葵は、ひとりっ子だ。
兄弟はいないが、両親は葵を可愛がってくれたし、不自由なく子供時代を過ごしていた。
あれは、小学6年生の頃だった。
葵の体が変化してきた。背が伸び、全体的に丸みを帯びてきて、胸が膨らみ始めた。
ちょうど子供から大人の女性への準備をすすめる時だ。
思春期にもさしかかり、父親とも少しぎくしゃくした。
だが、母がうまく立ち回ってくれたおかげで、父親との距離感も上手に保ちつつ、葵は何とか自分の体や心の変化に対応しようとしていた。
そんな、心も体もぐらぐら揺れている時。
きっかけは、クラスの男子の一言だった。
「あいつ、声、変わってねぇか?いつも鳥肌立つんだよな....」
それだけだ。
ふと、耳に入ってきた自分に対する他人の評価。
きっと、大人になって色々な経験を経てからなら、悪い意味でないかもしれない、大丈夫だと忘れてしまえたかもしれない。
だが、その時の葵では、受け止めきれなかった。
深く心に残って、消えてくれない。
.....声?....私って、声が変、なの?
そう思ってしまった後は、自分の声がもう気になって仕方なくなった。
今まで、友達や先生、両親。
周りから、そんな評価をもらったことなど一度もなかった。
だから、考えたこともなかったのに、もしかして、みんなもずっとそう思っていたのだろうか?
どんどんネガティブな方向に、思考が沈んでいく。
すると、ある時、喋れなくなった。
家族と、唯一小さな頃から一緒に居た幼馴染にだけは普通に話せるが、学校で、外で、葵は声を出せなくなった。
病院で、場面緘黙症だと診断された。
治療はしたが、治らなかった。
正確に言えば、治ったかどうかわからなかった。
結局、場面緘黙症を発症した日をきっかけに、葵は葵の意思で、外では声を出さなくなったから。
小学生のその日以来、葵が外で声を発したいと感じることがなくなったからーーー。
****
「葵ちゃん?....おーい!葵ちゃんってば!」
とんとん、と優しく肩を叩かれて、私はハッとした。
どうやら、また思考の海に沈んでいたらしい。
見ると、葵の隣のデスクの遠野 美佳子(とおの みかこ)先輩だった。
先輩は、葵の三つ上の先輩で、葵が入社した時の教育係でもある。
きっと喋らない葵は、教えづらい後輩だっただろうに、嫌な顔ひとつせず、気味悪がることもなく、根気強く仕事を教えてくれた。
それに、葵が返事をしやすいように、イエス、ノー、で答えられる質問にして、コミュニケーションを図りやすくしてくれる。
表情の乏しい葵の、正確な感情を読み取ることにも長けている。
体調不良の時、誰にも言わず我慢していたら、すぐに気付いて早退を促される。
いつも、葵のことをさりげなく気遣ってくれる、優しい先輩だ。
葵は、心の中で、いつも遠野先輩に感謝していた。
遠野先輩には、葵と同い年の妹がいるらしい。「葵ちゃんを見てると、うちの妹を思い出すのよ〜」とニコニコ言われたことがある。
こんなかっこいい先輩の妹さんだから、きっと素敵な妹さんなのだろうな、と葵は思った。
「珍しいわね。葵ちゃんが、考え事なんて。体調は...悪いわけではなさそうね。安心したわ」
そう言って笑った先輩は、やっぱり今日も優しい。
コクリ、とひとつ頷く。
そして、何か御用ですかと尋ねるために、首を傾げて彼女を見上げた。
「あ、そうなの。あのね、今日、仕事が終わったら歓迎会でしょ?それで...葵ちゃん、大丈夫かなって...。ああいう場所、本当は苦手なんじゃない?...もし、行きたくなければ、体調不良にして遠慮してもいいのよ?会社の方針と言っても、“体調不良“の人間を無理やり参加させるほど、この会社は鬼畜ではないわ。ね?」
そう言って、ウィンクして微笑んでくれる。
....あぁ、なんて素敵な先輩なんだろう。こんな私のことを、大切な後輩として扱ってくれる。本当にありがたいな...。
