〇十二月初めの金曜日、放課後の図書館。楓と依須玖は窓際の席に横並びで座り、楽しそうに話している。
楓「つまりですね、なにかとなにかの境界っていうのは、不安定ゆえに悪いものが入りやすいと昔から考えられているんです。昼と夜の境目である『逢魔が時』だとか、大晦日に寝ないで年越しをする風習も、実はこの感覚からきてるんですよ」
依須玖「年越しも?」
楓「はい。元々は『大晦日に囲炉裏の火を絶やしてはいけない』っていう風習があって。その番をするために起きていたのが、今の年越しにもつながってるんです」
依須玖「へえ。境目って言えば、僕は昔から、畳の縁を踏んではいけないって言われて育ったけど」
楓「それも同じ考えですね。悪いものが入り込みやすい場所なので、直接触れるのは避けた方がいいとされています」
依須玖はふんふんとうなずきながら、真剣な顔で楓の話した内容をノートに書き留めている。その様子を見た楓は、「あのぅ、」と気まずそうに口を開く。
楓「そんなに熱心にメモ取らなくて大丈夫ですよ」
依須玖「どうして?」
楓「どうしてって……そもそも授業じゃないですし。テストに出るわけでもなくて、ただ俺が面白くて話してるだけなので」
依須玖「じゃあ尚更、ちゃんと書いておかなくちゃ。楓くんの好きなものの話なんだから」
依須玖に「そうでしょ?」と笑いかけられて、ドキッと胸が高鳴る楓。照れくささ故に目を逸らしつつ、「そう言ってもらえるのはまあ、嬉しいですけど」と小声で返す。
楓「俺はこういう、昔ながらの風習とか、わりと身近に感じながら育ちましたけど。先輩はどうなんですか?」
依須玖「僕もまあ、普通の同年代よりは親しんでる方だと思うよ。母は日本舞踊家だし」
楓「えっ!」
つい大きな声で驚いてしまい、慌てて口を手で覆う楓。少し離れたところで勉強している生徒から視線を感じて、慌ててぺこっと頭を下げる。
楓「知らなかったです。でもこんな田舎で、どんなお仕事を……?」
依須玖「いや? 今はアメリカにいるんだよね」
ぽかんと口を開ける楓。
楓「一緒に住んでるわけじゃないってことですか?」
依須玖「うん。僕はそもそも、母がアメリカで長期で仕事するっていうから、母方の実家に預けられてるって状態なんだ。父と母は十年以上前に離婚してるし」
楓「はえー……」
自分と境遇が違いすぎて、依須玖の生活を上手く想像できない楓。「アメリカで日本舞踊ってなにするんですか?」と尋ねると、「伝統芸能と異文化の化学反応を探りたいらしいよ」と興味なさそうに依須玖が応じる。
楓「なんかスケールが大きいですね」
依須玖「僕も正直よくわかってない。まあ昔から自由な人だから、もう気が済むまで好きにやってくれって感じだよね」
楓「そ、うですか……」
ぽかんとしてしまった楓の前髪に、依須玖が当たり前のように触れてくる。
依須玖「ねえ、日本家屋の面白そうな風習ってのは、他にもないのかな?」
楓「(触られている前髪を気にしながら)日本家屋ですか? そうだな……あ! そしたら一個、『雪隠参り』っていう面白いやつが――」
司書「烏丸くん」
背後から女性の司書に声をかけられて、楓ははっと気づいて話すのをやめる。恐る恐る振り返ると、怖いくらい笑顔の彼女と目が合う。
司書「図書館はね、私語厳禁」
冷や汗を垂らしながら「すいませーん」と謝って、潔く退散する楓。依須玖もあははーと笑いながら、楓と一緒に図書館を出る。
◯正門から帰路につく二人。空は重々しい曇り空で、北風がぴゅうと吹きつける。しゅん、と落ち込む楓と、それを飄々とした態度で見守る依須玖。
