〇プロローグ 細依須玖(攻め)視点、幼い頃の回想。
依須玖(雪の降る音を聞いたのは、いつだっただろうか)
楓「え、知らないの?」
小学校一年生の依須玖の視界。降りしきる雪の奥で、烏丸楓(受け、当時は年長さん)が驚いたように口を開く。
依須玖(雪は冷たいだけではないと知ったのはいつだっただろうか)
楓「『雪の国』はね、真っ白で明るくて、遠くの海に白い太陽が沈むんだよ」
楽しそうに笑いながら空を見上げる楓。楓は雪に夢中だが、依須玖の視線は楓の横顔に釘づけになっている。
「すごく寒いけど、キラキラでとっても綺麗なんだって!」
依須玖(もうずっと忘れていた――この町に、帰ってくるまでは)
*
〇現在、楓視点。朝の教室。楓の親友・倉木明良が楓になにか訴えている。
明良「だからほんとに、見てたんだって!」
ばーん! と楓の机に両手を突いて、明良が叫ぶ。その声の大きさに、思わず肩を跳ねさせる楓。
教室内にいた他の生徒たちが二人の方に怪訝そうな視線を向けてくる。それに焦りながら、楓はわたわたと口を開く。
楓「明良、落ち着いてよ」
明良「はあ? 無理に決まってるだろ。楓の貞操の危機だってのに!」
楓「てっ、貞操って」
教室中の生徒が「貞操?」「貞操?」「烏丸くんの貞操?」とヒソヒソ話を始めてしまい、かーっと顔を赤くする楓。
楓「とにかく一回、声のボリューム落として。それ絶対勘違いだから」
明良「いーや俺は見た。絶対に見た。あいつ絶対お前のこと狙ってる」
楓「あいつって……口悪いなあ、もう。だいたいそれ、いつの話」
明良「金曜の一斉清掃! お前、外周掃除だっただろ。でさ、あん時俺、ゴミ捨て場にゴミ袋持ってったわけ。そしたら小屋の前に細先輩がぼーっと突っ立ってて、道路脇の落ち葉掃く楓のこと、フェンス越しにめっちゃ見てた」
明良が言い終わったところでチャイムが鳴る。教室の前扉が開き、「うっし、席つけよー」と言いながら担任が入ってくる。
明良「とにかくマジで、気をつけろよ。俺はあの先輩、なんか怖い」
念押しするみたいに言って、明良は楓の前の席に着席する。慌ただしく席につくクラスメイトたちを眺めながら、依然困惑している楓。
楓(十一月初めの月曜日。明良の忠告は晴天の霹靂)
楓(あり得るはずがないのに――あの細先輩が、俺を見ていたなんて)
〇ところ変わって、放課後の図書館。窓際の席で本を読む楓。外から楽しそうな笑い声が聞こえてきて、楓は窓の外に視線をやる。
楓(あ、)
友だちに肩を組まれながら下校する依須玖の姿に、楓の視線は縫いとめられる。依須玖は黒い髪をなびかせながら、楽しそうに笑っている。
手に持っていたシャープペンシルを置き、楓はしばらくその光景を眺める。少し唇を尖らせて、明良から言われたことを嘘だと思いつつも、気にならないわけでもない、といった表情。
楓(細依須玖先輩が転校してきたのは今年の五月だ。「二年の転校生がマジでヤバい」とギャルの長澤さんが騒ぎ立てていた)
楓(なにが「マジでヤバい」のかは、細先輩をひと目見たらすぐにわかった。細先輩の肌は白くて、サラサラの髪は夜の色をしていて。テレビの中の俳優なんて目じゃないくらい、細先輩は綺麗だった)
楓(そんなキラキラした人が俺を見ていたなんて。そんなのほんとに、あり得るわけがないのになあ)
仕方ないなあという感じで笑って、手元の本に視線を戻す楓。本はかなり古びていて、細かい文字の横に昔の人が描いた妖怪の絵が載っている。
