劇場内の準備が整い、ついに入場が始まる。
ウィリアム様が私たちに用意してくれた特別席は個室のようになっており、たくさんの鑑賞席が並ぶ一般席の上から、舞台を観られるようになっていた。
そしてこの落ち着いた空間にはきちんと4つの席があった。



「さあ、どうぞ、レイラ」



ウィリアム様に手を引かれ、まずこの部屋に入ったのは私だった。

部屋に入った私は何となく目に留まった左端の席まで移動し、腰を下ろす。
するとそのままウィリアム様は私の右隣に腰を下ろそうとした。
…したのだが。



「ちょっと待ってください」



それをセオドアが冷たい声で制止した。



「姉さんの隣には僕が座ります。ですからウィリアム様はそこには座らないでください」



こちらにゆっくりと近づいてきたセオドアが、そこから動くようにとウィリアム様を促す。
だが、しかしそんなセオドアの言うことなどもちろんすんなり聞くウィリアム様ではなかった。



「レイラの隣に座るのは婚約者である俺だよ」

「違います。家族である僕です」



にこやかだが、どこか目の笑っていないウィリアム様と、冷たい表情でウィリアム様を睨むセオドアの間にギスギスとした空気が流れる。
何と嫌な空間なのだろうか。



「…じゃあホンモノの家族の隣に座ればいいんじゃないかな?」



お互いに一歩も引かない空気が続く中、ウィリアム様はセオドアにそうにこやかに提案した。



「もちろんそうするつもりですよ。姉さんとアイリス姉さんの間に僕が座るんです」

「ふーん。でも2人ともなんて少々わがままなんじゃない?1人くらいは俺に譲るべきだよ?」

「どちらも譲れません」

「強情だね」



何を言い争っているんだ、全く。

2人のくだらない言い争いを呆れ半分で傍観していると、2人の向こう側、扉の横でどこか寂しげにこちらを見つめるレイラ様の姿が視界に入る。

あれは疎外感を感じている表情ではないだろうか。

無理もない。
レイラ様が行方不明だったこの6年間で、ウィリアム様とセオドアの関係はレイラ様の知らない形へと変わってしまった。
きっとこのくだらない言い争いをする2人が、レイラ様には知らない2人に見えてしまったのだろう。

こんな不毛な言い争いで一番大切な存在を悲しませるだなんて大変よろしくない。

私はこの不毛な言い争いを終わらせる為にその場から立った。
そしてそのまま私の座っていた席にウィリアム様を強制的に座らせ、その右隣に私も座った。



「これでどちらの希望も叶えられるでしょ?不毛な言い争いなんてせずに打開策を考えなさい。私を動かすとかさ」



呆れながらも2人に文句を言う。
するとウィリアム様は、



「そうだね。レイラは左端に絶対座りたいんだと思ってたよ」



と、少しだけ困ったように優しく笑い、セオドアは、



「動けるなら動けると最初から言え。こののろま。アイリス姉さんを待たせるな」



と、とんでもなく冷たい表情でこちらを睨んできた。


あれ?結果私が悪かったことになってない?
何故だ…。



*****



私たちが観にきた流行りの演劇とは『だからこの恋心は消すことにした。』というタイトルの魔法使いと秘書官のラブストーリーだった。

同じようで人種も価値観も違う、魔法使いの男性と秘書官の女性。2人はストーリーの中で互いに惹かれ合い、時にすれ違う。
そのすれ違い方にハラハラさせられたが、最後はとても感動的なもので、涙なしでは見られないものだった。

あまりにも素敵な終わりに思わず泣いてしまいそうになったが、私はそれをグッと堪えた。



「…ぐす」



そんな私の耳にレイラ様のすすり泣く声が聞こえてくる。
全く同じタイミングで私も泣きそうになっていたので、レイラ様のその涙に心の中で私は共感した。

泣けますよね、わかります。



「…アイリス姉さん。ほらハンカチ」

「あ、ありがと、セオ」



レイラ様に共感していると、今度は優しげなセオドアの声とそんなセオドアにお礼を言っているレイラ様の声が聞こえてきた。



「…」



あ、やっぱりダメかも。

レイラ様の涙につられて、私からも堪えていた涙がほろりと流れる。
我慢するつもりだったが、やはり耐えられなかった。



「…っ」



すごく良かった、と静かに泣きながらも、ワンピースのポケットからハンカチを出そうとする。
だがしかし、それは私の右隣にいたセオドアによって止められた。



「こんなところで泣くなよ」



迷惑そうにそう言いながら、セオドアが私の目元に溢れる涙を自身の指で拭う。
私と同じように泣いていたレイラ様にはあんなにも優しい声音で接していたのに、私との温度差が酷すぎる。
レイラ様を愛しすぎている。



「…レイラ、はい」



そんなことを思っていると、私の左隣にいたウィリアム様が私にそっとハンカチを渡してくれた。
私はそれを「…ありがとうございます」とお礼を言い、受け取った。



*****



演劇鑑賞後、特別席に私とレイラ様を残して、ウィリアム様とセオドアはここから離れた。
この劇場内に集まっている貴族たちに軽く挨拶回りをするらしい。
このような場でも交流をせねばならないとは、貴族も大変である。