依須玖「そんなに落ち込まなくてもいいんじゃない?」
楓「いやまあ、そうなんでしょうけど……」
楓((少しうつむいて歩きながら)はしゃぎすぎちゃったな)
依須玖と並んで歩き出す楓。校庭の方からは、野球部がボールを打つ音や、サッカー部の掛け声が聞こえてくる。
楓(この学校に民話研究をする部活はないし、俺がそういうのを好きだってことは、あんまりクラスでは話さないようにしてる。明良は小学校からの幼馴染だから俺の趣味を知ってるけど、あいつは基本サッカーとゲームの話しかしないし)
楓(だから、そう。俺は最近、完全に舞い上がってる。好きなものの事をこんなに思いっきり、気兼ねなく誰かに話せたのは、きっと初めて)
傍らを歩く依須玖の横顔を見ながら、(まだ帰りたくないなあ……)と思う楓。そのままふと顔を上げた拍子に、「あ」と小さくつぶやく。
楓「雪だ」
楓は左右の手のひらを空に向けて、降ってくる雪を確かめる。一瞬、さっきまでの寂しさも忘れて、キラキラと目を輝かせてはしゃぐ。
楓「すごい。この感じ、結構降るんじゃないですか? 初雪ですね」
嬉しそうな楓を、依須玖はじっと見つめている。
楓「俺、雪好きなんです。先輩はどうですか? ――先輩?」
依須玖の視線に気づいて、首を傾げながら立ち止まる楓。依須玖は心ここにあらずといった様子で「ああ、」と曖昧に相づちを打った後、ぽつりと小さくつぶやく。
依須玖「楓くん、うち来る?」
楓「え?」
きょとんと目を見開く楓。
楓「うちって、細先輩のお家ですか? 来るって今から? ご迷惑では?」
依須玖「大丈夫だよ。今日は金曜日だし、そのまま泊まっていきなよ」
楓「でも……」
ためらう楓の指先に、依須玖がするりと手を伸ばしてきて触れる。
依須玖「駄目?」
楓(うう! 顔がいい……!)
覗き込むように尋ねられて、顔を赤くしてテンパる楓。
楓「駄目、じゃないですが、緊張するっていうか」
依須玖「(楓にぐっと顔を寄せて)どうして? 友だちなのに」
楓「そういう問題では……」
依須玖「亡くなった祖父は趣味が広い人だったから、書斎に行けば楓くんが好きな感じの本もいっぱいあるかも」
楓(……! 本!)
依須玖「(もう一押し、とばかりに)蔵に行けば、妖怪や伝承をモチーフにした掛け軸とかお皿とかもあるだろうし」
楓(蔵! 掛け軸!! お皿!!!)
足を止め、依須玖と向き合い、わなわなと震える楓。
依須玖「どうかな?(勝利を確信した顔)」
楓「行きます!(即答、惨敗)」
楓(やばい! つい……!)
はっと気づいて口元を手で覆う楓。
楓(細先輩の家ってつまり、あのお屋敷でしょ? やっぱり無理! 無理無理無理無理! 第一俺、先輩と話すようになってまだ一ヶ月しか経ってないし)
楓「すいません、俺やっぱり今日は――」
依須玖「(小さな声で)やった」
一人喜ぶ依須玖は、いつもより少し幼い無邪気な笑顔。それを見て、楓は言葉を止める。その様子に気づいた依須玖に「どうしたの?」と尋ねられ、少し迷ってから「いいえ」と誤魔化す。
楓「一応親に聞くんで、ちょっと待っててください」
依須玖「うん。僕も家に連絡するよ」
それぞれスマートフォンを取り出して、家に電話する楓と依須玖。
楓「もしもし母さん? 今日なんだけど……」
*
〇その後、依須玖の家にお邪魔する楓。大きな門構えと広い敷地に驚いたり、お手伝いさんに挨拶されてドギマギしたり、書斎や蔵で本や掛け軸、皿や壺をせてもらったり。
楓(めっっっちゃくちゃはしゃいでしまった……!)
