葵は、最近悩んでいた。
 蒼斗に出会ってから、葵は変なのだ。
 自分が自分でないようで。
 胃痛はひどくなる一方で、食事も喉を通らなくなってきた。
 苦しくて食欲が失せるのではなく、こう、胸がいっぱいで入らないような。なんだか不思議な感覚なのだ。
 蒼斗に会えば平常心で居られなくなり、いつもどんな自分で過ごしていたか途端にわからなくなる。
 身体がこわばり、固く緊張してくる。
 周りから見れば、ただの挙動不審だろう。

 それだけじゃない。
 最近、葵は思うのだ。
 このままでいいのか、と。
 このまま、声を出さずに過ごしていていいのだろうか、と。

 こんなこと思うのは、声が出せなくなってから初めてで、本当に困惑している。
 いいのかもなにも、葵は今までずっとそうしてきたし、周りを不快にしないためにも必要なことだから、喋らなくなったのだ。
 その経緯を忘れたわけではないはずなのに、蒼斗と過ごしていると、ふと、彼と話してみたくてたまらなくなる。
 
 このまま、彼に話しかけてみようか。
 彼の質問に答えてみようか。
 彼はどんな顔で、私の声を、話しを聞くのだろうか。
 
 そんな思いに駆られて、衝動的に声を発しそうになることが一度や二度ではなかった。

 そんな自分がわからなくなって、思い悩んでいたのが顔に出ていたのだろう。

 今朝、出勤途中で思わぬ人物に声をかけられて、固まってしまった。

「.....葵?葵じゃないか?」

「..........」

 振り向いてみた先に、そこに居るはずのない人物が居たから。
 声は出さなかったものの、大きく目を見開いた表情を見て、その人物は葵だと確信したらしい。

「ははっ....やっぱり!葵だよなぁ!わぁ.....っ!元気にしてたのかよ。高校以来じゃないか?」

 元気な声で大股で近づいてくるスーツをパリッと着こなす背の高い男性。
 葵のすぐ近くまで来ると嬉しそうに破顔したあと、まじまじと葵の顔を覗き込んできた。

「しっかし!変わってねぇーな!葵は。.....相変わらず可愛い」

 ニッと並びのいい歯を見せて笑う爽やかさ。
 葵は、スッと目を細めて心の中で「あなたもね」と呆れた表情を返す。

「んん?その顔は......あなたもねって顔だな」

 それだけで意図を読み取ったのか、むっと唇を突き出して拗ねたように言い返す男性。
 葵はこの間、一言も言葉を発していないにも関わらず、ポンポンと会話が成り立つこの懐かしさ。

 あぁ、やっぱり......。

「.....翔太だ」

「ん?おう!翔太さま、只今アメリカから戻って参りました!へへっ」

 ピシッと、警察官のように敬礼してみせる。
 葵も、翔太を真似して敬礼を返した。

「......おかえり」

 見る間に、二人の空気があたたかな色に変わる。
 そして、葵は自然と声を発していた。
 そうすることが当然かのように。

 翔太は、180を超える長身で、中肉中背。整った顔立ちで、艶のある黒髪は切り揃えられている。
 お互いを名前で呼び合い、長い間会っていなくてもすぐに馴染む空気感。
 小さな懐かしさがどんどん膨らんで、葵もゆっくり笑みを深める。
 家が隣同士で、同じ年に生まれた二人は、幼馴染だ。
 思春期でも特にすれ違うことなく、そこに相手がいることが当たり前のような存在で、高校卒業までを共に過ごした。
 その後、葵は東京の大学にすすみ、翔太はアメリカの大学にすすんだ。
 昔から石が大好きだった翔太は、石から土へ、土から自然へと興味を広げ、やがて好きなことを思いっきり研究したいと夢を抱くようになった。
 勉強に励んで夢を叶えるための第一歩として、アメリカへ留学していったのだ。
 確か、大学課程を修了後、大学院にすすみ、思いっきり研究に没頭していると翔太の母親から聞いたことがある。

 それが、今、何故か再会を果たしたのだが。

「......で、翔太はどうしてここにいるの?」

 研究に没頭してるんじゃなかったのかと、疑問をぶつけると、翔太はきょとん、としてから返事が返してきた。

「そりゃ、葵に会うためだ。ずっとしてた研究が、ついに実を結びそうだったんだけど、なぁんかスランプ?んー、結果が出なくなっちまって。煮詰まったから、気分転換も兼ねて、一時帰省っつーのかな。......ちょっと疲れたなって思った瞬間に頭に浮かんだのが葵だったんた。で、顔見に帰ってきた!」

 元気に告げられて、今度は葵がきょとんとした。
 でも、すぐに笑って、「じゃぁ、今日はうちにおいでよ」と誘った。

「みんなでご飯食べよう!お母さんたちも、きっと喜ぶと思うよ」

「いいのか?じゃ、お言葉に甘えさせてもらおうかな」

「うん!」

「葵は、今から仕事だろ?会社の前まで送っていくよ」

 そう言われて、突然葵の頭に蒼斗の顔が浮かんできて、慌てて手でパタパタと振り払った。

 危ない。最近、気を抜くとすぐ先輩のことを考えてしまうわ。自意識過剰よね。翔太と一緒のところを先輩に見られたら.....なんて。私が誰と居ようと先輩が気にするわけないのに。