一度、入社したての頃、人間関係や環境にうまく適応できず、不眠が続いて会社で倒れたことがあった。
教育係だった先輩は、責任を感じて、とても謝ってくれた。
もっと私が気にかけるべきだったわ、と。
そんなことはないのに。十分に、先輩はフォローしてくれていた。
ただ、不器用で、弱い自分が悪いだけなのに。
そう言葉にして伝えたくても、葵は言葉を発することができないので、首を左右に振ることしかできなかったーーー。
そして、今の先輩との関係性ができあがっていった。
おそらく、人と関わることが苦手な葵を気遣って、負担になるのでは、と考えての言葉なのはすぐにわかった。
葵は、その優しさに少し泣きそうになりながら返事をした。
首を、横に振って。
大丈夫です。参加します、と。
「....そう?....わかったわ。私もなるべく近くにいるわね。何かあったら、いつでも言ってね。もし途中で、負担になったら、抜けても大丈夫だから」
コクリ、と葵が頷くと、ホッとしたように笑顔を見せて、遠野は仕事に戻っていった。
葵も、あと残り2時間となった終業の時刻までに、今日中に終わらせておきたい仕事を手早く片付けにかかった。
****
「おーい!こっち!ビール頼むよ!あ、あと枝豆もね、追加で」
「私は、カシスオレンジ。この子も同じのだって!」
「で?最近、調子どう?」
「この子、今年入ったんですよ。仕事の覚えもはやくて!期待の新人なんです。どうぞお見知りおきを」
「ご指導、よろしくお願いします!!」
そこらじゅうで、ポンポンとテンポよく会話が進んでいく。
葵は、その声を耳にしながら、やはり黙々と食べ物を口に運んでいた。
隅の、隅。一番、人目につきにくい端っこで、小さくなりながら。
遠野先輩が、時折席まで来てくれて、体調を気にする素振りを見せてくれる。
本当にこの先輩は、どこまで優しいのだろう。
心配させたくなくて、先輩にもお酒や料理、先輩の同期たちとの会話を楽しんで欲しくて、葵は意識していつもより大袈裟に料理やお酒を楽しんでいる表情を見せた。
段々と、先輩も安心してきて、自分のペースで同期たちとの会話を楽しむようになった。
ホッとして、お腹も少し満たされると、より多くの周りの会話が自然と耳に入ってくる。
葵から少し離れた、斜め向かいに蒼斗がいた。
それは遠野先輩のすぐ目の前で、隣の同期であろう女性と会話していた遠野は、会話が一段落したところで、次に蒼斗と話し始めた。
すると、井上も移動してきて、その場に加わる。
遠野と蒼斗と井上、この三人は実はよく知った仲らしく、雑談を始めた。
葵は、少し離れたところから、自然と入ってくる会話を聞いていた。
カラカラと、今飲み干したお酒のグラスの氷が鳴る。
何か...頼もうかな....。
そう思ったが、すぐにやめた。
キョロキョロしてみたが、他の人がメニューを取り出して新しく注文しようとする動きはないし、葵ひとりで店員さんを呼んで注文することはできない。
お水でも飲もう....。
そうして、水差しに手を伸ばした時、葵の近くに影が落ちた。
思わずそちらを見ると、さっきまで遠野や井上と会話していた蒼斗が近寄ってきていた。
「何か、飲む?」
目を細めて、すごく嬉しそうに尋ねる。
一瞬、動きが停止してしまったが、我に返ってコクリと頷く。
.....どうして、わかったんだろう。....遠野先輩たちと話してたはずなのに、いいのかな....?
葵がぐるぐる考えているうちにも、蒼斗はいそいそとメニューを取り出して、葵の見やすい向きに変え、差し出してくれる。
「どれがいい?お酒?それともソフトドリンク?立花さんは、どんなドリンクが好きなの?お酒は強い?やっぱり甘いのが好き?それともビールも飲める?」
矢継ぎ早に質問され、葵はまた停止した。
そんな葵をみて、慌てて謝った。
「ご、ごめん。立花さんと話せるのが嬉しくて。色々知りたくて。困らせたね....。ゆっくり選んで。俺が注文するよ。お酒だけじゃなく、食べたいものもあったら教えてね」