風呂上がり、楓は貸してもらった寝間着姿(和服ではなく、トレーナーとスウェットパンツ。ただしとても質が良く、裏起毛で暖かい)。依須玖は風呂に行っていて、楓は依須玖の部屋で、彼が戻ってくるのを待っている。
楓(先輩のおじいちゃんの本、図書館にない郷土資料たくさんあったし。蔵のコレクションは無名作家のものでも図案が生き生きしてて、趣味のいい人だったんだろうなって感じ)
見せてもらった物を順に思い出しつつ、最初は座布団に正座してスマートフォンをいじっていた楓。しかしやはり、慣れない場所と姿勢は落ち着かず、すぐに顔を上げて部屋全体を見回す。
楓(だけどこの部屋は……なんか、寂しい)
依須玖の部屋は十畳ほどの和室。綺麗に片づけられていて、本棚には参考書や図鑑、辞書、文豪の全集などが並んでいる。壁のあちこちに書道や水泳、ピアノや絵画といったお稽古事の賞状が飾られ、トロフィーや楯もいくつかあるが、流行の漫画や現代物の小説など、依須玖の趣味がわかるものは一切置かれていない。
楓(あ)
しばらく眺めていた楓はおもむろに立ち上がって、本棚に近づく。上の方、楓の背丈でちょうど手が届くあたりの段に、【二〇〇八】【二〇〇九】と書かれた背表紙が【二〇一五】まで八冊分並んでいる。
楓(この感じ、アルバムかな。細先輩の小さい頃、ちょっと気になる)
好奇心に負けて、思わず手を伸ばす楓。しかし指先が背表紙に触れた時、背後から鋭い声が飛んでくる。
依須玖「駄目だ!」
驚きに、肩を跳ねさせながら振り向く楓。目が合った依須玖は、自分で自分の声に驚いたといった様子で、口元を手で覆っている。
依須玖「……ごめん。大声出して」
楓「あ、いや。俺の方こそ。勝手にすみません」
慌てて謝り、本棚を離れる楓。依須玖は胡坐、楓は正座で部屋中央の座布団に向き合って座るが、二人の間にはなんとも気まずい沈黙が流れる。
楓「(話題に困りつつ)えっと、その。細先輩ってなんでもできるんですね」
依須玖「そう?」
楓「そうでしょう。トロフィーも賞状もすごいあるし」
依須玖「昔の話だよ。やらされてただけだし、母に教わってた日本舞踊以外は引っ越した時に全部やめた」
楓「(少し考えてから)細先輩ってもしかして、昔ここに住んでたんですか?」
依須玖「……そうだね。この町にいたのは、小学校一年生までかな」
楓「そうですか。じゃあ残念ですね」
依須玖「ん?」
楓「だってもしかしたら、もっと早く出会えてたかもしれないってことじゃないですか」
きょとんと目を丸くして押し黙る依須玖。急に途切れた会話を不思議に思い、自分の発言を振り返った楓は、その意味に気づいてぼんっと顔を赤くする。
依須玖「あー……。とりあえずありがとう?」
楓「や、えっと、今のはその、ちが、違っ」
依須玖「違うの?」
楓「違っ、くはないですけど! 口が滑って!」
依須玖「ってことは嘘?」
楓「嘘なわけないじゃないですか!」
ぷっと大きく吹き出す依須玖と、耳まで赤くしてもはや泣き出しそうな楓。
依須玖「あっはははは。茹でタコだねえ」
楓「みっ、見るなあ!」
依須玖「どうして? こんなに可愛いのに」
楓「かわっ、可愛いって……! もういい! 寝ます!」
依須玖「ええ? まだ二十二時だよ」
楓「俺は健康優良児なんです! 布団どこですか」
依須玖「隣の部屋の押し入れだけど」
勢いよく立ち上がり、依須玖が指さした方の襖に向かって歩き出す楓。直後、座布団の端で足が滑って、転びそうになる。
楓「わっ」
依須玖「!」
床にぶつかると思って、ぎゅっと目をつむってしまった楓。しかし覚悟していた衝撃はなく、目を開けると、依須玖がしっかりと体を支えてくれている。
顔を上げれば、依須玖の黒い瞳がじっと楓を見下ろしている。そのまなざしと距離の近さに、楓の心臓はひときわ大きくどきんと跳ねる。
楓「すっ、すみませ――」
言い切る前に、依須玖がぎゅっと楓を抱きしめてくる。
依須玖「まったく君は、本当に危なっかしいなあ」
とても愛おしそうな声で言われて、楓の体温はさらに上がる。しかし同時に、依須玖の言い方になんとなく違和感を覚える。
