正直、あぁ....終わった、と思った。
彼女に休日に何をしているか、水族館は好きか、質問を重ねて、デートに誘おうとしていた。
今日は、一大イベントだ。
せっかく、彼女とゆっくり話せるかもしれないいい機会なのだから、逃すまいと意気込んだ。
そして、躓きつつも、何とかデートに誘う流れも作った。
いざ!と意気込んだ瞬間、聞き慣れた声が後ろからした。
その声の主がすぐにわかって、心の中で盛大にため息をついた。
悪い人じゃない。決して、酒癖が悪いわけでもない。
だが....今は放っておいて欲しかった。
この人は、お酒が入るといつも余計なことを言うのだ。
まぁ、仕事はできる人だし、人柄もいい。
だから、一緒に酒を飲むのは楽しい。
余計なこと、とは俺にとって、という意味だ。
タイミングだったり、俺にとってはあまり知られたくないことだったり。
今日も、だ。
あぁ、今はやめてほしかった。
好きな子に....立花さんに.....シスコンだとバレたではないか。
引かれただろうか。
怖くて、彼女の方を向けない。
さっきまであんなに、彼女しか見ていなかったのに、急に体がこわばって、彼女に視線をむけられなくなる。
上司め....今度、奥さんに、あんたの黒歴史をバラしてやろうか。
恨めしく思っていると、ふと、諦めに似た気持ちも湧き上がる。
....はぁ。仕方ない、か。今まで、どの女の子の前でも、隠そうとしたことさえ、ないもんな。そんな俺を知ってるから、この人も、気にせずネタにしたんだろうし。
仕事に熱中しすぎて、デートをすっぽかしてフラれることが多かったのは事実だが、実はこのシスコンでも、女の子たちに引かれたことが多々ある。
だが、俺にとって、優先順位は妹や仕事だったから、女の子たちにどう思われていようとどうでもいい。
だから、隠したことなど一度もない。
むしろ、オープンに上司にも同期にも、当時付き合っていた彼女にも妹の可愛さを伝えていた。
それなのに....彼女だけはダメだ。
他の女の子に、どう思われようが全く気にならなかったのに。
彼女に、引かれるのは嫌だ。
彼女には、どう思われているか、とてつもなく気になる。
気持ち悪いと思われようものなら、もう、俺は生きていけない。
生ける屍だ。
だが、絶望的だ。
記憶の中では、蒼斗のシスコンに引かなかった女子など存在しないから。
あぁ.....終わった。
落ち込みすぎて、上司や同期、後輩の前なのに、落ち込んでいる素振りを隠すことさえできずにいると、あの大好きな声が。
愛らしくて、一瞬で心臓を鷲掴みにするあの声が。
ポソリと呟いたのだ。
「素敵......」
.....え?......聞き間違いか?
バッと顔をあげ、彼女を見る。
無意識だったのだろう。
彼女自身も、ハッとした顔をしていて、キョロキョロ周りを気にしている。
聞き間違いじゃ、なかった。
今の可愛い呟きは、俺にとってすごく都合の良い空耳なんかじゃなく。
確かに、彼女が発した言葉だったーーー。
そう思ったら、止められなかった。
体が勝手に動く。
二人になりたい。
彼女の可愛い声を、誰にも聞かせたくない。
俺だけの、ものに。
気づいたら立ち上がって、彼女を見つめていた。
ずっと彼女を見ていて思っていた。
彼女は自分の声を聞かせたがらない。
理由はわからないが、何かトラウマがあるのかもしれない。
だから、彼女は俺に見つめられ、自分の声が聞かれた可能性に行き着いたのだろう。
次の瞬間には、顔を青ざめさせていた。
もしかしたら、声を聞かれたことに抵抗を覚えて、自分を避け始めるかもしれない。
あぁ。ダメだ。
逃がさない。
君は.....君だけは、絶対、他のやつに渡さない。
本能的に、今を逃してはならないと思った俺は、体調不良を理由に彼女を連れ出した。
上司たちは驚いていたが、関係ない。
この後どうするか決めていたわけではない。
ほとんど突発的に行動した。
が、良かった。
彼女は抵抗なく受け入れてくれた。
まぁ、驚きのあまり、抵抗する暇もなかったのかもしれないが。
柔らかくて小さな手を引きながら、ちらりと自分の半歩後ろを歩く彼女を見た。
彼女と自分の荷物は、俺が持っているが。
そろそろ歩き疲れていないだろうか。
細い足をみて、ぐっと喉をつめる。
あぁ、可愛い。
小さくて、柔らかくて、いい匂いがして。
守らなくては。自分が絶対守らなくては。
妹の時以上に、庇護欲をそそられ、蒼斗の頭の中は、愛情と使命感と欲望とが入り混じってお祭り騒ぎだった。
ピタリ、と足を止める。
「....ごめんね、急に。あの...立花さんの顔色が悪くて、今にも倒れそうだったから」
嘘ではない。
顔がどんどん青ざめていたし、そう思ったのも事実だ。
声が聞こえたことを伏せたのは、おそらく、彼女も触れられたくない部分だろうと思ったからだ。
今、その話題を出したら、身構えられて距離を詰めにくくなるかもしれない。
だったら、知らないふりをして、彼女の心を開かせる方を優先した方がきっと仲良くなれる。
そう思ったのだ。
彼女は、ぱちぱち瞬きをする。
不安そうに揺れる瞳が、みるみる落ち着きを取り戻していった。
