日々は嫌になる程あっという間に過ぎて、冬の大会当日になった。
朝8時半。家を出た俺の頬を、冬のヒリヒリするほど冷たい風が刺す。
足が重い。
考えなければいけないことも、やらなければいけないことも多過ぎて、その重荷に今にも潰れそうだ。
でも、もう逃げたくない。
せめてコタに顔向けできるようになりたい。
その意志が、俺を奮い立たせた。
大会の会場までバスで向かう。
夏に行った会場と同じ場所で、それは俺がバスケを辞めるきっかけになった場所でもあった。
“お前なんかいなかったらよかったのに”
“さすがにやりすぎだろ〜”
“お〜い、大丈夫かよ〜笑。早く立てって〜”
会場に近づくにつれ、頭の中で反響する声が大きくなっていく。
深呼吸を何度も繰り返して、目を閉じて耐える。
気を抜いたら倒れそうなくらいだが、こんなところで倒れるわけにはいかなかった。
バスを降りると、前に来た時となんら変わらない体育館が佇んでいた。
「……よし」
気合いを入れて顔を両手で挟み込んだその時。
「あれ、ナツくんじゃん」
「あ、ほんとだ。なつみん久しぶりー」
後ろからそう声をかけられて振り返ると、整った顔立ちが二つ、俺を見つめていた。
「蓮介先輩とフジ先輩」
コタの兄であり、バスケ部の部長だった京原蓮介先輩と、副部長だった藤野千隼先輩の二人だ。
「こたろーのこと、見に来たん?」
「……はい」
「じゃあナツくんも一緒に見よーよ。俺らもこたろーたちのこと見に来たからさ」
「え」
コタ兄の言葉に、隣のフジ先輩が困惑の声を上げる。
そういえばこの二人付き合ってたんだっけ。
もしかしてデートの一環だったりするんだろうか。
断ろうと口を開く。
「俺は……」
「心配なんだよねー、ナツくんのこと」
「まあ、確かに」
「え?」
フジ先輩はコタ兄の言葉に頷いた後、きょとんとする俺の顔を覗き込む。
「なつみん顔色悪すぎ。自分で気づいてないの?」
「あぁ……」
どうやら俺の冷や汗はバレているようだった。
言い訳をしようにも、何も思いつかない。
「それに、今日は特にね」
コタ兄は苦虫を噛み潰したような表情でそう付け足した。
その言葉の意図はわからないが、いいものではないことぐらいはわかる。
「まあ、見にいくって決めたんなら一緒に行こ」
「え、ちょ……」
断るタイミング、完全になくなったな。
俺の背中をフジ先輩がトンと叩き、コタ兄と一緒に歩き出す。
そのまま流されて、俺は二人の間に挟まれて会場に入った。
ーーーー
二階の観客席。コートを見下ろせる最前列。
階下では、アップを始めた別のコートの選手たちのバッシュが床を鳴らす音が響いている。
キュッ、キュッ、と鳴るたびに、心臓を直接掴まれているような不快感が込み上げた。
「ナツくん、ホントに平気?」
「あ……はい。大丈夫、だと思います」
「信用できね〜」
俺の右隣に座ったコタ兄はそう言って腕を頭の後ろで組む。
左隣のフジ先輩も、真剣な表情で口を開く。
「無理はしないほうがいいと思うけど」
「……なんでそんなに俺のこと心配するんですか」
俺が聞くと、二人は顔を見合わせた。
「俺ら、ナツくんの昔のこと知ってるし」
「あぁ……あの試合の相手、蓮介先輩たちだったって……」
「そ。ナツくんに肩貸したの、俺らだよ」
俺が元チームメイトに足を引っ掛けられて怪我をした時に、相手のチームの人が肩を貸してくれた。
それが、この二人だったらしい。
「俺らも胸糞悪かったの覚えてる。試合には勝ったけど、後味悪かったし」
フジ先輩が遠くを見つめながら呟いた。
そうだったのか。
あの時は頭が真っ白になって、そこまで気が回らなかった。
そんな俺の隣で、コタ兄が口を開く。
「あー、それでさナツくん。さっき俺が『今日は特に』って言った理由なんだけど」
コタ兄は頭の後ろで組んでいた腕を解き、コートを見つめたまま、いつもより少し低い声で言った。
「今日のこたろーたちの相手、ナツくんの中学のときのチームメイトが多い学校なんだけど……知ってた?」
「え」
ドクン、と心臓が嫌な音を立てる。