依須玖「畳は滑りやすいんだから気をつけて。さあこっち。一緒に敷いてくれる?」
楓がなにか言う前に、さっと身を離した依須玖。隣室へと続く襖を開け、電気もつけずに奥の押し入れに向かう。
その後ろ姿を見ながら、彼になにか言いたい気持ちになる楓だが、自分でもなにをどう言えばいいのかわからず諦める。
楓「……あの、細先輩」
二人で布団を敷き終わり、依須玖の部屋の電気も消して真っ暗になった部屋。客用の布団に潜り込んだ楓が思い切って声をかけると、依須玖が「なあに?」と応えてくれる。
楓「俺と先輩って、初対面でしたよね?」
しばらくの沈黙。がさがさ、と身じろぎの音が楓の鼓膜をくすぐる。
依須玖「そうだよ。だいたい楓くんは、こんな綺麗な顔を忘れるの?」
楓「まあ確かに……それもそう、ですね」
依須玖「でしょ。覚えてないってことは、会ったことがないってことだよ」
楓は仰向けだった首の向きを変えて、依須玖の布団の方に目を凝らす。しかし依須玖は楓の方に背を向けていて、その表情は見えない。
楓「ねえ先輩。……先輩?」
寝てしまったのか、もう応えてくれない依須玖。楓は諦めて体の向きを仰向けに戻し、そのまましばらくもぞもぞして、結局は依須玖に背を向ける体勢に落ちつく。そのまま毛布をきゅっと引き上げて、顔をうずめる。
楓(……その夜、俺はなぜか雪童子の夢を見た。降りしきる雪にはしゃいで転んだ俺を、彼の小さな手が引き起こしてくれる夢だった)
楓(あまりに幼い頃の話すぎて、俺にはその記憶が、現実の出来事だったのか、それともただの夢なのか判断がつかない)
楓(だけどそう――つないだ手の感触は、確かに柔らかくて、温かかったんだ)
*
〇翌週月曜日、朝の教室。「はよー」と登校してきた明良が、朝っぱらから机に突っ伏している楓を見てぎょっとする。
明良「なにお前どうしたの? 具合悪い?」
楓「……明良あ」
情けない声とともに顔を上げた楓。目の下はクマだらけで、熱を出した時みたいに、頬から耳にかけてが赤い。
明良「えー顔やば! さっさと家帰った方が」
楓「(無視して)明良って、恋したことある……?」
明良「へ?」
言葉の意味をすぐに理解できず、きょとんとする明良。頭の中で「鯉」「濃い」「故意」と色々な漢字を思い浮かべ、最後に「恋」にたどり着いて目をまん丸くする。
明良「うえええええええーーーーーっ?!」
【続く】
楓「つまりですね、なにかとなにかの境界っていうのは、不安定ゆえに悪いものが入りやすいと昔から考えられているんです。昼と夜の境目である『逢魔が時』だとか、大晦日に寝ないで年越しをする風習も、実はこの感覚からきてるんですよ」
依須玖「年越しも?」
楓「はい。元々は『大晦日に囲炉裏の火を絶やしてはいけない』っていう風習があって。その番をするために起きていたのが、今の年越しにもつながってるんです」
依須玖「へえ。境目って言えば、僕は昔から、畳の縁を踏んではいけないって言われて育ったけど」
楓「それも同じ考えですね。悪いものが入り込みやすい場所なので、直接触れるのは避けた方がいいとされています」
依須玖はふんふんとうなずきながら、真剣な顔で楓の話した内容をノートに書き留めている。その様子を見た楓は、「あのぅ、」と気まずそうに口を開く。
楓「そんなに熱心にメモ取らなくて大丈夫ですよ」
依須玖「どうして?」
楓「どうしてって……そもそも授業じゃないですし。テストに出るわけでもなくて、ただ俺が面白くて話してるだけなので」
依須玖「じゃあ尚更、ちゃんと書いておかなくちゃ。楓くんの好きなものの話なんだから」
依須玖に「そうでしょ?」と笑いかけられて、ドキッと胸が高鳴る楓。照れくささ故に目を逸らしつつ、「そう言ってもらえるのはまあ、嬉しいですけど」と小声で返す。
楓「俺はこういう、昔ながらの風習とか、わりと身近に感じながら育ちましたけど。先輩はどうなんですか?」
依須玖「僕もまあ、普通の同年代よりは親しんでる方だと思うよ。母は日本舞踊家だし」
楓「えっ!」
つい大きな声で驚いてしまい、慌てて口を手で覆う楓。少し離れたところで勉強している生徒から視線を感じて、慌ててぺこっと頭を下げる。
