わたしは今自分の部屋で、サブスクのドラマをぼーっと見ている。


 ちょっと好きな顔のイケメン俳優が出ていて気になっただけのドラマ。


 でも、なんだかんだ最後まで見てしまった。


 ラストの場面で、主人公のイケメン俳優のとなりに座る老人が口を開いてこう言った。


 「人の幸せってな、案外ちいさなものなんだよ」


 主人公は老人の横顔をうかがう。


 老人の夕日を見つめる眼差しは柔らかくてあたたかい。


「若い頃は、大きな成功や財産が幸せだと思っていた。けどな、長い時間を過ごすうちにわかったんだ…。あたたかいご飯が食べられること。帰る場所があること。となりに笑ってくれる人がいること。それがたしかな幸せなんだ」


 老人はそう言って小さく笑った。


 その笑みには誇張も虚勢もなく、ただ静かな実感だけが宿っている。


 そのあと、エンディングの曲が流れてそのドラマは終わった。






 わたしはふと考えた。


 幸せなんてものは、きっと人それぞれ。


 その人の年齢や立場によってちがうものだ。


 後輩保育士の小町ちゃんは、いつも推し活のライブに明け暮れている。


 先輩保育士の悠さんは子育ての合間に、いい歳したおじさんだというのに未だ趣味のスケボーで無茶をしている。


 園長先生は、休日に娘が孫を連れてくるのが楽しみだと言っていたし。


 みんなそれぞれの人生の楽しみ方があって。


 自分ひとりの時間を満喫したり、友達、恋人、家族などの大切な人と過ごしたりしている。


 きっと、それが幸せなのだ。


 わたしの幸せはというと、こうやって忙しい現実の仕事とは離れて、誰かに追われることもなくイケメンを鑑賞すること。


 人によってはくだらないと思うかもしれないけど、この時間があるから、わたしは普段の仕事をがんばることができるのだ!


 このリラックスタイムを邪魔することは何人たりとも許されない。


 それだというのに…。


 スマホに一件のラインが届き、画面を見てげんなりした。


 【久しぶり!今度飲み行かん?】


 蘇轍月。元カレからのラインだ。


 どうして今さら…。


 そう思いながら、既読をつけるのもめんどうでため息だけが部屋にこぼれ落ちた。


 月とは以前、桜舞公園でばったり会ってしまってから、こうやってたまに連絡を取り合う関係がつづいている。


 いやだったら返信しなければいいのに、律儀に返してしまう自分には反省だ。


 【却下。忙しいし話したいことない】


 とりあえず、そう返信してスマホを置いた。






 わたしの名前は椿朝陽。


 こでまり保育園で三歳児クラスの担任をしている保育士。


 「朝陽ちゃん、おはよ〜!」


 朝から職員室で保育準備をしていると、うしろから声をかけられた。


 振り返ると、薄いピンクのエプロン、ダークブラウンのロングな髪にシンプルな化粧。


 派手さはないけど、可愛いらしさが漂う彼女は稲見亜美ちゃん。


 亜美ちゃんは、わたしよりふたつ年上で若くして主婦をしながら保育士をしている。


 今年、同じクラス担任になったことがきっかけで、わたしたちはよく話をするようになった。


 そんな亜美ちゃんが、今日は少し元気のない顔をしているので心配で訊いてみる。


 「おはよ!もしかしてちょっと疲れてる?大丈夫?」


 すると亜美ちゃんは大きなため息をついてから愚痴をこぼす。


 「はぁ…。聞いてよ、朝陽ちゃん〜!旦那がさ〜。まじでムカつくの!昨日も残業してくとか言って、そのあと飲みに行って終電帰りだよ!終電乗り逃しちゃう日とかもあって、そういう日はタクシーで帰ってくるんだけどさ。本当お金がもったいない!待ってるこっちは眠たくてたまらないし!」