そして、コクリ、とひとつ頷いて、ゆっくりと頭を下げた。
そうですか、ありがとうございます。
そう言っているのだろう。
あぁ、可愛いな....。
だが、まだ彼女はどこか不安なのだろう。
蒼斗の瞳をじっと見つめ、そこにある何かを探ろうとしてくる。
少し首を傾げて。
「ん?どうした?」
そんな彼女の意図にわざと気づかぬフリをする。
直接、声聞こえましたか、などと聞かれていたら嘘はつけなかっただろう。
だが、彼女は探ってきているだけだ。
だったら、本当に問いたい内容は明確にはなっていないのだから、知らぬフリをしても不誠実ではないはずだ。
しばらく見つめて、彼女は諦めたのだろう。
ふりふり、と首を横に振る。
なんでもありませんーーー。
「そう?わかった。あー、じゃぁ、行こうか」
今度は、二人横に並んで歩いた。
もちろん手は繋いだままで。
彼女が戸惑っているのは気づいていたが、離す気はなかった。
蒼斗は背が高い。180センチほどある。
160センチの葵は、蒼斗と会話するには見上げなければならない。
蒼斗が、話しかけるたびにじっと上目遣いで見られて、蒼斗は葵を抱きしめたくてたまらなかった。
繋いでいないほうの手を、こっそりとワキワキさせながら、必死に耐えた。
可愛すぎて、可愛すぎる、可愛さの拷問を。
あぁ....語彙が消失してる。
蒼斗は、遠い目をした。
そして、我に返ったときに思い出した。
「そうだ。あの、さ。もし立花さんが嫌でなかったら....水族館、行かない?次の週末。....何か予定ある?あ!もちろん水族館が嫌なら、立花さんの行きたいところに...。どうかな?」
ピタッと足を止めて、固まった葵の返事をたっぷり時間をかけて待った。
......フリフリ。
葵は、首を横に振った。
それは....どっちだ?....行かないってことか?それとも....予定はない、ってことか?
そして、もう一度、コクリ、と。
蒼斗は喉を鳴らした。
ゴクリ。
葵を見つめる。
葵が、蒼斗を見上げる。
二人の視線がかちあった。
あ.....。
葵の目は、潤んで、顔は真っ赤だ。
恥ずかしそうに体をソワソワさせ、片手はもじもじしている。
視線は、蒼斗を見た後、ふっと逸らされウロウロ落ち着かない。
これは、多分....オッケーってこと?
「....いいの?水族館、一緒に行ってくれる?週末、予定ない?」
もう一度改めて、質問する。
.......コクリ。
「......や、やったぁー!!嬉しいよ。ありがとう。楽しみにしてる。...あ、じゃぁさ、連絡先って聞いてもいい?色々予定決めたいし。連絡とれた方が、当日迎えに行きやすいしさ」
子供みたいにはしゃぐ彼を見たら、騒がしい心臓がさらに騒がしくなった。
そして、蒼斗と連絡先を交換した葵は、家まで送ってもらった。
遠慮しようとしたが、暗いしお酒も入っている君をひとりで帰らせて何かあったらどうするんだ、と強く言われて。
どんなに近くてもダメだ、と断固として家の目の前、なんなら、家のドアを開けて中に入るまで、きっちりと送り届けられたのだった。
****
「で?....なんでお前たちまでここにいるわけ?」
不機嫌そうに、低い声で尋ねられ、井上と遠野は「ひっ」と小さく悲鳴をあげた。
今、葵と蒼斗、そして井上と遠野の四人は、水族館の入り口前で足を止めて睨み合っていた。
主に、睨んでいるのは蒼斗だが。
「....だ、だってよぉ。なぁ、遠野?」
「うっ....は、はい。...ね、井上さん?」
あまりの剣幕に、二人は身を寄せ合って縮こまりながら、震える声で同意し合っている。
お互いに、説明は相手に任せたいようだ。
蒼斗が、あまりにも怖い顔をしているからだろう。
ハラハラと落ち着かない様子で、蒼斗と井上たちを交互で見て、アタフタさせているのは葵だ。
正直、何故二人がここにいるのか、葵も状況を掴みきれていないが、喧嘩は困る。
遠野先輩は、葵のことを可愛がってくれる大切な先輩なのだ。
そんな葵の様子に気づいてか、蒼斗はぐっ、と体に力を入れて、次の瞬間、小さく息を吐いた。
「....はぁ。もういいよ。どうせお前らのことだ、面白がってか、心配してか。そんなとこだろ。...ちっ、こんなことなら井上になんて話すんじゃなかった」
最後の方は、小さくぶつぶつ言っていて、聞き取れなかったが、何とか場はおさまったようで葵はほっと一息ついた。
井上も遠野も、ぶつぶつ小言を言いながらも気持ちを落ち着けた蒼斗に、合掌している。
文句を言う男に、手を合わせる男女、それを見守る女。
後から考えたら、通行人にどんな目で見られていたのだろうと少し恥ずかしくなった。
「立花さん、まぁ、こういうわけだから、なんか納得いかないけど、四人で見て回るのでもいいかな?あ、もちろん、俺が誘ったんだから、俺と回ってね。この二人はおまけとでも思って、なんなら無視してくれてもいいから。むしろその方が、俺も、立花さんと二人きりで回ってる気持ちになれて嬉しいし」
.......。
やっぱりまだ溜飲は下がっていないらしい。
