9月のライブに向けて準備が進む中、8月に突入してもブルー・トレインは練習さえままならなかった
新体制となって早2カ月が経とうとするが、何とも言えぬ空気が漂う
蓮児は意外にも従順で、ブルー・トレインのバンドメンバーとも早くに打ち解けた
問題なのが奏であった
まだ俊の復帰を諦めたくはなく、何度か自宅を訪れたのだが不在で話すことはなかった
夏休み明けになれば嫌でも学校で顔を合わせる
俊は大事なことを忘れる癖がある
もしかしたら合流する話も忘れているかもしれない
そうではなくてもまた3人で活動しようと頼めば、俊の優しい性格なら聞いてくれるに違いない
奏はポジティブに黒紅梅の復活を願い、密かに曲を作っていた
本格的に音源を制作し、年明けからレーベルやライブハウスなどにCDを送るつもりだ
ブルー・トレインの事なんて知らない
奏はこれからの活動に期待を膨らませ浮足立っていた
それはある日の練習であった
夏にしては梅雨のようで。午前中が曇り空で午後は土砂降りの雨になる天気を3日も繰り返していた
蓮児は三者面談で遅れてやって来る
奏はじめっとした空気に苛立ちを隠せず、右足を小刻みに揺らしスマホを見つめている
双馬の愚痴が聞こえてきた
「さっきグラウンド見たけどやっぱり健後も俊もサッカー部に入部してた
球技大会でド派手に転んで怪我したからまだ本調子じゃないけど
これからは軽音楽部じゃなくてサッカー部の活動に専念するんだろうな
辞めてはいないけどバンド活動はしないって
そういう中途半端なのがムカつくぜ」
奏は奥歯を嚙み締めて拳をぎゅっと握る
初耳の話だ
「結局は口先だけだったわけよ
俺達の事親友だとかなんだとか聞き心地の良い単語ばっか並べて
飽きたら見限っておしまい」
双馬の隣に座る児玉星(コダマホシ)は構わず練習を続けていた
まるでトランペットの音が相槌のように聴こえる
奏は勢いよく立ち上がると話に割って入る
「あのさ今の話本当なの」
「おいおい副部長だろ」
双馬は呆れた顔をする
奏は双馬の胸倉を掴む
「本当なのか聞いてんだよ」
「本当だよ」
奏は手を離し、双馬は床に尻もちをつく
「まじかよ
肝心要の副部長が何も知らないんだぜ」
双馬は立ちあがりズボンの埃を払う
「そもそもお前のせいでこうなったんじゃないか」
「はぁなんで私が」
「俊と付き合ってたんだろ
痴情のもつれ?」
「付き合ってない」
「キスもしたのに」
「キスはしてない」
双馬は額に手を置き呆れた顔で奏を見る
「あちゃーとんだ妄想癖の持ち主だったか俊は」
「俊を馬鹿にしないで」
「副部長ならしっかりしてくれよ」
「なんであんた達のバンドの事を」
「あんた達って今は俺達だろう」
「一度もバンドメンバーだと認めたことはない」
「認めるも何もないだろう
そういう方針だ」
「方針上等
私は私の仲間とバンドをやる」
「ああそうか
ならそうしてくれ
二度と顔を見せるな」
「言いたい事言いやがって」
奏は固めた拳を双馬の頬に当てる
双馬は思いがけない一撃をまともに食らい後ろに吹っ飛ぶ
星は飛んできた双馬を避け切れず、トランペットを抱えたまま後ろへ倒れる
ガキリと骨の折れる音がする
奏は間髪入れず双馬の腹を蹴る。星は腹に当たるトランペットの重みに耐えかねて悲痛な叫びを上げる
「この糞がっ!、この糞がっ!、この糞がっ!」
そこで蓮児が現れる
「おはようっす
遅れまし・・・ちょっ!奏なにしとる」
蓮児は奏を羽交い絞めにする
「落ち着けって
なにがあったかしらねーけど流石にまずいって」
蓮児の後ろには五十嵐リッサ(イガラシリッサ)が立っており、やれやれとした顔で見る
奏はじたばたしながら言う
