「葵ちゃん!」

 葵は、手を止め振り返った。
 そこには息を乱した、蒼斗が立っていた。

 今日、葵は翔太と家族と久しぶりに夕食をともにする約束をしている。
 残業は、なるべく控えたい。
 そう思った葵は、昼食もそこそこに、残る業務にとりかかるべく席に戻り、パソコンと向き合っていた。

 すると、お昼休憩もそろそろ終わるという頃合いで、背後から見知った声で、名前を呼ばれたのだ。

「.......??」

 ......先輩?どうしたのかしら?

 葵は、鬼気迫る表情で間近に立つ蒼斗に、首を傾げた。
 同時に、蒼斗が勢いよく口を開いた。

「急にごめん!....今日、終業後って予定あるかな?少しで構わない。俺に、時間をくれない?」

 不安と緊張と、少しの期待をのせた声音だった。

 終業後は、約束がある。
 正直に言えば、断って日を改めてもらうべきだろうと思う。
 久しぶりに帰ってきた幼馴染と、家族と、ゆっくり時間を共有すべきだ。

 でもーーー。

 いつもと少し違う蒼斗の雰囲気も気にかかり、さらに自身の気持ちに気づいたばかりの葵にとって、蒼斗からの誘いを断るなどしたくなかった。

 少しだけ、ならーーー。

 コクリ。

「......っ!ありがとう!.....じゃぁ、後で迎えに来るね」

 葵が頷いた瞬間に、ぱぁっと明るく笑った蒼斗が、眩く輝いて見える。

 葵は、赤くなった頬を隠すために俯き、またコクリと頷いた。

 蒼斗は、踵を返し自身の仕事に戻っていく。

 落ち着かない心臓をおさえながら、葵も何とか仕事に戻ったのだった。

******


 終業後、約束通り葵のデスクまで迎えにきてくれた。

「少し、場所を変えない?二人で落ち着いて話したくて。.....いいかな?」


 ......コクリ。

「良かった。こっち」

 そう言って、おいでおいでと手招きされ、エレベーターに乗って着いた先は屋上のドアの前だった。


 .....屋上?ここでお話しするのかな?


 葵と蒼斗の働くオフィスの入っているビルは、高層ビルだ。
 アクセスも良く都会に建つビルは、眺めもいい。

 が、普段は屋上は閉鎖されており、葵は入ったことがなかった。

「今日は、特別に開けてもらったんだ。警備のおじさんと知り合いでさ。高いところって平気?」

 優しく気遣ってくれる蒼斗の言葉に、また胸がきゅんと音をたてる。

 自覚すると、こんなにも胸が騒がしいのに、よくここまで気づかなかったものだと、自身の鈍さに驚く。

 .......コクリ。

「.....あの、ここから俺がいいよって言うまで目を閉じててもらってもいい?あ、大丈夫。危なくないように、俺が手を引くから。......手を握っても、いいかな?」

 少し照れながら、真剣な表情で言う蒼斗に、葵はもう頬を染めるのを隠せずに、でも、決して嫌じゃないのだとわかってほしくて、ふわっと右手を差し出して、ゆっくり目を閉じた。

 意図が伝わったのだろう。

 温かくて大きな手が、遠慮がちに葵の細い指先を包み込んだ。

 これで.....二度目だ。


 歓迎会があった日、帰りに蒼斗が送ってくれた際に、手を握られたなと思い返す。
 あの時は、正直戸惑いのほうが大きかった。
 状況が掴めず、ただひたすら受け身で相手の様子をうかがっていた。