勘違いしそうなほど甘い顔で返答に困る内容をさらっと言われて、葵は固まってしまったが、次の瞬間には蒼斗に右手をすくわれて、手を引かれて歩き始める。
その後を、井上と遠野が「あ、待てよ〜」と慌ててついてきた。
ちらっと振り返ると、すぐ後ろで井上と並んで歩く遠野と目が合った。申し訳なさそうに「ごめんね」と手を合わせてくる。
謝る必要なんてないのに。
確かに驚きはしたが、反面、少し安堵もした。
蒼斗の誘いに応じはしたが、葵は今まで男性と二人で出かけたことなどない。
内心ガチガチに緊張していたのだ。
そこに、信頼する遠野が現れて、緊張がほぐれたのは本当で。
葵は、安心させるように小さく微笑んでふりふりと首を振ってみせた。
意味が伝わったらしい。
遠野も、安心して微笑んでくれた。
「わぁ、見て。立花さん!これ、すっごいデカい!」
蒼斗が事前にチケットを買ってくれていたので、館内には並ぶことなく入ることができた。
井上と遠野も、井上が事前にチケットを買っていたようで後に続く。
入ってすぐの大きな水槽の前で、蒼斗はサメを見つけてはしゃいでいる。
遠野のおかげで緊張がほぐれた葵は、その姿を見て、思わず表情を和らげた。
葵の表情に、蒼斗も肩の力が抜け、葵にどんどん話しかける。
葵の返答を待たずに次々と質問や話題を振るため、葵は半分も反応できていないが、それでも蒼斗は全身で喜びを表現していた。
「あーあ。あんなデレデレして。どんだけ、立花さんのこと好きなんだよ。なぁ?」
ニヤニヤしながら、それを少し離れたところから見守る井上。
「.......ダダ漏れですね」
井上は、ひとつ頷く。
「違いねぇ。.....どうだ?少しは安心したか?」
「....はい。まぁ、小坂さんがいい人なのは認めてたんです...。先日の話しもありましたし、遊びだとか、そんな心配もしてません」
「そうか」
「はい。.....私は....ただ.....」
遠野は、話を一旦区切り、しばらく考え込んだ。
私が、心配だったのはーーーー。
****
話は、あの歓迎会の日に遡る。
葵を連れて、出て行った小坂の背中を見送りながら、遠野はぶつくさと呟いていた。
「....大丈夫かしら。小坂さんのことだから大丈夫だとは思うけど....葵ちゃん、声あまり出さないし、万が一何かあったら....?それに、小坂さん、いつもより距離が近くなかった....?....ダメ!やっぱり心配だわ!すみません!私、やっぱり小坂さんと一緒に立花さんを送りに....」
そう言って席を立とうとした時、井上にパシッと腕を掴まれて再び隣に座らされた。
「え?」
「まぁさ、大丈夫だから。座れよ。何か飲むか?すみませーん!この子の飲んでるこれと同じの、もう一杯!」
テキパキと注文して、断る隙を与えられず、遠野はただただ戸惑っていた。
すると、井上が言ったのだ。「任せてやってくれないか」と。
それは、小坂に葵のことを任せてやってくれ、ということだろうか。
意図がつかめず、首を傾げていると、井上が補足する。
「まぁさ、なんだ。あいつにも、ようやく春が来たってことでさーーー」
それから、井上は簡単に説明してくれた。
仕事が大好きで、彼女ができても、長続きしなかった小坂。
そんな小坂がどういうわけか、今、葵に夢中であること。
距離を縮めたがっている小坂にとって今日は、一大イベントであったこと。
妹を溺愛していたくらい、本来の小坂は愛情深い男であり、そんな男が本気で惚れたら、これでもかというほど大切に、大切にするに違いないこと。
だから。つまりはーーー。
そんな小坂が、惚れた葵を傷つけるようなことは絶対にあり得ない、ということーーーー。
「本当はさ、こういうこと、あいつの許可なしに遠野に伝えるのはルール違反なんだけどさ...。俺、遠野のこと、信用してるからさ。それに、立花さん、お前だけには心許してるよな。見てたらわかる。遠野も、立花さんのこと可愛がってるの伝わってくるし。まぁ....何というか、だから....見守ってやってほしいって伝えたくて。勝手な考えだけどさ、多分、立花さんにとっても、あいつはおすすめだと思うんだよ。さっきも、言ったけど....あいつ、ぜっっったい!立花さん、大切にすると思うぞ?...まぁ、たまに、過保護になりすぎて鬱陶しがられるかもしれねぇが。なーんか、二人お似合いだと思うんだよな、俺は」
そう言う、井上の顔は、優しい。
初めての本気の恋愛に暴走する困った友人を、ひたすら見守っているようだ。
心の中で、うまくいくことを願いながら。
「..........」
確かに、井上の言う通りかもしれない。
でも、本当に大丈夫だろうか.....。
葵は、芯のあるいい子だ。
一緒に仕事をしていれば、わかる。
一方で、心のどこか繊細な部分に、誰にも踏み込まれたくない何かを抱えているのを感じる。
人と一定の距離を保っているのも、そのせいだろう。
もし、そこに踏み込まれるのを嫌がるなら、葵にとって、小坂はあまり歓迎できる存在ではない可能性がある。
小坂がいい人で、葵をきっと大切にしてくれるであろうことは理解できても。
肝心の葵が、心の準備ができていなかったら?