「俊が、俊が、バンド辞めてサッカー部に入部したの」
「ああそうだ
2つのバンドを合流させたのも俊と健後の提案だからなっ」
「知っていたの」
「多分知らないのはお前だけだ」
奏は脱力する
蓮児はただ事実を述べていただけだ
しかし、奏にとっては拒絶されたと感じたのだ
◇
騒動を聞き駆け付けた教員は容赦なく通報した
一部の教員から奏は腫れ物扱いされている
その日に限って、楽市円先生は学校にいなかった
1時間後、パトカーは到着する
警察官は教職員から軽く話を聞くと、奏をパトカーへ押し込んだ
最後の最後まで奏は同じ1年生部員に中指を立てた
「ふざけんなよバーカ」
警察署に到着すると取調室ではなく少年課にある小部屋に通された
奏は箱に身分証や電子機器、刃物を入れ、机の上に置く
警察官からは入念なボディチェックの後、鞄の中を調べられ、スポーツタオルが箱の中に加わった
しばらく数分放置され、バインダーを持った男性警官が奏の前に座った
高卒警察官なのだろうか。大学生のような若さのある見た目だ
「まずは名前と学校名を」
「諫早奏、上野ヶ丘音楽高等学校1年です」
「なにがあったの」
「練習中に悪口を言われ殴りました」
「誰と誰に」
奏は順を追って説明をする
警察官は険しい顔つきになり、机にペンを置く
「あの場にいた人達の話とは違うね」
「えっ」
「君が殴った事実は一致する
だけどね経緯がどうも違うようだね」
「双馬の話を聞いてついかっとなって」
「君は部屋に入るとすぐに殴った」
「それはないです
最初から部屋にいました
あいつらが勝手にそう言ってるだけで」
「おじさん達はなにも道徳的な行いをしろと言っているんじゃない
君が間違いに気が付いてくれるだけでいいんだ」
「私は絶対に嘘は言ってないです」
「上級生の子が話をまとめてくれたんだけどね」
「えっ」
この時、奏の頭の中に悪い考えが駆け巡る
もしかしたら、最初から仕組まれたのではないだろうか
自分が退部するように、いや、退学するように
鶴美先輩からも疎まれていたのかもしれない
だから、身の丈に合わない副部長を任せたのではないだろうか
奏はただただ警察官の話に頷くことしかできなかった
◇
鶴美は伝令に来た教師から事情を聞き、一目散に1年生の練習場所へと向かった
幸いにして、近くで事故が起きたため、パトカーの到着は遅れているようだ
奏は教師に囲まれて近付きそうにない
鶴美は順に生徒から詳しい話を聞いていく
一年生同士にもどうやら隔たりがあるそうだ。最初こそ反発するがそろそろ打ち解けている頃かと思っていたが
目先を見誤ったことを認めざるを得ない
僅かな時間で鶴美が考え出したのは
「全てを奏がやったことにする」
であった
もちろん奏には申し訳ないが、自分と彼女の関係であれば問題はないはずだ
パトカーがやって来ると、奏は中指を立て最後まで反抗的な態度で車に乗った
走り去っていく車を鶴美は見送った
出張を飛び出して来た円先生は鶴美を見つけ声を掛ける
「割れた器は元には戻らないわよ」
「覚悟の上です」
円先生の口調は厳しく、鶴美はつばを飲み込む
「でも日本には金継ぎという技術がある」
「えっ」
「それはそれでとても美しいの
なにも壊れたから終わりじゃないの
その先がある」
「はい」
円先生は他に用があるからとその場を去った
鶴美はてっきり叱られると思っていたので、首をさすり不思議そうに先生の背中を見送った
◇
奏は警察官から励ましの言葉を受け解放された
立派な大人としての務めを果たしたつもりだろうが、真実を嘘とねじ込まれては腹立たしい
両親が警察官に平謝りをするのを見て複雑な心境になる
