ここから出て、リリーとして好きに生きていい。
衣食住を含め、あちらでの生活の全てを支援するので、何も心配はいらない。
そうアルトワ夫妻に言われた私はなかなか息苦しい毎日を送っていたが、またそんな毎日に耐えられるようになっていた。
今までとは違い、終わりが見えているからだ。
あとどのくらいでアルトワから離れられるのか具体的な日数はわからない。
だが、私のために2人は急ピッチでことを進めてくれると言ってくれていた。
きっと1ヶ月もしないうちにここから出られるだろうと期待も込めて思う。
そんな毎日を送る中で、私は常々疑問に思っていたことの答えをついに見つけてしまった。
「ゔぅ…ぅ…」
アルトワ伯爵邸内の廊下を何となく歩いていると、聞こえてきたすすり泣く女性の声。
気になってその声の方へ向かうと、レイラ様が今使っている部屋の前へとたどり着いた。
そしてたまたまほんの少しだけ扉が開いていたので、思わず中を覗いてみると、そこには静かに泣いているレイラ様と、そんなレイラ様を気の毒そうに見つめ、囲む、複数のメイドたちの姿があった。
「…私、リリーが怖いの。自分の居場所が奪われそうだからと口も聞いてくれないし、目が合えば睨むし。セオとウィルなんて、無理やり彼女に縛られて、彼女の傍にいるしかないのよ?本当に2人が可哀想だわ。でも私、怖くてリリーには逆らえないの…」
うるうるとその美しい星空のような深い青色の瞳に涙を溢れさせ、メイドたちに訴えかけるレイラ様はあまりにも儚げで、弱々しい。
そんなレイラ様にメイドたちは一斉に哀れみの視線を注いだ。
「レイラ様、大丈夫ですからね。私たちがアナタ様をお守りいたします」
「あのニセモノのことなら私たちにお任せを」
メイドたちがレイラ様を少しでも安心させようと優しく笑っている。
泣いているレイラ様にそれを慰めるメイド。
この光景を見て私はわかってしまった。
私への嫌がらせの原因はまさかのあの完璧で女神様のように優しいレイラ様だったのだ、と。
何故アルトワが周りに伏せようとしていたことがこんなにもあっさりと広まってしまったのか私は常々疑問に思っていた。
だが、今のレイラ様を見れば、あっさりと事実が広まってしまった原因がわかってしまった。
レイラ様自身が発信していたので伏せようがなかったのだ。
私は確かにレイラ様とあまり話さないが、それは基本ウィリアム様やセオドアなどの誰かがその場におり、話す必要や機会がなかったからだった。
睨んだ覚えももちろんないし、どう考えてもレイラ様の勘違いか嘘だろう。
セオドアやウィリアム様が私に縛られているという話も、あまりにも作り話すぎて、レイラ様が悪意を持ってああしているのだとわかってしまった。
もしかしたら、かなり鈍感なレイラ様が本当にそう思っていた、と考えるのもありかもしれないが、あの思慮深く、人のことをよく考えられる完璧なレイラ様がそこだけはわかりませんでした、となるだろうか。
「ねぇ、どうか私がこんな弱音を吐いていることなんて誰にも言わないでね。私は常に完璧でいたいから」
美しい涙を流しながらもメイドたちにそう訴えたレイラ様を見て、私はなるほど、と腑に落ちた。
ああいうふうに訴え、願うことによって、全ての情報源であるレイラ様という存在を上手く隠していたのだ。
レイラ様を大切に思っている人にのみ弱音を吐き、それを黙らせる。きちんと人を選んでレイラ様はあることないことを言っていたのだろう。
今にも散って消えてしまいそうなほど、儚く、辛そうなレイラ様に、メイドたちは案の定、「もちろんでごさいます!」「私たちだけの秘密です!」と明るく胸を張って言っていた。
…全てレイラ様の嘘だと知らず、面白いくらいにメイドたちがレイラ様の手のひらで踊らされている。
慈悲深い仮面の裏でレイラ様は私を排除する為に、嘘を編み、噂を操っていたのだ。
まあ、レイラ様からすると、本来自分が得られるはずの恩恵を受け続ける私なんて、邪魔で邪魔で仕方ないのだろうけど。
てっきり女神様のように慈悲深いレイラ様なら、そんなことなど気にせず、ゆったりと構えていると思っていたのに。