視界が急速に狭くなっていく感覚に襲われた。
「言わないでおこうかとも思ったんだけど、一応心づもりしておいたほうがいいかと思ってさ」
「そ……うですね」
「キツくなったらいつでも帰ればいいよ。それに……」
コタ兄は俺の肩をポンと叩くと、悪戯っぽく、でも確実に俺を安心させるように微笑んだ。
「こたろーがボコボコしてくれるよ。絶対」
「あいつ、びっくりするくらい上手くなったもんな」
フジ先輩が少し誇らしげに笑う。
その言葉に、俺は小さく頷くことしかできなかった。
階下を見下ろすと、ちょうど対戦相手のチームがコートに姿を現したところだった。
全身の血がサッと引いていく。
間違いない、あいつらだ。
あいつらはコートに入ると、お喋りをしながらヘラヘラと笑っていた。
そのうすら笑いは中学の時と何も変わっていなくて、胸の奥からドロリとした不快な記憶がせり上がってくる。
必死に膝の上の拳を握りしめていると、体育館の入り口側が騒がしくなった。
「あ、来たよ」
レン先輩の声に弾かれたように視線を移す。
青いユニフォームを身に纏った、うちの学校の選手たちがコートに入ってきた。
その先頭を歩いているのはコタだ。
コタは何かを探すように二階の観客席へと視線を移す。
俺と視線がぶつかると、コタの瞳が揺れた。
「……コタ」
声にはならなかった。
だけど、コタは俺の視線をしっかりと受け止めると、ふっと小さく、いつものように優しく微笑んだ。
一瞬で、それに釘付けになって、胸の奥が熱くなる。
大きく深呼吸をして、しっかりとその姿を目に焼き付けた。
ーーーー
ピーーッ
体育館に、試合開始を告げる高いホイッスルが鳴り響いた。
センターサークルに両チームのセンターが立つ。
コタと対峙したのは、この前ショッピングモールで会った、俺に一番執拗に嫌がらせをしていたやつだった。
コタはそいつを一瞥すると、審判の持つボールに目を移す。
トスアップされたボールを、コタが圧倒的な最高到達点で叩いた。
試合は、最初からうちの学校の完全なワンサイドゲームだった。
「こたろー、いつにも増してガチじゃん」
隣でコタ兄が引きつった声をあげる。
コートの上のコタは、容赦がなかった。
相手のシュートをゴール下でことごとく叩き落とし、リバウンドを力ずくで奪い取る。
相手が二人がかりで止めに来ても、それをものともせずゴール下に切り込んで激しいシュートを叩き込んだ。
ドゴォン!!とバックボードが激しく揺れる。
「おい、何やってんだよ! 止めろよ!」
階下から、元チームメイトたちの焦り狂う声が聞こえる。
ワンサイドゲームの中、敵チームで唯一、必死に食い下がっている選手がいた。
「あいつ上手いね」
「……ですね」
コタ兄の言葉に頷く。
背番号15番──小柄だが、鋭いドライブと巧みなパス回しを見せる、恐らく一年生のガードだった。
「チッ、使えねぇな! もっとこっちにパス回せよ!」
俺の元チームメイトが、その1年生のガードに激しい怒声を浴びせる。
一年は、あいつらから明らかに無視され、孤立していた。
彼がフリーで手を挙げてもあいつらは無視して無理なシュートを打ち、逆にミスが起きればすべてその一年のせいにされている。
その光景を見た瞬間、心臓がバクバクと嫌な音を立てた。
──既視感。
あの日、俺が味わったのと同じ、チーム内からの冷たい視線といじめの空気だ。
一年は、あいつらの理不尽な怒号に怯え、どんどん萎縮して動きが悪くなっていく。
「……あいつら、まだあんなことやってんのか」
隣のフジ先輩が、不快感を隠そうともせずに低く呟いた。
「あの一年、そこそこ上手いのに可哀想だな。あいつらが全部潰しちゃってんじゃん」
コタ兄の言葉通りだった。
あいつらは、自分たちより上手い後輩の才能が気に入らなくて、マウンティングして虐めているのだ。
中学の時に、俺にしたのと同じように。
第4クォーター、残り時間はあと1分。
点差はダブルスコア以上。勝敗はとうに決していた。
相手のパスカットをしたコタが、自らボールをキープしてフロントコートへ駆け上がる。