楓「知らなかったです。でもこんな田舎で、どんなお仕事を……?」
依須玖「いや? 今はアメリカにいるんだよね」
ぽかんと口を開ける楓。
楓「一緒に住んでるわけじゃないってことですか?」
依須玖「うん。僕はそもそも、母がアメリカで長期で仕事するっていうから、母方の実家に預けられてるって状態なんだ。父と母は十年以上前に離婚してるし」
楓「はえー……」
自分と境遇が違いすぎて、依須玖の生活を上手く想像できない楓。「アメリカで日本舞踊ってなにするんですか?」と尋ねると、「伝統芸能と異文化の化学反応を探りたいらしいよ」と興味なさそうに依須玖が応じる。
楓「なんかスケールが大きいですね」
依須玖「僕も正直よくわかってない。まあ昔から自由な人だから、もう気が済むまで好きにやってくれって感じだよね」
楓「そ、うですか……」
ぽかんとしてしまった楓の前髪に、依須玖が当たり前のように触れてくる。
依須玖「ねえ、日本家屋の面白そうな風習ってのは、他にもないのかな?」
楓「(触られている前髪を気にしながら)日本家屋ですか? そうだな……あ! そしたら一個、『雪隠参り』っていう面白いやつが――」
司書「烏丸くん」
背後から女性の司書に声をかけられて、楓ははっと気づいて話すのをやめる。恐る恐る振り返ると、怖いくらい笑顔の彼女と目が合う。
司書「図書館はね、私語厳禁」
冷や汗を垂らしながら「すいませーん」と謝って、潔く退散する楓。依須玖もあははーと笑いながら、楓と一緒に図書館を出る。
◯正門から帰路につく二人。空は重々しい曇り空で、北風がぴゅうと吹きつける。しゅん、と落ち込む楓と、それを飄々とした態度で見守る依須玖。
依須玖「そんなに落ち込まなくてもいいんじゃない?」
楓「いやまあ、そうなんでしょうけど……」
楓((少しうつむいて歩きながら)はしゃぎすぎちゃったな)
依須玖と並んで歩き出す楓。校庭の方からは、野球部がボールを打つ音や、サッカー部の掛け声が聞こえてくる。
楓(この学校に民話研究をする部活はないし、俺がそういうのを好きだってことは、あんまりクラスでは話さないようにしてる。明良は小学校からの幼馴染だから俺の趣味を知ってるけど、あいつは基本サッカーとゲームの話しかしないし)
楓(だから、そう。俺は最近、完全に舞い上がってる。好きなものの事をこんなに思いっきり、気兼ねなく誰かに話せたのは、きっと初めて)
傍らを歩く依須玖の横顔を見ながら、(まだ帰りたくないなあ……)と思う楓。そのままふと顔を上げた拍子に、「あ」と小さくつぶやく。
楓「雪だ」
楓は左右の手のひらを空に向けて、降ってくる雪を確かめる。一瞬、さっきまでの寂しさも忘れて、キラキラと目を輝かせてはしゃぐ。
楓「すごい。この感じ、結構降るんじゃないですか? 初雪ですね」
嬉しそうな楓を、依須玖はじっと見つめている。
楓「俺、雪好きなんです。先輩はどうですか? ――先輩?」
依須玖の視線に気づいて、首を傾げながら立ち止まる楓。依須玖は心ここにあらずといった様子で「ああ、」と曖昧に相づちを打った後、ぽつりと小さくつぶやく。
依須玖「楓くん、うち来る?」
楓「え?」
きょとんと目を見開く楓。
楓「うちって、細先輩のお家ですか? 来るって今から? ご迷惑では?」
依須玖「大丈夫だよ。今日は金曜日だし、そのまま泊まっていきなよ」
楓「でも……」
ためらう楓の指先に、依須玖がするりと手を伸ばしてきて触れる。
依須玖「駄目?」
楓(うう! 顔がいい……!)
覗き込むように尋ねられて、顔を赤くしてテンパる楓。
楓「駄目、じゃないですが、緊張するっていうか」
依須玖「(楓にぐっと顔を寄せて)どうして? 友だちなのに」
楓「そういう問題では……」
依須玖「亡くなった祖父は趣味が広い人だったから、書斎に行けば楓くんが好きな感じの本もいっぱいあるかも」
楓(……! 本!)
依須玖「(もう一押し、とばかりに)蔵に行けば、妖怪や伝承をモチーフにした掛け軸とかお皿とかもあるだろうし」
楓(蔵! 掛け軸!! お皿!!!)