 亜美ちゃんは新婚ほやほやで、この前、職員やクラスの保護者たちとお祝い会をやったばかり。


 「え!?亜美ちゃん、旦那さんの帰りを起きて待ってるの?」


 「うん…。まぁ…。一応新婚だし…。浮気とかいやだし。あいつはまだ独身気分が抜けてなさすぎるんだよ…」


 亜美ちゃんは細かいところまで気遣いができてまめな性格だけど、ちょっと気にしいなところがある。


 わたしだったら旦那のことなんか気にせず、自分のペースで眠りにつき、帰ってきたことすら気がつかない。


 こういう夫婦関係の悩みを聞いてしまうと、心の中でずっと独身でいいやって思ってしまう。


 独身だったら、わたしのように自分だけの人生を優先させて、充実させる幸せが得られる。


 しかし亜美ちゃんのように悩みながらも、大切な人と人生を歩んでいく幸せは、結婚してないと得ることができない。


 どっちのほうが良いとか悪いじゃないけど、たった一度の人生に後悔なんてしたくはない。


 まぁ、こういう悩みも普段の仕事があまりにも忙しすぎてかき消されてしまう現代人なわけで。


 問題がありすぎていやになる…。


 でも今は目の前で元気ない亜美ちゃんが心配だ。


 「寝不足だとつらいから、さすがにそういう日は旦那さんのこと待ってなくていいと思う。亜美ちゃん休んで。倒れちゃうよ」と、なんとか自分にもできるアドバイスをしてみる。


 「ありがとう。さすがにそうする。もうやってられない。最近、旦那と顔を合わせるとケンカばっかだし…」


 次に亜美ちゃんはつづけてこう言った。


 「はぁ…、わたしも雫さんみたいに強くて、優しくて、すごい仕事がこなせる美人で完璧な女になりたかったよ」


 雫さんというのは、うちのクラスの近藤由花ちゃんのお母さん。


 年齢は二十代後半。シングルマザーをしながらテレビ局でアナウンサーとして、昼間のニュース番組に出て活躍をしている。


 いつも由花ちゃんへの接し方も優しいし。


 保育士たちや周りの父母たちにも気遣いができて、おまけに容姿端麗。


 まさに絵に描いたような、完璧な女性なのだ。


 しかもその雫さんが最近、保育園に年下イケメン彼氏を連れて由花ちゃんのお迎えに来た。


 彼氏は同じテレビ局で働く番組スタッフらしい。


 とってもお似合いのふたりだ。


 「いやいや。わたしだって雫さんみたいになりたいよ!」


 わたしがそう言うと、亜美ちゃんは少し微笑んだ。


 「たしかに。雫さんは誰にとっても憧れだよね〜。あんなふうにはなかなかなれないよね〜」


 「うんうん」


 そんな会話をしていたらいつの間にか勤務時間になったので、わたしと亜美ちゃんは保育室に向かった。






 子どもニ十名に担任保育士が二名の三歳児クラス。


 保育室には、子どもたちの着替えを入れるロッカー、その上には保育日誌。


 おままごとのキッチンやプラスチック製の食器と具材セット、ブロック、プラレール、お絵描きセット、折り紙、絵本棚なども置かれていて、壁際には机や椅子が並べられている。


 七時から九時までにかけて徐々に子どもたちが登園してきて、十時になったら主活動をするのがいつもの日課。


 もうすぐ十時になるというとき、ある事件が起きた。






 雫さんがいつもより遅く十時ギリギリに由花ちゃんを保育園に連れてきた。


 そのとき、いつもだったらすっとママのもとを離れて友達のところに行く由花ちゃんが、今日はママにくっついてべったり。


 「いやだ!ママとバイバイしたくない!行かないでママ!」


 「もぉ、由花!お願いっ!言うこと聞いて!ママはこれから仕事なの!」


 保育室に入った扉の前でいつまでも揉めているふたりを見て、わたしは男の子たちとプラレールの線路を作りながら、すぐに分析モードに入る。


 由花ちゃんの母子分離がいつもよりうまくいっていないのはなぜか…。


 いつもより長くママと過ごした朝の時間が楽しくて、本当にただバイバイをしたくないだけか。


 それとも、ママとケンカでもしてきて不安定になっているのか…。


 いつもより登園が遅かったから、あそびが出来上がってしまっている友達の中に入ることに、不安を感じている可能性もある。


 仮説を何個か立ててみるが、まだ情報が足らない。


 結局、雫さんがもう由花ちゃんに付き合っていられる様子ではなかったので、わたしが「今日はママとバイバイが悲しいんだね。朝陽先生が抱っこするよ。ごめんね」と言って、雫さんから由花ちゃんを抱っこであずかった。