特別席に座ったまま劇場内を何となく見渡すと、もう演劇は終わったというのにたくさんの人たちがその場に残り、和気あいあいと談笑していた。



「…」



ふとそういえばレイラ様と2人きりになるのは、これが初めてであることに私は気がつく。

レイラ様が帰ってきてもう1ヶ月になるが、常にセオドアやウィリアム様がレイラ様の側にいた為、レイラ様と私が2人きりになることは今の今までなかった。

ウィリアム様もセオドアもアルトワ夫妻もいないこの状況で、レイラ様と一体何を話せばいいのだろうか。
一度も訪れることのなかったこの状況に、私はいつまでも沈黙を貫くわけにはいかないと焦り始めた。

何か、何か話題を見つけなくては。
ここは無難に先ほど見た演劇の内容がいいだろうか。
それとも機会がなく、言えなかった帰還を喜ぶ言葉や労う言葉を伝えるべきか。

そんなことをぐるぐるぐるぐると考えながらも、一つ席を開け、右隣に座るレイラ様をこっそりと盗み見る。



「ねぇ、えっと、レイラ」



するとそのタイミングで何とレイラ様の方が、少しだけ慣れない様子で遠慮がちに私を呼んだ。



「ふふ、やっぱり自分の名前を自分で呼ぶのは慣れないものね」



それからレイラ様はどこかおかしそうにそう言って私に微笑んだ。

め、女神様だ…。

あまりにも可憐に微笑むレイラ様に、今まで考えていたいろいろなことが全て吹っ飛び、そう思う。

私なんかが女神様と呼ばれるべきではない。
ホンモノを前にすれば、ニセモノが如何にニセモノだったのかよくわかる。
レイラ様こそこの国一のご令嬢で、女神様なのだ。



「あのね、レイラ。今までなかなか2人きりになれなくて、きちんと言える機会がなかったから言えなかったのだけれど、ずっと私はアナタにお礼が言いたかったの。本当にありがとう」



まさに女神様のようなレイラ様に心を奪われていると、レイラ様はそんな私に、変装する為に変えている赤い瞳を細めて、お礼を言った。

まさか私なんかにお礼を言ってくださるとは。



「…わ、私はアナタにお礼を言われるようなことはしておりません。私はただ空席だったアナタの席につき、その恩恵を受けていただけで…」

「いいえ、違うわ」



レイラ様からのお礼があまりにも恐れ多すぎて、否定の言葉を並べる。
すると、そんな私の言葉をレイラ様が優しく遮った。



「私が行方不明になって、おかしくなってしまったお父様とお母様が、それでも今普通でいられるのは、アナタが私の代わりをきちんと務めてくれていたからだわ。
それにアナタはただ私の代わりとしてその恩恵を受けるだけではなく、努力をし、私としてこの国一の令嬢でいてくれた。アナタのおかげで私の評価は行方不明前と何も変わらないのよ」



いつの間にか隣の席まで移動していたレイラ様が私の手を両手で優しく包む。



「ウィルとセオもアナタがいたから寂しくなったのよ?」



それからそう言うと、レイラ様は慈悲深い笑みを私に向けた。

…それは違うと思います。

レイラ様があまりにも私を買い被りすぎており、思わず苦笑いを浮かべそうになるが、何とか真剣な表情を作る。
百歩譲って努力を評価してもらえたことは大変恐れ多くも有り難いし、頷けるのだが、ウィリアム様とセオドアが私がいたから寂しくなった、というのは大きな間違いだ。

レイラ様の代わりなどこの世のどこにも存在しておらず、そのいないはずの存在が無理やりそこにいたことが、彼らにとってどれほど不愉快だったことか。
その表れとしてどれだけの嫌味、嫌がらせを受けてきたことか。



「彼らはアナタにずっと会いたがっていました。少なくとも彼らにとって私はアナタの代わりではありませんでした」

「そうかしら。…でもそうね。確かにアナタの言う通り、アナタは彼らにとって、私の代わりではなかったのかもしれない。けれど、この6年で少なくともアナタとして彼らと新たな関係を築けているでしょう?私とはまた確実に違う関係を。それが私は羨ましいの」



ふふ、とどこか寂しげに微笑むレイラ様がゆっくりと私から両手を離す。



「私が失った6年の間にアナタたちは仲を深めたのね。アナタは確実に私とは別の意味で彼らに大切にされているのよ」



悲しげにこちらを見るレイラ様に私は胸が痛んだ。
知らぬ間にできてしまっていた私たちの関係にレイラ様はきっともどかしさを感じているのだろう。



「ウィリアム様もセオドアも、みんなアナタを求めています。アナタを愛しています。私はあくまでもアナタの代わりとしてここにいることを許されている存在です。もうすぐその幻は消えます。アナタの失ってしまった6年を埋めていた存在は消え、何もかも元通りになるのです」



だから何も心配する必要はない。レイラ様はレイラ様らしくいればそれでいいのだ。
そう思いながらもレイラ様をまっすぐ見れば、レイラ様はどこか不安げだったが、嬉しそうにその瞳を細めた。



「ありがとう。私の代わりがアナタで本当によかった。アナタが私の場所を守ってくれたおかげで、私は私の帰るべき場所に帰れるわ」