 でも、今は違う。
 自分の気持ちに気づいて、葵は自分が決めてここにいる。
 自分の意思で、蒼斗に手を差し出している。

 ......幸せだなぁ。

 相手がどう思うかより、自分がどうしたいかで行動することは、こんなにも自分を幸せにしてくれるのか。

 そんなことを考えている間に、優しく手を引かれて、少し錆びついたドアが開く音が「キィーッ....」と耳に響いた。

 ビルの中のひんやりした空気とは違う、夏を目前に暑くなり始めた空気が肌に触れる。

 屋上に出たのだろう。風が頬を撫でていくのを感じる。
 葵の艶やかな髪の毛が、風に靡いてふわふわと揺れた。

 小さな手を引く蒼斗に、葵の甘い香りを運んでいくその風が、蒼斗は心地よくてたまらない。


「.....大丈夫?怖くない?」

 蒼斗は、約束通り目を閉じついてきてくれる彼女を驚かせないようにやんわりと気遣う。

 .....大丈夫。

 コクリと答えた葵は、ある場所に来ると「そこで少しだけ待ってて」と言われ、おとなしく待っていた。

「.....いいよ。目、開けてみて....?」


 どのくらい経っただろうか。
 葵の目の前から、再び蒼斗の声がして、葵はゆっくり、ゆっくり。目を開けた。
 一瞬、眩しさに目を細めながら。

 すぐに目が慣れ......葵は目の前に広がる光景に、目を見開いた。

 高層ビルの屋上。
 周りを遮る建物はなく、どこまでも空色が続いて。
 自由を楽しむように、気持ちよさそうに浮かぶ雲。
 眼下にはビルの間を歩く小さな人影。

 そしてーーー。

 その屋上に立つ葵の周りは、可愛らしいラッピングを施した大小様々な箱や袋でぐるりと囲まれ、リボンや葵の好きな花がところどころを彩っていた。

 目の前には、緊張し強張った顔で、だが、凛と立つ蒼斗。
 その腕の中には、葵好みの色合いと花でつくられた大きな花束と2体の愛らしいぬいぐるみ。セイクマと、セイクマそっくりの女の子のセイクマが可愛らしい桜色のワンピースを着て、寄り添いあっている。
 さらに、男の子のセイクマの腕には手のひら大の四角い箱が、抱えられている。

 驚きすぎて、目を見開いたまま微動だにしない、葵に構わず、蒼斗は大きな声ではっきりと言う。

「......立花葵さん。君が、好きです。どうしようもなく大好きです。君のこととなると、まわりが見えなくなって、突っ走ってしまう俺だけど.....君が愛おしくて仕方ないんです。これからも、ずっと君だけが俺の中で特別なんです。君と一緒なら、俺はどんな時でも幸せで。葵ちゃんにも、幸せを感じてもらえるように。笑っていてもらえるように、俺.....頑張るから......。どうか俺と.....俺と....」

 蒼斗は、花束とセイクマのぬいぐるみたちを差し出して、叫んだ。

「結婚して下さい!!!!!」

 ...........え??

 緊張した面持ちで蒼斗の言葉に耳を傾けていた葵は、ポカン、と口が開いてしまった。


「.........あぁっ!!?ち、違う、間違えた!いや、間違いではないんだが、そうじゃなくて、えっと....け、結婚を前提にお付き合いして下さいって言おうとして.....っ、あぁ、でもっ、すぐにでも結婚したいくらい大好きだと言うのは伝わると嬉しい、んですが.....はぁ。かっこよく決めるつもりだったのに」

 さきほどまでの、勢いを急激に落ち着かせて、蒼斗は項垂れる。

「.....コホン。なんか決まらなかったけど.....とにかく。大好きな葵ちゃん。ずっと俺の隣で笑っていてくれませんか。俺と、結婚を前提にお付き合いして下さい」

 気を取り直して、告白してくれた蒼斗は、優しく笑っている。頬をかきながら。
 そして、セイクマの抱えている小さな箱を、空いている片手でパカっと開ける。普段使いしやすい大きさのハートカットの桜色の石で飾られた指輪が、鎮座していた。

 じっと何かを考える葵を、急かすことなく包み込むように待ってくれる。

 
 さっきまでの真剣な表情の蒼斗も、決まらなかったと項垂れる蒼斗も、笑って頬をかく蒼斗も。
 葵は、彼の全てがとてつもなく可愛く思えてーーー。

 あぁ......愛おしい.......。

 葵は、頬を桜色に染めながら、蒼斗の前で初めて満面の笑みを浮かべた。
 目尻をうっすらと濡らしながら。

 もう迷わなかった。
 この愛おしい人と、向き合いたい。
 自分の全てを、知ってほしい。

 そう思ったら、あんなに頑なに閉じていた心が。
 柔らかく開いていくのを感じる。

 スッと両手を差し出して、蒼斗の腕の中から贈り物を受け取る。
 細い腕いっぱいに、大切な贈り物たちをぎゅっと抱きしめた。

 葵の小さな唇から、声が滑り出した。

 それは、あの出来事以来、初めてのことだった。
 明確に、葵の意思で、外で発した声ーーー。


「......はい」

「........え?」

「......よろしくお願いします、小坂せん、ぱい」

 耳に響いた、愛らしい声。
 初めて葵を意識した日、残業で一人残る葵の声を初めて聴いたあの日。
 蒼斗を、惹きつけて離さなくなったあの、優しく耳を撫でる大好きな声。
 愛おしい女の子の、可愛らしい、ずっとずっと聴いていたい声ーーーー。