少し言葉尻に甘さを感じる声音で、そう言われて、葵は動きかけた体をまた強張らせる。
知りたいなんて、初めて言われた。
やっぱり....葵は蒼斗といると調子が出ない。
そわそわする気持ちで、葵はメニューに集中するよう視線を走らせた。
あまり苦いお酒は好みではないので、甘いみかんのお酒を選んだ。
ゆっくりうかがうように、メニューを指差すと、「ん。これだね。食べ物は、いい?わかった。ちょっと待ってて」と席を立って店員さんを呼びに行ってくれた。
「すみませーん。これ、ひとつお願いします。あと....お前らは何もいらない?」
「私はいらない。井上さんは...これですね。小坂さん、井上さんがビールひとつって」
「はいよー」
遠野と井上にも、さりげなく追加の注文を聞いて店員さんにお願いし、また蒼斗は葵のところに戻ってきた。
その間、遠野と井上は二人で会話している。
ペコリ、と頭を下げると、蒼斗はとろりと溶けたみたいな甘い笑みを浮かべた、ように見えた。
いや、勘違いだろう。
多分、蒼斗にとっては、これが普通の笑みなのだ。
....本当によく気がつく人だなぁ。
葵は蒼斗のことをじっと見た。
仕事に真面目で、会社で人と接する時はさりげなくイジられ役になって人を笑わせる。
もちろん、人を楽しませるイジらせ方だ。
貶められるような、不快なイジられ方ではなく、見ていて何だか肩の力が抜けるような、リラックスできるような、そんな会話に仕向けている印象で。
会話が途切れかけたら、自分から会話を提供し、どんどん心を開かせていく。
そして、信頼関係を築く。
それが仕事にプラスに働いているのだろう、と違う部署の葵でもわかる。
今も、さりげなく葵のことを気遣ってくれる。
そういえば、蒼斗も遠野みたいに、葵を気味悪がらない。
むしろ、積極的にコミュニケーションを図りに来てくれている気がする。
『差し入れ』までくれて、気にかけてくれる。
きっと、とても優しい人なのだろう。
やっぱり、何かお礼を考えようと葵は改めて思った。
「いいんだ。あのさ....立花さんって、いつも休みの日は何してるの?」
突然そう聞かれて、葵は質問の意図をはかりかねた。
どうしてそんなことを聞くのだろう。
というか、何故彼はまだここにいるのか。
遠野や井上と会話していたのに、葵が何か注文しようか迷っていたから放っておけずに、来てくれたのだろう。
きっと優しさや気遣いで。
だったら、もう大丈夫なのに。
葵は、戸惑った。遠野や井上にも、申し訳なさがどんどん募ってしまう。
少し困って、眉を下げていたからだろうか。
蒼斗は、その意味を答えづらいから困っていると、とったようだ。
「あ、違うんだ。ごめん。そうだよな、答えたくないこともあるよな。それに質問の仕方も悪かったか...。じゃあ....水族館って、好き?」
答えたくなくて困ったのではない、と否定したくても声が出ないので諦め、最後の質問にだけ答えることにした。
相変わらず、意図はわからないままだが。
コクリ。
ひとつ頷く。
すると、蒼斗の表情はまた明るくなった。
「じゃ、じゃぁさ。もし良ければ....」
「おい!小坂ぁ〜!飲んでるかぁ?」
蒼斗が何か言いかけたタイミングで、蒼斗と井上の所属する部署の上司が話しかけてきた。
蒼斗は、ガクリと少し肩を落としたようにみえたが、気のせいだろうか。
「....剣持さん、飲み過ぎです」
恨めしそうに、フランクに話す蒼斗は、その上司ともいい関係性なのだろう。
「ひっく、いいだろう?たまには飲んでも。迷惑はかけんさ。ところで、妹さんは元気か?」
明らかに酔ってはいるが、節度ある飲み方をしている様子だった。
「...元気です」
「そうか。もう妹さんが結婚して、2年になるか。シスコンのお前のことだから、当時は心配したぞ」
....シスコン?.....小坂先輩、のこと?