家に帰る道中も、家に帰った後も、両親は特に叱ることはなかった
まるでいつものように淡々と過ごしていた
翌日の昼、担任教師が停学処分の紙を持って来た
夏休み期間に加え、始業式から3か月間登校禁止となった
加えて夕方から臨時の軽音楽部の保護者会が開かれることになり、これを機に謝るのはどうか提案してきたが、奏はそれを断った
担任は先に帰り、両親は支度を整え、時間に合わせて家を出た
一人家で留守番をする中、スマホで軽音楽部のグループラインを見る
「あの後どうなりましたか」
奏は送信ボタンに手を置くがすぐに消す
そして、
「ごめんなさい」
と、打って送信した
既読が増えるのに耐えきれず、グループを抜けてしまう
数分後、部活の予定が分からないのは面倒だなと思い、どうせ辞めるからと納得した
床に置きっぱなしになったギグバック
奏はギターを取り出し振り下ろそうとする
涙が床に飛び散る
奏はギターをギタースタンドに置くとベッドに飛び込み、布団に包まりむせび泣いた
◇
奏は両親が帰宅するとその後の話を聞いた
特に保護者からはクレームはなく、むしろ同情されたらしい
警察に通報とは事を大袈裟にし過ぎで、教師の職務怠慢だと
部員もどうと思っていないそうで、また停学が明けたら部活をやろうとも伝えられた
奏はほっと胸を撫で下ろした。きっとその日は来ないだろう。俊のいないバンド活動は意味がない
恨みも妬みもないのならこのまま静かに姿を消すだけだ
母親はそっと退部届の紙を机に置き、辞める気なら停学解除の日に提出することと言った
奏はその日のうちに名前を書き、鞄の中に仕舞った
◇
鶴美は保護者会を終えて、一人レクリエーション室でぐったりとする
グループラインで奏が送った言葉が気になる
真意を確かめようとも、どうも指が動かない
悶々と悩む中、教室の扉が開いた
「明魅」
「保護者会おつー」
「練習悪かったな」
「いいよ
そっちが優先でしょ」
豊洲明魅(トヨスアケミ)は鶴美の前に座る
「事務所の人が言ってた
来年のメジャーデビューに合わせてアルバムを作ろうって」
鶴美は指を折る
「8曲だっけ…今あるの」
明魅は頷く
「11曲以上は欲しいって」
「今は何も考えたくない」
「現実逃避は駄目だよ」
アキノヨナガは大手レコード会社傘下のインディーズレーベルと契約している
1年間の活動の後、メジャー・デビューとなっている
筋書きはとっくのとうに出来上がっているが、それを裏付けるのは彼女達の活動次第
鶴美は白紙にされないか気が気でならなかった
「そうだ夏休みの課題やってる」
「もちろん」
「倫理国語の課題
オーケストラのコンサートを観て論じるやつ
今日やっつけちゃえと思って」
「どこで」
「隣の音大のホール
地元のオーケストラが来ている
セルゲイ・プロコフィエフの「ロミオとジュリエット」」
「CMで聴いたことがある」
「夏海が急に行けなくなってよかったら一緒にどう」
「わかった」
鶴美と明魅は教室を出る
開演まで30分
駆け足でホールへ向かった
◇
奏と鶴美はラーメンを食べ終え、厚意で出されたコーヒーを飲む
よくある粉末のインスタントコーヒーで量産的な味がする
「どうして私が副部長に選ばれたんですか」
「教えない」
毎回、この話になると鶴美ははぐらかす
「今日こそ逃しませんよ」
鶴美は奏の放つ圧に凄みを感じて頷く
「わかったよ」
◇
去年の5月下旬
レクリエーション室に集められた2・3年生は6月のライブに出演する1年生を決める
緊張感を持たせるためにも、円先生は2・3年生の出演者を発表していない
部長は採決を取る
「それでは1年生の出演者を決めます」
結果は、8割の部員が挙げた黒紅梅となった