「.......やっと.....やっと聴けた」

「........??」

「......ううん......ねぇ、もっと聴かせて。葵ちゃんの愛らしい声。俺の大好きな声だ」

 幸せに蕩けた顔で、たった今、やっと恋人同士になれた最愛の人に向けた蒼斗の声はどこまでも甘い。
 カァーッと葵の全身が赤く染まっていく。


「......や、です」

 照れているのか、むぅと唇を突き出して、抗議する葵。

「あぁ.....可愛い。俺の彼女は、どこまで可愛くなるんだ」

 感動に目を閉じて、噛み締めるように小さく震えている。
 葵は、「彼女」というワードに、肩をびくりと跳ねさせ落ち着かない。

「......俺さ、実は葵ちゃんの声、聴いたことあるんだ。君は、あまり聴かれたくなさそうな雰囲気だったから、黙っていたんだけど......。俺にとって、君の声は天使の歌声みたいにとっても心地いいもので、本当に.....大好きなんだ」

 そうゆっくり語ってきかせてくれた蒼斗は、葵をそばのベンチまで誘導する。
 普段入れないよう鍵がかけられている屋上だが、どうやら利用できないことはないらしい。
 こうして、だだっ広いコンクリートの上にぽつぽつと、二人がけのベンチが置かれているのだ。
 許可があれば、屋上で過ごせるということだ。

 葵の腕の中の贈り物たちをそっと受け取り、自身の右側の空いたスペースにそっと置いておいてくれる。

 そして、葵の腰を左手で抱き、右手で葵の両手を包み込むようにして寄り添った蒼斗は、話し始めた。
 葵の声を偶然聴いた残業の日のこと、歓迎会の日に葵が無意識にこぼした一言がすごく嬉しかったこと。

「.....やっぱり聞こえてたんですね」

「.....ごめん。あの場で君に伝わったら、避けられると思って。わざと黙ってたんだ。.....嫌だった?」

「......いえ、多分その通りなので。あの時はまだ、先輩のこと、全然知らなくて.....もし聞かれたとわかってたら、今こうしてここに居なかったかもしれないです。だから、むしろ、感謝、してます。先輩と、仲良くなれて....嫌いだった自分の声が先輩と私を繋いでくれたんだってわかって.....すごく、嬉しいです」

 その素直な反応に、蒼斗が天を仰いだ。「あぁ....声だけじゃなく中身まで天使ってどういうこと?俺の理性を試しているのか?」とぶつぶつ呟いている。

 葵は、くすりと笑った。

「私......自分の声がコンプレックスだったんです。学生の時に、ある出来事があってから、外で声を出すことも控えてて。でも、先輩と出会って、先輩が私を....私の声も好きになってくれて、なんだか、こう.....新しい自分になれそうな気がしてます。先輩......私と出会ってくれて、私のこと見つけてくれて....ありがとうございます」

 どこか吹っ切れたような力強さで、蒼斗にまっすぐ伝えた葵は、今まで誰にも話したことがなかった....話せなかった過去のトラウマについて、全部言葉にしていった。
 その言葉全てを、蒼斗は否定することも遮ることもなく、ただただ黙って優しく聞いてくれた。
 まるで葵の中にある黒いドロドロしたものを吐き出して、とでもいうように。

