も確認したが、人の気配はなかった。そして三件目、なんの工場かわからないけどたくさんのドラム缶と木材が一か所に集められていた。警戒しながら足を踏み入れ、奥に進んでいく。「ううっ」と人の呻き声が聞こえ、音を立てないように物陰に隠れながら様子を確認する。人が三人いて、音無の背中がみえた。二人が音無と対峙しているが、二人とも尻もちをついている。金髪ピアス野郎の姿はみえない。

 「音無……?」

 警戒しながらゆっくり近寄っていく。音無が振り向いて驚いた顔をしている。

 「え? 瀬川くん、なんでいるの?」
 「なんでって、下野から聞いて、おまえが連れてかれたって言うから慌てて来たんだけど……どうなってんの?」
 「えっと、金髪の人がまっすぐ向かってきたから受け流して投げたら背中から落ちちゃって、びっくりして逃げてった」
 「へ?」
 「で、この人が角材持って殴りかかってきたから、よけて組み付いて引きずり倒したら、びっくりして放心しちゃった」
 「は?」
 「あと、この人には何もしてないんだけど、勝手に腰抜かして立てなくなっちゃった」

 倒れている二人をみると、カラオケで再会したいじめっことその友達だった。俺のことが気に食わないので、音無をエサにして誘い出し痛い目に遭わせたかったらしい。金髪ピアス野郎は金で雇ったんだとか。全く使い物にならなかったけど。

 「悪かったよ! もうおまえらには手は出さないから許してくれ」

 いじめっこが泣きながら土下座している。

 「クズの言うことなんか信じられないな~二度と変な真似しないように再起不能にしなくちゃね」

 目を細めて冷笑している。静かに怒りをはらんでいて、そこにはいつものふわふわした雰囲気は一切感じられない。まるで別人だ。仲がいい俺でさえ、声をかけるのをためらってしまう。

 「そんなことしなくていいから、一旦落ち着け」
 
 肩を叩いて宥めてやると、ふうと息を吐いた。まだ二人を睨み続けている。

 「こいつが暴走する前に早くでてけ」
 「へ? 見逃してくれるのか?」
 「もう二度と俺らに関わんなよ。あと、いじめとかクソなことしてんじゃねーぞ」
 「ありがとうございます! もうしません!」

 そう言って、二人そろって慌てて廃工場から走り去った。

 「これでよかったの? あいつら、またやってくるかもーー」

 音無の胸に飛び込んで、背中に手を回す。

 「え……瀬川くん?」

 ぎゅっと力強く抱きしめると、音無もおそるおそる俺の腰に手を回した。

 「アホか! なんで一人で行くんだよ! 死ぬほど心配したんだからな! おまえにもしものことがあったら、俺はーー」

 感情が高ぶって音無の胸の中で叫んでしまった。身体が震えて、涙が止まらない。

 「ごめん、ごめんね……」

 俺の頭を撫でながら耳元で小さくごめんと呟いている。
 どれくらい経っただろうか。しばらく頭を撫でてくれたおかげで少し落ち着き、身体の震えが止まった。そっと腕を解き、顔をのぞきこまれる。あの時、体育祭の時のように泣きそうな顔で、親指の腹で涙を拭ってくれる。

 「ごめん、もう我慢できないーー」

 そっと唇が触れた。理解した瞬間すぐに、顔に熱が集まる。

 「好きだよ」

 熱のこもった視線をまっすぐに向けられて身体がかたまってしまった。心臓だけがうるさく脈打ち、これは夢じゃないと教えてくれる。

 「……俺も……音無のことがーー」

 なんとか声を出したのに言い切る前に唇を塞がれて、ぎゅっと胸が苦しくなる。離れたと思ったら重なって、離れたと思ったら重なる。少しずつ、長く深くなっていき、胸の奥がつまったように息苦しい。

 「瀬川くん……」

 吐息のまじった声でせつなげに名前を呼ばれる。俺の前で余裕をなくしてしまう音無が愛おしい。

 「ずっと、隣にいさせてください」
 
 コクンと静かに頷くと、そっと腕の中に包まれた。また奥の方から涙が込み上げて、目尻からつーっと頬を伝う。

 「あっ……」

 急に足から力が抜けてぺたんとその場に座り込んでしまった。

 「え!? 大丈夫!?」

 音無が心配そうにあたふたしている。

 「……なんか色々あって、身体がびっくりしてる」
 「え~!? 立てる?」
 「……無理だ。足に力がはいんねぇ」
 「わかった。おんぶするから背中につかまって」
 「……いやいや、恥ずいから」
 「大丈夫だよ。誰も見てないし」
 「ここ出たら見られるだろ」
 「そんなこと気にしてる場合じゃないでしょ。早く身体休めないと」
 「だからーー」

 急に「わー!」という叫び声が聞こえ、驚いて入口の方をみると、真中と下野が変な格好をして現れた。真中は自転車のヘルメットをかぶり、手に木のバッドを持っている。下野は、工事用ヘルメットをかぶり手にゴルフクラブを持っていた。

 「え? もうおわった感じ?」
 「真中くんがグズグズしてるから」
 「家から必死でチャリとばしてきたんですけど」

 俺と音無は顔を見合わせて爆笑した。

 「まさか音無が護身術やってたなんて」
 「こんなにイケメンで強いってずるいよね」
 「なんか俺たち生きててごめんなさい」
 「虫けらはさっさと死にます」

 「え~~!? 二人ともまだ死なないで~~」

 真中と下野が急に落ち込んでしまったので、なぜか音無が慌てて励ましていた。
 俺が音無に背負ってもらうのを拒否していたら、真中と下野が騎馬戦スタイルでいこうと騎馬をくみだしたので、全力で拒否して音無に背負ってもらって廃工場をでた。駅の近くまでくると人が多く、背中に視線が突き刺さったけれど、音無の背中に顔をうめて耐えた。最寄り駅に着くころには辺りは真っ暗になっていて、人の視線も気にならなくなった。
 音無に背負われながら、空にぽっかりと浮かぶ月を見上げる。

 「今夜は月がきれいですね」
 
 音無がふと呟いた。

 「…………そうですね」

 俺の返事に、音無がクスクスと笑う。

 「この間、現国で習ったじゃん~」
 「……忘れた」
 「え~~ロマンチックな返しを期待したんだけどな~」
 「んな回りくどい言い方してたら伝わるものも伝わらねぇよ」
 「ふふ、そうだよね~シンプルなのが一番伝わりやすいね」
 「……好きだ」
 「……~~~っ、」
 「……おい、急に黙んなよ。心配するだろ」
 「……あのさ、そこに夢のお城があるからちょっと休憩していこうか」
 「ラブホじゃねぇか。発情してんじゃねぇぞ、このムッツリ野郎」
 「ムッツリは瀬川くんでしょ~俺は爽やかオープンスケベだもんね~」
 「うわぁ……」
 「ガチで引かないでよ」

 想いが通じ合ったなんて、まだ実感が湧かないけれど、音無が隣にいてくれたらなんでも乗り越えられる気がする。
 ずっとそばにいて、できれば俺が、音無を幸せにしたい。
 これからも大切に、二人で歩んでいけたらいいな。
 なんて、柄にもなく、お月様に願ってしまった。