シャープペンシルを持ち直して、楓はその本の内容をノートに書き写す。口元には小さく笑みを浮かべて、背中を少し丸め、熱心な様子。
〇「ただいまあー」と帰宅した楓。楓の家は日本家屋で、居間の襖を開けると、奥の部屋で父と祖父が胡坐をかいているのが見える。畳の上には新聞紙が敷かれていて、二人は手に彫刻刀を持って、木材を削り出して手のひらサイズの動物や妖怪をたくさん作っている。
楓「ただいま。母さんは?」
祖父「恵美ちゃんなら買い物行ったど」
楓「そっか」
父「学校はどうだった?」
楓「んー、普通。もうだいぶ寒くて嫌かな」
父「十一月だからな。どれ、荷物置いたら楓も手伝え」
うん、とうなずいて、廊下に出て階段を上り、自室に向かう楓。
楓(俺の家は農家だ。春から秋にかけては米を作って、寒い時期は土作りや機械の整備をしつつ、木製の置物やキーホルダーを制作して観光地に卸している)
楓(『双色小物』と呼ばれる工芸品は、ここ双色町の民話にちなんだ妖怪や山の動物たちをモチーフに制作されていて、観光客からは結構人気らしい)
自室の入口脇にスクールバッグを置いた楓。学ランを脱ぎ、シャツのボタンを外しつつ、勉強机に近寄る。机の上には『雪童子』(藁の傘を被った子どもの妖怪)をモチーフにした高さ十センチ程度の木彫りの置物が置かれており、楓はにこっと口元を緩めて身をかがめ、雪童子の頭部を人差し指でちょんと突つく。
楓「(小声で)ただいま」
楓(民話のうち、特に妖怪の話は面白い。河童とか、だいだらぼっちとか、海坊主とか。全国区で似たような話が伝わっているのも不思議だ。まるで昔、本当に彼らがいたみたいだと思うと、自然と胸がドキドキしてくる)
???「お願い。ぼくのことは、誰にも言わないで」
シャツから部屋着のトレーナーに着替える楓の頭の中に、幼い男の子の声が響いてくる。楓は一瞬手を止め、小さく眉根を寄せてから、首を左右に振って着替えを再開。ズボンもジャージに履き替えバタバタと自室を出ていく。
楓(高校生にもなって彼らの存在を信じているのは、多分恥ずかしいことなんだろう)
楓(だけど俺は、いつかあえるんじゃないかと――またどこかで彼とあって、話ができるんじゃないかと)
楓(そんな希望をずっと、捨てられないでいる)
*
〇その週の金曜日、一斉清掃の日。先週と同じく外掃除当番になっている楓に、同じクラスの女子が声をかけてくる。
女子「烏丸くん、そろそろ終わりだって。これ使っていいから、終わったら片づけといてくれる?」
楓「ああ、うん」
女子生徒からチリトリとゴミ袋を受け取って、自分が集めていた落ち葉を片づける楓。きゅっと袋の口を縛って振り返った時、道の先の裏門前に人影があるのを見つける。
楓(あれって……)
人影が依須玖だと気づき、目を見開いて立ち止まってしまう楓。そこそこに距離があるが、なんとなく目が合った感じがする。依須玖も楓が見ていることに気づいたようだが、彼の背にはすぐに友人が抱きついてきて、二人はじゃれ合いながら校舎の敷地内に戻っていく。
ぽかんと立ち尽くす楓。やがて明良が言っていた「貞操」「狙ってる」という言葉を思い出して、ぱーっと顔を赤くする。
楓(いやいやいやいや。たまたまでしょ、そもそも男同士だし)
楓(……でも、あの目)
気のせいだと思おうとしつつ、自分を見ていた依須玖の、熱心な黒い瞳を思い出す。一瞬だったし、そんなに距離が近いわけでもなかったが、楓は確かに依須玖からの射貫くような視線を感じていた。
楓(関りなんて全くないつもりだったけど……もしかして俺、知らないうちになんかやらかした?)