「....うっ。....あのぉ、剣持さん?....その、これ....美味しいですよ」
急にしどろもどろになって、話題を変えようとし始めた蒼斗を、上司は許してくれなかった。
「あぁ?いや、俺はもうお腹いっぱいだ。まぁ、あれだ。シスコン小坂も、なんとか無事に過ごしてて、仕事もちゃんとこなしてるから、安心したぜ。俺は」
「............」
「小坂さんって、シスコンなんですか?」
遠野が、上司と蒼斗の会話に入ってきた。
「おぉ。シスコンもシスコン。すごいシスコンだよ。....おっと、この話、してもいいか?小坂」
「.....だめだって言っても、話すでしょう、あなたは」
蒼斗はむうっと唇を突き出して、まるで拗ねている子供だ。
「ひひ、わりぃな。まぁ、酒の席だから。許せ。....小坂はな、五つ下の妹を溺愛しててな。入社当時も、学生だった妹さんを、送り迎えしててな。変な虫がついたら困る!って。門限までこいつが決めて、徹底的に妹を守っててよ。結婚話が出た時なんて、どんだけ悲壮な顔してたか。結局、俺が認めた男じゃないと嫁にやらん!!とか言い出して、一悶着起こしてたな。相手の男を何とか諦めさせようと画策したり。でもな、何でもすっげーいい奴だったんだとよ。それはもう、妹さんを大事に、大事にする一途な男でな。大切な人の家族に認めてもらってからじゃないと結婚できないからって、小坂を懸命に説得したんだよ。2年も、だせ。小坂も最後は根負けしてよ。これだけいい男なら、妹も安心して任せられるって、認めたんだ。でも、いざ結婚式に出たら、もう。号泣よ?俺も、小坂のお父さんとちょっとした知り合いだからよ、結婚式に呼んでもらったんだけど。もう俺の方が焦ったぜ。どう泣き止ませようかって。まぁ、今となっては笑い話だがな」
そう言ってぐいっとお酒をあおる上司は、小坂を可愛がっているのだろう。
口調はいじっているが、上司として愛情を感じる温かい眼差しをむけていた。
「へぇ〜。そんなに。知らなかったです」
「俺は、知ってた。が、まぁ、あの小坂の溺愛ぶりからしたら号泣も納得だな」
遠野が目を丸くして言えば、井上が楽しげに笑って上司に同調した。
ガクリ、と明らかに肩を落として視線を下げる蒼斗は、それ以上何も言わず、ただ落ち込んでいるように見えた。
上司や遠野たちとの会話に加わっているからか、葵の方に全く視線を向けなくなった。
さっきまで、葵のそばに居てくれることに申し訳なさを感じていたはずなのに、ちくり、と葵の胸が痛んだ気がした。
でも....それよりも、葵は思ったのだ。
上司の話を聞いて。
「素敵.......」
ポソっと。本当に蚊の鳴くようなか細い声で。
葵はハッとした。無意識だった。
心の中が、その思いでいっぱいになって、本当に無意識に言葉が口から滑り出した。
......え?.....私.....今、喋って、た?
思わず口元をおさえる。
小さな声だから.....大丈夫。
聞こえていないはずだ。
キョロキョロと周りを見る。
.....良かった。....誰にも聞こえてなかったみたい。
上司も、遠野や井上も、誰も葵を見ていない。
きっと小さすぎて、彼らの耳には届かなかったのだ。
それでいい。これ以上、自分の変な声で人を不快にさせてはならないんだから。
そう思ったのも、束の間。
突然ーーーー。
ガバっ!!
何かの音がして、そちらを見ると、蒼斗が立ち上がって葵を見ていた。
心なしか、少し顔が赤い。
お酒に酔ってしまったのだろうか。
それよりも。
一体、彼はどうしたのか。
どうして、自分をじっと見下ろしているのか。
葵は、首を傾げた。
が、すぐにひとつの可能性に行き着いて。
さっと血の気が引いた。
ま....まさか......きこ、えてた?
そう思った瞬間、プルプルと小さく体が震えだした。
自分の意思では止められない。
恐怖、後悔、恥ずかしさ。
自分の変な声を、人に聞かれた。
不快な気持ちにさせてしまった。
もう頭の中は、パニックだった。
どうしよう、とぎゅっと目を瞑った瞬間。
「あの、すみません。立花さんが、体調が優れないみたいで。俺、送ってきます。これ、代金。二人分ここに、置いておきますんで」
「お、おぉ....お疲れ様。気をつけてな」
突然立ち上がり、退席すると言った蒼斗の気迫に少し後ずさった上司が、顔を引き攣らせながら返事をする。
「お疲れ様でした...。じゃなくて、葵ちゃん、やだ、ほんと!顔色がすごく悪いじゃない。ごめんね、気づかなくて....。ゆっくり休んでね。小坂さん、ちゃんと送り届けて下さいね、私の可愛い後輩なので」
遠野は、上司と同じく一瞬驚いていたものの、すぐに葵の顔色に気付き、蒼斗に念を押して頼んでいた。
「おつかれ〜」
井上は、何となく察したものがあったのか、呑気に手をひらひらさせて二人を見送った。
「いこう。荷物は...あぁ、これかな。他にはない?....おいで」
パニックになっていた葵は、何が何だか。
気づいた時には、蒼斗に手を引かれ、あれよあれよとお店を退店していた。
「.........」
葵の歩幅に合わせて、ゆっくり歩いてくれているのだろう。
手を繋いだまま、蒼斗は葵の少し先を歩く。
.....な、なにが起こってるの?
店を出てから、一言も喋らない蒼斗の背中を見つめる。
どうしてこんな状況になっているのか。
どこに向かっているのか。
いつまで手を繋いで歩くのか。
ど....どうしたらいいのーーー!?
