ファインダー越しの怪物

健一の記録
 俺の趣味は、家族の映像を記録することだ。息子の陽太が生まれてから、俺は常にファインダー越しに世界を見ている。運動会、誕生日、何気ない日常。そのすべてが、俺にとっては宝物だった。陽太が笑う。妻の美咲がそれを見て微笑む。その完璧な一瞬を、俺は永遠にしたかった。

 異変が始まったのは、陽太が三歳になった夏のことだ。

 最初は、ほんの些細なことだった。再生したビデオの隅に、一瞬だけ黒いシミのようなものが映り込む。最初はレンズの汚れかと思った。だが、それは日に日に濃く、そして明確な「影」として形を成していった。

「なあ、美咲。これ、何だと思う?」

 リビングで、俺は問題の映像を再生して見せた。公園の砂場で遊ぶ陽太。その背後、ブランコの支柱の陰から、陽炎のように黒い影が揺らめいている。

「……何って、ただの影でしょ? あなた、最近疲れてるのよ」

 美咲は気のない返事をすると、キッチンへ向かってしまった。彼女は、俺がカメラを回し続けることを、あまり快く思っていないようだった。だが、俺には分かっていた。これはただの影などではない。

 その日から、俺たちの周りで奇妙なことが起こり始めた。夜中に誰もいない子供部屋から物音が聞こえたり、陽太が何かに怯えるように夜泣きをしたり。俺がカメラを向けると、決まってその黒い影が、陽太の周りをうろついているのが見えた。

「俺が、家族を守らなければ」

 俺は家中に小型のカメラを設置した。リビング、キッチン、玄関、そして陽太の部屋にも。24時間、片時も目を離さずに家族を監視する。モニターに映る無数の分割された画面を眺めていると、自分が要塞の司令官にでもなったような気分だった。

 映像には、決定的な瞬間が記録されていた。誰もいないはずのリビングで、棚の上の写真立てがひとりでに落ちて割れる。深夜のキッチンで、蛇口から水が流れ出す。そして、眠る陽太の顔を、黒い影が覗き込むように覆いかぶさる。

 俺は憔悴していった。眠れない夜が続き、目の下には隈がこびりついた。だが、美咲の態度は変わらなかった。

「お願いだから、もうやめて。陽太が怖がってるわ」
「お前には分からないのか! 俺たちが『何か』に狙われているんだぞ!」

 俺たちは、もうまともに会話もできなくなっていた。美咲は俺を、まるで汚いものでも見るような目で見るようになった。この時の俺の孤独を、一体誰が分かってくれるというのだろうか。

そして、運命の夜が来た。

 モニターの中で、黒い影が陽太のベッドから這い出し、ドアの方へ向かっていく。まるで、陽太を外へ連れ出そうとしているかのように。

「させない……!」

 俺はカメラをひっつかむと、子供部屋に駆け込んだ。そこにいたのは、紛れもなく「怪物」だった。それは黒い煙のような姿で、陽太の腕を掴んでいた。

「陽太を離せ!」

 俺は叫び、手にしたビデオカメラを武器のように振りかざし、怪物に殴りかかった。もみ合いになり、手から、命よりも大事なはずのカメラが滑り落ちる。床に叩きつけられ、レンズが砕ける鈍い音が響いた。

そして、俺自身の意識も、ブラックアウトした。



美咲の告白
 夫の健一が階段から転落し、意識不明の重体になってから、一週間が経った。警察の人が、何度か事情を聞きに来た。私は、正直にすべてを話すことに決めた。

 「健一さんは、結婚する前から「完璧な家族」というものに、異常なほど執着していました。彼の書斎には、映画やドラマのホームビデオのシーンばかりを集めたディスクが、山のように積まれていました。彼はそれを、繰り返し、繰り返し見ていたのです。

 陽太が生まれて、彼の異常さはエスカレートしました。

「いいかい、美咲。父親はこうでなくちゃいけない。子供はこうやって笑うべきなんだ」

 彼はそう言って、陽太が嫌がってもカメラを向け続けました。陽太が泣けば、「はい、カット。もう一回」と、まるで自分が監督にでもなったかのように振る舞うのです。

 ビデオに映っていたという「黒い影」や「ノイズ」。あれは、健一さんが編集ソフトで後から加えたものです。彼は、外部からの「脅威」を自分で作り出すことで、家族の結束を強め、自分が「守護者」としての役割を確立できると信じ込んでいたのです。

 物が動いたり、声が聞こえたりしたのも、すべて彼の自作自演でした。私は何度もやめてと説得しましたが、彼は聞く耳を持ちませんでした。それどころか、「お前は家族の敵なのか」と、私に手を上げることもありました。

 私は、陽太を守るために、離婚の準備を進めていました。弁護士にも相談し、あの日、陽太を連れてこの家を出るつもりだったのです。

 荷物をまとめているのを、彼に見つかりました。

 彼は逆上し、「怪物が陽太を連れ去ろうとしている!」と叫びました。彼にとっての怪物は、家族の崩壊であり、私の裏切りだったのでしょう。彼は陽太を部屋に閉じ込めようとしました。

「やめて!」

 私が陽太をかばうように抱きしめると、彼は私を突き飛ばそうとしました。その時、彼自身が足を滑らせて……階段から落ちていったのです。

 警察の方は、私の話と、健一さんのパソコンに残っていた編集前の狂気的な映像データを見て、すべてを理解してくれたようでした。

 今、私と陽太は、新しいアパートで二人、静かに暮らしています。

 夫という名の「怪物」から解放され、平穏な日々が戻ってくるはずでした。

 しかし、陽太は、今でも物音にひどく怯えます。そして、私がスマートフォンを向けるだけで、まるで悲鳴を上げるように泣き叫ぶのです。

 ファインダー越しに注がれ続けたあの狂気は、息子の心に、決して消えることのない傷として、深く、深く刻み込まれてしまったのです。

 解放されたはずの私たちは、本当の意味で、まだあの家から一歩も出られていないのかもしれません。」