明良「おーっす楓。なに突っ立ってんの? もうとっくに部活の時間だぞー」
後ろから肩を叩かれて我に返ると、サッカー部の練習着に着替えた明良がひらっと手を上げる。部活前のランニング中だったようで、「また来週なーっ」と手を振って、軽やかに走り去っていく。
またな、と手を振り返してゴミ袋を持ち上げる楓。そのまま裏門を入り、ゴミ捨て場に向かうと、隣の小屋(ホウキやチリトリなど、外用の掃除用具を収納している小屋)の前に立つ依須玖の背中が見える。
動揺した楓が一歩後ずさると、足元でカサリと落ち葉の音が鳴る。依須玖(顎に手を当てて考え事をしていた)はその音で楓に気づき、振り向く。
依須玖も一瞬、楓を見てぱっと目を見開く。お互いに見つめ合って、少しの沈黙。
楓「えっと、あの」
依須玖「なんだ、君が持ってたのか」
楓「え?」
おもむろに近寄ってきた依須玖が、楓の手からチリトリとホウキを回収する。依須玖はそれを手早く倉庫内に片づけて、「これでよし」と微笑んで扉を閉める。
依須玖「僕は美化委員なんだ。今日は備品のチェックの日でね。チリトリとホウキ、何度数えても一個ずつ足りないから困ってた」
楓「あ……遅くなってごめんなさい」
依須玖「ううん。最後までお疲れ様」
綺麗な顔で微笑まれて、ドキッとしてしまう楓。
依須玖「それ捨てるよね? ネット持ってるからこっちにおいで」
楓「えっ、そんな。いいんですか」
依須玖「うん。もうだいぶ一杯だから、一人だと大変だよ」
依須玖の言う通り、ゴミ捨て場には既に、落ち葉入りのゴミ袋が高く積み上がっている。依須玖がネットを持ち上げてくれたので、楓はそこに近づき、ゴミを捨てる。
楓「ありがとうございます」
依須玖「うん。それじゃ」
小さく笑って去っていく依須玖。その背中に、楓は思い切って「あのっ」と声をかける。
楓「えっと、細依須玖先輩ですよねっ?」
楓の呼びかけに、依須玖は少し長めの黒髪をなびかせながら振り返る。
楓「俺たち、どっかで会ったことありますか?」
楓(……ってなんだそれ。これじゃあ下手なナンパじゃないか)
すかさずセルフツッコミを入れて、一人で勝手に赤くなる楓。その様子を、依須玖は感情の読めない瞳でじっと見つめている。
楓「ってのはあの、ごめんなさい、ナンパとかじゃなくて。ほんと、違ったらすみませんって感じなんですけど、俺の友だちが、先輩が俺のこと見てたって言ってたんで。なんか俺、知らないうちに先輩にご迷惑とかかけてたんなら、それは申し訳ないなあっていうか」
そこまで一気に喋って、楓はおずおずと上目づかいで依須玖を見る。しばらくきょとんとしていた依須玖だが、なぜか突然、きゅっと目を細めて笑い、楓に向かって歩いてくる。
依須玖「残念、ナンパじゃないんだ」
楓「えっ?」
依須玖のセリフに、耳を疑う楓。近づいてくる依須玖から距離を取ろうと後ずさるが、先ほど依須玖が扉を閉めた小屋にぶつかって、それ以上は下がれない。
それでも足を止めずに、楓に近づいてくる依須玖。追いつめられた楓の手にするりと触れ、耳元に唇を寄せて囁きかけてくる。
依須玖「君が好きだから見ていたんだよって言ったら、君は僕と付き合ってくれるのかな?」
楓「?!?!?!」
耳まで真っ赤にして、思考停止状態で依須玖を見上げる楓。依須玖は楓を腕の中に閉じ込めたまま、にっこりと笑う。
依須玖「ねえどうなの? 付き合ってくれるの? くれないの?」
楓「えっ、へっ? うえ? つ、付き合う? 付き合うって……えっ?」
とにかく大パニックの楓。半分涙目になりながら視線を泳がせ、混乱していると、頭上の依須玖がふいに吹き出し笑いをする。
依須玖「ふっ……く、ふふふ。あはは。なるほどね、そんな感じね」
小屋の扉に突いていた手を離し、笑いながら身を離す依須玖。楓に背を向けるようにして腹を抱え、一人でくつくつと笑っている。
楓「えっ、え? なんでそんな、急に笑って……」
依須玖「いや、ごめん。そんなに動揺するとは思わなくって」
楓「へ?」
数秒考え、やがてじわじわと状況を理解する楓。
楓「もしかして先輩、俺のことからかいました?!」
依須玖「ご明察。いい反応をありがとう」
自分の口元に手を当てて、楽しそうに微笑む依須玖。楓は開いた口がふさがらない。
楓(この人、こんな澄ました顔して! それもあんなやり方で!)