人は、誰しもタイミングというものがある。
もし、葵の抱えている何かをいつか手放すタイミングが訪れたとしても、それは葵自らが決めるべきではなかろうか。
きっと手放すためには、葵自身が向き合わなければならない感情やトラウマがあるはずだ。
それを、いくら小坂が葵を大切にしてくれるであろう存在で、小坂自身が猛烈に葵にアプローチしているからと言って、それに押されて、葵自身が望まぬタイミングで、心をこじ開けるようなことになってしまったら?
小坂は、葵に寄り添ってくれるだろうが、葵は望まぬタイミングで心と向き合うことになり、辛くはないだろうか....。
小坂が送りオオカミみたいな行動に出るのでは、という懸念は綺麗さっぱり消え去ったものの、本気の恋愛に身を焦がす小坂を知って、次は違う懸念事項が頭の中を支配する。
妹のように可愛がっている後輩のことを思うと、複雑なのだ。
黙り込んでしまった遠野を見つめて、井上は小さく息を吐くと、「わかった」と一言言った。
「よし、何を心配してるかわからんが。なら、見に行こうぜ。百聞は一見にしかず、っていうだろ?」
ニッと、笑った井上の顔を、遠野が首を傾げて見ていたーーーー。
******
そして、現在に至る。
目の前の葵と小坂は、どこからどう見ても、微笑ましいカップルだ。
その中身は、まだ付き合ってもいない、なんなら、小坂の一方通行の片想い状態でも、側から見たらそんな風に見えない。
というよりも、少なくとも、お互いのことをきちんと想いあっている二人に見えるのだ。
そんな様子を間近で見て、遠野の中で、不安が消え去っていく。
もしかしたらーーー。
小坂が、葵に、心の中の何かを手放すきっかけを与えるかもしれない。
でも、それは、小坂の押しに負けて、望まぬタイミングで無理やり心をこじ開けるのではなく。
きっと、葵自身が望んで、心と向き合うことになるのではないか、と。
何の根拠もないが、今の二人を見ていたら、そう感じたのだ。
小坂と交流を重ねていくことで、葵は変わっていくのかもしれない。
自身も気づかぬうちに。
そして、いつか、自ら望んで、心の中の何かを手放すことができるだろう、と。
だってーーーー。
葵ちゃん、何だか......。
「.....幸せそう....」
ぽそっと言った言葉は、誰にも拾われずに、空気に馴染んで消えていく。
でも、遠野の顔は靄が晴れて、隣で二人を見守る井上とそっくりの顔つきになっていた。
「....井上さん。ありがとうございました。私、心配しすぎてたかもしれません。何だか、二人を見てたら、大丈夫な気がしてきました。葵ちゃんのことは、小坂さんに任せましょう。...せっかくのお休みなのに、付き合わせちゃって、すみません」
遠野は井上に向かってペコリ、と頭を下げて、優しげに微笑んだ。
井上は、目を瞠り、ゆっくりと視線をそらした。右手で口元を隠す。
よく見ると、耳がうっすらと赤く染まっているが、遠野は気付かず、首を傾げている。
「.....いや、気にするな。.....お前のそういう面倒見のいいところ、俺は...好きだ」
突然ボソっと呟かれた井上の言葉に、遠野はピシリと固まった。
その後すぐ、遠野と井上は姿を消した。
二人には気付かれないよう、こっそりと。
二人の世界に入っていた、蒼斗と葵が、遠野と井上が居ないことに気付くのはずっと後のことだ。
そしてーーーー。
二人の元から離れた遠野と井上は、今度は、目的を自身たちのデートに切り替え、実はずっと遠野に片想いしていた井上が機を逃すまいと猛烈にアプローチ。
見事、井上は告白を成功させ、恥ずかしがる遠野を「可愛い、可愛い」と甘々に追い詰めるのであったーーー。
*****
「あいつ、絶対俺らのことにかこつけて、今頃遠野を口説いてるだろ。ほんと、策士だよな」
ボソリと放たれた言葉を聞き取ることはできなかった葵が、蒼斗を仰ぎ見る。
「いや、何でもない。さて、立花さん、次は何みる?イルカショーが、このあと始まるみたい」
イルカショーと聞いて、目を輝かせる葵に、目を細める蒼斗は、先程まで考えていたことなど頭から抜け落ちていく。
心から二人の時間を満喫して、遅くならないうちに、葵を家まで送り届けるのだったーーー。
彼女に休日に何をしているか、水族館は好きか、質問を重ねて、デートに誘おうとしていた。
今日は、一大イベントだ。
せっかく、彼女とゆっくり話せるかもしれないいい機会なのだから、逃すまいと意気込んだ。
そして、躓きつつも、何とかデートに誘う流れも作った。
いざ!と意気込んだ瞬間、聞き慣れた声が後ろからした。
その声の主がすぐにわかって、心の中で盛大にため息をついた。
悪い人じゃない。決して、酒癖が悪いわけでもない。
だが....今は放っておいて欲しかった。
この人は、お酒が入るといつも余計なことを言うのだ。
まぁ、仕事はできる人だし、人柄もいい。