 「今日は由花、朝から本当に聞き分けが悪くって。朝陽先生、ご迷惑をおかけします。いってきます」


 雫さんは頭を下げてから、保育室を足早に出ていった。


 しばらく、ひどい泣き方がつづく由花ちゃん。


 わたしは由花ちゃんの自然な気分転換を促すため、抱っこしたまま保育室を出て園内を散歩する。


 他のクラスの先生や父母、廊下でさまざまな人たちが通り過ぎる。


 「あらぁ〜。由花ちゃん!どうしちゃったの?」と、声をかけてくれたのは園長先生。


 「ママとバイバイしたくなかったんです」


 わたしは由花ちゃんの気持ちの代弁をする。


 「そっかそっか。朝陽先生にたくさん抱っこで甘えていいからね〜」


 園長先生は優しくそう言って、由花ちゃんの頭を撫でてくれた。


 次に悠さんが通りかかる。


 「お、由花ちゃん!今日も可愛いね!朝陽ちゃんに抱っこしてもらってるの?良かったら悠先生が抱っこしよっか?うちのクラス来る?」


 少し機嫌が直ってきた由花ちゃんだけど、わたしのエプロンに顔を埋めて首を横にふるふると振った。


 「つれないなぁ〜。そんな子はこちょこちょだ!」


 そう言って悠さんがくすぐると、「あははは!悠先生、やめてー!」と由花ちゃんの笑顔がこぼれる。


 こんなふうにいろんな人と会って、いろんな人の力を借りながら、徐々に気持ちを切り替えていった由花ちゃんを見て、そろそろ大丈夫だと判断し、由花ちゃんを保育室に連れて戻った。


 しかし、みんなと一緒に主活動であるプールを楽しんでいるときも、由花ちゃんをよく観察していると目をパチパチとさせてチックの症状を出していたり、指しゃぶりをずっとしていた。