楓(親切な先輩だと思ったのに、心臓壊れたらどうしてくれるんだ!)
未だドキドキと鼓動が鳴り止まない楓。楓がなにも言えないのをいいことに、依須玖は話を続ける。
依須玖「残念ながら僕と君は会ったこともないし、お友だちがどうしてそんなことを言ったのかはわからないけど……もしかしたらこれも、なにかの縁かもしれないね」
依須玖はおもむろに楓に向かって右手を伸ばし、握手を求めてくる。
依須玖「よかったら、僕と友だちになってよ。君の名前は?」
依須玖の言葉の意味をすぐには理解できない楓。にっこりと微笑む依須玖と自分に向かって差し出された手のひらを見比べて、焦りまくる。
楓(え? え? え?)
楓(俺と細先輩が、友だち――?!)
【続く】
依須玖(雪の降る音を聞いたのは、いつだっただろうか)
楓「え、知らないの?」
小学校一年生の依須玖の視界。降りしきる雪の奥で、烏丸楓(受け、当時は年長さん)が驚いたように口を開く。
依須玖(雪は冷たいだけではないと知ったのはいつだっただろうか)
楓「『雪の国』はね、真っ白で明るくて、遠くの海に白い太陽が沈むんだよ」
楽しそうに笑いながら空を見上げる楓。楓は雪に夢中だが、依須玖の視線は楓の横顔に釘づけになっている。
「すごく寒いけど、キラキラでとっても綺麗なんだって!」
依須玖(もうずっと忘れていた――この町に、帰ってくるまでは)
*
〇現在、楓視点。朝の教室。楓の親友・倉木明良が楓になにか訴えている。
明良「だからほんとに、見てたんだって!」
ばーん! と楓の机に両手を突いて、明良が叫ぶ。その声の大きさに、思わず肩を跳ねさせる楓。
教室内にいた他の生徒たちが二人の方に怪訝そうな視線を向けてくる。それに焦りながら、楓はわたわたと口を開く。
楓「明良、落ち着いてよ」
明良「はあ? 無理に決まってるだろ。楓の貞操の危機だってのに!」
楓「てっ、貞操って」
教室中の生徒が「貞操?」「貞操?」「烏丸くんの貞操?」とヒソヒソ話を始めてしまい、かーっと顔を赤くする楓。
楓「とにかく一回、声のボリューム落として。それ絶対勘違いだから」
明良「いーや俺は見た。絶対に見た。あいつ絶対お前のこと狙ってる」
楓「あいつって……口悪いなあ、もう。だいたいそれ、いつの話」
明良「金曜の一斉清掃! お前、外周掃除だっただろ。でさ、あん時俺、ゴミ捨て場にゴミ袋持ってったわけ。そしたら小屋の前に細先輩がぼーっと突っ立ってて、道路脇の落ち葉掃く楓のこと、フェンス越しにめっちゃ見てた」
明良が言い終わったところでチャイムが鳴る。教室の前扉が開き、「うっし、席つけよー」と言いながら担任が入ってくる。
明良「とにかくマジで、気をつけろよ。俺はあの先輩、なんか怖い」
念押しするみたいに言って、明良は楓の前の席に着席する。慌ただしく席につくクラスメイトたちを眺めながら、依然困惑している楓。
楓(十一月初めの月曜日。明良の忠告は晴天の霹靂)
楓(あり得るはずがないのに――あの細先輩が、俺を見ていたなんて)
〇ところ変わって、放課後の図書館。窓際の席で本を読む楓。外から楽しそうな笑い声が聞こえてきて、楓は窓の外に視線をやる。
楓(あ、)