ここからが本番だ
「では、1年生の出演者は黒紅梅となります」
ここで拍手が起こる
「続いて副部長の指名を行います
ふさわしい人に挙手をお願いします」
2・3年生の部員18人のうち、
諫早奏 1票
斎藤蓮児 2票
天草俊 15票
「では、天草俊で決定でよろしいですか」
「異議あり」
鶴美は手を挙げる
「なんですか鶴美副部長」
「私が手を挙げたのは諫早奏です」
「それは分かっています」
「奏です」
3年生の女子部員はおかしそうに笑う
「鶴ちゃんが逆張りなんて珍しいね」
「先輩」
「訳を聞かせて欲しいのさ」
鶴美は即答する
「私は奏のことが好きです
ただそれだけのことです」
「どうぞお幸せにパチパチパチー
それでなにも副部長にする必要はないよね
私達は理由があって選んだわけだし」
「それは・・・」
部長が咳払いをし、助け舟を出す
「確かに票の分かれ方を見るとやはり素行の良い生徒を選ぶ気持ちは分かります
ただ奏さんの校則違反項目は衣服の乱れ、校内でのアクセサリーの着用、染髪
飲酒や喫煙の噂もありましたが、現時点では裏付ける証拠はございません」
部長は鶴美に目配せをする
鶴美は頷く
「要するに皆さんが勝手に怖がっているだけで実際は単なるヤサグレです」
鶴美は言ってしまってそうじゃないと後悔する。ここで笑いが起きてくれればと思うが、部員達は真剣に話を聞いている。恥ずかしさが胃から溢れそうだ
部長は落胆の目を鶴美に向け、話を続ける
「黒紅梅の楽曲は諫早さんが作られています
まだ粗削りですが間違いなく売れます
黒紅梅が看板を背負うなら彼等のリーダーがやるべきだと思いませんか」
「なるほどね
臭いものには蓋をしないと
おっと女の子にこの言い方は失礼だったね
オフレコで頼むよ」
書記担当の部員はノートに書き込む。一言一句逃さず
「書き込むな」
円先生はここで話に入る
「つまり、要点は、
①世間体をよくするために天草君にするか
②これから部の看板を背負うバンドのリーダー・諫早さんにするか
③同じ不良なら斎藤君がいいか
ってことかしら」
「そうです
では、皆さん、最後にもう一度採決をしてもよろしいですか」
部員は頷く
「わかりました
挙手でお願いします」
「大事な事なんだし紙に書こうぜ
記名式で」
「楽市先生はどうですか」
「いいんじゃない
でも誰が投票しても喧嘩はしない事」
「皆さん賛成なら挙手をお願いします」
部員は挙手をする
部長は急いで紙を用意する
準備を終えると、
「この紙にふさわしいと思う人の名前を書いて下さい
そして、書いたら楽市先生に」
投票が始まる
黒板に紙が次々と貼られていく
数分後、部長は集計結果を読み上げる
「斎藤0票
天草6票
諫早12票」
部長は一呼吸を置く
「副部長は諫早奏でよろしいでしょうか」
部員は静かに拍手をする
◇
「まぁだいたいこんな感じだ」
奏はいきり立つ
「臭いって私そんなに臭いんですか
歩くシュールストレミングなんですか」
鶴美は冷静になだめる
「喩えだよ」
奏の表情が柔らかくなる
「でもよかったです
皆に嫌われているんじゃなくて」
「昔はシャーシャーしてたからな」
「うにゃ
部長だとしても怒りますよ」
「扱い方すら分かれば簡単だからな」
「否定したいけど否定できない」
鶴美は立ち上がりギグバッグを背負う
「じゃっそろそろ出ようぜ」
「部長」
「なんだ」
奏は少し照れ臭そうにする
「熱心に推薦してもらったのに私としたことが」
「いい迷惑だった」
「ちょっとそれ言います
思っていても言わないですよね」
「申し訳ないと思ったら
音楽で返せ。バンドマンだろ」
「はい!!」