 由花ちゃんには普段から、目をパチパチとさせたり指しゃぶりをする癖などない。


 チックや指しゃぶりは、子どもが緊張をしていたり不安なときにとる代表的な行動。


 腕のいい保育士は、こういう子どもが声に出さないサインも見逃さない。


 そして、またちがう時間に由花ちゃんの心が不安定であると、わたしに確信をさせる出来事があった。





 もうすぐ十五時。


 お昼寝の時間が終わると、次はおやつの時間が始まる。


 保育室でおやつの準備をしているわたしは、うしろから声をかけられた。


 「朝陽先生…。おしっこ出ちゃった…」


 振り返ると、ズボンを濡らした由花ちゃんが今にも泣き出しそうな顔をしてぽつんと立っていた。


 まだ三歳児。おもらしをしてしまってもおかしいことなどない。


 でも由花ちゃんはもともとトイレの自立が早くて、今までおねしょをするところなんて見たことがなかった。


 やはり少し心が不安定なのだろうか…。


 「大丈夫だよ!そういうこともあるある!朝陽先生なんて小学生になってもおもらししたことあるもん!」


 そう励ましてみても、今にも泣き出しそうな由花ちゃんは小さく震えている。


 いつも失敗などしないから、おもらししてしまったことがショックなのだろうか。


 いや、ちがう。


 この表情は悲しい気持ちというより…、なにかに怯えている。


 わたしにはそう見えた。


 次に由花ちゃんは震えながら小さく口を開く。


 「わたしも…。ママみたいに怒られるのかな…」


 「誰に?」


 そう訊ねると口を閉じてしまう由花ちゃん。


 わたしは由花ちゃんの背中をさする。


 「ねぇ、朝陽先生。今日、大河くんお迎えくる?」


 大河くんとは、雫さんの彼氏のこと。


 「日誌にはお迎えはママって書いてあったよ。もしかして大河くんが怒るの?」


 由花ちゃんは震えながらこう答えた。


 「うん。すごくこわく怒っていつもママを叩くの。ママ、昨日は泣いてた」


 「そっか。それはこわかったね…」


 わたしは涙をこぼして震える由花ちゃんを抱きしめた。


 今ここで、大丈夫だよとか、助けてあげるなど、下手なことをわたしが言うと、由花ちゃんが家で攻撃をされてしまう不利な行動をとってしまうかもしれない。


 刺激をするのは、今はまずい。


 わたしはぐっと下唇を噛んだ。


 まだ三歳児の由花ちゃんが、大人の気をひきたくてこのような嘘を言うわけがない。


 実際、これだけ怯えているのだ。


 おそらく、自分が見たそのままを口に出している。


 なんとかしなくては…。


 こういうとき保育士は、騒ぎ立てずしたたかに動く。


 「あ、由花ちゃんを抱きしめたら、朝陽先生もエプロンにおしっこついちゃった。一緒に着替えよっか!」


 「うん…」


 由花ちゃんの服を脱がせたとき、あざや怪我がないか全身を確認する。


 幸いどこか怪我をしているということはなく、とりあえずほっと一安心した。






 DV(ドメスティック・バイオレンス)、その名前を聞いたことがある人も多いはずだ。


 主に家族や恋人など、親密な関係な人への暴力行為。


 種類も身体的、精神的、性的、経済的暴力があるとされる。


 DV被害は深刻な心理的、身体的被害を与えるため、早期の介入や支援が重要。


 もしも自分が巻き込まれてしまったときは、信頼できる人に相談をしたり、専門機関に助けを求めることが大切だ。


 保育士として、今回の状況を見たとき。


 由花ちゃんへの精神的暴力。


 雫さんへは精神と身体的暴力が該当し、ふたりを守るための支援やときには保護が必要となってくる。
 

 わたしひとりで、なんとかできる問題ではない。


 同じ担任である亜美ちゃんにもあったことを全部話し、一緒に園長先生に相談することにした。


 園長室の扉を開けると、園長先生と悠さんでプール期間が終わってからの主活動について話をしていた。


 「すみません、園長先生。ちょっと相談があります」


 「どうしたの、朝陽ちゃん?」


 園長先生は、わたしと亜美ちゃんが深刻な顔をしていることに気づいて少し構える。


 「外そうか」と、悠さんが席から立ち上がった。


 「いえ、ちょっと悠さんにも相談したいです」


 「わかった」


 そして、園長先生と悠さんに一通り説明し終わったあと、亜美ちゃんが顔を真っ赤にして怒る。


 「自分より力の弱い女に手をあげるなんて許せない!DVするやつなんて治らないですよ!」


 DVの原因は、DVをする本人の虐待歴やトラウマ、感情のコントロール、嫉妬や支配欲、精神的に追い詰められていたり、アルコール依存症など、さまざまな要因が複合しているものだ。


 いちばんこういうことに怒りそうな悠さんは、珍しくなにか考え込み腕を組んで黙っている。


 園長先生は冷静にこう言った。


 「今の段階でこれは、由花ちゃんから聞けた情報でしかないし、DVの度合いも正確にはわからない。雫さんに由花ちゃんが保育園でこういうふうに不安定ですと伝えて、家庭でお困りではないですか?と事情を聞いて事実確認をしましょう。今後、由花ちゃんや雫さんに、気になる様子があったらメモをして記録するように。由花ちゃんに怪我があれば写真を撮って残しましょう。何回もつづくようなら児童相談所、緊急時には警察に通報をします」


 「わかりました」


 わたしと亜美ちゃんは返事をして、保育室に戻った。






 夕方。


 雫さんがお迎えに来たときに、わたしと亜美ちゃんは由花ちゃんがちょっと気になることを保育園で言っていて、不安定になっていますと伝えた。


 いつも笑顔の雫さんの表情が少し強張る。


 「ご家庭でお困りではないですか?」


 わたしがそう訊ねると、雫さんは作ったような困り顔をしながらこう答えた。


 「うーん。由花…。だぶんわたしと彼のケンカを見てたからびっくりしたんだと思います。お騒がせしてすみません。わたしなら大丈夫ですよ。わたしも怒って彼にやり返してるんですよ!ただのカップルのケンカです」