葵はこの時、人生で初めてこんなに大きな声を出した。
もちろん心の中で、だが。
兄弟はいないが、両親は葵を可愛がってくれたし、不自由なく子供時代を過ごしていた。
あれは、小学6年生の頃だった。
葵の体が変化してきた。背が伸び、全体的に丸みを帯びてきて、胸が膨らみ始めた。
ちょうど子供から大人の女性への準備をすすめる時だ。
思春期にもさしかかり、父親とも少しぎくしゃくした。
だが、母がうまく立ち回ってくれたおかげで、父親との距離感も上手に保ちつつ、葵は何とか自分の体や心の変化に対応しようとしていた。
そんな、心も体もぐらぐら揺れている時。
きっかけは、クラスの男子の一言だった。
「あいつ、声、変わってねぇか?いつも鳥肌立つんだよな....」
それだけだ。
ふと、耳に入ってきた自分に対する他人の評価。
きっと、大人になって色々な経験を経てからなら、悪い意味でないかもしれない、大丈夫だと忘れてしまえたかもしれない。
だが、その時の葵では、受け止めきれなかった。
深く心に残って、消えてくれない。
.....声?....私って、声が変、なの?
そう思ってしまった後は、自分の声がもう気になって仕方なくなった。
今まで、友達や先生、両親。
周りから、そんな評価をもらったことなど一度もなかった。
だから、考えたこともなかったのに、もしかして、みんなもずっとそう思っていたのだろうか?
どんどんネガティブな方向に、思考が沈んでいく。
すると、ある時、喋れなくなった。
家族と、唯一小さな頃から一緒に居た幼馴染にだけは普通に話せるが、学校で、外で、葵は声を出せなくなった。
病院で、場面緘黙症だと診断された。
治療はしたが、治らなかった。
正確に言えば、治ったかどうかわからなかった。
結局、場面緘黙症を発症した日をきっかけに、葵は葵の意思で、外では声を出さなくなったから。
小学生のその日以来、葵が外で声を発したいと感じることがなくなったからーーー。
****
「葵ちゃん?....おーい!葵ちゃんってば!」
とんとん、と優しく肩を叩かれて、私はハッとした。
どうやら、また思考の海に沈んでいたらしい。
見ると、葵の隣のデスクの遠野 美佳子(とおの みかこ)先輩だった。
先輩は、葵の三つ上の先輩で、葵が入社した時の教育係でもある。
きっと喋らない葵は、教えづらい後輩だっただろうに、嫌な顔ひとつせず、気味悪がることもなく、根気強く仕事を教えてくれた。
それに、葵が返事をしやすいように、イエス、ノー、で答えられる質問にして、コミュニケーションを図りやすくしてくれる。
表情の乏しい葵の、正確な感情を読み取ることにも長けている。
体調不良の時、誰にも言わず我慢していたら、すぐに気付いて早退を促される。
いつも、葵のことをさりげなく気遣ってくれる、優しい先輩だ。
葵は、心の中で、いつも遠野先輩に感謝していた。
遠野先輩には、葵と同い年の妹がいるらしい。「葵ちゃんを見てると、うちの妹を思い出すのよ〜」とニコニコ言われたことがある。
こんなかっこいい先輩の妹さんだから、きっと素敵な妹さんなのだろうな、と葵は思った。
「珍しいわね。葵ちゃんが、考え事なんて。体調は...悪いわけではなさそうね。安心したわ」
そう言って笑った先輩は、やっぱり今日も優しい。
コクリ、とひとつ頷く。
そして、何か御用ですかと尋ねるために、首を傾げて彼女を見上げた。
「あ、そうなの。あのね、今日、仕事が終わったら歓迎会でしょ?それで...葵ちゃん、大丈夫かなって...。ああいう場所、本当は苦手なんじゃない?...もし、行きたくなければ、体調不良にして遠慮してもいいのよ?会社の方針と言っても、“体調不良“の人間を無理やり参加させるほど、この会社は鬼畜ではないわ。ね?」
そう言って、ウィンクして微笑んでくれる。
....あぁ、なんて素敵な先輩なんだろう。こんな私のことを、大切な後輩として扱ってくれる。本当にありがたいな...。