友だちに肩を組まれながら下校する依須玖の姿に、楓の視線は縫いとめられる。依須玖は黒い髪をなびかせながら、楽しそうに笑っている。
手に持っていたシャープペンシルを置き、楓はしばらくその光景を眺める。少し唇を尖らせて、明良から言われたことを嘘だと思いつつも、気にならないわけでもない、といった表情。
楓(細依須玖先輩が転校してきたのは今年の五月だ。「二年の転校生がマジでヤバい」とギャルの長澤さんが騒ぎ立てていた)
楓(なにが「マジでヤバい」のかは、細先輩をひと目見たらすぐにわかった。細先輩の肌は白くて、サラサラの髪は夜の色をしていて。テレビの中の俳優なんて目じゃないくらい、細先輩は綺麗だった)
楓(そんなキラキラした人が俺を見ていたなんて。そんなのほんとに、あり得るわけがないのになあ)
仕方ないなあという感じで笑って、手元の本に視線を戻す楓。本はかなり古びていて、細かい文字の横に昔の人が描いた妖怪の絵が載っている。
シャープペンシルを持ち直して、楓はその本の内容をノートに書き写す。口元には小さく笑みを浮かべて、背中を少し丸め、熱心な様子。
〇「ただいまあー」と帰宅した楓。楓の家は日本家屋で、居間の襖を開けると、奥の部屋で父と祖父が胡坐をかいているのが見える。畳の上には新聞紙が敷かれていて、二人は手に彫刻刀を持って、木材を削り出して手のひらサイズの動物や妖怪をたくさん作っている。
楓「ただいま。母さんは?」
祖父「恵美ちゃんなら買い物行ったど」
楓「そっか」
父「学校はどうだった?」
楓「んー、普通。もうだいぶ寒くて嫌かな」
父「十一月だからな。どれ、荷物置いたら楓も手伝え」
うん、とうなずいて、廊下に出て階段を上り、自室に向かう楓。
楓(俺の家は農家だ。春から秋にかけては米を作って、寒い時期は土作りや機械の整備をしつつ、木製の置物やキーホルダーを制作して観光地に卸している)
楓(『双色小物』と呼ばれる工芸品は、ここ双色町の民話にちなんだ妖怪や山の動物たちをモチーフに制作されていて、観光客からは結構人気らしい)
自室の入口脇にスクールバッグを置いた楓。学ランを脱ぎ、シャツのボタンを外しつつ、勉強机に近寄る。机の上には『雪童子』(藁の傘を被った子どもの妖怪)をモチーフにした高さ十センチ程度の木彫りの置物が置かれており、楓はにこっと口元を緩めて身をかがめ、雪童子の頭部を人差し指でちょんと突つく。
楓「(小声で)ただいま」
楓(民話のうち、特に妖怪の話は面白い。河童とか、だいだらぼっちとか、海坊主とか。全国区で似たような話が伝わっているのも不思議だ。まるで昔、本当に彼らがいたみたいだと思うと、自然と胸がドキドキしてくる)
???「お願い。ぼくのことは、誰にも言わないで」
シャツから部屋着のトレーナーに着替える楓の頭の中に、幼い男の子の声が響いてくる。楓は一瞬手を止め、小さく眉根を寄せてから、首を左右に振って着替えを再開。ズボンもジャージに履き替えバタバタと自室を出ていく。
楓(高校生にもなって彼らの存在を信じているのは、多分恥ずかしいことなんだろう)
楓(だけど俺は、いつかあえるんじゃないかと――またどこかで彼とあって、話ができるんじゃないかと)
楓(そんな希望をずっと、捨てられないでいる)