立ち塞がろうとする元チームメイトを、鋭いクロスオーバーで一瞬にして抜き去った。
完全なフリー。
ゴール下に走り込めば、確実に点が決まる場面。
なのに、コタはスリーポイントラインの手前で、ピタッと足を止めた。
センターのあいつが、普段なら絶対に打たない位置。
コタはボールを構え、ゆっくりと、2階の俺の方を見上げた。
まっすぐな、どこまでも真剣な瞳。
それを見ると、心の底からじんわりと熱いものが湧き上がってくる。
「いけ……!」
気づけば、祈るように声を出していた。
コタの綺麗なフォームから放たれたボールが、綺麗な放物線を描いて冬の体育館の空気を切り裂く。
ボールはリングに一切触れることなく、吸い込まれるようにネットを揺らした。
試合終了を告げる長いホイッスルが響き渡る。
「やった……」
バサッという心地よい音が、俺の胸の奥の重い扉をぶち破った気がした。
コート下では、勝ったうちのチームが歓声をあげている。
一方で、負けた敵チームのベンチは最悪の空気だ。
元チームメイトたちが、あの一年生のガードを睨みつけ、すれ違いざまにわざと激しく肩をぶつけていくのが見える。
一年は、肩をすくめて床を見つめたまま立ち尽くしていた。
あいつら、試合が終わった後、あの後輩に何をする気だ……?
嫌な予感が、胸の中で急激に膨れ上がっていく。
「蓮介先輩、フジ先輩、俺、ちょっと下行ってきます」
「え? ナツくん?」
「下ってどこ?」
驚く二人の声を背中に聞きながら、俺は座席から飛び出し、体育館の階段を駆け降りていた。
あの時、誰も助けてくれなかった俺と同じ目をしていた、あの一年をどうしても放っておけなかった。
ーーーー
階段を降りてコートの外に出る。
それほど遠くには行っていないだろう。
そんなことを考えながら歩いていると。
「お前のせいだろ」
「ほんと使えねー」
「つか、なんでお前なんかがスタメンで試合出てるわけ?」
あの時と同じ、心無い言葉が聞こえてくる。
ぎゅっと心臓が掴まれる感覚がして、苦しい。
まだ、俺は過去に囚われたままだ。
でも、前に進まないと。
俺はいつまで経ってもコタの隣に立てないから。
声が聞こえてきた通路に立ち、拳を握りしめて大きく息を吸う。
「おい、なにしてんだよ」
俺の声に、元チームメイトたちが振り向く。
それに釣られてこちらを見た一年生のガードは、目に涙を浮かべていた。
「あれ、羽田?今更なんだよ」
「逃げた負け犬が吠えてんじゃねぇよ」
「また足引っかけられたいかー?」
気味の悪い笑顔に、過去の記憶がよみがえる。
体の奥が震えてるせいか、息も上手く吸えなかった。
今までなら、ここで動けなくなって逃げていたかもしれない。
でも、だからこそ。
脳裏にコタの顔が浮かぶ。
思い出すのは、決まって俺のことを無邪気にまっすぐ見つめるその視線だった。
「悪かったな、もうあの時みたいに上手くはいかねーよ」
まっすぐ向かってくるコタみたいに、俺もあいつらをまっすぐに見据え、毅然と言い放った。
「お前らがやってんのは、ただの最低な八つ当たりだ。自分たちの実力が足りなくて負けたのを、後輩のせいにすんな。そんなにバスケが下手なのを認められたくないのか?」
「んだと、テメェ……!」
図星を突かれた元チームメイトの顔が、怒りで真っ赤に染まる。
俺に殴りかかろうと、大きく拳を振り上げた──その時だった。
「うわ、だっせ」
静かな通路に、拍子抜けするほど軽い、けれど芯の通った声が響いた。
振り上げられた元チームメイトの拳が、ピタリと空中で止まる。
声のした方に全員の視線が集まる。
通路の入り口に肩を並べて立っていたのは、コタ兄とフジ先輩だった。
コタ兄はポケットに手を突っ込んだまま、ゴミを見るような冷ややかな目で元チームメイトを見下ろしている。
「高校生にもなって、試合に負けた腹いせに後輩をリンチ? 中学のときから進歩ねえな。相変わらず頭悪ぃ奴ら」
「京原……! お前、部外者はすっこんでろ!」
「部外者? 俺、そこの可愛い後輩の先輩なんだけど。なぁ、フジ」
