もうすぐここから出られる。
ただその事実だけを胸にこの嫌がらせを受け続ける最悪な日々を耐えてきた。
そして、今日、私はやっと解放される。
歩き慣れてしまったアルトワ伯爵邸内の廊下を1人で軽やかに歩く。
荷物はもうあちらに送っているので、今私の手には何もない。
この綺麗で洗練された美しいお屋敷とも今日でお別れだ。
もうここへは来ないのだと思うと、少々寂しい気もするが、それでもやはりこれからの自由を思うと、嬉しさの方が勝つ。
新しい生活の場となる別荘に着いたらまずはお父様とお母様に会いに行こう。
それからこの6年間のことをたくさんたくさん話すのだ。
のんびり過ごすのもいい。好きな刺繍に没頭するのもいい。
アルトワ伯爵家に支援されているとはいえ、いずれは独り立ちせねばならないので、事業を始める傍らで、どこかで働くのもありだ。
フローレスの事業を手伝うのもいいだろう。
あちらに行ってやりたいことが私にはたくさんあった。
明るい未来に胸を躍らせながら、久しぶりに明るい気持ちで、私は玄関ホールまで向かう。
そしてそこに広がっていた光景に目を見開いた。
何故かたくさんの使用人たちがまるで私を見送るかのようにそこにいたからだ。
私はここからひっそりと出るつもりだった。
だから人の注目を集めない早朝にここから出ると決めていた。
だが、しかしまだ朝の4時だというのに、そこは使用人たちで溢れていた。
…ニセモノの最後でも見にきたのか?
疑問に思いながらも使用人たちの間を歩くが、悪意や怒りの視線は感じない。
どの使用人も厳かな雰囲気で私を見守っていた。
「リリー!」
使用人たちの間からついに玄関の扉まで辿り着いた私を奥方様が優しい笑顔で迎え入れる。
奥方様の横には当然、伯爵様もおり、さらにセオドアとレイラ様、ウィリアム様までいた。
アルトワ一家の皆様が私のことを見送りに来るのはわかるのだが、何故、何の関係もないウィリアム様までわざわざこの場にいるのだろうか。
「リリー。これからも君は私たちの愛する娘だ。落ち着いたら連絡するんだよ」
「たまにはこちらにも帰って来てね、リリー。もちろん私たちもアナタに会いに行くわ。どうかお元気で」
思っていた状況とは違い、戸惑っている私に伯爵様と奥方様が寂しげにだが、優しく笑う。
まるで本当の我が子を送り出す親のように。
「リリー。短い間だったけどアナタと本当の姉妹のように一緒に過ごせた日々、忘れないわ。かけがえのない時間をありがとう。元気でね」
アルトワ夫妻からの別れの挨拶が終わると、今度はレイラ様が私の前に現れた。
女神様のように美しく、慈悲深い微笑みを浮かべるレイラ様に、私は本当にウィリアム様とお似合いだなと思う。
見た目の完璧さもさることながら、性格の悪さも同じで、こんなにも合う2人はなかなかいないだろうと確信する。
やはり貴族社会を生き抜くには2人のような性格の悪さも必要なのだ。
そうしてやっと完璧な存在へとなれる。
私ではそこまでの境地には至れなかった。
アルトワ夫妻にレイラ様。
流れ的に次の別れの挨拶はセオドアだろうか?
そう思ったのだが、セオドアはこちらを冷たく見るだけで何も言わない。
そしてそれはウィリアム様も同じで、ウィリアム様は微笑むだけ微笑んで特に私に何かを言おうとはしてこなかった。
黙ってこちらを見るだけの2人に私は首を傾げる。
何故、2人はこの場に来たのだろうか?
ただニセモノである私の退場する姿を見に来ただけとか?
大好きで大切なレイラ様がそこにいるから一緒にいるだけとか?
最後までよくわからない2人だ。
「皆さん、大変お世話になりました。どうぞ、お元気で」
セオドアからもウィリアム様からも別れの挨拶がないのならと、私は2人の挨拶は聞かずにその場で深々とお辞儀をした。
ーーー玄関の扉が使用人の手によって開けられる。
開けられた先にあるあの馬車こそが私の乗る馬車だ。
馬車へ向かおうといよいよ一歩踏み出したその時。
私の両隣にウィリアム様とセオドアが現れた。
「リリー」
「…」
ウィリアム様は私の名前を優しく呼び、セオドアは無言のまま、私に手を差し出す。
馬車までエスコートしてくれるの?
何故?
「…」
まあ、もうどうでもいいか。
ウィリアム様とセオドアの行動に疑問しかなかったが、私は特に気にせず、2人の手を取った。
最後だからきっとこうしてくれるのだろう。
確かにウィリアム様とセオドアは私のことを気に入っていなかったのかもしれない。
それでもこの6年で、私たちは私たちなりに、歪ながらも関係を築けていた。
その関係の先がこの見送りなのだろう。
2人からの言葉はないけれど、きっと行動で私に別れを告げているのだ。
2人にエスコートされて私は馬車へと乗る。
歪んでいるし、最悪なところもあったが、決して2人のことが嫌いなわけではなかった。
私自身も2人に嫌いと好きでは表現できない歪で複雑な感情を抱いていた。
「…ありがとう」
私はウィリアム様とセオドアに聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で感謝を口にした。
あとは馬車の発進を待つのみ。
これで本当にアルトワとはお別れだ。
しみじみとそんなことを思いながら、ここで過ごした日々に思いを馳せ…ようとしたが、急にそれどころではなくなった。
ウィリアム様とセオドアが当然のようにこの馬車に乗ってきたからだ。
そしてウィリアム様が私の隣、セオドアが私の前へと座った。
「え」
これから遠く離れた別荘ではなく、いつものように学院へと行く雰囲気の2人に私はぽかーんと口を開く。
え、何しているの?