 「暴力に慣れちゃだめです!わたしは雫さんが心配です!雫さんだったら、もっといい人とだってお付き合いすることもできるはずです!」


 亜美ちゃんがそう言うと、一瞬雫さんが冷たい目をしたように見えた。


 「本当に大丈夫ですよ!先生たち心配しすぎです!ちょっと家庭のことに介入しすぎじゃないですか?わたしは彼からDVなんて受けてません!」


 雫さんは苦笑いをしながらそう言い切った。


 たしかに…。保育士が家庭のことに口出ししすぎることは良い判断とは言えない。


 それに雫さんを見ていると、彼からDVを受けるのがこわくて助けを求めることができないというわけではなさそうだ。


 じゃあ、いったいどういうことなのだろう…。


 本当にカップル同士の痴話喧嘩レベルの話なのか。


 子どももいない。結婚もしたこともない。


 彼氏と同棲すらしたことのないわたしには、ちょっと想像ができなかった。


 こういう過激なケンカもしてしまうものなのだろうか…。


 となりの亜美ちゃんは顔を曇らせ、雫さんの言ったことに納得していない様子。


 どこまでわたしたちが介入し、手を差し伸べなければならないのか。


 どこからが余計なお世話なのか。


 その判断が難しい。


 こんなとき、なんて声をかけたらいいかわたしの人生経験だけではわからない。


 雫さんは由花ちゃんを連れて帰って行った。






 数ヶ月、わたしたちは雫さんと由花ちゃんの様子を見守ることにした。


 雫さんと彼氏がケンカした次の日は、決まって保育園で心が揺れて不安定な姿を見せる由花ちゃん。


 それでも由花ちゃんが直接暴力を受けるということはなかった。


 彼なりのラインがあるらしく、そこも保育士たちはよく観察をした。


 だからオッケーというわけではなく、今の状態が由花ちゃんへの精神的なDVになっていないかという判断は正直グレーだ。


 雫さんの二の腕にあざを見つけたときは、すごく心配で声をかけたが、「保育士さんたちってこういうの神経質になりすぎじゃないですか?いつもの痴話喧嘩ですよ」と、毎回雫さんにはぐらかされてしまった。






 ある日の勤務上がり。


 桜舞駅の改札を降りたところでばったり月と会ってしまった。


 「おぉ!朝陽!偶然じゃん!」


 彼は金髪のセンターパートに色白の肌、オーバーサイズの服を着こなし、相変わらず芸能人のような整った顔でにこっと微笑む。


 わたしの働いているこでまり保育園と、月が働いているかえでのは保育園は反対方向なのだが、ふたりともこの桜舞駅が最寄りなので、たまにこうやってばったりと会ってしまうのだ。


 わたしがあきらかにいやな顔をしているというのに、「そういえば、この前誘った飲み行かん?駅の裏に気になる居酒屋があってさ〜」と言い出したので、「行かん!」と一蹴してやった。


 「悪い悪い。冗談だって。でも本当に良かったらご飯くらい行かん?」


 「…。ご飯なら行こっかな」


 わたしが少し考えてからそう答えると、彼は驚いて目を丸くした。


 「まじで!?めっちゃ嬉しいんだけど!!」


 「今日、お母さんいないから帰ってもご飯ないし…」


 そんな適当な言い訳をしたわたしを、月はすぐに見透かす。


 「なんかあったんだろ。仕事で」


 月は昔からなぜか勘が良くて、わたしに悩み事があるとすぐに気がつく能力を持っている。


 「まあね…」


 「朝陽は顔に出てるんだよ」


 「わたしってそんな顔に出すほうじゃないと思うけど」


 「俺にはわかるの!あんま無理するなよ」


 「べつに無理してるつもりないし…」


 正直、今保育で悩んでることに対して、月の意見も聞いてみたかった。


 でも、わたしは彼氏でもない男とふたりでは絶対にお酒を飲みに行かない。


 なんならカフェにも行きたくないし妥協点を探した結果、駅近くのファミレスに行くことになった。


 高校生のときお金がなくて、月と付き合ってた頃によく来たファミレス。


 昔はここで何時間も、ふたりでたわいのない話をしていられた。


 お店の内装はなにも変わってないけど、若干メニューがちがう。


 わたしが明太子パスタと小エビのサラダを頼むと、月が嬉しそうに微笑んでこう言った。


 「あの頃と頼むメニューがぜんぜん変わってない」


 「わたしたちの関係は、あの頃とは変わったけどね」


 いつまでも彼氏面するなよと牽制してやると、「相変わらず、きっつー」と言いながら苦笑いを浮かべて立ち上がる月。


 トイレにでも行ったのかと思ったら、ドリンクバーでわたしがいつも飲んでいたアイスティーを持ってきてくれた。


 「朝陽、アイスティーで良かったよね?」


 「うん。ありがと」


 月はもう片方の手に自分のぶんの野菜ジュースを持っていた。


 さっきマルゲリータピザとペペロンチーノを注文していたし、彼もあの頃と変わってない。


 さっそくわたしは悩んでいたことについて、守秘義務を守って個人名を伏せ彼に相談をした。


 「うーん。俺だったら子どものことを優先で考えるかな。実際今はママと彼氏のケンカを見てしまうことが、その子に対して精神的なDV気味になってしまっているわけだし。ママがあんまいい顔しなくても注意の声かけは必要だと思う。その子のためにも…。それに彼の暴力は許せるものじゃない…」