一度、入社したての頃、人間関係や環境にうまく適応できず、不眠が続いて会社で倒れたことがあった。
教育係だった先輩は、責任を感じて、とても謝ってくれた。
もっと私が気にかけるべきだったわ、と。
そんなことはないのに。十分に、先輩はフォローしてくれていた。
ただ、不器用で、弱い自分が悪いだけなのに。
そう言葉にして伝えたくても、葵は言葉を発することができないので、首を左右に振ることしかできなかったーーー。
そして、今の先輩との関係性ができあがっていった。
おそらく、人と関わることが苦手な葵を気遣って、負担になるのでは、と考えての言葉なのはすぐにわかった。
葵は、その優しさに少し泣きそうになりながら返事をした。
首を、横に振って。
大丈夫です。参加します、と。
「....そう?....わかったわ。私もなるべく近くにいるわね。何かあったら、いつでも言ってね。もし途中で、負担になったら、抜けても大丈夫だから」
コクリ、と葵が頷くと、ホッとしたように笑顔を見せて、遠野は仕事に戻っていった。
葵も、あと残り2時間となった終業の時刻までに、今日中に終わらせておきたい仕事を手早く片付けにかかった。
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「おーい!こっち!ビール頼むよ!あ、あと枝豆もね、追加で」
「私は、カシスオレンジ。この子も同じのだって!」
「で?最近、調子どう?」
「この子、今年入ったんですよ。仕事の覚えもはやくて!期待の新人なんです。どうぞお見知りおきを」
「ご指導、よろしくお願いします!!」
そこらじゅうで、ポンポンとテンポよく会話が進んでいく。
葵は、その声を耳にしながら、やはり黙々と食べ物を口に運んでいた。
隅の、隅。一番、人目につきにくい端っこで、小さくなりながら。
遠野先輩が、時折席まで来てくれて、体調を気にする素振りを見せてくれる。
本当にこの先輩は、どこまで優しいのだろう。
心配させたくなくて、先輩にもお酒や料理、先輩の同期たちとの会話を楽しんで欲しくて、葵は意識していつもより大袈裟に料理やお酒を楽しんでいる表情を見せた。
段々と、先輩も安心してきて、自分のペースで同期たちとの会話を楽しむようになった。
ホッとして、お腹も少し満たされると、より多くの周りの会話が自然と耳に入ってくる。
葵から少し離れた、斜め向かいに蒼斗がいた。
それは遠野先輩のすぐ目の前で、隣の同期であろう女性と会話していた遠野は、会話が一段落したところで、次に蒼斗と話し始めた。
すると、井上も移動してきて、その場に加わる。
遠野と蒼斗と井上、この三人は実はよく知った仲らしく、雑談を始めた。
葵は、少し離れたところから、自然と入ってくる会話を聞いていた。
カラカラと、今飲み干したお酒のグラスの氷が鳴る。
何か...頼もうかな....。
そう思ったが、すぐにやめた。
キョロキョロしてみたが、他の人がメニューを取り出して新しく注文しようとする動きはないし、葵ひとりで店員さんを呼んで注文することはできない。
お水でも飲もう....。
そうして、水差しに手を伸ばした時、葵の近くに影が落ちた。
思わずそちらを見ると、さっきまで遠野や井上と会話していた蒼斗が近寄ってきていた。
「何か、飲む?」
目を細めて、すごく嬉しそうに尋ねる。
一瞬、動きが停止してしまったが、我に返ってコクリと頷く。
.....どうして、わかったんだろう。....遠野先輩たちと話してたはずなのに、いいのかな....?
葵がぐるぐる考えているうちにも、蒼斗はいそいそとメニューを取り出して、葵の見やすい向きに変え、差し出してくれる。
「どれがいい?お酒?それともソフトドリンク?立花さんは、どんなドリンクが好きなの?お酒は強い?やっぱり甘いのが好き?それともビールも飲める?」
矢継ぎ早に質問され、葵はまた停止した。
そんな葵をみて、慌てて謝った。