足を止め、依須玖と向き合い、わなわなと震える楓。
依須玖「どうかな?(勝利を確信した顔)」
楓「行きます!(即答、惨敗)」
楓(やばい! つい……!)
はっと気づいて口元を手で覆う楓。
楓(細先輩の家ってつまり、あのお屋敷でしょ? やっぱり無理! 無理無理無理無理! 第一俺、先輩と話すようになってまだ一ヶ月しか経ってないし)
楓「すいません、俺やっぱり今日は――」
依須玖「(小さな声で)やった」
一人喜ぶ依須玖は、いつもより少し幼い無邪気な笑顔。それを見て、楓は言葉を止める。その様子に気づいた依須玖に「どうしたの?」と尋ねられ、少し迷ってから「いいえ」と誤魔化す。
楓「一応親に聞くんで、ちょっと待っててください」
依須玖「うん。僕も家に連絡するよ」
それぞれスマートフォンを取り出して、家に電話する楓と依須玖。
楓「もしもし母さん? 今日なんだけど……」
*
〇その後、依須玖の家にお邪魔する楓。大きな門構えと広い敷地に驚いたり、お手伝いさんに挨拶されてドギマギしたり、書斎や蔵で本や掛け軸、皿や壺をせてもらったり。
楓(めっっっちゃくちゃはしゃいでしまった……!)
風呂上がり、楓は貸してもらった寝間着姿(和服ではなく、トレーナーとスウェットパンツ。ただしとても質が良く、裏起毛で暖かい)。依須玖は風呂に行っていて、楓は依須玖の部屋で、彼が戻ってくるのを待っている。
楓(先輩のおじいちゃんの本、図書館にない郷土資料たくさんあったし。蔵のコレクションは無名作家のものでも図案が生き生きしてて、趣味のいい人だったんだろうなって感じ)
見せてもらった物を順に思い出しつつ、最初は座布団に正座してスマートフォンをいじっていた楓。しかしやはり、慣れない場所と姿勢は落ち着かず、すぐに顔を上げて部屋全体を見回す。
楓(だけどこの部屋は……なんか、寂しい)
依須玖の部屋は十畳ほどの和室。綺麗に片づけられていて、本棚には参考書や図鑑、辞書、文豪の全集などが並んでいる。壁のあちこちに書道や水泳、ピアノや絵画といったお稽古事の賞状が飾られ、トロフィーや楯もいくつかあるが、流行の漫画や現代物の小説など、依須玖の趣味がわかるものは一切置かれていない。
楓(あ)
しばらく眺めていた楓はおもむろに立ち上がって、本棚に近づく。上の方、楓の背丈でちょうど手が届くあたりの段に、【二〇〇八】【二〇〇九】と書かれた背表紙が【二〇一五】まで八冊分並んでいる。
楓(この感じ、アルバムかな。細先輩の小さい頃、ちょっと気になる)
好奇心に負けて、思わず手を伸ばす楓。しかし指先が背表紙に触れた時、背後から鋭い声が飛んでくる。
依須玖「駄目だ!」
驚きに、肩を跳ねさせながら振り向く楓。目が合った依須玖は、自分で自分の声に驚いたといった様子で、口元を手で覆っている。
依須玖「……ごめん。大声出して」
楓「あ、いや。俺の方こそ。勝手にすみません」
慌てて謝り、本棚を離れる楓。依須玖は胡坐、楓は正座で部屋中央の座布団に向き合って座るが、二人の間にはなんとも気まずい沈黙が流れる。
楓「(話題に困りつつ)えっと、その。細先輩ってなんでもできるんですね」
依須玖「そう?」
楓「そうでしょう。トロフィーも賞状もすごいあるし」
依須玖「昔の話だよ。やらされてただけだし、母に教わってた日本舞踊以外は引っ越した時に全部やめた」
楓「(少し考えてから)細先輩ってもしかして、昔ここに住んでたんですか?」
依須玖「……そうだね。この町にいたのは、小学校一年生までかな」
楓「そうですか。じゃあ残念ですね」
依須玖「ん?」
楓「だってもしかしたら、もっと早く出会えてたかもしれないってことじゃないですか」
きょとんと目を丸くして押し黙る依須玖。急に途切れた会話を不思議に思い、自分の発言を振り返った楓は、その意味に気づいてぼんっと顔を赤くする。