「ん?」

「あ、ううん。なんでもないの。.....じゃ、お言葉に甘えさせてもらおうかな」

 気を取り直して、さっきの翔太の言葉を葵が真似て返事をすると、また二人で顔を見合わせて笑い合った。


*****


 そして、いつも通り早めに出勤しようとしていた葵は、時間に余裕があるのをいいことに、お互いの近況を話しながらわざわざ遠回りして会社まで送ってもらった。

 大学を卒業してから、東京から神奈川の地元に帰り、就職したこと。今は、実家から職場に通っていること。
仕事が楽しくていつも黙々と事務仕事に取り組んでいること。最近できたお店で、すごく美味しいスイーツが売っているところを発見したこと。

 ほとんど葵が話したのではないかと思うほど、次から次へと言葉が滑り出てきて、久しぶりのその感覚に葵の心は浮き足立った。
 何でも話したが、ただひとつ、蒼斗に関することだけは一度も触れなかった。最近の悩みについても。

 翔太には、割と何でも話せるのよね。何かあったときでも、親には話しにくいことでも翔太なら話せたことがたくさんあった.....。話せなかったのは、これで二つ目.....だ。

 葵が、突然外で声が出せなくなった時。家族も翔太も、みんなとても心配してくれた。
 だが、どうしても理由が話せなかった。
 家族や翔太のことは、信頼しているし、大好きだ。
 きっと、葵が相談したら「そんなことない」と否定してくれるだろう。

 でも、もし少しでも私が気にかかる反応があったら?
 
 眉ひとつ、口の端ひとつ、たったそれだけでも、深く傷ついた葵には、傷口に塩を塗るようなものなのだ。
 これ以上傷つきたくない、家族や翔太を信頼できなくなるのは嫌だ。
 我ながら、思春期をこじらせているなと思うが、それが葵の本音であった。

 葵の心の奥底の柔らかく繊細な部分。
 心を許しているはずの家族や翔太でさえ、触れられたくなかった深く傷ついて膿んでいる傷口。
 いや、大好きな人たちだからこそかもしれない。
 少しでも自分の気になる反応があったら、それこそ今までみたいに心を許して生活することができなくなる。
 家族や翔太に、本当の自分を見せられなくなる。
 また変だと思われていないだろうか、もしかしたらさっきのはおかしかったかもしれない。
 そんな風に、毎日を気を張って過ごすことになる。
 それは、嫌だった。

 だから、秘密にした。
 理由は、かたくなに話そうとしなかった。
 それは今でもだ。どれだけ時が経とうとも、葵の中でまだ消化しきれず、ずっと傷口は膿んだまま。

 でも、どうして先輩のことまで翔太に話せないのかな....。

 蒼斗のことを話せないのは何故なのか。
 なんてことない、会社の先輩との出来事で、お世話になっているという話だ。
 きっと、蒼斗にとって『差し入れ』は誰にでもする気遣いで、心配り。深い意味なんてないし、特に隠す必要もない。

 そう思って、立ち止まる。
 
「......葵?どうした?」

 自分の気持ちを不思議に感じて.......葵は気づいてしまった。

 .....私、もしかして.....期待、してる?もしかしたら、先輩に特別に思ってもらえているんじゃないかって。


 蒼斗とのことを話して、同性の翔太に「そんなこと誰にでもする」と軽く流されるのが、否定されるのが、怖いのだ。
 ずっと一緒に過ごしてきた幼馴染だ。
 もちろんいい意味で、遠慮がない。
 だから、きっと言われる。
 蒼斗の行動に、特別な意味なんてないんだ、と。
 お前は、先輩の特別なんかじゃないんだ、と。

 そして、葵はやっと気づいたのだ。

 葵の中に隠しきれないほど大きく育った、特別で.....とても意味のある、大切な想いに。

 だから、蒼斗の前で声を出したくなった。
 蒼斗と話したくて仕方なかった。
 自分を、本当の葵を、蒼斗に知ってほしくなった。


 最近の挙動不審な自身の行動も。
 蒼斗の前で、強張る身体も、早くなる鼓動も。
 胃痛だと思っていたのは、胸が苦しかったのは、恋をしていたから。

 全てに合点がいって、葵は熱くなる身体と顔のほてりで、どうしたらいいのかわからなくなった。

「.....おい。本当に大丈夫か?お前、顔が赤いぞ?熱があるのか?......仕事、休んだ方がいいんじゃねぇか?」

 急に固まって動かなくなった幼馴染の目の前で手のひらをひらひらさせて、問いかける翔太。

 葵は、その動きにやっと我に返って、慌てて否定した。

「......っ!!な、なんでも、ないの!!大丈夫!元気だから!むしろ、何もかも忘れて、仕事したくてたまらないというか!!」

 そう言って、スタスタと歩き出した。
 火照った顔を、パタパタと片手で仰ぎながら。

「.....お、おう」

 翔太は、首を傾げながら後を追ってきた。

 そして、夕食の時間を約束してから、会社に到着する手前で一旦翔太とわかれたのだったーーーー。