二人は外へ出る
今日は夜であっても外は明るい
新体制となって早2カ月が経とうとするが、何とも言えぬ空気が漂う
蓮児は意外にも従順で、ブルー・トレインのバンドメンバーとも早くに打ち解けた
問題なのが奏であった
まだ俊の復帰を諦めたくはなく、何度か自宅を訪れたのだが不在で話すことはなかった
夏休み明けになれば嫌でも学校で顔を合わせる
俊は大事なことを忘れる癖がある
もしかしたら合流する話も忘れているかもしれない
そうではなくてもまた3人で活動しようと頼めば、俊の優しい性格なら聞いてくれるに違いない
奏はポジティブに黒紅梅の復活を願い、密かに曲を作っていた
本格的に音源を制作し、年明けからレーベルやライブハウスなどにCDを送るつもりだ
ブルー・トレインの事なんて知らない
奏はこれからの活動に期待を膨らませ浮足立っていた
それはある日の練習であった
夏にしては梅雨のようで。午前中が曇り空で午後は土砂降りの雨になる天気を3日も繰り返していた
蓮児は三者面談で遅れてやって来る
奏はじめっとした空気に苛立ちを隠せず、右足を小刻みに揺らしスマホを見つめている
双馬の愚痴が聞こえてきた
「さっきグラウンド見たけどやっぱり健後も俊もサッカー部に入部してた
球技大会でド派手に転んで怪我したからまだ本調子じゃないけど
これからは軽音楽部じゃなくてサッカー部の活動に専念するんだろうな
辞めてはいないけどバンド活動はしないって
そういう中途半端なのがムカつくぜ」
奏は奥歯を嚙み締めて拳をぎゅっと握る
初耳の話だ
「結局は口先だけだったわけよ
俺達の事親友だとかなんだとか聞き心地の良い単語ばっか並べて
飽きたら見限っておしまい」
双馬の隣に座る児玉星(コダマホシ)は構わず練習を続けていた
まるでトランペットの音が相槌のように聴こえる
奏は勢いよく立ち上がると話に割って入る
「あのさ今の話本当なの」
「おいおい副部長だろ」
双馬は呆れた顔をする
奏は双馬の胸倉を掴む
「本当なのか聞いてんだよ」
「本当だよ」
奏は手を離し、双馬は床に尻もちをつく
「まじかよ
肝心要の副部長が何も知らないんだぜ」
双馬は立ちあがりズボンの埃を払う
「そもそもお前のせいでこうなったんじゃないか」
「はぁなんで私が」
「俊と付き合ってたんだろ
痴情のもつれ?」
「付き合ってない」
「キスもしたのに」
「キスはしてない」
双馬は額に手を置き呆れた顔で奏を見る
「あちゃーとんだ妄想癖の持ち主だったか俊は」
「俊を馬鹿にしないで」
「副部長ならしっかりしてくれよ」
「なんであんた達のバンドの事を」
「あんた達って今は俺達だろう」
「一度もバンドメンバーだと認めたことはない」
「認めるも何もないだろう
そういう方針だ」
「方針上等
私は私の仲間とバンドをやる」
「ああそうか
ならそうしてくれ
二度と顔を見せるな」
「言いたい事言いやがって」
奏は固めた拳を双馬の頬に当てる
双馬は思いがけない一撃をまともに食らい後ろに吹っ飛ぶ
星は飛んできた双馬を避け切れず、トランペットを抱えたまま後ろへ倒れる
ガキリと骨の折れる音がする
奏は間髪入れず双馬の腹を蹴る。星は腹に当たるトランペットの重みに耐えかねて悲痛な叫びを上げる
「この糞がっ!、この糞がっ!、この糞がっ!」
そこで蓮児が現れる
「おはようっす
遅れまし・・・ちょっ!奏なにしとる」
蓮児は奏を羽交い絞めにする
「落ち着けって
なにがあったかしらねーけど流石にまずいって」
蓮児の後ろには五十嵐リッサ(イガラシリッサ)が立っており、やれやれとした顔で見る
奏はじたばたしながら言う
「俊が、俊が、バンド辞めてサッカー部に入部したの」