 葵の中には、安心感しかなかった。
 心は凪いでいて、目の前の蒼斗が受け止めてくれるという絶対の信頼感が、葵を包んでいた。

 家族にも、ずっと一緒に育ってきた翔太にも、話せなかったことを、この人はスルスルと葵の中から引き出していく。

 言葉にすればするほど、葵の中の何かが解れて、傷がみるみるうちに塞がっていく気がする。

 話し終える頃には、おどおどした感じもなくなり、一皮剥けたように、すっきりとした顔の葵が座っていた。

 二人は顔を見合わせ、どちらからともなく微笑み合った。
 お互いに、お互いの存在に感謝し、これからも共にあれることを喜んで。

 その時、着信音がその場に響いた。

 〜〜〜♪

「ん?電話?.....葵の?」

 葵の身体が、ぴくりと反応する。
 あまりにもさりげなく、自分の名前を呼び捨てにされて小さく驚いた。
 
 うぅ.....う、嬉しいけど、また照れてきちゃう....。

「電話、やっぱり葵のじゃない?出なくて大丈夫?」

 呼び捨てにされた名前に気をとられて、なかなか電話に出ようとしない葵の顔を、蒼斗が覗き込んできた。

「あ....そうでしたっ!えっと.....」

 ゴソゴソと電話を取り出して、画面を見た瞬間、葵の顔から血の気が引いていく。

「あぁっ!!も、もうこんな時間!!す、すみません、先輩.....私、これから約束があって.....」

 見ると、すでに終業から1時間ほど経っていた。

 あまりの慌てように、訝しげに眉を寄せて、蒼斗が電話の画面にちらりと視線を向ける。

 そこには、明らかに男性の名前と思われる文字が。

「.......葵?......翔太、って.....誰?」

 急に、背後に威圧感のある空気を醸し出しながら、低い、低い声で聞いてくる。
 おかしい。先ほどまで、これでもかというほど優しく甘い声だったのに。

「.......へ??.....せ、せん、ぱい?」

「ねぇ.....翔太、って誰なのかな?」

「ひぃっ......!!は、はい!えっと....私の、幼馴染で....今日、久しぶりに留学先から戻ってきているので、夕食を一緒に食べようって約束してて......」

 圧に負けて、ペラペラと説明を急ぐ葵の額には、脂汗が滲んでいる。

 せ、先輩....なんだかこわいっ。一体、どうしたの.......っ。

「.......ふぅーん。.....ねぇ、今朝もしかしてその男と一緒だった?」

「へ?....あっ、はい。そうなんです。出勤途中で、偶然会って。先輩、見てたんですね」

「うん。.....葵がすっごい、リラックスしてる雰囲気だったから、なんか声かけるタイミング逃して」

「リラックス....してましたかね?うーん....でも、ずっと一緒だったので、家族みたいに感じてるのは確かかもしれません」

「..........」

「......先輩?」

 蒼斗は、俯いて黙ってしまった。

 不思議に思って、今度は葵が蒼斗の顔を覗き込もうとして.....できなかった。

「きゃっ!!」

 突然、葵は蒼斗に抱きしめられていた。
 ぎゅぅ、と葵が苦しくないように気遣いが感じられる力で、大きな蒼斗の身体にすっぽりと包み込まれる。

「せ、先輩.....っ」

 葵は、あまりに急でわたわたと慌てふためく。
 それでもビクともしない腕の力強さに、接した身体のあたたかさに、胸のドキドキはじわじわと安心感に変わっていく。

「......ねぇ。俺、知らなかったんだよ」

 すぐ耳元で、囁くように小さな声で蒼斗の低く落ち着いた声がした。

「.....え?」

「......他の男のところなんて、行かないで」

 緩まった腕に、少し身体を離してみれば、蒼斗の複雑な表情を見ることができた。

 不安、嫉妬、優しさ、気遣い、寂しさ、独占欲。

 色々な感情をのせて、ひとつにまとまらない自身の感情をもてあましている。
 自分を好いてくれている、大好きな人。

 胸が、きゅっと引き絞られるように痛い。
 嫌な痛さではなく、愛しさが凝縮した痛みに、心地よさを覚えるほどだ。

 黙っている葵に、不安になったのだろう。
 頭をガシガシとかきながら、「やっぱり嫌だよな。俺、こんなに自分が嫉妬深かったなんて知らなかったんだよ」と、投げやりにこぼす。


「.....嫌、じゃないです。むしろ.....嬉しい、です。蒼斗先輩の考えてること、全部教えてください。ちゃんと、向き合えるのが、幸せ、なんです」

 大好きな人と、言葉を交わしながら全身全霊で向き合う幸せ。
 葵にとっては、これ以上ない幸せだった。

「む.....そんなこと言ったら、俺、全部葵にぶつけちゃうよ?大好きって気持ちも、愛しいって感情も、嫉妬も、独占欲も。葵のこと、もう絶対離さないよ?」

「.....はい!のぞむところです!でも、先輩も覚悟して下さいね?私も....全力で蒼斗先輩のこと、愛しますから」

 満面の笑みで、はっきり、真っ直ぐ答えた葵に、目を丸くした蒼斗。

 そして、今度は声をあげて笑い合う。

 二人の全力の愛は、始まったばかりだーーー。