だから、一緒に酒を飲むのは楽しい。
余計なこと、とは俺にとって、という意味だ。
タイミングだったり、俺にとってはあまり知られたくないことだったり。
今日も、だ。
あぁ、今はやめてほしかった。
好きな子に....立花さんに.....シスコンだとバレたではないか。
引かれただろうか。
怖くて、彼女の方を向けない。
さっきまであんなに、彼女しか見ていなかったのに、急に体がこわばって、彼女に視線をむけられなくなる。
上司め....今度、奥さんに、あんたの黒歴史をバラしてやろうか。
恨めしく思っていると、ふと、諦めに似た気持ちも湧き上がる。
....はぁ。仕方ない、か。今まで、どの女の子の前でも、隠そうとしたことさえ、ないもんな。そんな俺を知ってるから、この人も、気にせずネタにしたんだろうし。
仕事に熱中しすぎて、デートをすっぽかしてフラれることが多かったのは事実だが、実はこのシスコンでも、女の子たちに引かれたことが多々ある。
だが、俺にとって、優先順位は妹や仕事だったから、女の子たちにどう思われていようとどうでもいい。
だから、隠したことなど一度もない。
むしろ、オープンに上司にも同期にも、当時付き合っていた彼女にも妹の可愛さを伝えていた。
それなのに....彼女だけはダメだ。
他の女の子に、どう思われようが全く気にならなかったのに。
彼女に、引かれるのは嫌だ。
彼女には、どう思われているか、とてつもなく気になる。
気持ち悪いと思われようものなら、もう、俺は生きていけない。
生ける屍だ。
だが、絶望的だ。
記憶の中では、蒼斗のシスコンに引かなかった女子など存在しないから。
あぁ.....終わった。
落ち込みすぎて、上司や同期、後輩の前なのに、落ち込んでいる素振りを隠すことさえできずにいると、あの大好きな声が。
愛らしくて、一瞬で心臓を鷲掴みにするあの声が。
ポソリと呟いたのだ。
「素敵......」
.....え?......聞き間違いか?
バッと顔をあげ、彼女を見る。
無意識だったのだろう。
彼女自身も、ハッとした顔をしていて、キョロキョロ周りを気にしている。
聞き間違いじゃ、なかった。
今の可愛い呟きは、俺にとってすごく都合の良い空耳なんかじゃなく。
確かに、彼女が発した言葉だったーーー。
そう思ったら、止められなかった。
体が勝手に動く。
二人になりたい。
彼女の可愛い声を、誰にも聞かせたくない。
俺だけの、ものに。
気づいたら立ち上がって、彼女を見つめていた。
ずっと彼女を見ていて思っていた。
彼女は自分の声を聞かせたがらない。
理由はわからないが、何かトラウマがあるのかもしれない。
だから、彼女は俺に見つめられ、自分の声が聞かれた可能性に行き着いたのだろう。
次の瞬間には、顔を青ざめさせていた。
もしかしたら、声を聞かれたことに抵抗を覚えて、自分を避け始めるかもしれない。
あぁ。ダメだ。
逃がさない。
君は.....君だけは、絶対、他のやつに渡さない。
本能的に、今を逃してはならないと思った俺は、体調不良を理由に彼女を連れ出した。
上司たちは驚いていたが、関係ない。
この後どうするか決めていたわけではない。
ほとんど突発的に行動した。
が、良かった。
彼女は抵抗なく受け入れてくれた。
まぁ、驚きのあまり、抵抗する暇もなかったのかもしれないが。
柔らかくて小さな手を引きながら、ちらりと自分の半歩後ろを歩く彼女を見た。
彼女と自分の荷物は、俺が持っているが。
そろそろ歩き疲れていないだろうか。
細い足をみて、ぐっと喉をつめる。
あぁ、可愛い。
小さくて、柔らかくて、いい匂いがして。
守らなくては。自分が絶対守らなくては。
妹の時以上に、庇護欲をそそられ、蒼斗の頭の中は、愛情と使命感と欲望とが入り混じってお祭り騒ぎだった。
ピタリ、と足を止める。
「....ごめんね、急に。あの...立花さんの顔色が悪くて、今にも倒れそうだったから」
嘘ではない。
顔がどんどん青ざめていたし、そう思ったのも事実だ。
声が聞こえたことを伏せたのは、おそらく、彼女も触れられたくない部分だろうと思ったからだ。
今、その話題を出したら、身構えられて距離を詰めにくくなるかもしれない。
だったら、知らないふりをして、彼女の心を開かせる方を優先した方がきっと仲良くなれる。
そう思ったのだ。
彼女は、ぱちぱち瞬きをする。
不安そうに揺れる瞳が、みるみる落ち着きを取り戻していった。
そして、コクリ、とひとつ頷いて、ゆっくりと頭を下げた。
そうですか、ありがとうございます。
そう言っているのだろう。
あぁ、可愛いな....。
だが、まだ彼女はどこか不安なのだろう。
蒼斗の瞳をじっと見つめ、そこにある何かを探ろうとしてくる。
少し首を傾げて。
「ん?どうした?」
そんな彼女の意図にわざと気づかぬフリをする。
直接、声聞こえましたか、などと聞かれていたら嘘はつけなかっただろう。
