楽市円は燃え盛る喫茶店で呆然と立ち尽くしていた
手に持つ花束は香りをなくし、漂うのは死肉の香り
円は混乱していた
街中で偶然、父の愛弟子の指揮者と出会い、レストランで話し込んでいた
音楽のことになると昔からそうだ
周りのことを気にせず、何時間も費やしてしまう
彼女との待ち合わせ時間は3時間前
もうとっくにアパートに帰っているはずだ
円の視界に見慣れた靴が入る
去年のクリスマスに一緒に選んだ靴だ
円は雄叫びを上げて靴に近付く
しかし、警察官に阻まれて近付くことができない

「返せ!返せ!返せ!」

円は喉が潰れるまで叫んだ
自分の大切な人を奪った奴を許さない
たとえ、地獄に落ちても殺すと



事件の犯人がよく知った親友だと分かったのは翌日のことだ
白昼堂々起きたテロ事件は世間を大きく賑わらせた
首謀者の友人は死亡
友人の家族は自責の念に耐えきれず、首吊り自殺
日本でもこのニュースは報道されたらしい
皮肉にも花束を持つ円の写真が使われたのだ
円のスマホには彼を心配する声で溢れ返っていた
1ヶ月後、ろくに食事も摂らず、痩せ細った円はフランスを忘れるために日本へ帰国した
空港内を移動していると亡き彼女の母親に声を掛けられた

「やっと探しましたよ」

母親は1枚の紙を指し出した
円はそれに目を通すと手が震え目が涙で霞んだ
内容は彼女の妊娠を証明する医師の書類だ

「娘はあなたを音楽と生きるべき人だと言ってました
結婚せず一人で育てるつもりだったそうです
私は反対しませんでした
ですがあなたにはちゃんと伝えるよう言いました」
「ありがとうございます」

彼女の母親は円にハンカチを差し出した
円はそれを受け取ると涙を拭った

「またあなたの音楽が聴ける日を楽しみにしています」

彼女の母親は去って行った

「おじさん泣いているの」

少年は円に声を掛ける
円は少年に見覚えがあった
たった一人、喫茶店から生還したのだ

「おじさん新聞記事の人」
「あぁそうだよ」
「日本に行くの」
「東京に帰るんだ」
「僕は福岡」
「気を付けるんだよ」
「おじさんもね」
「ジャック」

遠くから女性が駆け寄って来る
首の赤いチョーカーが目立つ

「勝手にどっかに行ったらだめです」

少年はしょんぼりとした顔をする

「ごめんなさい」

女性は円の顔を見る

「あなたはあの喫茶店の」
「そうです。奇縁ですね」
「とても不幸なことね」
「全くです」
「あの日のことは忘れた方がいいわ」
「どうして」
「知ることは責任が伴う
あなたには背負いきれない大きな責任がね」
「なにか知っているんですか」
「なにもかも」
「なら教えて下さい」
「南火花(ミナミヒバナ)」
「えっ」
「またどこかで会う機会があったらゆっくり話しましょう
あなたが責任を負う覚悟ができたらね」

少年と女性は手を繋いで搭乗ゲートへ向かった
あれからもうすぐ20年経つ
円は年度末に配られた次年度の入学予定者のリストを見て驚いた
南火花--
忘れもしない名前だ
だが、記憶している顔とは違う
一度、彼女の家へ行くべきだろうか
地獄に落ちる決心をしても、まだ心は震えている
南火花は、一体、何者だ