「え、あの、2人して何しているの?見送りならここまでで結構ですけど…」
まさか別荘まで見送りに来るつもりか、と2人を変なものでも見るような目で見る。
するとセオドアが私を私と全く同じ目で見た。
「は?見送り?違うけど。お前が行く先に僕が行かないわけないだろ?何で僕に何も言わずに行こうとしたんだよ。僕たちは一緒にいなければならないのに」
「は?」
私を責めるセオドアの言動の意味がわからず、私は口をぱくぱくする。
何故、何故、何故?
答えを求めて彷徨う私の視線に、今度は甘い笑みを浮かべたウィリアム様が入ってきた。
「俺は君の婚約者だしね。一緒に行くのは当然だよ。ハネムーンを楽しもう、リリー」
「はぁ?」
訳のわからないことを言うウィリアム様に思わず、眉間にしわを寄せる。
全く何もかも意味がわからない。
そしてこの訳のわからない状況に困惑していたのは私だけではなかった。
「セオ!?ウィル!?」
玄関ホールから驚いたようにそう叫び、こちらに駆け寄るレイラ様の姿が見える。
どうやらレイラ様も私と同じように何も知らなかったようだ。
「どうして2人とも馬車に乗っているの!?」
馬車の入り口まで来たレイラ様は、ウィリアム様とセオドアに切羽詰まった様子でそう叫んだ。
「姉さん。コイツはね、いずれ、今とは違う形で僕たちの家族になる人なんだ。そんな家族を1人にするわけにはいかないでしょ?」
「俺たちは結婚するからね。彼女が行きたいという場所には一緒に行ってあげないと。ハネムーンだよ、ハネムーン」
「「は?」」
セオドアとウィリアム様が当然のように答えた答えに私とレイラ様は全く同じリアクションをする。
さっきから聞こえるセオドアとウィリアム様の主張が何だかおかしくて自分の耳を疑う。
「いやいやいや!アンタたちはレイラ様のことが大切で大好きなんでしょう!?それなのに何でレイラ様じゃない私について行こうとしてるの!?そもそも2人とも聞き捨てならないこと言っているし!なんか結婚仄めかしてるし!」
さすがにもう限界だと思い、全ての疑問をウィリアム様とセオドアにぶつける。
すると、そんな私を2人はとても不思議そうに見た。
「確かに姉さんのことは好きだけど、お前のとは違うよ。最悪だけど、僕はお前を1人の異性として愛してしまったんだ。だから僕はもう姉さんの代わりではないお前と結婚することにしたんだよ。未来の妻と共に行動するのは当然だろ」
「はい?」
おかしなものでも見るような目でこちらを見るセオドアに表情が固まる。
今、あのセオドアが、私のことを異性として愛していて、結婚するとか言ってきた?しかももう決定事項みたいに?
…聞き間違いではないよね?
「レイラのことは別に何とも思っていなかったよ。好きでも嫌いでもない。利害関係が一致していただけの仲だ。俺が愛しているのは、昔からずっと君だけだよ。結婚するんだし、ついて行くに決まっているでしょ?このハネムーンが終わったら公爵邸においで。結婚しよう」
「はぁ?」
セオドアのことでさえもまだよく飲み込めていないのに、甘く微笑むウィリアム様のせいで、さらに飲み込まなければならない情報が増えてしまう。
ウィリアム様が私を昔から愛していたなんて本当なのか?そもそもプロポーズは断ったはずなのにどうしてもう結婚する気満々なんだ。
何故、自由になる為にここから逃げるのに、それがいっときの新婚旅行に変換されているんだ。
どうなっているんだ、コイツらは!
「嘘!嘘よ!ウィルは私の完璧な婚約者だし、セオは私から離れられない可愛い弟なの!それなのにどうして2人が!そんな、そんな!」
信じられない気持ちでいたのは私だけではなかったようで。レイラ様も訳がわからない様子で辛そうにその場で喚いていた。
何故か私と結婚する気満々のウィリアム様とセオドアに馬車の入り口で喚くレイラ様。
もう目に見える情報全てがカオスである。
喚くレイラ様なんてお構いなしに、ウィリアム様が「じゃあ行こうか」と馬車の扉を閉めた。
馬車の窓から泣き崩れるレイラ様の姿が見える。
それからそんなレイラ様を気に掛けながらもこちらに手を振るアルトワ夫妻の姿も見えた。
ほんのつい先ほどまではここでの生活に思いを馳せ、しんみりしたり、これからの自由に胸を躍らせていたのだが、今はそれが何もない。
ただただ驚きと不安しかない。
これから一体どうなってしまうのか。
私が望んだ自由がこの先に本当にあるのか?
そもそもこの2人のどちらかと結婚することはもう決定事項なのか?
「セオドア、君はリリーと結婚したいみたいだけど、正式にリリーと婚約をしているのは俺だから残念だけど君は彼女とは結婚できないよ」
「ですが、アルトワはシャロンとの繋がりよりも、リリーを手放さないことに重きを置いています。その為にも、残念ですが、アルトワはウィリアム様とリリーの婚約を白紙にするでしょう。僕とリリーが結婚するのが一番なんです。アルトワにとってもね」
「そうかな?そもそもそれは倫理観としてどうなの?」
「問題ありません。僕とリリーは血は繋がっておりませんので」
今後に不安を抱いている私なんてお構いなしに、ウィリアム様とセオドアが変な口論をしている。
それも本人の了承もなしに私の結婚について。
「…」
2人の様子を見て私はますます不安になり、今後について憂いた。
…どうなってしまうんだ、私は。
【逃げたいニセモノ令嬢と逃したくない義弟と婚約者。】end.