 月はいつでも子どものことを優先で考える思考の持ち主。


 ちょっと保育士には見えない見た目をしているけれど、子ども想いでいいやつなのだ。


 ちなみにわたしも、このことに関しては月と同意見。


 でも、そうやって今まで雫さんに声をかけつづけてきたけど、これで良かったのかがイマイチわからない。


 雫さんにはいやな顔をされただけで、彼女の心が離れていってしまうだけだったからだ。


 そのことについても月に相談をしながら、わたしはふいに正面奥のテーブルに目がいってしまう。


 なんと偶然にも雫さんと由花ちゃん、そして彼の三人でファミレスにご飯を食べに来ていたからだ。


 その光景は、わたしが想像していた家庭の姿より、ずっと普通で幸せそうに見えた。


 由花ちゃんはママではなく、彼のとなりに座っている。


 そして、もうすぐ誕生日だからだろうか。


 くまのぬいぐるみを彼からプレゼントしてもらって、由花ちゃんの花のような笑顔が咲いた。


 そんなふたりを正面の席から、にこにこ微笑んで見つめる雫さん。


 それに雫さんと彼がお揃いのネックレスを身につけていることにも、わたしは気がついた。


 この場面だけを切り取ると。


 とてもママだけのシングル家庭で、彼氏のDVが問題になっているふうには見えない。


 わたしたち保育士は、どうしても保育園で子どもの様子や聞いただけの話を、すべてと考え家庭状況を想像してしまう節がある。


 でも本当は保育士の見えないところでも、それぞれの家庭のかけがえない家族の営みがある。


 雫さんの家庭の営みは、はっきり言って歪だ。


 彼の暴力は許されるものじゃない。


 でも今は歪だが、本当の家族になろうとしている途中なのではないか。


 雫さんと彼のケンカも、その摩擦なのかもしれない。


 そう思ったとき、わたしはますますどうしたらいいかわからなくなってしまった。


 ここで保育園がへんに介入をしたり、それこそ児童相談所が出てくることになれば、家族としてはまだ未成熟なこの幸せな団欒はたちまちに壊され、修復不可能になってしまう。


 そんな気がしたからだ。


 もしかしたら雫さんもそう思っていて、わたしたちが心配して声をかけるといやな顔をしていたのかもしれない。






 次の日から、わたしは保育園で由花ちゃんに不安定な姿があっても、その事実は雫さんに伝えるけど、前のように深く家庭事情を詮索しないよう心がけた。


 悠さんが以前、言っていた言葉を思い出す。


 『ただ子どもをあずかるのではない。本当の意味で親と子どもを支えるってどういうことか。考えなければならない』


 たとえば、保育士が「最近、お子さんが保育園ですぐ気持ちが崩れて泣いてしまうんですけど、ちょっと不安定なのかな?ご家庭のほうではどうですか?困っていることとかありませんか?」と何気なく訊くこと。


 今日はお迎えの時間が遅かったけど、なにかありましたか?とか。


 最近忘れ物が多いですけど、大変ですか?など。


 その一言が、訊ねた親にとってプレッシャーになってしまわないかよく考えなければならない。


 声をかけるなら、タイミングも重要になる。


 あと、親だけではなく子どもも不安定であって。


 そこに対しても、どんな支援ができるかを考えなければならない。


 だからこそ保育園という場所は、親や子どもにとってプレッシャーになるのではなく。


 心から信頼し、安心できる居場所。


 いつでもそうであってほしいと、わたしは願う。


 たとえ微力だとしても、自分にもできることをやるしかない。


 わたしは由花ちゃんの心が不安定なときは、いつでも抱きしめて気持ちを受け止め。


 雫さんの顔色が悪いときは、そっとしておいてなにも言わず、話せそうなときはなるべく「今日もお疲れ様です」とか「大変なときは保育園を長めに利用してくださいね」など、彼女を労いなんとか味方になってあげられるように接しつづけた。


