しかしただ耐え続けるといっても、限度というものがある。
学院での嫌がらせが始まり3週間。
アルトワ伯爵家での嫌がらせが始まり4週間。
レイラ様のニセモノとして嫌がらせを受け始め、もう1ヶ月。
さすがの私も我慢の限界を迎えていた。
イザベラ様を始め、生徒たちの怒りも、アルトワ伯爵家の使用人たちの怒りもわかる。
痛いほどわかる。
だからこそ、反撃も反論もすることなく、彼らの怒りが収まるのならと、嫌がらせや嫌味も黙って受け続けたのだ。
だが、それは収まるどころか私を排除しようと、激しさを増す一方だった。
6年前とは違い、あまりにも四方八方敵だらけでさすがの私も疲れてしまった。
きっともう耐えるだけでは、この大きな怒りは収まらないだろう。
この大きな怒りを収めるには、怒りの原因である私自身が消えるしかない。
レイラ様が戻ってきた当初の予定では、要らぬ混乱を招かぬよう段階を踏んで、私とレイラ様が入れ替わる予定だった。
だからこそ、その予定に従い、今日まで何を言われても、何をされても、私はレイラ様であり続けた。
だが、しかし、今の状況でもそうすることが果たして本当にベストなのだろうか。
学院中の生徒も、アルトワの使用人たちも、全員が私がニセモノだと知っており、恐れていた事態はもうすでに起きてしまっているのだ。
私がニセモノだと周知された今、私はもういらないし、消えるべき存在だろう。
今日という息苦しい1日を終えた私は今の状況をアルトワ夫妻に伝える為に談話室へと向かった。
夕食後には決まってあそこで仲良くくつろいでいるからだ。
「お父様、お母様、今ちょっといい?」
談話室の扉を開けると、そこにはやはり予想通り、仲良く同じソファに座り、くつろぐ夫妻の姿があった。
なので、私はそんな夫妻の元へ迷わず歩み寄り、声をかけた。
すると2人は優しく私に微笑んだ。
「どうしたの?レイラ?」
「何だい?」
奥方様も伯爵様もニセモノであるとわかっていながらも、私にとても優しい。
この2人が始めたことなので当然そうなのだろうが、それでも6年前から変わらず私の味方でいてくれたのは、彼らだけだった。
その為、私をレイラ様として本気で扱う2人の姿に怖いと思う瞬間もあったが、それでも2人のことを私は嫌いにはなれず、むしろ好感さえ抱いていた。
この6年の間だけは紛れもなくあの2人が私のもう1人のお父様とお母様だった。
「話が…いえ、お話があります」
最初はレイラ様として話をしようと思っていたのだが、今後のことも考え、私はあえてリリーとして2人に真剣な眼差しを向ける。
そんな私の様子を見て、何かを感じ取ったのか、アルトワ夫妻から笑顔が消えた。
伯爵様が私の様子を窺うように、奥方様が私を心配そうに見つめ、私の次の言葉を待つ。
「今、現在、学院の生徒とアルトワの使用人の間で、私がレイラ様ではないという話が急速に広まっております。段階を踏んで入れ替わる予定でしたので、この状況下でも、私はレイラ様のフリを続けておりましたが、それももう限界です。ですから、少し早まってはしまいますが、今私とレイラ様を入れ替えるべきです」
「…っ」
「…」
私の話を聞き、奥方様は驚いたように目を見開いたが、伯爵様は冷静な表情のままだった。
今の状況をわかっていたのか、いなかったのかわからないが、きっと努めてそうしているのだろう。
私はそんな2人に淡々と続けた。
「何も持たない、何もできない、ただの娘をここまで立派に育てていただいたこと、我が男爵家の支援を続けていただいたこと、私は…」
「ちょっと待ちなさい」
今までの感謝を2人に伝えようとしたのだが、それを突然伯爵様が遮る。
こちらを見つめるセオドアと同じ空色の瞳には戸惑いが見えた。
「…レイラ、いや、君は私たちの娘だ。娘を育て、娘の生家を守ることは当然のことだろう。お礼を言われるようなことなんてしていない。それなのに何故君はお礼を言うんだ。それではまるで…」
そこまで言って伯爵様は黙ってしまった。
この先はまるで言いたくないというように。
「…私は確かにあなた方に娘のように大切に育てていただきました。ですが、私は元はフローレスの娘なのです。ここまでのご厚意、本当に感謝しております。お2人は私にとって、もう1人のお父様とお母様でした。ですが、もうここには私という存在は必要ありません。ですからフローレスに帰らせていただきたいんです」
私はそう言い切ると、今までの感謝を改めて伝えるように2人に深々と頭を下げた。
そんな私を見て、まず最初に声を上げたのは奥方様だった。
「やめて!顔をあげて!違うの!違うのよ!私は…、私たちは確かに最初こそアナタをあの子の代わりとして迎え入れたけど、本当に我が子のように思っていたのよ!?」
今にも泣き出しそうな奥方様の声にどうしてだか、胸が痛くなる。