「ああそうだ
2つのバンドを合流させたのも俊と健後の提案だからなっ」
「知っていたの」
「多分知らないのはお前だけだ」
奏は脱力する
蓮児はただ事実を述べていただけだ
しかし、奏にとっては拒絶されたと感じたのだ
◇
騒動を聞き駆け付けた教員は容赦なく通報した
一部の教員から奏は腫れ物扱いされている
その日に限って、楽市円先生は学校にいなかった
1時間後、パトカーは到着する
警察官は教職員から軽く話を聞くと、奏をパトカーへ押し込んだ
最後の最後まで奏は同じ1年生部員に中指を立てた
「ふざけんなよバーカ」
警察署に到着すると取調室ではなく少年課にある小部屋に通された
奏は箱に身分証や電子機器、刃物を入れ、机の上に置く
警察官からは入念なボディチェックの後、鞄の中を調べられ、スポーツタオルが箱の中に加わった
しばらく数分放置され、バインダーを持った男性警官が奏の前に座った
高卒警察官なのだろうか。大学生のような若さのある見た目だ
「まずは名前と学校名を」
「諫早奏、上野ヶ丘音楽高等学校1年です」
「なにがあったの」
「練習中に悪口を言われ殴りました」
「誰と誰に」
奏は順を追って説明をする
警察官は険しい顔つきになり、机にペンを置く
「あの場にいた人達の話とは違うね」
「えっ」
「君が殴った事実は一致する
だけどね経緯がどうも違うようだね」
「双馬の話を聞いてついかっとなって」
「君は部屋に入るとすぐに殴った」
「それはないです
最初から部屋にいました
あいつらが勝手にそう言ってるだけで」
「おじさん達はなにも道徳的な行いをしろと言っているんじゃない
君が間違いに気が付いてくれるだけでいいんだ」
「私は絶対に嘘は言ってないです」
「上級生の子が話をまとめてくれたんだけどね」
「えっ」
この時、奏の頭の中に悪い考えが駆け巡る
もしかしたら、最初から仕組まれたのではないだろうか
自分が退部するように、いや、退学するように
鶴美先輩からも疎まれていたのかもしれない
だから、身の丈に合わない副部長を任せたのではないだろうか
奏はただただ警察官の話に頷くことしかできなかった
◇
鶴美は伝令に来た教師から事情を聞き、一目散に1年生の練習場所へと向かった
幸いにして、近くで事故が起きたため、パトカーの到着は遅れているようだ
奏は教師に囲まれて近付きそうにない
鶴美は順に生徒から詳しい話を聞いていく
一年生同士にもどうやら隔たりがあるそうだ。最初こそ反発するがそろそろ打ち解けている頃かと思っていたが
目先を見誤ったことを認めざるを得ない
僅かな時間で鶴美が考え出したのは
「全てを奏がやったことにする」
であった
もちろん奏には申し訳ないが、自分と彼女の関係であれば問題はないはずだ
パトカーがやって来ると、奏は中指を立て最後まで反抗的な態度で車に乗った
走り去っていく車を鶴美は見送った
出張を飛び出して来た円先生は鶴美を見つけ声を掛ける
「割れた器は元には戻らないわよ」
「覚悟の上です」
円先生の口調は厳しく、鶴美はつばを飲み込む
「でも日本には金継ぎという技術がある」
「えっ」
「それはそれでとても美しいの
なにも壊れたから終わりじゃないの
その先がある」
「はい」
円先生は他に用があるからとその場を去った
鶴美はてっきり叱られると思っていたので、首をさすり不思議そうに先生の背中を見送った
◇
奏は警察官から励ましの言葉を受け解放された
立派な大人としての務めを果たしたつもりだろうが、真実を嘘とねじ込まれては腹立たしい
両親が警察官に平謝りをするのを見て複雑な心境になる
家に帰る道中も、家に帰った後も、両親は特に叱ることはなかった