「ご、ごめん。立花さんと話せるのが嬉しくて。色々知りたくて。困らせたね....。ゆっくり選んで。俺が注文するよ。お酒だけじゃなく、食べたいものもあったら教えてね」
少し言葉尻に甘さを感じる声音で、そう言われて、葵は動きかけた体をまた強張らせる。
知りたいなんて、初めて言われた。
やっぱり....葵は蒼斗といると調子が出ない。
そわそわする気持ちで、葵はメニューに集中するよう視線を走らせた。
あまり苦いお酒は好みではないので、甘いみかんのお酒を選んだ。
ゆっくりうかがうように、メニューを指差すと、「ん。これだね。食べ物は、いい?わかった。ちょっと待ってて」と席を立って店員さんを呼びに行ってくれた。
「すみませーん。これ、ひとつお願いします。あと....お前らは何もいらない?」
「私はいらない。井上さんは...これですね。小坂さん、井上さんがビールひとつって」
「はいよー」
遠野と井上にも、さりげなく追加の注文を聞いて店員さんにお願いし、また蒼斗は葵のところに戻ってきた。
その間、遠野と井上は二人で会話している。
ペコリ、と頭を下げると、蒼斗はとろりと溶けたみたいな甘い笑みを浮かべた、ように見えた。
いや、勘違いだろう。
多分、蒼斗にとっては、これが普通の笑みなのだ。
....本当によく気がつく人だなぁ。
葵は蒼斗のことをじっと見た。
仕事に真面目で、会社で人と接する時はさりげなくイジられ役になって人を笑わせる。
もちろん、人を楽しませるイジらせ方だ。
貶められるような、不快なイジられ方ではなく、見ていて何だか肩の力が抜けるような、リラックスできるような、そんな会話に仕向けている印象で。
会話が途切れかけたら、自分から会話を提供し、どんどん心を開かせていく。
そして、信頼関係を築く。
それが仕事にプラスに働いているのだろう、と違う部署の葵でもわかる。
今も、さりげなく葵のことを気遣ってくれる。
そういえば、蒼斗も遠野みたいに、葵を気味悪がらない。
むしろ、積極的にコミュニケーションを図りに来てくれている気がする。
『差し入れ』までくれて、気にかけてくれる。
きっと、とても優しい人なのだろう。
やっぱり、何かお礼を考えようと葵は改めて思った。
「いいんだ。あのさ....立花さんって、いつも休みの日は何してるの?」
突然そう聞かれて、葵は質問の意図をはかりかねた。
どうしてそんなことを聞くのだろう。
というか、何故彼はまだここにいるのか。
遠野や井上と会話していたのに、葵が何か注文しようか迷っていたから放っておけずに、来てくれたのだろう。
きっと優しさや気遣いで。
だったら、もう大丈夫なのに。
葵は、戸惑った。遠野や井上にも、申し訳なさがどんどん募ってしまう。
少し困って、眉を下げていたからだろうか。
蒼斗は、その意味を答えづらいから困っていると、とったようだ。
「あ、違うんだ。ごめん。そうだよな、答えたくないこともあるよな。それに質問の仕方も悪かったか...。じゃあ....水族館って、好き?」
答えたくなくて困ったのではない、と否定したくても声が出ないので諦め、最後の質問にだけ答えることにした。
相変わらず、意図はわからないままだが。
コクリ。
ひとつ頷く。
すると、蒼斗の表情はまた明るくなった。
「じゃ、じゃぁさ。もし良ければ....」
「おい!小坂ぁ〜!飲んでるかぁ?」
蒼斗が何か言いかけたタイミングで、蒼斗と井上の所属する部署の上司が話しかけてきた。
蒼斗は、ガクリと少し肩を落としたようにみえたが、気のせいだろうか。
「....剣持さん、飲み過ぎです」
恨めしそうに、フランクに話す蒼斗は、その上司ともいい関係性なのだろう。
「ひっく、いいだろう?たまには飲んでも。迷惑はかけんさ。ところで、妹さんは元気か?」
明らかに酔ってはいるが、節度ある飲み方をしている様子だった。
「...元気です」
「そうか。もう妹さんが結婚して、2年になるか。シスコンのお前のことだから、当時は心配したぞ」
....シスコン?.....小坂先輩、のこと?