 すると、ある日。


 ほとんどの子どもたちが、もう帰ってしまった閉園時間前。


 廊下で、お迎えに来た雫さんとたまたますれ違った。


 「おかえりなさい」と会釈をするわたしに、「朝陽先生、ちょっといいですか?実は悩んでることがあって…」


 そう言って彼女のほうから、わたしに悩みを打ち明けてくれたのだ。


 その内容はやはり、手をあげる彼氏について困っているということだった。


 とうとう自分の内に秘めておけなくなるほど、彼女の中でこの問題が大きなものになってしまったのだ。


 「わたしが叩かれて痛いぶんはいいの。そりゃ良くはないけど…。わたしだって譲れなくて、怒って彼にいやなことたくさん言ってしまうから。でも心配なのは、そのケンカを見てる由花が心を痛めたり、こわがったりしていて、このままじゃだめだって…。ずっと本当は思ってて…」


 嗚咽しながら、そう教えてくれた彼女の震える背中を、わたしは何度もうなずきながらさすった。


 なにも言えない…。言葉が見つからない。


 雫さんと彼氏がこのままでいいわけがない。


 だけど、なんとかしようとすればすぐにでも壊れてしまいそうな、そんな家庭。


 「朝陽先生…。わたし、彼と別れようと思う…。でも…。もう、なにが正しいかなんてわからない。その選択をして幸せになれるとも、まったく思えない。もう、どうしたらいいかわからないの…」


 目の前で泣き崩れる雫さん。


 わたしはファミレスで見た。


 雫さんと由花ちゃんと彼氏さんの、三人の幸せな団欒を。


 DVばかりで全部がだめな彼氏じゃないのだ。


 彼がいつか成長して変わってくれるかもしれないと信じたい気持ち。


 シングルで子持ちの自分を好いて、本気で付き合ってくれている感謝。


 ケンカをしても、大好きでかけがえのない彼。


 でも、たったひとりの大切な娘である由花ちゃんのことも心配でたまらない。


 そんな雫さんの想いが伝わってきすぎて、わたしはうなずいて背中をさすってあげることしかできなかった。


 そこにたまたま残業して資料を作り終えた、亜美ちゃんと悠さんが通りかかる。


 ふたりは嗚咽する雫さんを見て、すぐに状況を察した。


 亜美ちゃんが気持ちを抑えきれず口を開く。


 「雫さん!わたし、雫さんに憧れてるんです!美人でアナウンサーなんてすごい仕事をしてて、みんなにも優しいし、子育てだってひとりでがんばってきた。そんな雫さんには、絶対にもっと相応しい人が現れると思うんです!」


 涙をこぼしうつむいて首を横に振る雫さんは、「きっと、亜美先生にはわからないと思う…」と小さく呟いた。


 その言葉は、新婚で幸せな亜美ちゃんには、自分の気持ちはわからないということだろうか…。


 でも、わたしは亜美ちゃんが旦那さんに不満を抱いてることを知っている。


 決して新婚だから全部が幸せというわけじゃないけど、そんな悩みすら雫さんにとっては幸せに思えるのかもしれない。


 雫さんを支えたいのに今、なにも言葉が出てこない自分が悔しい。


 そのとき。


 悠さんの口が静かに開いた。


 「雫さん…。悩み事を相談してくれてありがとうございます。一度、由花ちゃんが心配だから、ケンカはいいけど手をあげるのだけはやめてほしいと、彼に腹を割って話すしかないと思います。まずは、それで彼が変わるか様子を見てみるのはいかがでしょうか」


 その言葉を聞いた雫さんが、少し落ち着いたのが背中をさすっているわたしにはわかった。


 いつも鈍感だし普段は頼りにならないのに、こういうときすっと言葉が出てくる悠さんは不思議な人だ。


 悠さんは、雫さんをまっすぐ見てあたたかい口調でつづける。


 「彼と別れる選択をしても。別れないという選択をしても。なにが幸せな選択かなんて決まっていません」


 「それでも保育士たちはみんな、あなたと由花ちゃんの幸せを願って、どんな選択をしても応援しつづけます」


 「力になれることや、助けてほしいことがあれば、今みたいに話しやすい先生に相談してください」

 
 「なにがあっても保育士たちがついてます。いつでもそばで必ず支えます」


 そして悠さんは、最後にこう付け足した。


 「でもラインを超えた危険な暴力があると判断した場合、こちらから児童相談所に連絡して助けるように動かせてもらいます」


 雫さんは涙をこぼしながら小さくうなずいた。






 勤務から上がって保育園を出たあと、方向が一緒なので悠さんとふたりで歩く帰り道。


 「雫さん、ちゃんと彼と話せるといいな。言葉にしないと伝わらないことってたくさんある。でも、言葉にしなくてもいいこともたくさんあるし。難しいよな…。俺はいらんことばっか言うから、よく晴に怒られたなぁ…」