まるでいつものように淡々と過ごしていた
翌日の昼、担任教師が停学処分の紙を持って来た
夏休み期間に加え、始業式から3か月間登校禁止となった
加えて夕方から臨時の軽音楽部の保護者会が開かれることになり、これを機に謝るのはどうか提案してきたが、奏はそれを断った
担任は先に帰り、両親は支度を整え、時間に合わせて家を出た
一人家で留守番をする中、スマホで軽音楽部のグループラインを見る
「あの後どうなりましたか」
奏は送信ボタンに手を置くがすぐに消す
そして、
「ごめんなさい」
と、打って送信した
既読が増えるのに耐えきれず、グループを抜けてしまう
数分後、部活の予定が分からないのは面倒だなと思い、どうせ辞めるからと納得した
床に置きっぱなしになったギグバック
奏はギターを取り出し振り下ろそうとする
涙が床に飛び散る
奏はギターをギタースタンドに置くとベッドに飛び込み、布団に包まりむせび泣いた
◇
奏は両親が帰宅するとその後の話を聞いた
特に保護者からはクレームはなく、むしろ同情されたらしい
警察に通報とは事を大袈裟にし過ぎで、教師の職務怠慢だと
部員もどうと思っていないそうで、また停学が明けたら部活をやろうとも伝えられた
奏はほっと胸を撫で下ろした。きっとその日は来ないだろう。俊のいないバンド活動は意味がない
恨みも妬みもないのならこのまま静かに姿を消すだけだ
母親はそっと退部届の紙を机に置き、辞める気なら停学解除の日に提出することと言った
奏はその日のうちに名前を書き、鞄の中に仕舞った
◇
鶴美は保護者会を終えて、一人レクリエーション室でぐったりとする
グループラインで奏が送った言葉が気になる
真意を確かめようとも、どうも指が動かない
悶々と悩む中、教室の扉が開いた
「明魅」
「保護者会おつー」
「練習悪かったな」
「いいよ
そっちが優先でしょ」
豊洲明魅(トヨスアケミ)は鶴美の前に座る
「事務所の人が言ってた
来年のメジャーデビューに合わせてアルバムを作ろうって」
鶴美は指を折る
「8曲だっけ…今あるの」
明魅は頷く
「11曲以上は欲しいって」
「今は何も考えたくない」
「現実逃避は駄目だよ」
アキノヨナガは大手レコード会社傘下のインディーズレーベルと契約している
1年間の活動の後、メジャー・デビューとなっている
筋書きはとっくのとうに出来上がっているが、それを裏付けるのは彼女達の活動次第
鶴美は白紙にされないか気が気でならなかった
「そうだ夏休みの課題やってる」
「もちろん」
「倫理国語の課題
オーケストラのコンサートを観て論じるやつ
今日やっつけちゃえと思って」
「どこで」
「隣の音大のホール
地元のオーケストラが来ている
セルゲイ・プロコフィエフの「ロミオとジュリエット」」
「CMで聴いたことがある」
「夏海が急に行けなくなってよかったら一緒にどう」
「わかった」
鶴美と明魅は教室を出る
開演まで30分
駆け足でホールへ向かった
◇
奏と鶴美はラーメンを食べ終え、厚意で出されたコーヒーを飲む
よくある粉末のインスタントコーヒーで量産的な味がする
「どうして私が副部長に選ばれたんですか」
「教えない」
毎回、この話になると鶴美ははぐらかす
「今日こそ逃しませんよ」
鶴美は奏の放つ圧に凄みを感じて頷く
「わかったよ」
◇
去年の5月下旬
レクリエーション室に集められた2・3年生は6月のライブに出演する1年生を決める
緊張感を持たせるためにも、円先生は2・3年生の出演者を発表していない
部長は採決を取る
「それでは1年生の出演者を決めます」
結果は、8割の部員が挙げた黒紅梅となった
ここからが本番だ