だが、彼女は探ってきているだけだ。
だったら、本当に問いたい内容は明確にはなっていないのだから、知らぬフリをしても不誠実ではないはずだ。
しばらく見つめて、彼女は諦めたのだろう。
ふりふり、と首を横に振る。
なんでもありませんーーー。
「そう?わかった。あー、じゃぁ、行こうか」
今度は、二人横に並んで歩いた。
もちろん手は繋いだままで。
彼女が戸惑っているのは気づいていたが、離す気はなかった。
蒼斗は背が高い。180センチほどある。
160センチの葵は、蒼斗と会話するには見上げなければならない。
蒼斗が、話しかけるたびにじっと上目遣いで見られて、蒼斗は葵を抱きしめたくてたまらなかった。
繋いでいないほうの手を、こっそりとワキワキさせながら、必死に耐えた。
可愛すぎて、可愛すぎる、可愛さの拷問を。
あぁ....語彙が消失してる。
蒼斗は、遠い目をした。
そして、我に返ったときに思い出した。
「そうだ。あの、さ。もし立花さんが嫌でなかったら....水族館、行かない?次の週末。....何か予定ある?あ!もちろん水族館が嫌なら、立花さんの行きたいところに...。どうかな?」
ピタッと足を止めて、固まった葵の返事をたっぷり時間をかけて待った。
......フリフリ。
葵は、首を横に振った。
それは....どっちだ?....行かないってことか?それとも....予定はない、ってことか?
そして、もう一度、コクリ、と。
蒼斗は喉を鳴らした。
ゴクリ。
葵を見つめる。
葵が、蒼斗を見上げる。
二人の視線がかちあった。
あ.....。
葵の目は、潤んで、顔は真っ赤だ。
恥ずかしそうに体をソワソワさせ、片手はもじもじしている。
視線は、蒼斗を見た後、ふっと逸らされウロウロ落ち着かない。
これは、多分....オッケーってこと?
「....いいの?水族館、一緒に行ってくれる?週末、予定ない?」
もう一度改めて、質問する。
.......コクリ。
「......や、やったぁー!!嬉しいよ。ありがとう。楽しみにしてる。...あ、じゃぁさ、連絡先って聞いてもいい?色々予定決めたいし。連絡とれた方が、当日迎えに行きやすいしさ」
子供みたいにはしゃぐ彼を見たら、騒がしい心臓がさらに騒がしくなった。
そして、蒼斗と連絡先を交換した葵は、家まで送ってもらった。
遠慮しようとしたが、暗いしお酒も入っている君をひとりで帰らせて何かあったらどうするんだ、と強く言われて。
どんなに近くてもダメだ、と断固として家の目の前、なんなら、家のドアを開けて中に入るまで、きっちりと送り届けられたのだった。
****
「で?....なんでお前たちまでここにいるわけ?」
不機嫌そうに、低い声で尋ねられ、井上と遠野は「ひっ」と小さく悲鳴をあげた。
今、葵と蒼斗、そして井上と遠野の四人は、水族館の入り口前で足を止めて睨み合っていた。
主に、睨んでいるのは蒼斗だが。
「....だ、だってよぉ。なぁ、遠野?」
「うっ....は、はい。...ね、井上さん?」
あまりの剣幕に、二人は身を寄せ合って縮こまりながら、震える声で同意し合っている。
お互いに、説明は相手に任せたいようだ。
蒼斗が、あまりにも怖い顔をしているからだろう。
ハラハラと落ち着かない様子で、蒼斗と井上たちを交互で見て、アタフタさせているのは葵だ。
正直、何故二人がここにいるのか、葵も状況を掴みきれていないが、喧嘩は困る。
遠野先輩は、葵のことを可愛がってくれる大切な先輩なのだ。
そんな葵の様子に気づいてか、蒼斗はぐっ、と体に力を入れて、次の瞬間、小さく息を吐いた。
「....はぁ。もういいよ。どうせお前らのことだ、面白がってか、心配してか。そんなとこだろ。...ちっ、こんなことなら井上になんて話すんじゃなかった」
最後の方は、小さくぶつぶつ言っていて、聞き取れなかったが、何とか場はおさまったようで葵はほっと一息ついた。
井上も遠野も、ぶつぶつ小言を言いながらも気持ちを落ち着けた蒼斗に、合掌している。
文句を言う男に、手を合わせる男女、それを見守る女。
後から考えたら、通行人にどんな目で見られていたのだろうと少し恥ずかしくなった。
「立花さん、まぁ、こういうわけだから、なんか納得いかないけど、四人で見て回るのでもいいかな?あ、もちろん、俺が誘ったんだから、俺と回ってね。この二人はおまけとでも思って、なんなら無視してくれてもいいから。むしろその方が、俺も、立花さんと二人きりで回ってる気持ちになれて嬉しいし」
.......。
やっぱりまだ溜飲は下がっていないらしい。
勘違いしそうなほど甘い顔で返答に困る内容をさらっと言われて、葵は固まってしまったが、次の瞬間には蒼斗に右手をすくわれて、手を引かれて歩き始める。
その後を、井上と遠野が「あ、待てよ〜」と慌ててついてきた。