 悠さんは懐かしむように夜空を見上げた。


 晴さんというのは、悠さんの奥さんのこと。


 悠さんは若くして、晴さんと死別してしまいシングルファザーをしている。


 きっと、ひとりきりで子育てをする孤独やつらさ。


 愛する人がそばにいることの大切さを、悠さんは誰よりも知っている。


 さっきは、そんな悠さんだからこそ、雫さんの前で出てきた言葉だったのだろう。


 「悠さん、ありがとうございます。わたし、雫さんの気持ちを考えれば考えるほど言葉が出てきませんでした」


 そうお礼をすると、悠さんはけろっとした顔でこう言った。


 「言葉なんてなくていいじゃん」


 首を傾げるわたしに、彼はあたたかい口調で呟く。


 「そばにいるよって。あなたの味方だよって。伝わればそれでいい。それをどう伝えるか。そういう仕事をしてるんだよ、俺たちは。きっと雫さんは、朝陽ちゃんに心を許して今日相談をしてくれたんだと思う。それは普段から朝陽ちゃんが、がんばってきた成果なんだよ。朝陽ちゃんは自分にできる最善を尽くしてる」


 「悠さんって、つくづく保育士ですよね。そういう言い方とか」


 「当たり前よ、こちとらプロよプロ!しかも、ダンディーなイケおじっしょ!」


 「本当のダンディーなイケおじは自分でそうやって言わないから!それにプロなら、資料作りも亜美ちゃんに手伝ってもらってないで、ちゃんと自分でやり方覚えましょうね!」


 悠さんはパソコン作業がものすごく苦手で、みんなで教えているけどなかなか覚えれないのだ。


 「あのさー。いちいち全部カウンターみたいに返さないでよー」と、しょんぼりする悠さん。


 本当にこの人は頼りになるんだかならないんだか。


 そんな彼が面白くて、わたしは吹き出してしまう。






 二年後。


 雫さんと由花ちゃんは無事にこでまり保育園を卒園していった。


 ちゃんと彼に別れる覚悟を持って相談をした、あの日以来、DVの話は聞かなくなった。


 そして由花ちゃんの卒園を機に、雫さんは自分の故郷である長野県にアナウンサーをやめて帰る決意をした。


 職員室で、雫さんから保育園に送られてきた手紙の写真を見て、保育士たちはみんなにっこりと笑顔になる。


 そこには結婚して雫さんの実家が営むりんご農園で働く彼と、満面の笑みの由花ちゃん、第二子の赤ちゃんを抱いて微笑む幸せそうな雫さんが映っていたからだ。


 そのとき、職員室の扉がばっと開く。


 困った顔をした小町ちゃんが入ってきて言った。


 「朝陽先輩〜。四歳児の瑠衣ちゃんが不安定な件なんですけど、早急に…」


 「わかった。あそこの家庭は、ちょっと今は大変そうだからタイミングを見て、わたしから個人懇談の打診をしとく」


 今日も忙しくなりそうだ…。


 となりでは。


 「犬塚くん!実践資料まだ提出できないの?もう期限過ぎてるんだけど!」と、怒る園長先生。


 「いやいや、俺もやる気はあるんですけど、パソコンのやつがいうこと聞かないんですよ!パソコンって人間とちがって対話ができないんですよ、高性能なくせに!俺は対話が得意なんです!」


 「パソコンとは対話しなくていいから!いい加減、使い方を覚えて!」


 園長先生でさえ毎日、悠さんには手を焼いている。


 保育園は、今日も目が回るように忙しい。


 そして、困って悩んでいる親がいる。


 不安定な姿を見せる子どもがいる。


 ここはいつでも、そういう場所なのだ。


 幸せというもののカタチは、きっと人それぞれちがう。


 その人の抱えているつらさは、その人じゃないから全部をわかってあげられるわけじゃない。


 でも、なるべくわかってあげたいし。なんとかして支えたい。


 保育園に通う親や子どもたち、みんなの幸せを願っている。


 それがわたしたち保育士の仕事だ。


 そのためにたくさん悩んで、試行錯誤して、ときに疲れ果てて削れながらでも。


 みんなの幸せを願い、今日も現場に立ちつづける。


 あなたを笑顔にするために。


 そんな保育士たちが、世の中にはたくさんいる。