コタ兄が隣を小突くと、フジ先輩がふっと意地の悪い笑みを浮かべて、掲げたスマホの画面をあいつらに向けた。
「ばっちり撮れてる。胸ぐら掴んで脅してるところから、なつみんに殴りかかろうとした瞬間まで、全部高画質で」
「なっ……テメェ、消せよ!」
「消すわけないじゃん。これ、今からお前らの学校の職員室と顧問に直接送りつけてあげようか? 傷害未遂と恐喝、部活動停止だけじゃ済まないかもね」
フジ先輩の冷徹なトーンと『動画』という決定的な証拠に、あいつらの顔から一気に血の気が引いていくのが分かった。
元チームメイトの拳が、情けなくぶるぶると震え始める。
「や、やめろ……!」
「じゃあさっさとその汚い手を離して、二度と俺らの後輩の前にツラ見せるな」
コタ兄が一歩、足を踏み出す。
元部長としての威圧感と、さっきまでコートで大暴れしていたコタの兄という圧倒的な存在感に、あいつらは完全に気圧されていた。
元チームメイトの3人は、お互いに顔を見合わせると、蜘蛛の子を散らすように俺たちの脇をすり抜けて逃げ去っていった。
通路には、激しい足音だけが虚しく響き渡る。
あいつらが完全にいなくなったのを見届けてから、フジ先輩は「はい、録画終了」とスマホをタップした。
それを見ていたコタ兄は、「で」と空気を変える。
「ナツくん、無茶しすぎでしょ」
「俺らが来なかったらどうするつもりだったん」
ちょっと怒っている雰囲気のコタ兄とフジ先輩に詰め寄られる。
「いや……あんまり考えてませんでした」
「ちょ、怖いわ。ますますナツくんが心配」
「もっと自分を大事にしなよ」
俺にそう言ったフジ先輩は、スマホを操作して「送信完了」と呟く。
どうやらさっき撮った動画を相手の学校に送ったみたいだ。
抜かりないな、なんて思いながら口を開く。
「とにかく、ありがとうございました、二人とも」
「いいってことよ。それより、そっちの君、怪我ない?」
コタ兄が、壁際で呆然と立ち尽くしていた一年生のガードに声をかける。
一年はハッと我に返ると、何度も激しく頭を下げた。
「は、はい! 大丈夫です……! あの、助けていただき、本当にありがとうございました……!」
涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながらも、必死に感謝を伝えてくる彼を見て、胸の奥がじんわりと温かくなる。
あの時、味方が誰もいないんじゃないかって絶望した俺。
ずっとその場所に立ち止まって泣いていた俺。
だけど今、俺は自分の足で動いて、この一年を救うことができた。
「もう大丈夫だから、気をつけて帰れよ。お前、すごく良いプレイしてた。あいつらの言うことなんて気にすんな」
「……っ、はい! ありがとうございます!」
一年はもう一度俺たちに深く一礼すると、今度は前を向いて、足早に通路を去っていった。
その背中を見送りながら、俺はそっと自分の胸に手を当てる。
不思議と、もう冷や汗は止まっていた。
頭の中で響いていた呪いのような声も、完全に消え去っていた。
「さてと……じゃあ俺らは相手の顧問にさっきのこと報告してから、こたろーたちと合流して帰るけど、ナツくんはどうする? 一緒に……」
「あ、俺は、ここで帰ります」
「え? こたろーに会っていかないの?」
コタ兄が不思議そうに小首を傾げる。
会いたい。今すぐにでも会って抱きつきたい。
だけど、あの屋上で、コタは真剣に「付き合ってください」と俺に迫ってきたのだ。
あいつの覚悟に対して、俺もそれ相応の覚悟で返事をしなきゃいけない。
「……ちゃんと、準備ができたら、俺から会いに行きます。だから、今日はまだ」
俺が真っ直ぐにそう言うと、コタ兄とフジ先輩は一瞬目を見合わせ、それからすべてを察したように優しく微笑んだ。
「そっか。わかった、あいつには上手く言っとくよ」
「うん。気をつけてね、なつみん」
二人に背中を押されるようにして、俺は体育館の出口へと向かった。
一歩、一歩、踏み出す足が、朝家を出た時よりもずっと軽い。
体育館の外へ出ると、冬の夕暮れの冷たい風が頬を撫でた。