ちらっと振り返ると、すぐ後ろで井上と並んで歩く遠野と目が合った。申し訳なさそうに「ごめんね」と手を合わせてくる。
謝る必要なんてないのに。
確かに驚きはしたが、反面、少し安堵もした。
蒼斗の誘いに応じはしたが、葵は今まで男性と二人で出かけたことなどない。
内心ガチガチに緊張していたのだ。
そこに、信頼する遠野が現れて、緊張がほぐれたのは本当で。
葵は、安心させるように小さく微笑んでふりふりと首を振ってみせた。
意味が伝わったらしい。
遠野も、安心して微笑んでくれた。
「わぁ、見て。立花さん!これ、すっごいデカい!」
蒼斗が事前にチケットを買ってくれていたので、館内には並ぶことなく入ることができた。
井上と遠野も、井上が事前にチケットを買っていたようで後に続く。
入ってすぐの大きな水槽の前で、蒼斗はサメを見つけてはしゃいでいる。
遠野のおかげで緊張がほぐれた葵は、その姿を見て、思わず表情を和らげた。
葵の表情に、蒼斗も肩の力が抜け、葵にどんどん話しかける。
葵の返答を待たずに次々と質問や話題を振るため、葵は半分も反応できていないが、それでも蒼斗は全身で喜びを表現していた。
「あーあ。あんなデレデレして。どんだけ、立花さんのこと好きなんだよ。なぁ?」
ニヤニヤしながら、それを少し離れたところから見守る井上。
「.......ダダ漏れですね」
井上は、ひとつ頷く。
「違いねぇ。.....どうだ?少しは安心したか?」
「....はい。まぁ、小坂さんがいい人なのは認めてたんです...。先日の話しもありましたし、遊びだとか、そんな心配もしてません」
「そうか」
「はい。.....私は....ただ.....」
遠野は、話を一旦区切り、しばらく考え込んだ。
私が、心配だったのはーーーー。
****
話は、あの歓迎会の日に遡る。
葵を連れて、出て行った小坂の背中を見送りながら、遠野はぶつくさと呟いていた。
「....大丈夫かしら。小坂さんのことだから大丈夫だとは思うけど....葵ちゃん、声あまり出さないし、万が一何かあったら....?それに、小坂さん、いつもより距離が近くなかった....?....ダメ!やっぱり心配だわ!すみません!私、やっぱり小坂さんと一緒に立花さんを送りに....」
そう言って席を立とうとした時、井上にパシッと腕を掴まれて再び隣に座らされた。
「え?」
「まぁさ、大丈夫だから。座れよ。何か飲むか?すみませーん!この子の飲んでるこれと同じの、もう一杯!」
テキパキと注文して、断る隙を与えられず、遠野はただただ戸惑っていた。
すると、井上が言ったのだ。「任せてやってくれないか」と。
それは、小坂に葵のことを任せてやってくれ、ということだろうか。
意図がつかめず、首を傾げていると、井上が補足する。
「まぁさ、なんだ。あいつにも、ようやく春が来たってことでさーーー」
それから、井上は簡単に説明してくれた。
仕事が大好きで、彼女ができても、長続きしなかった小坂。
そんな小坂がどういうわけか、今、葵に夢中であること。
距離を縮めたがっている小坂にとって今日は、一大イベントであったこと。
妹を溺愛していたくらい、本来の小坂は愛情深い男であり、そんな男が本気で惚れたら、これでもかというほど大切に、大切にするに違いないこと。
だから。つまりはーーー。
そんな小坂が、惚れた葵を傷つけるようなことは絶対にあり得ない、ということーーーー。
「本当はさ、こういうこと、あいつの許可なしに遠野に伝えるのはルール違反なんだけどさ...。俺、遠野のこと、信用してるからさ。それに、立花さん、お前だけには心許してるよな。見てたらわかる。遠野も、立花さんのこと可愛がってるの伝わってくるし。まぁ....何というか、だから....見守ってやってほしいって伝えたくて。勝手な考えだけどさ、多分、立花さんにとっても、あいつはおすすめだと思うんだよ。さっきも、言ったけど....あいつ、ぜっっったい!立花さん、大切にすると思うぞ?...まぁ、たまに、過保護になりすぎて鬱陶しがられるかもしれねぇが。なーんか、二人お似合いだと思うんだよな、俺は」
そう言う、井上の顔は、優しい。
初めての本気の恋愛に暴走する困った友人を、ひたすら見守っているようだ。
心の中で、うまくいくことを願いながら。
「..........」
確かに、井上の言う通りかもしれない。
でも、本当に大丈夫だろうか.....。
葵は、芯のあるいい子だ。
一緒に仕事をしていれば、わかる。
一方で、心のどこか繊細な部分に、誰にも踏み込まれたくない何かを抱えているのを感じる。
人と一定の距離を保っているのも、そのせいだろう。
もし、そこに踏み込まれるのを嫌がるなら、葵にとって、小坂はあまり歓迎できる存在ではない可能性がある。
小坂がいい人で、葵をきっと大切にしてくれるであろうことは理解できても。
肝心の葵が、心の準備ができていなかったら?