私を見つめるレイラ様と同じ星空のような深い青色の瞳には悲しみが広がっていた。
「セイラの言う通りだ。私たちは君を娘だと思っているんだ。君の役割が終わったからといって、君を手放すつもりはない。レイラと入れ替わった後も、レイラの双子の妹として、今のレイラのように、変わらずアルトワの娘として、君にはここにいてもらう予定だったんだ」
隣にいる奥方様の背中を優しく撫でながら、真剣な眼差しで、伯爵様が私を見る。
2人のその視線には今までと同じ愛しかなく、胸がいっぱいになった。
2人が私を愛してくれていることは知っていたが、でもそれはレイラ様の代わりとして、その延長で愛してくれているのだとずっと思っていた。
それがまさか私自身を本当の娘として愛してくれていたとは。
「…私のことを本当の娘としてそこまで考えていただき、本当にありがとうございます。ですが、学院にもアルトワにも私の居場所はないんです。本来、私はここにいるべき人間ではないから」
2人の愛情に熱くなる胸をぐっと抑えて、私は伝えねばならないことを2人にただ伝える。
「私はここにいていい人間ではないんです」
「そんなことっ。そんなことないわっ。アナタは私たちの娘で、ここにいるべき人間で…っ」
私の言葉についに奥方様の瞳から涙がこぼれ落ちた。奥方様の涙は止まらず、隣にいる伯爵様が奥方様のことを気にかけるように見つめる。
それから私の方へと視線を向けた。
「ここはそんなにも君にとって居心地の悪い場所なのか?」
「…はい。そうです」
「…そうか」
私の答えを聞き、伯爵様の顔色も悪くなった。
大切に思っていた娘から面と向かって「ここの居心地が悪い」などと言われれば、誰だってあんな顔をしたくもなるだろう。
だが、この居心地の悪さは決して彼らのせいではない。
私がレイラ様の代わりでい続けたこと、そしてそれに怒りを感じて嫌がらせを続ける周りが悪いのだ。
奥方様と伯爵様は何も悪くないのに、まるで2人が悪いのだと責めているような今の状況にますます胸が痛くなった。
「…ア、アナタがそう思うのならこれ以上、私たちのエゴでアナタを縛るわけにはいかないわね」
伯爵様と私のやり取りを泣きながら聞いていた奥方様は未だに泣きながらも私にそう言った。
「ねぇ、アナタ、この子が願うならこの子を解放してあげましょう」
「…セイラ」
奥方様にじっと見つめられて、伯爵様が難しい顔をする。
それから伯爵様は何かを考えるように黙ってしまった。
ーーーどのくらい伯爵様の次の言葉を待ち続けたのだろうか。
そう思うくらいには沈黙が続いたが、伯爵様はやっと重い口を開いた。
「…君にとってここが居心地の悪い場所なら、君がここから出て行くことを許可しよう」
「…っ。ありがとうございます」
伯爵様からの許可に嬉しくなり、思わず破顔しそうになるが、まだその時ではないと思い、顔に力を込める。
するとそんな私に神妙な面持ちで伯爵様は話を続けた。
「ただどうかこれだけは許して欲しい。君を今後も私たちの娘として扱うことを。私たちは君をどうしても手放せない」
そうこちらに訴えかける伯爵様の瞳には、伯爵様の切実な思いが宿っている。
「君に君の名、リリーという名も返そう。君は今後、レイラではなく、リリーとして生き、私たちの許可などなくとも、自由にご両親に会いに行ってもいい。だが、それはフローレスのリリーとしてではなく、アルトワのリリーとしてだ。そこだけは譲れない」
「…わかりました」
私はあまりにも切実に真剣にこちらをまっすぐに見る伯爵様にゆっくりと頷いた。
元々セオドアのこともあり、もしかすると、レイラ様と入れ替わった後も、アルトワのままなのかもしれないとはわずかに思っていた。
リリー・フローレスはここへ来たあの日、死んだ。
ここへ来ることを選んだあの日から私にはフローレスへと帰る選択肢はなかった。
だが、レイラ様が帰ってきた。
レイラ様がいるのなら、ここに私は必要ない、帰ってもいい、そうずっと思っていた。
ただその選択肢が今、なくなった。
辛くないといえば、嘘になるが、6年前ほどの衝撃はない。
それどころか今後リリーとして生き、本当のお父様とお母様にも会えるのなら全然有り難い話だ。
さらにはここから出る許可も降りた。
私はここから解放され、リリーとして自由に生きられる。
「リリー。君の新しい生活の支援ももちろんさせてくれ。新しい住処にフローレスの近くの別荘なんてどうだろう?生活費ももちろんこちらが払うよ」
「え、いいんですか?」
伯爵様からの有り難すぎる提案に目を見開くと、伯爵様の隣で奥方様がその星空のような瞳を細めて優しく笑った。
「何を言っているの?アナタは私たちの娘なのよ?当然よ」
「…ありがとうございます」
本当に2人には感謝してもしきれない。
私は感謝の気持ちをそのたった一言に目一杯込めた。
本当の娘ではない私を本当に愛してくれてありがとう。