*
〇その週の金曜日、一斉清掃の日。先週と同じく外掃除当番になっている楓に、同じクラスの女子が声をかけてくる。
女子「烏丸くん、そろそろ終わりだって。これ使っていいから、終わったら片づけといてくれる?」
楓「ああ、うん」
女子生徒からチリトリとゴミ袋を受け取って、自分が集めていた落ち葉を片づける楓。きゅっと袋の口を縛って振り返った時、道の先の裏門前に人影があるのを見つける。
楓(あれって……)
人影が依須玖だと気づき、目を見開いて立ち止まってしまう楓。そこそこに距離があるが、なんとなく目が合った感じがする。依須玖も楓が見ていることに気づいたようだが、彼の背にはすぐに友人が抱きついてきて、二人はじゃれ合いながら校舎の敷地内に戻っていく。
ぽかんと立ち尽くす楓。やがて明良が言っていた「貞操」「狙ってる」という言葉を思い出して、ぱーっと顔を赤くする。
楓(いやいやいやいや。たまたまでしょ、そもそも男同士だし)
楓(……でも、あの目)
気のせいだと思おうとしつつ、自分を見ていた依須玖の、熱心な黒い瞳を思い出す。一瞬だったし、そんなに距離が近いわけでもなかったが、楓は確かに依須玖からの射貫くような視線を感じていた。
楓(関りなんて全くないつもりだったけど……もしかして俺、知らないうちになんかやらかした?)
明良「おーっす楓。なに突っ立ってんの? もうとっくに部活の時間だぞー」
後ろから肩を叩かれて我に返ると、サッカー部の練習着に着替えた明良がひらっと手を上げる。部活前のランニング中だったようで、「また来週なーっ」と手を振って、軽やかに走り去っていく。
またな、と手を振り返してゴミ袋を持ち上げる楓。そのまま裏門を入り、ゴミ捨て場に向かうと、隣の小屋(ホウキやチリトリなど、外用の掃除用具を収納している小屋)の前に立つ依須玖の背中が見える。
動揺した楓が一歩後ずさると、足元でカサリと落ち葉の音が鳴る。依須玖(顎に手を当てて考え事をしていた)はその音で楓に気づき、振り向く。
依須玖も一瞬、楓を見てぱっと目を見開く。お互いに見つめ合って、少しの沈黙。
楓「えっと、あの」
依須玖「なんだ、君が持ってたのか」
楓「え?」
おもむろに近寄ってきた依須玖が、楓の手からチリトリとホウキを回収する。依須玖はそれを手早く倉庫内に片づけて、「これでよし」と微笑んで扉を閉める。
依須玖「僕は美化委員なんだ。今日は備品のチェックの日でね。チリトリとホウキ、何度数えても一個ずつ足りないから困ってた」
楓「あ……遅くなってごめんなさい」
依須玖「ううん。最後までお疲れ様」
綺麗な顔で微笑まれて、ドキッとしてしまう楓。
依須玖「それ捨てるよね? ネット持ってるからこっちにおいで」
楓「えっ、そんな。いいんですか」
依須玖「うん。もうだいぶ一杯だから、一人だと大変だよ」
依須玖の言う通り、ゴミ捨て場には既に、落ち葉入りのゴミ袋が高く積み上がっている。依須玖がネットを持ち上げてくれたので、楓はそこに近づき、ゴミを捨てる。
楓「ありがとうございます」
依須玖「うん。それじゃ」
小さく笑って去っていく依須玖。その背中に、楓は思い切って「あのっ」と声をかける。
楓「えっと、細依須玖先輩ですよねっ?」