「....うっ。....あのぉ、剣持さん?....その、これ....美味しいですよ」
急にしどろもどろになって、話題を変えようとし始めた蒼斗を、上司は許してくれなかった。
「あぁ?いや、俺はもうお腹いっぱいだ。まぁ、あれだ。シスコン小坂も、なんとか無事に過ごしてて、仕事もちゃんとこなしてるから、安心したぜ。俺は」
「............」
「小坂さんって、シスコンなんですか?」
遠野が、上司と蒼斗の会話に入ってきた。
「おぉ。シスコンもシスコン。すごいシスコンだよ。....おっと、この話、してもいいか?小坂」
「.....だめだって言っても、話すでしょう、あなたは」
蒼斗はむうっと唇を突き出して、まるで拗ねている子供だ。
「ひひ、わりぃな。まぁ、酒の席だから。許せ。....小坂はな、五つ下の妹を溺愛しててな。入社当時も、学生だった妹さんを、送り迎えしててな。変な虫がついたら困る!って。門限までこいつが決めて、徹底的に妹を守っててよ。結婚話が出た時なんて、どんだけ悲壮な顔してたか。結局、俺が認めた男じゃないと嫁にやらん!!とか言い出して、一悶着起こしてたな。相手の男を何とか諦めさせようと画策したり。でもな、何でもすっげーいい奴だったんだとよ。それはもう、妹さんを大事に、大事にする一途な男でな。大切な人の家族に認めてもらってからじゃないと結婚できないからって、小坂を懸命に説得したんだよ。2年も、だせ。小坂も最後は根負けしてよ。これだけいい男なら、妹も安心して任せられるって、認めたんだ。でも、いざ結婚式に出たら、もう。号泣よ?俺も、小坂のお父さんとちょっとした知り合いだからよ、結婚式に呼んでもらったんだけど。もう俺の方が焦ったぜ。どう泣き止ませようかって。まぁ、今となっては笑い話だがな」
そう言ってぐいっとお酒をあおる上司は、小坂を可愛がっているのだろう。
口調はいじっているが、上司として愛情を感じる温かい眼差しをむけていた。
「へぇ〜。そんなに。知らなかったです」
「俺は、知ってた。が、まぁ、あの小坂の溺愛ぶりからしたら号泣も納得だな」
遠野が目を丸くして言えば、井上が楽しげに笑って上司に同調した。
ガクリ、と明らかに肩を落として視線を下げる蒼斗は、それ以上何も言わず、ただ落ち込んでいるように見えた。
上司や遠野たちとの会話に加わっているからか、葵の方に全く視線を向けなくなった。
さっきまで、葵のそばに居てくれることに申し訳なさを感じていたはずなのに、ちくり、と葵の胸が痛んだ気がした。
でも....それよりも、葵は思ったのだ。
上司の話を聞いて。
「素敵.......」
ポソっと。本当に蚊の鳴くようなか細い声で。
葵はハッとした。無意識だった。
心の中が、その思いでいっぱいになって、本当に無意識に言葉が口から滑り出した。
......え?.....私.....今、喋って、た?
思わず口元をおさえる。
小さな声だから.....大丈夫。
聞こえていないはずだ。
キョロキョロと周りを見る。
.....良かった。....誰にも聞こえてなかったみたい。
上司も、遠野や井上も、誰も葵を見ていない。
きっと小さすぎて、彼らの耳には届かなかったのだ。
それでいい。これ以上、自分の変な声で人を不快にさせてはならないんだから。
そう思ったのも、束の間。
突然ーーーー。
ガバっ!!
何かの音がして、そちらを見ると、蒼斗が立ち上がって葵を見ていた。
心なしか、少し顔が赤い。
お酒に酔ってしまったのだろうか。
それよりも。
一体、彼はどうしたのか。
どうして、自分をじっと見下ろしているのか。
葵は、首を傾げた。
が、すぐにひとつの可能性に行き着いて。
さっと血の気が引いた。
ま....まさか......きこ、えてた?
そう思った瞬間、プルプルと小さく体が震えだした。
自分の意思では止められない。
恐怖、後悔、恥ずかしさ。
自分の変な声を、人に聞かれた。
不快な気持ちにさせてしまった。
もう頭の中は、パニックだった。
どうしよう、とぎゅっと目を瞑った瞬間。
「あの、すみません。立花さんが、体調が優れないみたいで。俺、送ってきます。これ、代金。二人分ここに、置いておきますんで」
「お、おぉ....お疲れ様。気をつけてな」
突然立ち上がり、退席すると言った蒼斗の気迫に少し後ずさった上司が、顔を引き攣らせながら返事をする。
「お疲れ様でした...。じゃなくて、葵ちゃん、やだ、ほんと!顔色がすごく悪いじゃない。ごめんね、気づかなくて....。ゆっくり休んでね。小坂さん、ちゃんと送り届けて下さいね、私の可愛い後輩なので」
遠野は、上司と同じく一瞬驚いていたものの、すぐに葵の顔色に気付き、蒼斗に念を押して頼んでいた。
「おつかれ〜」
井上は、何となく察したものがあったのか、呑気に手をひらひらさせて二人を見送った。
「いこう。荷物は...あぁ、これかな。他にはない?....おいで」
パニックになっていた葵は、何が何だか。
気づいた時には、蒼斗に手を引かれ、あれよあれよとお店を退店していた。
「.........」
葵の歩幅に合わせて、ゆっくり歩いてくれているのだろう。
手を繋いだまま、蒼斗は葵の少し先を歩く。
.....な、なにが起こってるの?
店を出てから、一言も喋らない蒼斗の背中を見つめる。
どうしてこんな状況になっているのか。
どこに向かっているのか。
いつまで手を繋いで歩くのか。
ど....どうしたらいいのーーー!?
葵はこの時、人生で初めてこんなに大きな声を出した。
もちろん心の中で、だが。