それを邪魔だからと、さっさと消す為に、ああして動くとは。
何と計算高く恐ろしいお方なのだ。
あのウィリアム様とセオドアと渡り合えるだけのことはある。すごい性格の悪さだ。
*****
変わらず私の周りは悪意で満ちている。
だが、私はもう耐えられた。ここから離れられることが決まっているからだ。
もちろんこんな私を助けようとする者など現れなかった。
当然だろう。レイラ様から全てを奪うニセモノを一体誰が助けたいと思うのだろうか。
今日学院で受けた嫌がらせは、机に入れておいた教科書を全て水浸しにされる、というものだった。
なので私はその教科書たちを抱えて、学院内の綺麗に整えられた芝生が生い茂る広場へと向かった。
そしてそれらを一冊ずつ芝生の上へと並べた。
時刻は午後2時。昼下がりの太陽の光が降り注ぐここは教科書を乾かすにはうってつけの場所だ。
ここでなら1時間もすれば、教科書も少しは乾き、鞄に入れ、持ち帰れるくらいにはなるだろう。
「はぁー」
私は教科書を並び終えると大きく息を吐いて、芝生の上に仰向けになった。
私の瞳と同じ色の空には複数のいろいろな形の白い雲が浮かんでおり、見ていて飽きない。
ふわふわのうさぎに、ふわふわの花。
ふわふわの大きな家に見える雲もある。
この穏やかな時間に私は懐かしさを感じた。
かつて没落寸前の男爵家の娘だった私は、よくこうして庭に寝そべり、空を見ていた。
あの時の感覚が今でも鮮明に思い出せる。
もう授業が始まる時間だったが、そんなことどうでもよかった。
完璧ではないリリーは今ここで教科書と共にあの時のように寝たかった。
ーーー瞼を閉じてどのくらいたったのだろうか。
気持ちよく寝ていると、突然その声は聞こえてきた。
「おい。こんなところで寝るな」
聞き覚えのある冷たい声に瞼を開ける。
すると、そこには立ったままこちらを呆れたように見下ろしているセオドアがいた。
そんなセオドアについ反射で「あ、ごめん」と謝罪し、上半身だけ起こす。
こんなところをセオドアに見られるなんて。
また小言が始まるぞ。
「そもそも年頃の令嬢がこんなところで1人で寝るな。危ないだろ。せめて寝たいなら使用人を横に置け。そのくらい分かれ。何年アルトワの令嬢をやっているんだ、お前は」
ほら、やっぱり。
こちらを冷たく見据え、私の予想通りに小言を言い始めたセオドアに思わず苦笑いを浮かべてしまう。
「返事は?」
苦笑する私を見て、セオドアは片眉を上げ、私に凄んだ。
「…はぁい」
「…気に食わない返事だな」
私の気の抜けた返事にセオドアがため息を漏らす。
だが、セオドアは「まあ、いい」と諦めたように言い、こちらに改めて視線を向けた。
「使用人に頼めないなら僕に頼め」
「え」
セオドアの予想外の提案に思わず目を見開く。
あのセオドアが私に優しい?何故?
信じられないものでも見るようにセオドアを見つめていると、そのセオドアが「返事は?」と冷たく私に返事の催促をしてきたので、私は慌てて「うん」と頷いた。
私の返事を聞いたセオドアがそのまま私の横に腰を下ろす。
何で座ったんだろう?
居座るつもりなのかな?
私の横にいるセオドアを気にしながらも、せっかく起きたので、私は乾かしていた教科書を一冊手に取ってみた。
表紙は完全に乾いているが、中がまだ湿った状態だ。
だが、ここに持ってきた時には、水が滴っていたので、これはこれで上出来だろう。
私は完全に教科書を乾かしたかったのではなく、ただ持ち帰れるようにしたかっただけなのだ。
よし。もういいかな。
そう判断した私はせっせとその場に広げている教科書を一冊ずつ集め始めた。
「ねぇ」
そんな私にセオドアが突然冷たい声音で声をかける。
「お前、僕に何か言うことはない?」
「え?」
それからどこか責めるようにそう言われて私は戸惑った。
セオドアに言うことなどないからだ。
「ないと思うけど…」
「ふーん」
私の歯切れの悪い返事を聞き、セオドアはただただ無表情に私をまっすぐ見た。
その瞳が何故か仄暗い気がするのだが、気のせいだろうか。
「…言わないつもりなんだ」
セオドアが何か呟いた気がしたが、私には聞こえなかった。