楓の呼びかけに、依須玖は少し長めの黒髪をなびかせながら振り返る。
楓「俺たち、どっかで会ったことありますか?」
楓(……ってなんだそれ。これじゃあ下手なナンパじゃないか)
すかさずセルフツッコミを入れて、一人で勝手に赤くなる楓。その様子を、依須玖は感情の読めない瞳でじっと見つめている。
楓「ってのはあの、ごめんなさい、ナンパとかじゃなくて。ほんと、違ったらすみませんって感じなんですけど、俺の友だちが、先輩が俺のこと見てたって言ってたんで。なんか俺、知らないうちに先輩にご迷惑とかかけてたんなら、それは申し訳ないなあっていうか」
そこまで一気に喋って、楓はおずおずと上目づかいで依須玖を見る。しばらくきょとんとしていた依須玖だが、なぜか突然、きゅっと目を細めて笑い、楓に向かって歩いてくる。
依須玖「残念、ナンパじゃないんだ」
楓「えっ?」
依須玖のセリフに、耳を疑う楓。近づいてくる依須玖から距離を取ろうと後ずさるが、先ほど依須玖が扉を閉めた小屋にぶつかって、それ以上は下がれない。
それでも足を止めずに、楓に近づいてくる依須玖。追いつめられた楓の手にするりと触れ、耳元に唇を寄せて囁きかけてくる。
依須玖「君が好きだから見ていたんだよって言ったら、君は僕と付き合ってくれるのかな?」
楓「?!?!?!」
耳まで真っ赤にして、思考停止状態で依須玖を見上げる楓。依須玖は楓を腕の中に閉じ込めたまま、にっこりと笑う。
依須玖「ねえどうなの? 付き合ってくれるの? くれないの?」
楓「えっ、へっ? うえ? つ、付き合う? 付き合うって……えっ?」
とにかく大パニックの楓。半分涙目になりながら視線を泳がせ、混乱していると、頭上の依須玖がふいに吹き出し笑いをする。
依須玖「ふっ……く、ふふふ。あはは。なるほどね、そんな感じね」
小屋の扉に突いていた手を離し、笑いながら身を離す依須玖。楓に背を向けるようにして腹を抱え、一人でくつくつと笑っている。
楓「えっ、え? なんでそんな、急に笑って……」
依須玖「いや、ごめん。そんなに動揺するとは思わなくって」
楓「へ?」
数秒考え、やがてじわじわと状況を理解する楓。
楓「もしかして先輩、俺のことからかいました?!」
依須玖「ご明察。いい反応をありがとう」
自分の口元に手を当てて、楽しそうに微笑む依須玖。楓は開いた口がふさがらない。
楓(この人、こんな澄ました顔して! それもあんなやり方で!)
楓(親切な先輩だと思ったのに、心臓壊れたらどうしてくれるんだ!)
未だドキドキと鼓動が鳴り止まない楓。楓がなにも言えないのをいいことに、依須玖は話を続ける。
依須玖「残念ながら僕と君は会ったこともないし、お友だちがどうしてそんなことを言ったのかはわからないけど……もしかしたらこれも、なにかの縁かもしれないね」
依須玖はおもむろに楓に向かって右手を伸ばし、握手を求めてくる。
依須玖「よかったら、僕と友だちになってよ。君の名前は?」
依須玖の言葉の意味をすぐには理解できない楓。にっこりと微笑む依須玖と自分に向かって差し出された手のひらを見比べて、焦りまくる。
楓(え? え? え?)
楓(俺と細先輩が、友だち――?!)
【続く】