「では、1年生の出演者は黒紅梅となります」
ここで拍手が起こる
「続いて副部長の指名を行います
ふさわしい人に挙手をお願いします」
2・3年生の部員18人のうち、
諫早奏 1票
斎藤蓮児 2票
天草俊 15票
「では、天草俊で決定でよろしいですか」
「異議あり」
鶴美は手を挙げる
「なんですか鶴美副部長」
「私が手を挙げたのは諫早奏です」
「それは分かっています」
「奏です」
3年生の女子部員はおかしそうに笑う
「鶴ちゃんが逆張りなんて珍しいね」
「先輩」
「訳を聞かせて欲しいのさ」
鶴美は即答する
「私は奏のことが好きです
ただそれだけのことです」
「どうぞお幸せにパチパチパチー
それでなにも副部長にする必要はないよね
私達は理由があって選んだわけだし」
「それは・・・」
部長が咳払いをし、助け舟を出す
「確かに票の分かれ方を見るとやはり素行の良い生徒を選ぶ気持ちは分かります
ただ奏さんの校則違反項目は衣服の乱れ、校内でのアクセサリーの着用、染髪
飲酒や喫煙の噂もありましたが、現時点では裏付ける証拠はございません」
部長は鶴美に目配せをする
鶴美は頷く
「要するに皆さんが勝手に怖がっているだけで実際は単なるヤサグレです」
鶴美は言ってしまってそうじゃないと後悔する。ここで笑いが起きてくれればと思うが、部員達は真剣に話を聞いている。恥ずかしさが胃から溢れそうだ
部長は落胆の目を鶴美に向け、話を続ける
「黒紅梅の楽曲は諫早さんが作られています
まだ粗削りですが間違いなく売れます
黒紅梅が看板を背負うなら彼等のリーダーがやるべきだと思いませんか」
「なるほどね
臭いものには蓋をしないと
おっと女の子にこの言い方は失礼だったね
オフレコで頼むよ」
書記担当の部員はノートに書き込む。一言一句逃さず
「書き込むな」
円先生はここで話に入る
「つまり、要点は、
①世間体をよくするために天草君にするか
②これから部の看板を背負うバンドのリーダー・諫早さんにするか
③同じ不良なら斎藤君がいいか
ってことかしら」
「そうです
では、皆さん、最後にもう一度採決をしてもよろしいですか」
部員は頷く
「わかりました
挙手でお願いします」
「大事な事なんだし紙に書こうぜ
記名式で」
「楽市先生はどうですか」
「いいんじゃない
でも誰が投票しても喧嘩はしない事」
「皆さん賛成なら挙手をお願いします」
部員は挙手をする
部長は急いで紙を用意する
準備を終えると、
「この紙にふさわしいと思う人の名前を書いて下さい
そして、書いたら楽市先生に」
投票が始まる
黒板に紙が次々と貼られていく
数分後、部長は集計結果を読み上げる
「斎藤0票
天草6票
諫早12票」
部長は一呼吸を置く
「副部長は諫早奏でよろしいでしょうか」
部員は静かに拍手をする
◇
「まぁだいたいこんな感じだ」
奏はいきり立つ
「臭いって私そんなに臭いんですか
歩くシュールストレミングなんですか」
鶴美は冷静になだめる
「喩えだよ」
奏の表情が柔らかくなる
「でもよかったです
皆に嫌われているんじゃなくて」
「昔はシャーシャーしてたからな」
「うにゃ
部長だとしても怒りますよ」
「扱い方すら分かれば簡単だからな」
「否定したいけど否定できない」
鶴美は立ち上がりギグバッグを背負う
「じゃっそろそろ出ようぜ」
「部長」
「なんだ」
奏は少し照れ臭そうにする
「熱心に推薦してもらったのに私としたことが」
「いい迷惑だった」
「ちょっとそれ言います
思っていても言わないですよね」
「申し訳ないと思ったら
音楽で返せ。バンドマンだろ」
「はい!!」
二人は外へ出る
今日は夜であっても外は明るい