依須玖「あー……。とりあえずありがとう?」
楓「や、えっと、今のはその、ちが、違っ」
依須玖「違うの?」
楓「違っ、くはないですけど! 口が滑って!」
依須玖「ってことは嘘?」
楓「嘘なわけないじゃないですか!」
ぷっと大きく吹き出す依須玖と、耳まで赤くしてもはや泣き出しそうな楓。
依須玖「あっはははは。茹でタコだねえ」
楓「みっ、見るなあ!」
依須玖「どうして? こんなに可愛いのに」
楓「かわっ、可愛いって……! もういい! 寝ます!」
依須玖「ええ? まだ二十二時だよ」
楓「俺は健康優良児なんです! 布団どこですか」
依須玖「隣の部屋の押し入れだけど」
勢いよく立ち上がり、依須玖が指さした方の襖に向かって歩き出す楓。直後、座布団の端で足が滑って、転びそうになる。
楓「わっ」
依須玖「!」
床にぶつかると思って、ぎゅっと目をつむってしまった楓。しかし覚悟していた衝撃はなく、目を開けると、依須玖がしっかりと体を支えてくれている。
顔を上げれば、依須玖の黒い瞳がじっと楓を見下ろしている。そのまなざしと距離の近さに、楓の心臓はひときわ大きくどきんと跳ねる。
楓「すっ、すみませ――」
言い切る前に、依須玖がぎゅっと楓を抱きしめてくる。
依須玖「まったく君は、本当に危なっかしいなあ」
とても愛おしそうな声で言われて、楓の体温はさらに上がる。しかし同時に、依須玖の言い方になんとなく違和感を覚える。
依須玖「畳は滑りやすいんだから気をつけて。さあこっち。一緒に敷いてくれる?」
楓がなにか言う前に、さっと身を離した依須玖。隣室へと続く襖を開け、電気もつけずに奥の押し入れに向かう。
その後ろ姿を見ながら、彼になにか言いたい気持ちになる楓だが、自分でもなにをどう言えばいいのかわからず諦める。
楓「……あの、細先輩」
二人で布団を敷き終わり、依須玖の部屋の電気も消して真っ暗になった部屋。客用の布団に潜り込んだ楓が思い切って声をかけると、依須玖が「なあに?」と応えてくれる。
楓「俺と先輩って、初対面でしたよね?」
しばらくの沈黙。がさがさ、と身じろぎの音が楓の鼓膜をくすぐる。
依須玖「そうだよ。だいたい楓くんは、こんな綺麗な顔を忘れるの?」
楓「まあ確かに……それもそう、ですね」
依須玖「でしょ。覚えてないってことは、会ったことがないってことだよ」
楓は仰向けだった首の向きを変えて、依須玖の布団の方に目を凝らす。しかし依須玖は楓の方に背を向けていて、その表情は見えない。
楓「ねえ先輩。……先輩?」
寝てしまったのか、もう応えてくれない依須玖。楓は諦めて体の向きを仰向けに戻し、そのまましばらくもぞもぞして、結局は依須玖に背を向ける体勢に落ちつく。そのまま毛布をきゅっと引き上げて、顔をうずめる。
楓(……その夜、俺はなぜか雪童子の夢を見た。降りしきる雪にはしゃいで転んだ俺を、彼の小さな手が引き起こしてくれる夢だった)
楓(あまりに幼い頃の話すぎて、俺にはその記憶が、現実の出来事だったのか、それともただの夢なのか判断がつかない)
楓(だけどそう――つないだ手の感触は、確かに柔らかくて、温かかったんだ)
*
〇翌週月曜日、朝の教室。「はよー」と登校してきた明良が、朝っぱらから机に突っ伏している楓を見てぎょっとする。
明良「なにお前どうしたの? 具合悪い?」
楓「……明良あ」
情けない声とともに顔を上げた楓。目の下はクマだらけで、熱を出した時みたいに、頬から耳にかけてが赤い。
明良「えー顔やば! さっさと家帰った方が」
楓「(無視して)明良って、恋したことある……?」
明良「へ?」
言葉の意味をすぐに理解できず、きょとんとする明良。頭の中で「鯉」「濃い」「故意」と色々な漢字を思い浮かべ、最後に「恋」にたどり着いて目をまん丸くする。
明良「うえええええええーーーーーっ?!」
【続く】