人は、誰しもタイミングというものがある。
もし、葵の抱えている何かをいつか手放すタイミングが訪れたとしても、それは葵自らが決めるべきではなかろうか。
きっと手放すためには、葵自身が向き合わなければならない感情やトラウマがあるはずだ。
それを、いくら小坂が葵を大切にしてくれるであろう存在で、小坂自身が猛烈に葵にアプローチしているからと言って、それに押されて、葵自身が望まぬタイミングで、心をこじ開けるようなことになってしまったら?
小坂は、葵に寄り添ってくれるだろうが、葵は望まぬタイミングで心と向き合うことになり、辛くはないだろうか....。
小坂が送りオオカミみたいな行動に出るのでは、という懸念は綺麗さっぱり消え去ったものの、本気の恋愛に身を焦がす小坂を知って、次は違う懸念事項が頭の中を支配する。
妹のように可愛がっている後輩のことを思うと、複雑なのだ。
黙り込んでしまった遠野を見つめて、井上は小さく息を吐くと、「わかった」と一言言った。
「よし、何を心配してるかわからんが。なら、見に行こうぜ。百聞は一見にしかず、っていうだろ?」
ニッと、笑った井上の顔を、遠野が首を傾げて見ていたーーーー。
******
そして、現在に至る。
目の前の葵と小坂は、どこからどう見ても、微笑ましいカップルだ。
その中身は、まだ付き合ってもいない、なんなら、小坂の一方通行の片想い状態でも、側から見たらそんな風に見えない。
というよりも、少なくとも、お互いのことをきちんと想いあっている二人に見えるのだ。
そんな様子を間近で見て、遠野の中で、不安が消え去っていく。
もしかしたらーーー。
小坂が、葵に、心の中の何かを手放すきっかけを与えるかもしれない。
でも、それは、小坂の押しに負けて、望まぬタイミングで無理やり心をこじ開けるのではなく。
きっと、葵自身が望んで、心と向き合うことになるのではないか、と。
何の根拠もないが、今の二人を見ていたら、そう感じたのだ。
小坂と交流を重ねていくことで、葵は変わっていくのかもしれない。
自身も気づかぬうちに。
そして、いつか、自ら望んで、心の中の何かを手放すことができるだろう、と。
だってーーーー。
葵ちゃん、何だか......。
「.....幸せそう....」
ぽそっと言った言葉は、誰にも拾われずに、空気に馴染んで消えていく。
でも、遠野の顔は靄が晴れて、隣で二人を見守る井上とそっくりの顔つきになっていた。
「....井上さん。ありがとうございました。私、心配しすぎてたかもしれません。何だか、二人を見てたら、大丈夫な気がしてきました。葵ちゃんのことは、小坂さんに任せましょう。...せっかくのお休みなのに、付き合わせちゃって、すみません」
遠野は井上に向かってペコリ、と頭を下げて、優しげに微笑んだ。
井上は、目を瞠り、ゆっくりと視線をそらした。右手で口元を隠す。
よく見ると、耳がうっすらと赤く染まっているが、遠野は気付かず、首を傾げている。
「.....いや、気にするな。.....お前のそういう面倒見のいいところ、俺は...好きだ」
突然ボソっと呟かれた井上の言葉に、遠野はピシリと固まった。
その後すぐ、遠野と井上は姿を消した。
二人には気付かれないよう、こっそりと。
二人の世界に入っていた、蒼斗と葵が、遠野と井上が居ないことに気付くのはずっと後のことだ。
そしてーーーー。
二人の元から離れた遠野と井上は、今度は、目的を自身たちのデートに切り替え、実はずっと遠野に片想いしていた井上が機を逃すまいと猛烈にアプローチ。
見事、井上は告白を成功させ、恥ずかしがる遠野を「可愛い、可愛い」と甘々に追い詰めるのであったーーー。
*****
「あいつ、絶対俺らのことにかこつけて、今頃遠野を口説いてるだろ。ほんと、策士だよな」
ボソリと放たれた言葉を聞き取ることはできなかった葵が、蒼斗を仰ぎ見る。
「いや、何でもない。さて、立花さん、次は何みる?イルカショーが、このあと始まるみたい」
イルカショーと聞いて、目を輝かせる葵に、目を細める蒼斗は、先程まで考えていたことなど頭から抜け落ちていく。
心から二人の時間を満喫して、遅くならないうちに、葵を家まで送り届けるのだったーーー。
